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act.34
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ショーンの予想に反して、広い会議室にはショーンとクローネンバーグ社長の二人切りだった。
表面がよく磨き上げられた楕円形の黒いテーブルは、本来なら十五人は優に座れる広い机だったが、今はショーンと向かいに座った社長の顔だけしかそこに映り込んでいなかった。
大きな窓にはぴっしゃりと黒のブラインドが降ろされ、陽の光は全く入ってこない。
部屋の隅にある背の高い観葉植物だけが、妙に居心地が悪そうにして、二人の様子を眺めているようだった。
カッカッカと社長がさっきから爪先でテーブルをノックする音だけが室内に響いている。
二人の間には、いまだサインされていない契約書が広げられていた。
「つまり・・・。契約更新はしない、と?」
ショーンは静かな社長の声に、頷いて見せた。
「ショーン、それがどういう意味か分かっているのかね?」
ショーンは再度頷く。
「分かってるよ。それくらい。バルーンを脱退することになる。そうでしょ? でも契約更新しなければ、昨日のことは別に問題なくなる。契約が終了した後のことだし、昨日のコンサートはチャリティでギャラも発生しなかった。金銭的に事務所に損失を与えたことにはならない。・・・だよね?」
社長は、深い深い溜息をつく。
「まぁ、落ち着きなさい、ショーン。何もこっちは、あるかないかの話をしている訳じゃない」
「でも、社長。それは社長の考えで、イアンの考えじゃないでしょ?」
ショーンがそう言うと、社長は鋭いところを突かれたのか、少し困った顔をしてみせた。
「確かにそうだが・・・」
彼は言葉を濁す。
「なぁ、ショーン。イアンは何も一方的に怒っているんじゃないさ。だが、ショーンが約束を破ったことは事実だろう。それが前提にあった上で、イアンはこう言ってくれてる。あの歌を、次のシングルの曲にすれば、何もなかったことにすると」
ショーンは、何も言わず社長の顔を見上げた。
「ショーンも嬉しいだろう? お前の名前が作詞作曲の欄に載るんだ。イアンはそこまで認めたんだぞ。むろん、印税もお前に入る」
「歌は誰が歌うの?」
厳しい声でショーンが切り返す。
「誰が、あの歌を歌うの?」
社長が、身を引いて背もたれに身体を預ける。
「それはイアンだな・・・」
「悪いけど、お断りします」
「ショーン!!」
社長が声を荒げても、ショーンは一歩も怯まなかった。
「あの歌は特別な歌なんだ。他の誰にも触れさせない。別に作詞作曲の欄に名前を連ねることをわざわざイアンに認めてもらう必要なんてないよ。あれは正真正銘、俺が書いた歌なんだから。これ以上、どうして嘘をつかそうとするの?」
「お前は、まだ若い」
「そう。若いから。若いから、俺は、間違った道には進みたくない。自分を偽って生きたくない。そう思ったんだ。もうイアンの言いなりにはなりたくない。思ったことを言いたいし、歌いたい時は思い切り歌いたい。それは人として、当たり前の感情じゃないですか?」
「お前の気持ちは分かる。けれど、ここでこんな形で契約をふいにしてみろ。お前は確実に潰されるぞ。私はお前のためを思って言っている」
社長はそう言って机を叩いた。
「いいかい、ショーン。私もお前の才能が失われるのは惜しいんだよ。だが、我が社はバルーンで持っている会社だ。イアンがお前を潰すと決めたら、それが会社の方針になる。もうマスコミからお前を守ることもできないし、お前に活動の場を与えてやることもできなくなる。我が社がそうであれば、他の会社もまた同じということだ。どんなところも、事務所と泥沼の争いをした状態で飛び出した問題の多いアーティストは倦厭しがちだ。多くは多額の損害賠償金を抱えている場合が多いからな。誰も、借金を抱えてまで面倒をみるようなところはないさ。しかも、音楽活動を妨害されるのは目に見えている」
ショーンは口を噤んで俯いた。
社長が身を乗り出してくる。
「お前はイアンを馬鹿にしているかもしれないが、彼はお前が生まれる前からこの業界に根を下ろして生きてきた男だ。流行廃りの激しいこの世界で生き残ってきた男の影響力は、計り知れない。例えお前に実力があったとしても、彼の今までのコネや実績が優先されていくんだ。それが大人の世界だよ」
