Amazing grace

国沢柊青

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 ジェイコブ・マローンは、考えねばならないことがたくさんあった。
 まずは、母親の面倒。
 足の不自由な母親は、自由に移動できないジレンマからか、年々ヒステリックになっていく。
 母親は、1から10までの面倒をすべてジェイコブにしてもらうことを希望していたが、父や兄弟のいない家庭でジェイコブが働きに出ないと収入もなくなるので、辛うじて母はそのことに口を噤んでいた。
 今のところ、昼間の母の面倒はロブの友人のベンがしてくれている。ベンとは、もう3週間も前に酒場で知り合った訛りのある英語を話す男だ。
 ベンは母親の面倒をただで見る代わりに、その見返りとして寝床とベンの新聞コレクションを見せてもらうことを要求した。ベンは、自分の趣味の世界に他人が入り込むのは些か気が引けたが、いろんな面白いことも教えてもらえるし、何より母の面倒を無償で見てもらえることがありがたかった。
 ベンの母は最初、ベンのことを「薄気味悪い男」と言っていたが、面倒を見てもらっている手前、今ではもう何も言わなくなった。
 ベンの寝床は、新聞コレクションを置いてある近所の貸倉庫の中に設けてやった。
 ジェイコブの会社で廃棄処分になっていたデスクライトも持ち込んでやったので、ベンは好きな時間に好きなほど、寝床に寝っ転がって新聞が読めるという訳だ。
 最近ジェイコブは、新聞の仕訳作業の他に新聞社ビルの掃除の仕事も始めた。今では、週に3日仕訳作業の仕事が終わって後、人気の少なくなったビルの3階フロアの掃除をしている。誰もが、ジェイコブの勤勉さに感心した。
 ジェイコブが新たな仕事を始めたのには、いくつかの理由がある。
 ひとつは、金が必要だった。
 掃除のバイトは案外いい金になる。人の嫌がる仕事は大抵給料がいい。
 金の使い道は、大抵がジェイコブの新しい趣味に費やされた。最近ベンに教えてもらって始めた遊びは、金がかかる。
 2つ目は、空いた時間を作るためだった。
 今まで週に6日勤めていた仕訳作業の仕事を4日に減らした。
 もちろん、C・トリビューン紙の配送部部長のトッドは、突然のジェイコブの申し出に苦い顔をしたが、今までのジェイコブの働きぶりといよいよ具合の悪くなった母親の面倒を見るためだというすこぶる正当な理由のため、ジェイコブのクビを切ることはしなかった。
 近頃ジェイコブは、よく街に出る。
 特にセントラルパーク周辺は、詳しくなった。
 大抵いつも、せわしなく行き交うビジネスマンの間をブラブラ歩き、公園周辺を一周して、最後は公園の北側に出る。
 セントラルパークの北側にはミラーズ社があった。ジェイコブを熱狂させたあの男が勤める会社だ。
 ジェイコブは、あの新聞記事をコピーした紙を、緑色のブルゾンのポケットから取り出し、この写真が撮られた場所である公園内の背の低い植え込みの側に腰掛ける。
 そこは、もう2週間半も前からジェイコブの指定席になっていて、ジェイコブが長く居座りすぎたせいで、下草が踏み固まっていた。そこには数日前、古新聞を固めて縛った即席の椅子も置いた。
 ジェイコブの首には、下町の質屋で安く買い取った望遠カメラがぶら下がっていた。
 ジェイコブのお目当ての男は、滅多に社外に出てこなかった。
 記事での肩書きは『社長秘書』だったが、ミラーズ社の社長らしき初老の男が社外に出る時も、そばには赤毛の女がついていた。
 だから初めて男がエントランスから出てくるところに遭遇した時は、ジェイコブの心は歓喜に震えた。思わず大声を上げそうになって慌てて口を両手で押さえたほどだった。丁度2週間前のことである。
