Please Say That

国沢柊青

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 昨夜羽柴は、とうとう梶山隼人の家の留守電に、今年真一の命日に帰れないことの詫びを入れた。
 いつもなら隼人と連絡を取る時は直接彼の携帯に電話をするのだが、何となく直接は話しづらくて、それはできなかった。
 梶山隼人は、真一の最期を看取ってくれた人だ。
 羽柴が真一と付き合い始める前は随分反目しあったが、今では無二の親友となっている。
 最近の隼人は、以前に比べ大分落ち着いてきたが、それでも特定の人物の話になると途端に昔のはねっかえりが飛び出してくる。
 きっと隼人はその人のことが好きなんだなぁと思うと、微笑ましいやら羨ましいやらで、羽柴はちょっと複雑な気分になった。── もっとも、隼人はまだ自分の気持ちにまったく気付いていないようだけれど。
 羽柴はと言えば、結局日本に帰れなかったことで休暇の意味もなくなり、早々にそれを返上して、今ニューヨークにいる。
 会社は、主要戦力社員である羽柴が、予定を早く切り上げて仕事に復帰することを喜んだ。
 新しい年になり、市場の動向も微妙な値動きを見せる。現代は不穏な時代だから、ちょっとしたニュースで株価が動く。したがって証券業界は、気の休まる暇はない。
 羽柴は本社からの依頼で、本社トレーディング部のサポートとしてニューヨークに赴いていた。
 しかも羽柴は、トレーディング部でのアドバイス業務が終わると、自分本来のアナリストとしての業務 ── つまり優良企業研究だが ── も行っていたので、連日残業に次ぐ残業に明け暮れていた。
 午前中は精神的に過酷なトレード業務に身を投じ、午後は足を使っていくつもの企業を回る。夜は企業訪問の結果をひたすら分析して資料に纏める作業・・・。さすがの羽柴も、クタクタになって定宿ホテル・アストライアに帰った。
 そうまでして仕事に明け暮れたのは、明らかに意図的だった。
 その方が、いろいろ考え込まずに済むからだ。
 大切な真一の命日をすっ飛ばしてしまった薄情な自分も、真一を失ったことで身につけた偽りの強さも、それに触れることができない自分の弱さも、心の奥底で燻っているリアルな悲しみも、全部。── それらから逃げ出した自分、そしてショーンからも逃げ出した自分。それら全てを思い出さなくても済むからだ・・・。
 気分は最悪だった。
 仕事にプライベートなコンディションを持ち込むだなんて、渡米してからは久しくなかったことだ。
 ニューヨーク本社の同僚達も、羽柴のその異常な働きぶりが目に余ったのだろう。
 彼らは皆、一様に心配げな顔つきで連日の無茶な残業を責めた。
 そして今日、彼らは羽柴を、ほぼ強制的に会社から放り出してしまった。
 実際身体は疲労の極地だったので、街に放り出された羽柴は大人しくホテルに帰るしかなかった。
「お帰りなさいませ、羽柴様」
 馴染みのフロントマネージャー・シラーに出迎えられ、鍵を受け取る。
「お疲れのようですね。今日は、いつもより増して」
 ケイブ・シラーは努めて感情を押し殺した声のトーンでそう言ったが、羽柴にはまるで自分が責められているように感じた。「もっと自分の身体を労れ」と。
 羽柴はフロントのカウンターに身体を凭れさせ、大きく溜息をつくと、今はクローズしているロビー横のカフェを目で指した。
「済まないが・・・今日はあそこで食事できるかな。ごく簡単なものでいい。疲れているから、きちんとイスに座って食事がしたいんだ。かといって、上のレストランは騒がしくて嫌だ・・・」
「もちろんです。ただちに用意いたしますので」
 シラーは、部下のフロントマンに持ち場を任せると、後ろの棚からマスターキーを取り出して羽柴の鞄を部下に預け、羽柴をカフェまでエスコートした。
 シラーはカフェの一番奥にあるテーブル席まで誘うと、彼のコートを脱がせて、座らせた。
 羽柴はやっと安心したように大きな息を吐き出し、疲労感の浮かぶ顔を両手で擦る。
 シラーは、カウンターの向こうにある内線電話でレストランの厨房を呼び出すと、慣れた様子で注文をし、電話を切った。機敏な動きで、必要な明かりと暖房のスイッチを入れる。