「 ── そんな世界なら、生きていきたくない」
ショーンは顔を上げた。
「それが俺の今生きてる世界なら、俺はその世界から抜け出したい。例え、皆の前で歌えなくなってもいい」
「ショーン・・・」
「そんな偽りの世界に、価値なんかないから」
ショーンはそう言い切って、立ち上がった。
「訴訟を起こすなら、そうしてもらっても構いません。これから新譜の発売があるし、それを考えると事務所には大きな損失を与えてしまうから。ワールドツアーまでに新しいギタリストも入れないといけないし・・・。迷惑なのは承知の上です」
ショーンがテーブルを回って社長の元まで来ると、社長も立ち上がった。
ショーンは手を差し出す。
「今までどうもありがとうございました。お世話になりました」
ショーンは社長の手を取って、硬く握る。
どう返事をしていいか戸惑っている社長を見上げ、ショーンは社長の身体をギュッと抱きしめた。
「この事務所で俺は、いろんなものを得ました。それは俺にとって大切な宝物です。本当にありがとう」
社長が躊躇いがちに、ショーンの背中を叩く。ショーンも社長の背中を叩いて、離れた。
そして彼を見つめる。
「そろそろ俺・・・、自由になってもいいですよね?」
ショーンが静かに言うと、社長はしばらくショーンを見つめて、やがて諦めたかのように苦笑を浮かべ、頷いた。
「ありがとう」
ショーンは深々と頭を下げて、会議室を出た。
廊下に出ると、たくさんの人がいるはずの建物にまるで人がいなくなったかのような錯覚に陥るほど、しんと静まり返っていた。
エレベーターを使って三階のバルーン専用のフロアまで降りてくると、フロアの奥のバルーン専用控え室にメンバーの姿があった。
フロアの入口にショーンの姿を発見したイアンは、物凄い形相で飛び出してくる。
「おまっ! お前!! お前!!」
何度も『お前』だけを繰り返して、駆け寄ってくる。
周囲の人間が慌ててイアンを追いかけた。
だがイアンの方が一歩早く、ショーンはいきなり拳で殴りつけられた。
イアンの勢いに突き飛ばされ、ショーンは尻餅をつく。
ショーンがぬるりとする口元を押さえて顔を上げると、目を真っ赤にしたイアンが周囲のスタッフに取り押さえられていた。それでもイアンの身体は、怒りにブルブルと震えていた。
ひょっとしてイアンは、社長からもう内線で話し合いの結果を聞いたのかもしれない。
「いいか! 覚えてろよ!! どうなっても知らないからな!!」
イアンは怒鳴り続ける。
「トラブルばっかり起こしやがるギタリストなんか、こっちから願い下げだ!!」
イアンはそう言いながら、涙を流した。
その涙が、感情が高ぶってただ単に出てきたものなのか、こうなった事態を彼なりに悲しんでいるのか、ショーンにはよく分からなかった。ともすれば、イアン自身も分からないのかもしれない。
誰もがイアンの怒りに怯え、ショーンを助け起こす者はいなかった。
ショーンはゆっくりとした動作で立ち上がると、真正面からイアンを見た。
イアンの動きがピタリと止まる。
ショーンは彼の頬に流れる涙を指で拭うと、少しだけ微笑みを浮かべた。
「今まで、いろいろありがとうございました。あなたに見い出されていなかったら、今の俺はここにいないもの」
イアンは目を見開いてしばらくショーンの顔をマジマジと見つめていたが、やがて正気に戻ったかのように顔を顰めた。
「おい、手を放せ」
イアンはそう言って、肩を聳やかす。周囲の者が一歩後ずさった。
イアンは再びショーンを睨み付けると、「良い格好しようたって、無駄だぞ。お前のやったことに変わりはないからな」と捨て台詞を吐いて人混みを掻き分け、事務所の奥に姿を消した。
「だ、大丈夫・・・?」
アシュレーがハンカチを持ってくる。
「うん、大丈夫だから。心配しないで」
ショーンはハンカチを受け取ると、切れた口の端に盛り上がった血を拭った。
「ハンカチ、持っていっていいわ」
「ありがとう。・・・皆も。今までありがとう。これからしばらくの間、大変になると思うけど、頑張って」
その場の人間の表情が揺らいだ。
けれど誰一人としてショーンを引き留める者はいなかった。
ショーンは皆にも頭を下げると、帽子とサングラスを身につけながら非常階段に向かった。
