Amazing grace

国沢柊青

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act.58

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 マックス達三人は、笑いながら移動遊園地のゲートを出た。
 空はもう、ゴージャズな夕焼け色に染まっていた。
 風は寒かったが、次第に気候が穏やかに緩んでいく気配を感じさせる。春はもう近い。
「パパ、ディナーは外で食べましょうよ。ね、いいでしょ」
 シンシアがテディーベアを抱え直しながら傍らの父親を見上げる。ウォレスは少し肩を竦めた。
「そうだな。何が食べたい?」
「マックスは? マックスは何が食べたい?」
 シンシアが、父親とは反対側に立つ金髪の青年を見上げた。
 マックスも、ウォレスがしたように肩を竦めて見せる。
「シンシアが選べはいいよ」
「私はいいの! もう十分我儘きいてもらっちゃったんだもの。二人のハンサムガイにお姫様扱いされて、もう満足。今度はマックスが我儘言わなきゃ。ね、パパ」
 シンシアが意味ありげな瞳の色を浮かべながら、父親を見る。
 ウォレスは、リラックスした微笑を浮かべた。 
「そうだな。マックス、何がいい?」
 二人に見つめられ、マックスが「そうだなぁ・・・」と空を見上げた時、耳障りなサイレンが遠くから徐々に近づいてくる。
 三人が思わず道路に視線を向けると、轟音を立てながら凄いスピードで道路を駆け抜けていく消防車の一団に追い抜かされた。 
「火事・・・」
 夕刻の空に乱反射するサイレンに、シンシアの声が重なった。と、マックスの胸ポケットから、携帯電話のベルが鳴った。 
「ごめん」
 マックスは軽く断わると、二人から距離を置いて携帯電話の通話ボタンを押した。
『マックス?』
 受話器から急くように零れ出てきたのは、叔母パトリシアの声だった。 
「叔母さん。どうしたの?」
 マックスは、叔母の声が不安に震えているのを察知した。
 パトリシアは、感情を表に良く出す女性だが、今の叔母の声にはいつもよりも過剰なほどの恐怖感が滲んでいた。 
『ああ、よかったわ。連絡がついて。家に電話しても出ないんだもの・・・』 
「ごめんよ、出かけてたんだ。それよりどうしたの?」
『今すぐ新聞社に行ってほしいのよ。あの子、すっかり取り乱してて・・・』
「取り乱す? 何が?」
『レイチェルよ! 今日は休みだったのに、新聞社から連絡があった途端、気が狂ったように癇癪を起して、飛び出して行ったの・・・』
 叔母はその時の様子を思い出したらしい。彼女は、声を詰まらせた。
 マックスには、状況がまったくわからない。 
「何があったの? 叔母さん、落ち着いて。何を言ってるのか全くわからない」
 叔母の泣き声がしばし聞こえた後、大きく深呼吸する音が続き、彼女は再び話し始めた。
『レイチェルの同僚のケヴィンが亡くなったの。家が燃えて・・・。ああ、恐ろしい。お願い、マックス、新聞社に行ってちょうだい。レイチェルが大丈夫なのか、確かめてきてほしい。あの子の様子は異常だった。怖いわ・・・』
 マックスは、今しがた消防車が通り過ぎて行った方向を見つめた。
 ざわざわと胸騒ぎがした。
「わかったよ、叔母さん。俺に任せて。また連絡するから。いいね」
 電話を切る。
 振り返ると、少し距離を置いて、ウォレス親子がマックスを見ていた。
 二人とも不安げな顔をしていた。
「何かあったのか?」
「レイチェルの同僚が急に亡くなったようです。それでレイチェルが新聞社に向って飛び出して行ったみたいで・・・。叔母が心配して、電話をかけてきました。彼女の様子を見てきてほしいって。── レイチェルは、昔から感情の起伏が激しくて」
「それで?」
 シンシアが、マックスの手を握ってくる。
 マックスはその手を軽く握り返した。 
「ちょっと様子を見てきます。だから・・・すみません。折角・・・」
「そんなこといいんだ。すぐに行ってあげなさい。新聞社まで送っていこう」 
「すみません・・・」
 マックスは再度謝って、空を仰いだ。
 強烈な茜色の空が、炎のように見えた。