 クローズしてしまったカフェにはもちろん従業員はいないので、シラーがテーブルの上を整えてくれる。
「不躾な質問ではございますが」
 真っ白いテーブルクロスを広げながら、シラーが言う。
「何をそんなにご自分を痛めつけておられるのです?」
 羽柴は、無言でシラーを見上げる。
 シラーはちらりと羽柴を見て、「今のは友人として申し上げております」と言う。
 羽柴は、苦笑を浮かべた。
「別にそういうつもりでは・・・」
「本当にそう言えますか?」
 すぐに切りかえ切り返えされる。
 羽柴が再びシラーを見上げると、ナイフとフォークをナプキンの上に並べる手を止めて、彼は「申し訳ありません」と謝った。
「本来なら、お客様であるあなたに対してこんな口をきくのは、ホテリアとして失格だと思います。けれど、私にとってあたなが大切な友人であるからこそ、どうしても言っておきたかったのです」
「ケイブ・・・」
「前回、羽柴様がここを去られてから、一体何があったのです? ひょっとして、“ミスター・スミス”と関係があるんですか?」
 ドキリとする。
 『ミスター・スミス』とは、ショーンがこのホテルで使った偽名だ。
「あの後、失礼ながら私も気になって・・・。私もこの街で十数年働いてきた人間です。マンハッタンの裏事情も耳に入ってくる。聞くところによると、ショーン・クーパーはニューヨークから姿を消したとか。まだレコーディングは終わっていないというのにです。バルーン好きの友人達は、こぞって熱っぽくそのことについて語り合っていました。彼らは口々にこう言っていましたよ。『今に何か起こりそうだ』と。── 悪いことでないといいのですが」
「それは・・・、多分大丈夫だと思う・・・」
 羽柴は細い声でそう答えた。
 ショーンは別れ際、約束をしてくれた。
 きっと、音楽の世界に戻ってくると。
 ── 俺なんかより、彼の方がずっとしっかりしてる・・・。
 シラーは、少し困り顔で溜息をついた。
「あなたがこんな有様なのに、そんな台詞は俄に信じがたいですよ・・・。おや?」
 ふいにシラーは、カフェの外に目をやった。
 カフェは通りに面してガラス張りになっており、通りの華やかな夜の風景が見える。
 通りのネオンサインの方が逆に明るいほどだった。
 向かいの背の低いビルの向こうに、大型ビジョンが設置されたビルがある。
 観光客向けに、今行われている演劇の宣伝やコンサート情報が流されている。
 今、その画面に映っていたのは。
「・・・ミスター・羽柴、あなたの言っていたことは、どうやら正しいらしい・・・」
 シラーはそう呟くと、カフェの片隅にあるテレビの電源を入れた。
 通常はCSのジャズチャンネルやブルーノートのDVDなどが流されているテレビだ。
 シラーはケーブルテレビのチャンネルを慌ただしく変えた。
 大画面の映像に気付いていない羽柴が、怪訝そうにシラーの背中を見つめていると、「ああ、あった」とシラーの安心したような声が聞こえ、彼がテレビの脇にどいた。
「あ・・・・」
 羽柴は思わず息を飲む。
 シラーがテレビの音量を上げると、テレビからは瑞々しい『彼』の声が飛び出してきた・・・。
 
 
 「皆、突然驚かせてごめん。飛び入りとか慣れてないんだけど、このイベントの企画をしている友人に、無理にお願いして、時間を取ってもらったんです」
 ショーンがマイクに向かってそう言うと、スタジアム中から大きな歓声が上がった。まるでスタジアムが地震に襲われたかのように揺れた。
 ショーンは、舞台袖の友人・・・ルイ・ガルシア・サントロの顔を見つめた。
 スタッフカードを首からぶら下げたルイは満面の笑みを浮かべ、親指を上げる。その彼の胸にはレッドリボンがついており、もちろん濃いブルーのトレーナーを着ているショーンの胸にも同じリボンがつけられてあった。
「今日は、偉大なロックスターがエイズで亡くなった日です。俺もここにいる皆のように、彼の歌を聴いて育ったんだ」
 ショーンの一言一言に観客の声は沸き上がる。
 一際高いステージの目の前には、万単位の観客がすし詰め状態でスタジアムを埋めていた。
 いくつもの大きなライトがステージ周りと客席を照らしており、まるで鳥肌が立つような独特の高揚感がスタジアム中を支配していた。