ふと後から、グレッグが追いかけてくる。
ショーンを熱狂的に慕っていた若手社員だ。
彼の手には、パンパンになった封筒が握られてあった。
「ショーン! これ、これ持っていって」
ショーンが立ち止まってその封筒を受け取り、中を覗き込むと、様々なネット情報誌やブログ、メール等をプリントアウトしたものや、ファックス受信用紙、受けた電話内容のメモ書きが詰め込まれてあった。
「昨日の夜から、今まで事務所に届いた反応の数々だよ。皆、昨日のライブ、素晴らしかったって書いてある。今でも電話が鳴りやまないぐらいなんだよ。どうか、これ読んで」
涙混じりの声で、彼は必死になって言った。
確かに、少し封筒の中を覗いただけでも、一般のファンや音楽評論家等の熱烈な意見がそこに書き付けられてあった。
「ありがとう、グレッグ」
ショーンはグレッグを抱きしめると、「元気で」とグレッグに言った。グレッグも頷く。
「ショーンも、気をつけて。また例の秘密の抜け道使うんだろ? 逆からは飛び移りづらくて危ないから」
グレッグにそう言われ、ショーンは考えた。
そしてもう一度、手の中の封筒を見下ろす。
ショーンは、しばらく考えこむと、やがて帽子とサングラスを取り、それをグレッグに渡した。
グレッグが可思議そうな顔つきで、ショーンを見る。
「ありがとう」
ショーンは再度はっきりそう言うと、一階に向かって階段を降りた。
── 何もコソコソする必要はない。疚しいことも恥ずかしいこともしてないんだから。
ショーンは小脇に抱えた封筒をギュッと抱きしめた。
── 俺のことを本当に分かってくれている人が、この世界にはたくさんいる・・・。
ショーンはそのまま一階の正面玄関に向かった。
自動ドアのガラス越し、ショーンの姿を見つけた報道陣が、俄に色めき立つ。
ショーンは怯まずに堂々と、自動ドアの外に歩み出た。
瞬く間に取り囲まれて、数多くのフラッシュが瞬く。
「ミスター・クーパー! お話を聞かせてください!」
「今まで歌ってこられなかったのは、どうしてなんですか?!」
「それは殴られた痕ですか?! イアン・バカラン氏とどういうやりとりがあったんです?!」
「揉めているんですか?!」
「あなたの恋人もエイズなんですか?!」
「今回の騒ぎは、先のビル・タウンゼント騒動を受けてのことですか?!」
「一説では、精神的に不安定だったとのことですが、どうですか? 我々は事務所が手配した医者にも裏付けを取っているんですが!」
「ということは、バルーンを脱退される可能性もあるということですね?!」
「ファンに対して言いたいことはありますか?!」
ショーンは、最後の言葉を聞いて、キッと顔を上げた。
報道陣がしんと静まる。
ショーンは静かに語り始めた。
「バルーンの活動については、事務所の方から正式に発表があると思います。それから、パーソナルな質問については、答えるつもりはありません。僕はともかく、僕の周辺の人達の殆どは、あなた方と同じ普通の生活をしている人達で、僕のせいで彼らの生活を脅かせたくないんです。それと、ファンに対しては、今まで応援してくれて、本当に感謝しています。僕は、あなた方から素晴らしいものを与えられている。僕もあなた達に、素晴らしいものを与えることができていればと、いつも願っています。僕の心には、いつもあなた方がいる。あなた方がいつも僕に寄り添ってくれていること、僕は忘れません。── 神のご加護を」
寡黙なロックスターが初めてこうしてマスコミの前で一人で語った言葉は、彼がまだ十代だとは思えないほど威厳に満ちていて、堂々としていた。
それは、マイクやカメラを向けているマスコミ連中が、自分がした質問を振り返り、まるで子どもじみていると気付かされるのに十分な内容だった。
その場がしんと静まり返ったのは、そうした意味を表していた。
「こうして話す機会を与えてくれて、ありがとう」
ショーンは彼らにお礼を言うと、すっかり静かになった報道陣の中を通り抜け、事務所の前の大通りに目をやった。
今頃になって正気に戻った報道陣が、慌てて追いかけてくる。再び背後からフラッシュがたかれた。
── タクシー、探すしかないか。
事務所を辞めてきた手前、車も当然用意されておらず、ショーンは大通りを見回した。
パッパァ!