 血が滲むほど、レイチェルは編集長のデスクを叩き続けた。
「現場に行きたいのよ!! なぜ?! なぜ止めるの?!」
 ヒステリックにレイチェルが叫ぶほど、編集長は強固な態度を固めていった。
「何度も言ったが、もうバーマン達が向った。状況は逐一ここに入ってくることになってる。君はここにいろ。落ち着くんだ」
 レイチェルは悲鳴のような声を上げた。
 編集室に集ったスタッフ達が、開け放たれた編集長室のドアから、悲壮感漂う表情で二人の対決を見つめていた。
「落ち着け?! 落ち着けですって?! 正気なの?! 部下が・・・。あんたの部下が死んだのよ!」
「そんなこと、言われなくてもわかっている!!」
 腕組みをしたままの編集長が、レイチェルの声を掻き消すほどの大声で怒鳴った。
 レイチェルは思わず口を噤む。
 編集長の目が赤く充血していくのを見たからだ。
 レイチェルは耐えられなくなった。
 どんどん顰め面になっていく編集長の顔を見ていたら、ボロボロと涙が零れ落ちた。
 レイチェルの口から嗚咽が洩れる。
 やがて号泣に変った。
 悲しみが抑えられなかった。
 自分の悪い予感が的中した結果だった。
 ドースンの家は、原因不明の爆発を起して飛び散った。
 家の外壁や屋根が粉々に飛び散り、周囲の道路や庭に転がった破片の中には、ドースンや彼の妻の身体の一部と思われるものも含まれていた。
 今、現場周辺は、消防車や警察の関係車両で封鎖されているという。
 記者がそこへ向ったとして、どれほどの状況が知らされるというのだろう。
 ── もし今回のことが単なる事故でないとすれば・・・。
 昨夜のドースンの様子はやはりおかしかった。
 レイチェルは、全身後悔の念に包まれた。
 自分に彼を救うチャンスはあったはずだ。自分がもっと早く彼に警告しておけば、状況は変っていたのではないか。
 彼の様子からして、明らかにドースンは、危険な領域まで足を踏み込んでいたのだ。
 ここ最近のドースンは、ジム・ウォレスのことを調べているというよりは、何かもっと別のものに取り憑かれていた。
 ── 自分はそれに、気づかぬふりをしたのだ・・・。
 床に泣き崩れるレイチェルの肩を、先輩女性記者が抱いた。 
「レイチェル・・・、休みましょう。ね・・・」
 レイチェルは抱き起こされ、編集室の外に連れ出された。
 廊下の先の休憩ブースに連れて行かれた。 
「何か飲むものを持ってくるわ。何か飲みたいものがある?」
 女性記者にそう訊かれても、レイチェルは言葉を返すことができなかった。
 永遠に涙が流れ落ちるのだと思った。
 ドースンが結婚する以前には、恋人として思いを交わした時期もある。
 些細な喧嘩で別れた後は、しばらくは気まずい関係が続いたが、ドースンが今の奥さんと知り合ってからは、次第に元のいい友人関係を築くことができていた。
 もうあの狐のような顔も、辛辣な嫌味を言う声も、臨場感溢れるあの文体も、永遠に失われてしまった。
 仕事における大切な同僚 ── いや、“戦友”を失い、レイチェルの胸は痛みを覚えた。
 気が狂いそうだった。
 ── どうして・・・、どうして・・・・!
 おんぼろのソファーに蹲るレイチェルの耳に、誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
 それは、騒がしい廊下の雑音に混じって、掻き消されかけていたが、耳馴染みの良いその声を、レイチェルの耳は聞き逃さなかった。
「レイチェル!」
 レイチェルは涙塗れの顔を上げる。彼女はソファーから立ち上がって、廊下を覗き込んだ。
「レイチェル!!」
「マックス!」 
 心配げで必死な顔をした従弟は、レイチェルの顔を見るなりほっとしたのか、安堵の表情を浮かべた。
 行き交う社員の波を潜って、真っ直ぐに走ってくる。
「レイチェル」
 従弟の逞しい腕が、レイチェルの小さな身体を包んだ。
 レイチェルの胸の痛みが少し和らぐ。 
「大丈夫。俺がついてるから・・・」
 レイチェルの耳元で、従弟の優しい声が響いた。
 レイチェルは瞳を閉じた。
 新たな涙が零れ落ちたが、気分は大分落ち着いてきていた。
 これからは穏やかな涙を流すことができそうだった。 
「マックス・・・・、どうして?」
 ソファーに腰を下ろして、マックスはハンカチをレイチェルに渡した。
「叔母さんから連絡があって。叔母さん、凄く心配してた」
 レイチェルは溜息をついた。泣きじゃっくりがレイチェルの身体を揺らした。
「来てくれて嬉しいわ・・・。今にもどうにかなりそうなところだったのよ・・・。それにしても、よくここまで入って来れたわね」
「入口のガードマンが俺の顔を知っていて。君のことを話すと、入れてくれた。新聞社の前は、他社のテレビ局や新聞社が集まってきつつあるよ。こういうことは伝わるのが早いんだね」
「ハイエナだからよ。そいつらも、私も── そして・・・ケヴィンも」
 硬い表情でレイチェルは言った。
 その毒のある台詞に、レイチェルの心の痛みが滲み出ているような気がして、マックスは唇を噛み締めた。
 レイチェルの手を握る。
 レイチェルは、また新たな涙を零しつつ、洟を啜った。
「きっとケヴィンは殺されたのよ。間違いないわ。これはただの火事じゃない。ケヴィンは家ごと吹き飛ばされた」
 マックスは、レイチェルの言ったことに息を呑んだ。
 一瞬、マックスの脳裏に、空に伸び上がる巨大な炎の柱が浮かんだ。
 ── 道路に転がる赤い塊・・・。
 マックスの強張った表情を見て、レイチェルは頷いた。
「ええ、そうよ、マックス。これはまた新たな爆弾事件よ」
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