 観客達は、プログラムに全く掲載されていなかったビッグスターの突然の参加に、興奮状態がピークに達しているようだ。
 しかも、今まで一人きりでマスコミの前にすら出てきたことのないミステリアスな天才ギタリストが目の前でしゃべっている奇跡に、誰もが感嘆の声を漏らしていた。俺達は何て幸運に出会えているんだろう、と。
「皆に一曲プレゼントする前に、言っておきたいことがあるんだ」
 途端に会場中がシンとなる。
 皆、若きロックスターの言葉を一言残さず聞き取ろうと、必死になっていた。
 マイクを通したショーンの声が、会場中に響き渡っていく。
「俺には大切な人がいるんだ。言ってる意味は、分かるよね」
 会場のそこかしこで、キャーという悲鳴が上がる。その悲鳴に、会場がどよめいた。
「でも、その人にはもっと大切な人がいて、でもその大切な人は、エイズで亡くなってしまった。彼らは突然、この憎き病気によって引き裂かれたんだ。凄く愛し合っていて、凄く幸せな一時を過ごしていたのに、ほんの僅かなウィルスが、彼らの人生を奪ってしまった。この病気に罹ると、愛する人に触れるのも怖くてできなくなると聞きました。彼らが、どれだけそのことで苦しんだかと思うと、胸が張り裂けそうになる。果たして自分がその立場だったら、耐えられるだろうかって思う。どうか皆さんも考えて欲しい。皆さんだけでなく、全世界の人に。少しの気配りで、愛する人を守れるのなら、今すぐ俺達は行動を起こすべきだ。このチャリティーコンサートも、その手段のひとつです」
 わぁー!と会場が揺れた。ショーンの呼び掛けに賛同する声や、ショーンの名前を必死に呼ぶ声も聞こえる。
 ショーンは続けた。
「俺の気持ちはその人に受け入れられないのかもしれないけど、そんなことは関係ない。俺はその人に代わってエイズ撲滅の祈りをこうして大勢の人に届けたいと思う。それが今、彼がしたくてもできないことで、俺にはできることだから。皆も、好きな人のためなら、その人のために何か役立つことをしたいって思うだろ?」
 ショーンが呼びかけると、再び観客が声援の声を上げた。
 それは観客ばかりでなく、ステージ上や舞台袖に控えている他のアーティスト達も同じだった。
 皆、非常に人間的な面をさらけ出してくれている若きロックスターに感激し、またその胸打つ告白に、飲み込まれているようだった。
 観客の歓声は鳴りやまず、しばらくショーンが話せなくなってしまうほどだった。
 見かねたドラマーが、バスドラを打ちならして、歓声を止める。
 ショーンが振り返って礼を言うと、ドラマーはスティックを回しながらウインクしてくれた。彼も又著名なロックバンドの名物ドラマーで、数々のアウォードで一緒になったことはあったが、まともに話したことはなかった。いつもイアンが前に出ているので、ショーン自身が、他のアーティストと交流することは極めて少なかった。
「この病気で亡くなった全ての人と、彼らを愛し、そして喪ってしまった人達に、今夜俺のギターと歌声を捧げたいと思います」
 ショーンがそう言うと、一瞬会場がシンとなった。
 誰もが、ショーン・クーパーが歌を歌えるとは思ってもみなかったからだ。
 友人であるルイでさえも、心底驚いた顔をして、スタッフ達と顔を見合わせている。
 ルイには、バルーンの曲をギターで披露したいと言っていた。
 イアンとの約束で、歌を歌うことは禁止されている。
 もしルイがそれを知った上でショーンをステージに上げたとなれば、彼の立場も悪くなる。
 だからこそショーンは、ルイに本当のことを隠したのだ。
 ── そういう嘘なら、いくらでもつく。
 世の中には、人を守るための『嘘』もあるということを、ショーンは羽柴に教えてもらった。
 今の自分の声を今夜彼が聴いているとは思えないけれど、そんなことはどうでもよかった。
 ただ、今の自分ができる“最高のこと”をしたかっただけ。
 コウが喪った人は取り戻せないけれど、彼はきっと同じ様な境遇の人をこれ以上増やしたくないと思っているはずだ。
 そう、今はコウの胸のロケットの中にいる『彼』も、きっとそれを願っているに違いない・・・。
 自分のできることはほんのちっぽけなことだけれど、それが何かの救いになるのなら。
 ── おそらく。
 きっと今日、ここで歌を歌えば、自分は『バルーン』を失う。