クラクションの音がしてハッと右手を見ると、通りの向こうに停まっていた黒い車の後部座席の窓が降りて、ナタリーの姿が見えた。
ショーンはパッと顔を明るくし、急いで大通りを渡ると、大きく開けられた後部座席のドアの向こうに飛び込んだ。
すぐにドアが閉められ、車が走り出す。
飛び込んだままの格好で大きく息を吐き出し、隣の席のナタリーを見上げると、ナタリーはすました顔でこう言った。
「お困りだと思って」
ショーンは思った。
もしニューヨークでホテルを使うことになったら、絶対ホテル・アストライア以外は使わないと。
表面がよく磨き上げられた楕円形の黒いテーブルは、本来なら十五人は優に座れる広い机だったが、今はショーンと向かいに座った社長の顔だけしかそこに映り込んでいなかった。
大きな窓にはぴっしゃりと黒のブラインドが降ろされ、陽の光は全く入ってこない。
部屋の隅にある背の高い観葉植物だけが、妙に居心地が悪そうにして、二人の様子を眺めているようだった。
カッカッカと社長がさっきから爪先でテーブルをノックする音だけが室内に響いている。
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「つまり・・・。契約更新はしない、と?」
ショーンは静かな社長の声に、頷いて見せた。
「ショーン、それがどういう意味か分かっているのかね?」
ショーンは再度頷く。
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社長は、深い深い溜息をつく。
「まぁ、落ち着きなさい、ショーン。何もこっちは、あるかないかの話をしている訳じゃない」
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「確かにそうだが・・・」
彼は言葉を濁す。
「なぁ、ショーン。イアンは何も一方的に怒っているんじゃないさ。だが、ショーンが約束を破ったことは事実だろう。それが前提にあった上で、イアンはこう言ってくれてる。あの歌を、次のシングルの曲にすれば、何もなかったことにすると」
ショーンは、何も言わず社長の顔を見上げた。
「ショーンも嬉しいだろう? お前の名前が作詞作曲の欄に載るんだ。イアンはそこまで認めたんだぞ。むろん、印税もお前に入る」
「歌は誰が歌うの?」
厳しい声でショーンが切り返す。
「誰が、あの歌を歌うの?」
社長が、身を引いて背もたれに身体を預ける。
「それはイアンだな・・・」
「悪いけど、お断りします」
「ショーン!!」
社長が声を荒げても、ショーンは一歩も怯まなかった。
「あの歌は特別な歌なんだ。他の誰にも触れさせない。別に作詞作曲の欄に名前を連ねることをわざわざイアンに認めてもらう必要なんてないよ。あれは正真正銘、俺が書いた歌なんだから。これ以上、どうして嘘をつかそうとするの?」
「お前は、まだ若い」
「そう。若いから。若いから、俺は、間違った道には進みたくない。自分を偽って生きたくない。そう思ったんだ。もうイアンの言いなりにはなりたくない。思ったことを言いたいし、歌いたい時は思い切り歌いたい。それは人として、当たり前の感情じゃないですか?」
「お前の気持ちは分かる。けれど、ここでこんな形で契約をふいにしてみろ。お前は確実に潰されるぞ。私はお前のためを思って言っている」
社長はそう言って机を叩いた。
「いいかい、ショーン。私もお前の才能が失われるのは惜しいんだよ。だが、我が社はバルーンで持っている会社だ。イアンがお前を潰すと決めたら、それが会社の方針になる。もうマスコミからお前を守ることもできないし、お前に活動の場を与えてやることもできなくなる。我が社がそうであれば、他の会社もまた同じということだ。どんなところも、事務所と泥沼の争いをした状態で飛び出した問題の多いアーティストは倦厭しがちだ。多くは多額の損害賠償金を抱えている場合が多いからな。誰も、借金を抱えてまで面倒をみるようなところはないさ。しかも、音楽活動を妨害されるのは目に見えている」
ショーンは口を噤んで俯いた。
社長が身を乗り出してくる。
「お前はイアンを馬鹿にしているかもしれないが、彼はお前が生まれる前からこの業界に根を下ろして生きてきた男だ。流行廃りの激しいこの世界で生き残ってきた男の影響力は、計り知れない。例えお前に実力があったとしても、彼の今までのコネや実績が優先されていくんだ。それが大人の世界だよ」
「 ── そんな世界なら、生きていきたくない」
ショーンは顔を上げた。