 男は、あの記事の写真と同じように深刻そうな顔をして、会社を出てきた。
 望遠鏡で見る男は、写真とは少し違って見えた。
 それは、カラーとモノクロの違いであった。
 ジェイコブはその時初めて、男が蒼い瞳の色をしていることを知った。
 それは予想外のことであったが、そのことにもジェイコブは喜んだ。
 これからは、空想の世界がもっと色彩豊かになる。
 男の憂いを帯びた蒼い瞳は、ジェイコブの期待を裏切らなかった。
 男は、他の社員と違って、呑気にランチに出かけるというよりは、なにかのトラブルが発生しての外出だということは、遠く離れたジェイコブにもわかった。
 男は急いだ足どりで通りに出ると、予め会社の前の通りに回してもらっていた濃紺のセダン車に一人で乗り込んで車を発進させた。冷静沈着そうな彼にしては、少々乱暴な運転だった。
 それから以後、2週間の間ジェイコブは合計3回、男の姿を見ている。
 もちろん、2週間の間にはジェイコブも仕事をしていたし、四六時中ミラーズ社を見張っているわけにはいかなかったから、回数が少ないのも仕方がないことだった。
 男は習慣的な動きは余りせず、出かける時はほとんど一人で出かける。だから、出社時と退社時間を除く日中は、いつ男が社外に出てくるかは想像がつかなかった。
 男が社外に出る時は、ジェイコブもタクシーを拾って男の車を追いかけた。
 大抵はミラーズ社の子会社等に出回ることが多く、それ以外の場合の追跡は不思議といつの間にか、まかれてしまうことがほとんどだった。だから、男の私生活はまだ窺い知ることはできなかった。
 一方、ベンの存在は、もはやジェイコブの生活の一部と化していた。
 ベンは実に興味深いことを、次々と教えてくれる。
 電気の配線のこと、ハンダごての使い方、薬品の混ぜ方、扱い方。
 ナイフの使い方も教えてくれた。
 時としてベンは、ジェイコブの父親のようであり、兄弟のようであり、最高の友人でもあった。
 大抵は物静かで、昔の新聞を読み漁り、無言でジェイコブの母親のトイレ介助をした。
 ジェイコブは、時としてベンが何を考えているか、わからなくなることがあったが、どちらにしろジェイコブがここまで親しくなった人間は、生まれて初めてのことだった。
 だから、自分が抜けた仕事の穴を埋めるためにも、ジェイコブはトッドにベンを紹介した。
 最初は難色を示していたトッドだが、実際ベンを雇うと、寡黙ながらもよく働くベンに満足した。最近では、頼まれて週3日出勤することもあった。


 「確かにこのシューズは、優れたデザインだと言えます。色も斬新で若者が好むでしょうし、こんなシューズが店頭に並んでいたら、僕も欲しくなると思います。けれど、あまりにもデザイン性が重視され過ぎていて、肝心な目的が見えなくなってしまっているように感じます」
 社長に「率直な意見を」と促されるまま、事実その通りに言ったマックスに、会議室中の視線が集中した。マックスは、その一同の迫力に少し怖じ気付いてしまう。
 社長室と同じフロアにあるこの会議室は、ミラーズ本社の建物の中に無数にあるミーティングルームの中でも一番の美しさを誇っている。入口の向かいに大きく取られた窓からは、静かに流れる美しい運河とセントラルパークが見える。
 しかも会議室の内装は、ただの大きなミーティングデスクが鎮座しているのではなく、一流ホテルのスィートルームのように座り心地のいいソファーやローテーブル、数々の調度品が室内に点々とレイアウトされており、カーペットの色は淡いクリーム色で壁は艶のある栗色の木材で仕立てられていた。会議室という名前からは想像もできない居心地の良さと柔らかな雰囲気。
