Please Say That

国沢柊青

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 「何だ、どうした?」
 怒鳴りはしていなかったが、羽柴の声は明らかに緊張していて強ばっていた。
 ショーンは完全に気が動転してしまい、テーブルの下に転がっているロケットの下半分を探した。
 その間に羽柴が近づいてきて、テーブルの上にロケットの中身が軒並み広げられていることを理解したらしい。
 ロケットの下半分を探し当てたショーンが、テーブルの上に放り出された骨の欠片を掴もうとした瞬間。
「 ── 触るな!!」
 鋭い声。
 明らかに、負の感情が込められた厳しい声だった。
 ショーンの身体がビクリと跳ね上がって、ピタリと動きを止める。
 ショーンは、自分の顔の血の気がみるみる引いていくのをはっきりと感じた。
 今まで聞いたことがない羽柴の怒鳴り声。
 それは咄嗟に出たものらしい。
 羽柴自身、自分の怒鳴り声に驚いた様子を見せ、テーブルの前に跪いた。
「・・・すまん。怒るつもりはないんだ・・・」
 震える声でそう言いながら、羽柴はガチガチに強ばっているショーンの手からロケットのパーツを全て取ると、「でも、これは凄く大切なものだから、気安く触ってもらいたくない」と静かにショーンに釘を刺した。
 大きな感情の波を押し殺したような羽柴の声色に、ショーンは余計に胸を痛ませた。
 羽柴は怒っていないと言いながらも、本当はそうしたいんだということがありありと分かった。
 自分が今病気だから、羽柴は気を使って何とか怒りの感情を押し流そうとしている。
 けれど自分は、あの穏やかな羽柴をこれほどまで怖い顔つきにさせるまでのことをしてしまったのだ。
 羽柴はショーンと目を合わせることなく、丁寧にテーブルの上の灰を手で集めている。
 そして骨と集めた灰を慎重にロケットの中に納めたが、テーブルの下にも灰が零れているのを発見して、羽柴は一瞬動きを止めた。
 そして一旦ロケットの蓋を閉めてテーブルの上に置くと、途方に暮れたように両膝に両手をつき、深い深い溜息をついた。
 頭を低く項垂れたその姿は、泣いているようにも見えた。
 ショーンは、唇を噛みしめた。
 いやに自分の心臓の音が大きく聞こえる。
 羽柴の背に触れようとしたが、まるでその背が自分を拒んでいるように感じて、触れることはできなかった。
 そう思った瞬間に、ショーンの手が目に見えてガタガタと震え始める。
 ショーンは自分の手を掴んだ。
 羽柴は何も言わなかったが、ショーンには彼が完全に自分を拒絶してしまったように感じた。
 ── でもそれは当然のことだ。
 ショーン自身それは納得できるし、ショーンが羽柴の立場でもそうすると思う。
 つまり、あのロケットの中の遺骨はかつて羽柴が愛し抜いた人のものであり、その人は決して羽柴をふった訳ではなく、死という形で引き裂かれたに違いなかった。
 羽柴の悲しみが、痛いほどショーンに伝わってくる。
 それが分かるだけに、自分が今しでかしたことが、自分自身で許せなかった。
 目の前では、再び動き出した羽柴が、下に落ちた灰も何とか拾い上げようとしている。だが、いずれにしても全てロケットの中に返すことは難しいだろう。
 ショーンは自分の愚かさに歯がゆくなって、その場から逃れたい衝動に駆られた。
 ショーンは弾かれたように立ち上がると、そのまま羽柴の部屋から走り出たのだった。


 バカ、バカ、バカ、バカ、バカバカバカバカ・・・・!!