 けれどその代わり、俺は本物の『自由な羽根』を手に入れることができるんだ。この先、どんな困難が待っていようとも・・・。
 ふいにショーンは自分の腰元が熱くなる感覚を覚えた。
 あの刺青が入っている場所。
 まるで今まさに、そこで羽根を休めていた天使が大きく羽根を広げたように。
 ショーンは、優しく、そして慎重に歌声を風にのせた・・・。
 
 
 「・・・驚いた・・・」
 声を出せないでいる羽柴の代わりに、シラーがそう呟いた。
「彼は、歌えるんですね・・・。しかも、こんなに素晴らしい歌声で・・・」
 シラーが羽柴を振り返る。
「知ってましたか?」
 シラーはそう言って、言葉を飲んだ。
 その時の羽柴の表情は。
 まるで今にも泣き出しそうな表情をしていた。
 ショーンの歌ったその曲は、クリスマスの日、世界で初めて披露されたショーンのオリジナル曲だった。
 とても透き通っていて、美しい旋律の曲。
 ショーンが手に持っている緋色のオベーションが奏でる繊細なギターの音とショーンのナイーブな歌声があわさって、まるでこの歌が流れる場所全てが、神聖な教会の中であるかのような錯覚を与えた。
 そんなショーンの歌声が、羽柴の胸に届かないはずがなかった。
 まして、自分の人生の不甲斐なさに打ちのめされている羽柴に。
 羽柴のためはおろか、真一のためをも思って、あの場で歌ってくれているショーンの心が、痛いほど羽柴の心を揺さぶった。
 シラーが、羽柴の元まで来て言う。
「このチャリティーコンサートは、シェア・スタジアムで現在行われているものです。もちろん、これはライブ放送だ。分かりますね。今、同じ街で、彼はきっとあなたに向けてこの歌を歌っている。そうなのではないですか? シェア・スタジアムまでなら、車で20分もかからないでしょう。今すぐ車を用意します」
「ケイブ・・・」
 羽柴がぼんやりとしたまま、シラーを見上げる。
「さぁ立って! 食事は、あなたが帰ってきたら、また新しいものを用意させます。例え今、あなたの身体が疲労で動かなかったとしても、私は引きずってでもあなたを車に乗せますよ」
 シラーは再びカウンターの電話を取ると、ホテルの前まで車を回すように手配した。
 羽柴は立ち上がる。
「だが、ケイブ・・・。俺はチケットなんか持ってないし、うまく入れたとしても、あんなに大勢の人の中で彼が俺のことを見つけられるとは思えない・・・」
 シラーはコート掛けから羽柴の上着を手に取ると、羽柴に無理矢理着せた。
「楽屋口に行ってみてはどうですか?」
「そんな・・・無理だよ。俺はアメリカの音楽業界に知り合いはいない・・・」
「駄目で元々という言葉があるでしょう! 駄目でも・・・例え彼に会えなかったとしても、今夜彼に逢いに行かねば、きっとあなたは後悔する。あなたが疲れて帰ってきたら、私達は全従業員のプライドにかけて、あなたの疲れを癒すための努力をします。だからどうか、私達のためだと思って、行ってください」
 羽柴はシラーをじっと見た。
「それ、本気で言ってるのか?」
「ええ。私は大真面目ですよ、いつも。それはあなたが一番よく知っているでしょう」
 羽柴の顔に、僅かな微笑みが浮かぶ。
「つくづくこのホテルは・・・。変なホテルだな」
「お褒めの言葉と受け取っておきます。さ、車が来た」
 羽柴は、シラーと連れだってロビーを出た。
 シラーは羽柴を黒塗りの高級車の後部座席に押し込むと、ホテル専属の運転手に「シェア・スタジアムで行われるコンサートには行ったことあるか?」と声を掛ける。
「ええ、ありますよ。もちろん」
 普段はロック小僧の若い運転手は、そんなこと当たり前だと言わんばかりに答える。
「この方を今夜行われているチャリティーコンサートの楽屋口までお送りして差し上げろ。なるべく、その近くまで。ホテル・アストライアの名誉がかかった仕事だぞ」
 シラーの声色に彼は何かを感じたのだろう。彼はニヤリと笑みを浮かべると、「承知いたしました」と言って、ドアを閉めた。
 車が、少々強引に車列を破ってスタートし、通りの向こうに消えて行く。
 シラーはそのテールランプが見えなくなるまで、見送り続けた。
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