 しかもこの会議室は役員専用のものではなく、予約さえすればどんな身分の社員も使えるとあって、大人気の会議室だった。
 今日の会議のメンバーは総勢20人弱で、ミラーズ社の各セクションからトップクラスの人材が揃っていた。
 会議の内容は、ミラーズ社の来期商品の主力となるスポーツシューズシリーズの中のひとつ、ランニングシューズだった。
 この商品の開発チームは、営業部の二大巨頭のひとりトニー・キングストンの“戦闘部隊”で(彼は社内で各部署にいる好みの人間を囲い込んで仕事をするが、その一派のことを差す)、現在大規模な市場調査後の結果を踏まえたデザインの最終決定段階にあった。
 しかし、いよいよ社長のOKをもらおうという段階になって、こともあろうに呑気な社長は、最近入社したばかりの新人社医に意見を求めたのだった。
 マックスは、恐る恐る周囲を見回す。
 本当に、錚々たるメンツが揃っていた。
 社長のベルナルド・ミラーズを始め、副社長のビル・スミス。そして今回このシューズの開発に携わった営業部や開発部のメンバーが9名。
 商品に対するコメンテーターとして、今回の開発チーム以外の人員から、開発部のエマ・ジャクソンに、営業部のロッド・オースティン、商品広報課に在籍するテッド・ウエルズ。企画管理部からは、今日会議に出席できないバーンズに代わってマリア・プラットとその同僚のラリー・マーサーが。
 そして、マックスの斜め前の席、社長の隣にはジム・ウォレス。その後ろでは、秘書室のレベッカ・アンダーソンが議事録をタイピングしていた。
 なにを隠そうマックスも、コメンテーターとして会議の出席を求められたのである。
 当然、入社したてのこんな若造にそんなことを言われ、キングストンは面白い訳がない。文字通り、鬼のような顔つきでマックスを睨んでいる。
 その視線に気づいたロッド・オースティンが、マックスに助け船を出してくれる。
「目的が見えなくなっているとは、どういうことだい?」
 オースティンは、優しい声でそう訊いてきたが、しかしマックスは、誰一人をもってしても存在感のある生え抜きの人達から、こうも一斉に見つめられた経験はまったくなく、患者の家族に患者の死を伝える時とはまた違った、嫌な緊張感に支配されしまっていた。
 特に、今回の開発チームからは、今にも殺されんばかりの目つきで見られている。こんな状態でこの先口を開いたら、確実に彼らの視線によって焼き尽くされるだろう。
「 ── いや、僕はまだ入社したての新人です。確かに僕は医者ですが、スポーツ工学を本格的に研究していた訳ではありません。人間の身体の構造について詳しいことは事実ですが、ビジネスの世界についてはズブの素人です。僕はあくまで、何となく感じた印象を言ったまでのことであって、キングストンさんのようなデータの裏付けがある訳でもありません」
 俯いて話すマックスに、エマ・ジャクソンが声を上げた。
「素人の意見だからこそ、聞きたいのよ。確かに前任のロバート医師はスポーツ工学に詳しい人だったけれど、今までこのような会議で純粋な消費者の目で意見してくれる人物はいなかったわ。あなたの意見がどんなものであれ、あなたが感じたことについては、皆知らなければいけないことだと思うの」
「そうだな。ぜひ、私も意見を聞いてみたい。構わんかね? キングストン」
 副社長のスミスがそう言うと、キングストンはチラリとミラーズとスミスの顔を見やって腕組みをし、身体をシングルソファーに預けた。