 ショーンは零れ落ちる涙をトレーナーの袖で拭いながら、夜の街をひた走った。
 ところどころレンガがむき出しになっている古い舗装道路の上に、ピタピタと裸足の足音が響く。
 だがショーンは、自分が裸足で飛び出してきてしまったことも、吐く息が真っ白になるほど冷えた夜なのにTシャツにトレーナーという格好であることも、気にならなかった。いや、気にできなかった。
 自分の存在が嫌で嫌で堪らなくて、ただひたすら自分から逃げるために走った。
 それでも、自分から逃げることなんてできる訳がなくて。
 いろんな種類の悲しみが自分の中に溢れ返って、どうしていいか分からなかった。
 ボロボロと後から後から涙が零れ落ちて、トレーナーの袖はあっという間に色が変わっていった。
 ショーンの小鼻はごわごわしたトレーナーの袖に擦られ、そして寒さも重なって真っ赤になってしまっている。いつしか、白い裸足の足先も赤く変わっていた。
 時々すれ違う人々が、ぎょっとした顔でショーンを振り返っていく。だが、彼らはショーンが何者か分かって驚いているというより、この寒空で裸足に薄着で夜の街を泣きながら走っている若者の姿が奇異に映ったのだろう。
 ショーンはヒクッヒクッとしゃくり上げながら、走るのを止め、そしてトボトボと歩き始めた。
 ── もう羽柴の元には帰れない。
 彼のあの温かな腕も、穏やかな微笑みも失ってしまった。自分の愚かな好奇心の為に。
 そう思うと、また更に涙が出てきて、ボタボタと冷たい道路に落ちた。
 こうしていると、以前、スコットにフラれて雨の中を彷徨った日のことが思い起こされてくる。
 あの日も強い悲しみに支配されて、そのまま死んでしまうと思ったけれど、今の苦しみの方が何倍も強いような気がする。
 悲しみに殺されるだなんて陳腐な台詞で片づけられないぐらいの深さで。
 だってあの時はクリスの劇場という逃げ場があったけれど、今はそんなところなどないんだから。
 自分は、最後の逃げ場であった大切な場所を、自分自身で壊してしまった。
 もうあの大きな優しさが自分に向けられることはない、絶対。
 ショーンは、天を仰いで大きく口を開けた。
 戦慄いた口からは慟哭すら出てくることはなかったが、その代わりに今までショーンが経験したことのないほどの強い悲しみが吹き出してくるようだった。
 熱い涙が壊れた蛇口から吹き出す水のように零れ落ちて、赤くなった頬を濡らしてすぐに冷たくなった。
 自分は、羽柴の優しさを踏みにじるようなことをしてしまった。
 テーブルの上に散らばる遺灰と遺骨を見た時の羽柴の表情。
 まるで心臓を抉られたかのような苦しみに満ちた顔つきをしていた。
 ああ、本当に自分は何てことをしてしまったのか。
 許されるなら、こんな罪深い自分の命を、どうかコウの亡くなった恋人に与えてもらいたいと思った。
 ── それで罪が償えるなら、またコウが笑顔を浮かべられるようになるなら、神様・・・。
 ショーンはガックリと膝を折って、神に祈るように両手を併せた。
 ガタガタと震えている自分の身体が、寒さのせいなのか押し寄せる感情のせいなのか分からない。多分、その両方なのだとショーンは思う。
 そして、どれぐらいそうしていただろう。
 ふいに肩を掴まれて、グイッと身体が持ち上げられた。
 次の瞬間に、側の建物の壁に背中を押しつけられた。
 ショーンは涙に濡れたままの両目を見開いた。
「なんだ、酔っぱらいじゃないのか」
 揃いのニット帽を被った若者が三人、ショーンを取り囲んでいた。
 ルーズなシルエットの洋服に腰に巻かれているチェーンベルトがギラギラと光っている様は、十分に不気味だった。
 ショーンは辺りを見回した。
 無我夢中で走っている内に、ショーンは随分と野蛮な地域に足を踏み入れてしまっていたらしい。
 羽柴の家がある旧市街の街並みとは一変していて、更に古くて薄汚い建物がぎゅうぎゅうに建ち並んでいる。
 決して一人で行ってはいけないよと羽柴に言われていた地区のことを思い出していた。
 クラウン地区だ。
 低所得者や不法就労者等がひしめき合っているスラムである。
「何だお前、泣いてるのか?」
 顎を掴まれ、上向けられる。濡れた頬が晒された。
 周囲の男が口々に口笛を吹く。「お嬢ちゃん、どうしちゃったのぉ」と囃し立てられた。一番若い前歯が三本の抜け落ちている男に、ベロリと頬の涙を舐められる。ショーンは顔を顰めて逃れようとしたが、顔を掴まれて逃れることができなかった。
 ショーンを舐めた男は、何がそんなに楽しいのか、奇声を上げて騒ぎ回っている。
 一番最初にショーンの身体を掴み上げた男・・・どうやらグループのリーダーらしい・・・がショーンの全身を眺めて、「どうやら俺達より先に、追い剥ぎにでも襲われたのか」と冗談めかして言った。こんな寒空に裸足でいるのだから、そう思われても当然だろう。
 リーダー格の男は、もっと詳しくショーンの顔を見ようと思ったらしい。再びショーンの身体を掴むと、街灯の明かりが届く場所までショーンを引きずっていった。また建物の壁に身体を押しつけられる。