「それが俺の今生きてる世界なら、俺はその世界から抜け出したい。例え、皆の前で歌えなくなってもいい」
「ショーン・・・」
「そんな偽りの世界に、価値なんかないから」
ショーンはそう言い切って、立ち上がった。
「訴訟を起こすなら、そうしてもらっても構いません。これから新譜の発売があるし、それを考えると事務所には大きな損失を与えてしまうから。ワールドツアーまでに新しいギタリストも入れないといけないし・・・。迷惑なのは承知の上です」
ショーンがテーブルを回って社長の元まで来ると、社長も立ち上がった。
ショーンは手を差し出す。
「今までどうもありがとうございました。お世話になりました」
ショーンは社長の手を取って、硬く握る。
どう返事をしていいか戸惑っている社長を見上げ、ショーンは社長の身体をギュッと抱きしめた。
「この事務所で俺は、いろんなものを得ました。それは俺にとって大切な宝物です。本当にありがとう」
社長が躊躇いがちに、ショーンの背中を叩く。ショーンも社長の背中を叩いて、離れた。
そして彼を見つめる。
「そろそろ俺・・・、自由になってもいいですよね?」
ショーンが静かに言うと、社長はしばらくショーンを見つめて、やがて諦めたかのように苦笑を浮かべ、頷いた。
「ありがとう」
ショーンは深々と頭を下げて、会議室を出た。
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フロアの入口にショーンの姿を発見したイアンは、物凄い形相で飛び出してくる。
「おまっ! お前!! お前!!」
何度も『お前』だけを繰り返して、駆け寄ってくる。
周囲の人間が慌ててイアンを追いかけた。
だがイアンの方が一歩早く、ショーンはいきなり拳で殴りつけられた。
イアンの勢いに突き飛ばされ、ショーンは尻餅をつく。
ショーンがぬるりとする口元を押さえて顔を上げると、目を真っ赤にしたイアンが周囲のスタッフに取り押さえられていた。それでもイアンの身体は、怒りにブルブルと震えていた。
ひょっとしてイアンは、社長からもう内線で話し合いの結果を聞いたのかもしれない。
「いいか! 覚えてろよ!! どうなっても知らないからな!!」
イアンは怒鳴り続ける。
「トラブルばっかり起こしやがるギタリストなんか、こっちから願い下げだ!!」
イアンはそう言いながら、涙を流した。
その涙が、感情が高ぶってただ単に出てきたものなのか、こうなった事態を彼なりに悲しんでいるのか、ショーンにはよく分からなかった。ともすれば、イアン自身も分からないのかもしれない。
誰もがイアンの怒りに怯え、ショーンを助け起こす者はいなかった。
ショーンはゆっくりとした動作で立ち上がると、真正面からイアンを見た。
イアンの動きがピタリと止まる。
ショーンは彼の頬に流れる涙を指で拭うと、少しだけ微笑みを浮かべた。
「今まで、いろいろありがとうございました。あなたに見い出されていなかったら、今の俺はここにいないもの」
イアンは目を見開いてしばらくショーンの顔をマジマジと見つめていたが、やがて正気に戻ったかのように顔を顰めた。
「おい、手を放せ」
イアンはそう言って、肩を聳やかす。周囲の者が一歩後ずさった。
イアンは再びショーンを睨み付けると、「良い格好しようたって、無駄だぞ。お前のやったことに変わりはないからな」と捨て台詞を吐いて人混みを掻き分け、事務所の奥に姿を消した。
「だ、大丈夫・・・?」
アシュレーがハンカチを持ってくる。
「うん、大丈夫だから。心配しないで」
ショーンはハンカチを受け取ると、切れた口の端に盛り上がった血を拭った。
「ハンカチ、持っていっていいわ」
「ありがとう。・・・皆も。今までありがとう。これからしばらくの間、大変になると思うけど、頑張って」
その場の人間の表情が揺らいだ。
けれど誰一人としてショーンを引き留める者はいなかった。
ショーンは皆にも頭を下げると、帽子とサングラスを身につけながら非常階段に向かった。
ふと後から、グレッグが追いかけてくる。
ショーンを熱狂的に慕っていた若手社員だ。
彼の手には、パンパンになった封筒が握られてあった。
「ショーン! これ、これ持っていって」
ショーンが立ち止まってその封筒を受け取り、中を覗き込むと、様々なネット情報誌やブログ、メール等をプリントアウトしたものや、ファックス受信用紙、受けた電話内容のメモ書きが詰め込まれてあった。
「昨日の夜から、今まで事務所に届いた反応の数々だよ。皆、昨日のライブ、素晴らしかったって書いてある。今でも電話が鳴りやまないぐらいなんだよ。どうか、これ読んで」