 挑戦するような目つきでマックスを見つめてくる。
 これでマックスは、言わねばならない状況に追いやられた。
 しかしマックスは嘘のつけない性分だ。言うからには、感じたままのことを素直に言ってしまう。自分でそれがわかっているからこそ、マックスは躊躇っていた。
 マックスは、目だけでウォレスの様子を伺う。
 ウォレスは、ミラーズの隣でソファーに深く腰掛け、口に手をおいたまま、何も言わずただじっとマックスを見ていた。何の感情もこもらない冷たい目だった。
 マックスが入社して一ヶ月近くが経とうとしていたが、ウォレスのオフィスでの一件以来、マックスはウォレスの声を一言も聞いていない。
 たまに社内で遭遇することがあってマックスが会釈しても、ウォレスは何も言わずただじっとマックスを見つめるだけだった。
 無視されるよるはましだったが、無言で見つめられるだけというのも辛い。
 スーツ代は結局ウォレスから聞き出すことはできず、ウォレスのアシスタントのレベッカから聞き出して、最終的にはレベッカに金を預けた。直接ウォレスに手渡そうとしてオフィスを訪ねても、いつも彼は留守だったからだ。
 どうやらやはり、嫌われたらしい。クビになってないだけでも幸せだ。
 ウォレスとの間が険悪になるのと反比例して、マックスは他の社員に軒並み温かく迎えられた。ここ一ヶ月の間でのマックスの評判は大変よく、医務室の前には一時期貧血症と訴える女子社員が列を作った。
 ミラーズ社は、スポーツを専門に扱っている会社だけあって、社内にスポーツジムと50メートルの温水プール、バスケットコート、郊外にはサッカー場まで所有していた。その他にも資本提供しているスポーツ競技場は、数え切れないほどある。ミラーズ社には趣味で何かのスポーツをやっている社員も多かった。
 一方、肝心の医務室はというと、公立の学校にある程度のごくごくシンプルな医務室だった。
 前任者はスポーツ工学の専門家だったそうだが、医者と言うよりは研究者に近かったのかもしれない。スポーツ工学に関する貴重な書籍は山のようにあったが、医療品はそこらのドラッグストアの方が充実しているような内容だった。
 直ちにマックスは、縫合手術ができる程度の設備が整えられるように申請を出し、それは一週間という脅威的な対応の早さで整えられた。
 意外に寛大な大会社の支出具合に、マックスはすっかり気分をよくする。
 医務室については、まだまだ改良の余地がありそうなので、それはおいおい揃えていくことにした。
 やがて社内では、あちらこちらの部署に医務室から出張して駆け回るマックスの姿が多く見受けられ始めた。
 ミラーズ社は年に1回の定期健康診断を春先に行っているようだが、忙しく働くミラーズ社の社員の中には、具合が悪くてもデスクを離れることなくそのままでいる者も少なくないようだった。
 だからマックスは、世間話程度の軽い回診を定期的にすることにしたのである。
 あまりの忙しさに煙たがられる場合や機密事項を扱う開発部などには門前払いを食らうこともあったが、大抵の部署では感謝されることが多かった。
 意外に体調不良を訴える社員は多く、マックスの出前社医は軒並み大繁盛した。
 近頃では、逆にお呼びがかかるほどで、最近マックスは社内専用の携帯電話を持つようになった。
 マックスの存在は早い速度でミラーズ社に浸透していき、近頃ではマックスのいる医務室が社員のちょっとしたお悩み相談室になっている。
 おかげでマックスは、社内の微妙な人間関係やトップ幹部の人間像などに、あっと言う間に詳しくなった。── もちろん、ジム・ウォレスについても。