 俯く頭を、髪を掴まれて上向きにされた。
 ざわりと男達の空気が明らかに変わった。
「・・・お前・・・本物か?」
 そう言われた。
 ショーンは固く目を瞑る。
 どうやらショーンが何者か、バレたようだ。
「エディ! 絶対本物だぜ、間違いない!!」
 さっきショーンの顔を舐めた男が、ジャンプをしながら叫んだ。
「こんな赤毛、他にいるもんか!!」
 男達が色めき立つ。
「よもやこんな臭い町でバルーンのギタリストに会えるなんて。誰が信じるよ、おい!」
 もう一人の男も興奮気味にそう叫ぶ。
 エディと呼ばれたリーダーは、ニヤニヤと笑みを浮かべ、再び舐めるようにショーンの全身を眺めた。
「本物は随分とキュートだな」
 エディに服ごと掴み上げられているので、ショーンの臍の部分が外気に晒されている。その部分を、舐め回されるように何度も眺められた。
 下腹部の際どい部分を男の汚い手でサワサワと撫でられて、背筋に虫酸が走った。
 ショーンはハァと息を吐き出しながら、藻掻いて男の手から逃れようとする。だが返って二人掛かりで押さえつけられてしまった。
「おいおい、話は終わっちゃいないぜ。お楽しみはこれからだ。どうして天下のスターが、こんな格好でこんなところにいるんだ?」
 ショーンは冷ややかな目でエディを見つめる。
 既に涙は止まっていた。
 今までの感情の揺らぎが嘘のように、心は静かだった。
「しけこんだ女のところを追い出されてきたのか? それとも粋がってたところを町のチンピラに身ぐるみ剥がされてちびったのか? いずれにしても、こんなキュートなお前を泣かせるなんて、随分罪な奴だ」
 ── 罪深き人間は、俺の方なのに。
 ショーンはそう思った。
 俺の涙なんて、コウの悲しみに比べたら何でもない。
 ショーンは、気のない顔つきで溜息をつく。
 そんなショーンの様子に、カチンときたらしい。
「おい、何とか言えよ!」
 もう一人、ショーンを押さえている男が凄んだ。
 何とか言うにも、どうせ声なんて出ないんだから仕方がない。
 もっとも男達の質問になど、端から答えるつもりはなかったが。
 だが、シャツの中をイヤらしく這い回る男の手は我慢できない。
 ショーンは再び藻掻いて、自分を執拗に触ってくるエディの足を素足で蹴り上げた。
 反射的にエディが飛び出しナイフを取り出す。
「大人しくするんだな! 例え今金がなくても、お前は十分利用価値がある。その商売道具の顔に傷を付けられたくないだろう? 無事に帰りたいなら、この電話でお付きの奴らに電話をかけな」
 携帯電話とナイフを一気に押しつけられる。
 しかしショーンは、頬にナイフの切っ先を押しつけられても、不思議と動じなかった。
 さっきまで感じていた悲しみより、こんな恐怖など痛くも痒くもない。
 むしろ、ぐしゃぐしゃにしてもらいたかった。
 二度とこの世の誰からも見向きもされないような顔にされて、こんな自分なのだから仕方がないと諦めて暮らせるような顔にされたい。
 それどころか、いっそのこと指も切り落とされて、髪もメチャメチャに切られて、ショーン・クーパーだという意味すら無くしてもらいたい ── そう思った。
 自分は、そうされて当然の罪を犯した。
 その罪がそんなことで報われるのなら、ぜひそうしてもらいたいと心からそう思った。
 今まで生きてきた道は、やはり間違っていた。
 イアンのバンドに入ったのは間違いだった。いや、そもそもショービズの世界で生きたいと思ったこと自体が間違いで。更に言えば、町を出たこと自体間違っていたのだ。 ── いいやそれとも、ビル・タウンゼントの子どもなのに、ギターに触れたことからして間違いだったのか。違う、そんなんじゃない。自分自身が、生まれたこと自体、間違っていた・・・。
 人を傷つける生き方は、したくない。
 だからといって、自分を偽って生きることもできない。
 唯一自分を素直に出せる場所は、もうなくなってしまった。
 そればかりか、大切な人の心を深く傷つけた。
 そんなことしかできない自分なら、いっそのことここで消されても仕方ないような気がする。
 顔にナイフを突きつけられてもまだ、落ちついた様子で冷たく見返してくるショーンに、男達は苛立ちを見せた。
「・・・ナイフを突きつけられても悲鳴一つ上げないとは、流石度胸が据わっているというか」
 エディがそう言ったことがおかしくて、ショーンはニヤッと笑った。
 悲鳴を上げたくても声が出ないのだから。
 それを度胸が据わっていると言われて、おかしくて仕方がなかった。
 ── 失声症も、意外なところで役に立つものだ。
 だが、その笑みが男達の怒りを増長させたらしい。
「いい加減にしろ! なめてかかると、本当に酷い目に合うぞ!」
 目の前に翳されるナイフの先を見つめながら、何て陳腐な台詞なんだろうとショーンは朧気に思ったのだった。
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