涙混じりの声で、彼は必死になって言った。
確かに、少し封筒の中を覗いただけでも、一般のファンや音楽評論家等の熱烈な意見がそこに書き付けられてあった。
「ありがとう、グレッグ」
ショーンはグレッグを抱きしめると、「元気で」とグレッグに言った。グレッグも頷く。
「ショーンも、気をつけて。また例の秘密の抜け道使うんだろ? 逆からは飛び移りづらくて危ないから」
グレッグにそう言われ、ショーンは考えた。
そしてもう一度、手の中の封筒を見下ろす。
ショーンは、しばらく考えこむと、やがて帽子とサングラスを取り、それをグレッグに渡した。
グレッグが可思議そうな顔つきで、ショーンを見る。
「ありがとう」
ショーンは再度はっきりそう言うと、一階に向かって階段を降りた。
── 何もコソコソする必要はない。疚しいことも恥ずかしいこともしてないんだから。
ショーンは小脇に抱えた封筒をギュッと抱きしめた。
── 俺のことを本当に分かってくれている人が、この世界にはたくさんいる・・・。
ショーンはそのまま一階の正面玄関に向かった。
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ショーンは怯まずに堂々と、自動ドアの外に歩み出た。
瞬く間に取り囲まれて、数多くのフラッシュが瞬く。
「ミスター・クーパー! お話を聞かせてください!」
「今まで歌ってこられなかったのは、どうしてなんですか?!」
「それは殴られた痕ですか?! イアン・バカラン氏とどういうやりとりがあったんです?!」
「揉めているんですか?!」
「あなたの恋人もエイズなんですか?!」
「今回の騒ぎは、先のビル・タウンゼント騒動を受けてのことですか?!」
「一説では、精神的に不安定だったとのことですが、どうですか? 我々は事務所が手配した医者にも裏付けを取っているんですが!」
「ということは、バルーンを脱退される可能性もあるということですね?!」
「ファンに対して言いたいことはありますか?!」
ショーンは、最後の言葉を聞いて、キッと顔を上げた。
報道陣がしんと静まる。
ショーンは静かに語り始めた。
「バルーンの活動については、事務所の方から正式に発表があると思います。それから、パーソナルな質問については、答えるつもりはありません。僕はともかく、僕の周辺の人達の殆どは、あなた方と同じ普通の生活をしている人達で、僕のせいで彼らの生活を脅かせたくないんです。それと、ファンに対しては、今まで応援してくれて、本当に感謝しています。僕は、あなた方から素晴らしいものを与えられている。僕もあなた達に、素晴らしいものを与えることができていればと、いつも願っています。僕の心には、いつもあなた方がいる。あなた方がいつも僕に寄り添ってくれていること、僕は忘れません。── 神のご加護を」
寡黙なロックスターが初めてこうしてマスコミの前で一人で語った言葉は、彼がまだ十代だとは思えないほど威厳に満ちていて、堂々としていた。
それは、マイクやカメラを向けているマスコミ連中が、自分がした質問を振り返り、まるで子どもじみていると気付かされるのに十分な内容だった。
その場がしんと静まり返ったのは、そうした意味を表していた。
「こうして話す機会を与えてくれて、ありがとう」
ショーンは彼らにお礼を言うと、すっかり静かになった報道陣の中を通り抜け、事務所の前の大通りに目をやった。
今頃になって正気に戻った報道陣が、慌てて追いかけてくる。再び背後からフラッシュがたかれた。
── タクシー、探すしかないか。
事務所を辞めてきた手前、車も当然用意されておらず、ショーンは大通りを見回した。
パッパァ!
クラクションの音がしてハッと右手を見ると、通りの向こうに停まっていた黒い車の後部座席の窓が降りて、ナタリーの姿が見えた。
ショーンはパッと顔を明るくし、急いで大通りを渡ると、大きく開けられた後部座席のドアの向こうに飛び込んだ。
すぐにドアが閉められ、車が走り出す。
飛び込んだままの格好で大きく息を吐き出し、隣の席のナタリーを見上げると、ナタリーはすました顔でこう言った。
「お困りだと思って」
ショーンは思った。
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洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
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