 社内におけるジム・ウォレスは、どの人間からも評価が高く、殆どの社員にとっていい上司であるようだ。
 仕事上でどうしても困ったことが発生すると、大抵の者がウォレスの元を訪れるらしい。
 一方ウォレスの私生活についてはあまり詳しく知る者はおらず、せいぜいが随分昔に妻を亡くしていることと ── ウォレスの左手の薬指には真鍮製のシンプルなエンゲージリングが填められている ── 、年頃の一人娘がいる程度の情報しか得られなかった。
 ウォレスは、そんな謎めいた存在であるにもかかわらず、社員の信頼は誰よりも厚く、マックスが「冷たそうな人だ」と言うと、誰もがそれを否定した。「冷静で厳しくはあるが、決して冷たい人ではない」と。
 冷たい仕打ちを受けているのは、どうやらマックスだけらしい。
 ── これは、かなり嫌われている証拠だ。
 マックスは、そのことだけが気がかりだった。
 今もまた、ウォレスはマックスを冷たく見つめている。
 その目を見て、マックスは急にミルズ老人の言葉を思い浮かべていた。「あなたは、両親から充分に愛を受けられなかった子どもだ」と。
 思わず泣きそうになったマックスに、社長のベルナルド・ミラーズが声を掛けた。
「さぁ、恐がることはない。率直に話してくれと言ったのは、この私だ。私も、このような商品に対しては素人だ。ここの赤が緑になったところで、何が変わるかすらもまったくわからん。── だが、この世の中の大半は、私や君のような人間なのだよ。ミラーズ社の社長として、それを聞きたいと思うのはいけないことかね?」
 ミラーズ社長は、ほっそりとした面もちの穏和な人物だった。背も差ほど高くなく、髪の毛も白く薄い。鷲鼻で、瞳は深いブラウンの落ちついた色をしていた。ユダヤの血が混じっているのかもしれない。物腰はインドの徳の高い僧侶のような静かさを備えている。
 マックスは、ミラーズだけを見つめて、話すことにした。
「ランニングシューズの本当の目的は、走りやすさにあると思います。皆さん、そんなこと当たり前だと言われるでしょうが、このシューズは果たしてその観点から作られているのでしょうか。もちろん、最初はそうだったかもしれません。でも、デザインを重視していく中で、その目的がすっかり変わってしまった。皆さん、このシューズを持ってください。普通の靴としてなら何の問題もないとは思いますが、長時間走る靴としてはかなり重いと僕は思います。それから、もうひとつ違和感を感じるのは、踵部分にあるこの反射板です。デザイン的にはここが重要なポイントになっているそうですが、これのお陰で踵からアキレス腱を包む部分が非常に固い。特にこの突起のお陰で腱の部分の皮膚を擦ってしまうことが予想されます。靴下を履く場合は問題ないかもしれませんが、履き方については一概に靴下を履くとは言い切れない。
 僕はこの会社に入社した時に、この会社のパンフレットに目を通しました。スポーツをするすべての人に喜びを感じてもらえるスポーツシーンをサポートしたいという会社の方針には、深い感銘を受けました。そんなテーマを全面に打ち出した会社が、靴づれを起こす可能性の高いスポーツシューズを売り出してよいものでしょうか。
 人間の購買意欲を駆り立てるためには、確かにデザインは重要です。買ってもらわなければ製品を作る意味がないこともわかります。けれど、かっこよさに惹かれて買ったシューズが一度きりしか履かれずに、後は靴箱の上に飾られているだけなんて、悲しいことだと思いませんか? 確かにこのシューズは売れるけれども、そのシューズは、喜びが生まれるスポーツシーンに決して登場することはないんです。これって、会社のメインテーマと矛盾していませんか?
 もし僕が靴を作るとしたら、少々不格好でも安心して迷わず毎日履いてもらえるような靴にします。それこそ、お年寄りでも照れずに履けるようなスポーツシューズとか、裸足で走っているように軽いシューズとか、障害を持っている人でも簡単に自力で履けるシューズとか・・・。なんか漠然としていますが、人の心を楽しくさせたり、安心することのできるシューズがいいと思います。少し大げさかとは思いますが・・・」
 その場が、シンと静まり返った。
 マックスは、再び俯いた。
 自分は、自分の中にある疑問を素直に言った。そのことについて後悔はない。けれど、これを言ったことで後がどうなるかを考えると、正直言って恐かった。
 案の定、キングストンがマックスをどやしつけようと身を乗り出した瞬間、マックスの隣に座っていた企画管理部の若手マーサーが、そばかすだらけの顔に笑みを浮かべて拍手をした。マックスがそんなマーサーを驚いた顔で見つめると、マーサーもすぐに周囲の様子を伺って、「しまった」という表情を浮かべつつ、マックス同様首を竦めた。
 と、今までシンとしていた室内に、パラパラと拍手が起こった。
 やがてその数は増えていき、少し経つと室内は大きな拍手に包まれた。
 これには、流石のキングストンも開いた口が塞がらない様子であった。
 マックスも、信じられない気持ちで周囲を見つめる。
 拍手をする誰もが、温かい瞳でマックスを見つめていた。
 拍手をしている者の中には、開発チームのメンバーすら、いたのだ。
 マックスは嬉しくなって、ウォレスに目をやる。
 ウォレスは、さっきと同じようなポーズのままウォレスを見つめていた。
 口を被っているため、どんな表情でマックスを見つめているかよくわからなかった。マックスは、こんな時でも手を叩いてくれないウォレスに少しの寂しさを感じた。
「キングストン君、そのシューズはもう少し内容を練り直す必要があるようだね」
 ミラーズが静かなトーンでそう宣言する。
 開発チームから微かな溜息が聞こえてきた。
 キングストンがミラーズに食い下がる。
「でも、社長! 彼は本当にズブの素人の感覚でしかモノを言ってないんですよ! 我々には、生活にもっと密着した消費者から集めた大量のデータがある。そのデータでは、このシューズは確実に売れると・・・!」
 キングストンの怒鳴り声にマックスはビクリと身体を竦ませた。
 拍手がピタリと止む中、会議室に第三者の声が響いた。
「やめろ、キングストン。お前のデータは、単なる言い訳にしか過ぎん」
 皆の視線がウォレスに集中する。
 マックスが一ヶ月ぶりに聞くウォレスの声は、相変わらず剃刀のように鋭く重く、落ちついていた。
「どんなデータの結果にしろ、結局お前は、お前の言う“ズブの素人”の社員一人すら説得できない製品を作ったんだ。その時点で終わりさ。そうだろ?」
 あの濃いサファイア色の瞳に射られるように見つめられたキングストンは、苦虫を噛み締めたような表情をして席を立つと、社長に一礼もせず、大きな音を立てて会議室を出て行った。
 これには会議室にいる他のメンバーも、苦笑を浮かべる。
 これで自然とこの会議はお開きになってしまった。
 自分の一言によって大変なことになってしまったと顔を青くするマックスに、退出する誰もが肩を軽く叩いて出て行った。
 それでもなお罪悪感を感じているマックスに、このシューズのデザイン開発を担当したナット・トーマスが握手を求めてきた。
 戸惑うマックスに、トーマスは照れ隠しの力のない笑みを浮かべる。
「確かに君の言う通りだよ。デザインに没頭するうち、とんでもなくデコレーティングなシューズになってしまっていた。あまりに詰め込んだ開発スケジュールのお陰で、僕自身このサンプルシューズを履くことすらしていなかったんだ。僕ももう一度会社のパンフレットを読んでデザインし直すよ。また意見をくれ」
 きょとんとしているマックスに、今度はエマ・ジャクソンが声をかけてくる。
「意外に我が開発部は打たれ強いのよ。私がそう教育してあるから。あなたの純粋な意見には夢があったわ。私も長く開発に携わってきて、いつしかそんな夢を忘れかけていた。確かにあなたのいう靴をすぐに作るのは難しいかもしれない。けれどチャレンジする意義は深いわね」
「はぁ・・・」
 狐に摘まれたような心地のマックスの表情を見て、ジャクソンはプッと吹き出した。
「何て気の抜けた顔かしら。ハンサムさんが台無しよ。今度は開発部にも回診に来てみて。今度からあなたはフリーパスで開発部に入れるように、皆に行っておくから。じゃ」
 なぜかそのジャクソンの笑顔にやっと心が救われたような気がして、マックスは大きく深呼吸をした。ようやくまともに呼吸ができ始めた証拠だった。
 振り返ると、社長のミラーズが立っていた。
 ミラーズは穏和な笑顔を浮かべてマックスの手を両手で握ると、何も言わずポンポンと2回、マックスの手を叩いた。
 思わずマックスは、少し涙ぐんでしまう。
 マックスは、今まさにやっと自分がミラーズ社の一員になれたような気がした。
 マックスが目線を上げると、ミラーズに続いて部屋を出るウォレスと軽く目があった。
 ウォレスは、またしてもマックスに声をかけることはなかったが、まさにマックスに背を向ける僅かな瞬間、ウォレスの口の端に小さな微笑みが浮かぶのがマックスには見えたような気がした・・・。


 その日の夕焼けは、とてもきれいだった。
 意外と仕事を早く片づけられたマックスは、その夕焼けが消えてしまわない内に回転ドアを潜った。
 しばしその美しい茜色の空を、ほのぼのとした気分で見つめてから、外の肌寒さに身体を震わせる。
 マックスは、ライトグレイのジャケットの襟をかき寄せた。
 この季節ともなると、コートなしでは流石に寒い。
 コートは、飲み屋街でなくして以来、新調してはいなかった。
 その理由は、ここのところあまりに忙しすぎたのと銀行の残高が例の買い物のせいで底をついていたせいだ。初の給料が出次第、コートを新調しなければならない。
 本格的な冬はすぐそこまでやってきていた。やがて一週間もすれば、気の早い連中がクリスマスソングを歌い始めるだろう。
 マックスは、ワンブロック先の地下鉄の駅に向かおうと、通りを歩き始めた。ビルの角を曲がり、細い道路に出る。
 地下鉄の駅には、大通りを通って行く方が近かったが、今日はこの道の先にあるチーズ専門店で、頼まれていた買い物をする必要があった。
 今晩はER時代の同僚だったマイク・モーガンとセント・ポール総合病院で落ち合い、マイクの部屋で久しぶりに飲み明かす予定になっていた。「俺は極上のワインを用意しておくから、お前は極上のつまみを用意しろ」とマイクから命令されていた。
 マイクが、叔母の家に電話をかけてきたのは夕べのことだ。
 マイクとは変な別れ方をしたから、マックスはそのことがずっと気がかりだった。
 しかし、マックスが躊躇いがちに受話器を取ると、マックスの予想に反して、昔通りのマイクの声がマックスの名を呼んだ。正直、本当に嬉しかった。「絶対来いよ」というマイクに、素直に返事をして電話を切る頃には、二人はもう昔通りに戻ることができていた。
 マックスは、路肩に縦列駐車している車の間を抜けて通りを見渡した。
 目指す店は、この通りを渡ったすぐ先にある。
 車の往来が完全にないのを確認して、マックスは通りを渡る。
 マックスが道を渡り終えようという時、マックスは見慣れない服を着た美しい少女とすれ違った。
 頬のラインでカットされた淡い色の金髪に、大きな空色の瞳。ピンクに染まった頬。その少女が着ているのは、濃いグリーンのブレザーに膝丈の大きなプリーツスカート。スカートの生地はベージュを基調にしたバーバリーチェック。少女の長い脚を包む白いハイソックスは、古風な靴下止めでとめられていた。
 この国では珍しい、寄宿舎風の学校の制服だ。
 なぜこんなところに、制服を着た少女が歩いているんだろう・・・とマックスは朧気に思った時、背後で車のタイヤがスリップするような音がした。
 通りを渡り切ったマックスが思わず振り返ると、グレイのセダン車が急スピードでマックスの左の視界に入って来る。その視界の右端には、あの少女がいた。
 少女が悲鳴を上げる。
 マックスが「危ない!」と声を上げたその時、ドンという鈍い音が通りに響いたのだった。
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