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羽柴が「ここだよ」とショーンを案内したのは、日本料理のダイニングバーだった。
入口は障子の張った格子戸になっていて、中の明かりが通りに漏れてきている。
建物自体は、煉瓦造りの昔からニューヨークにあるような建物だったが、入口の両脇には竹が数本ずつ飾られてあり、そこだけが純和風の異空間になっていた。
店内はほのかに明るく落ちついた雰囲気で、客は九割が日本人だった。しかも年齢層が高いのか、室内で帽子を取ったショーンに物珍しそうな視線を向けはするが、羽柴の言った通り、ショーンが何者かは分かっていないようだった。
「な、店の表側にいるのは殆どが熟年の観光客なんだ。ニューヨークに住んでる日本人の常連組は店の奥の席に陣取るようになっていてね」
羽柴はそう言ってウインクをする。
店の中に入ってすぐに半円型のカウンター席が構えられ、その向こうには白衣に身を包んだ日本人の料理人が数人いて、日本語の刻印が入った大きなナイフで何かを丁寧に切っている。
店の片隅には小川のような水の流れがあり、サラサラというせせらぎと共に店の奥に繋がっている。
「いらっしゃいませ」
「やぁ。奥の席、開いてるかな?」
「ええ、どうぞ。お連れ様のお帽子、お預かりしましょうか?」
「え? ああ」
ショーンはぎこちなく帽子を預けた。
羽柴は、店員に案内されるのを待たずして、勝手知ったるなんとやらで小川の脇を通って奥に進んで行く。さり気なく腰に手を回されエスコートされて、ショーンは羽柴をチラリと見上げた。
その慣れた仕草を見ていると、どうやら何人もの女性とロマンティックなディナーを重ねてきているのだろう。同じ男として、彼のスマートさにつまらない嫉妬を感じてしまう。
いや、嫉妬を感じているのは、自分の男としての未熟さか、それとも羽柴と食事を、いやあるいはそれ以上のことを楽しんだ女性に対してなのか。
いずれにしても、その先を考えると滅入る気がして、ショーンは首を振ってその考えを消した。
「ん?」
ふいに羽柴が足を止めて、ショーンの顔を窺う。首を振ったことが気になったらしい。
「何だ、ひょっとして日本食は駄目かい?」
「え! や、違うよ! そんなんじゃ・・・」
急に気恥ずかしくなって、ショーンは視線を下げる。と、その時、小川に小さな赤い魚が泳いでいることに気が付いた。
「え?! わ! 魚だ!」
ショーンはふいにしゃがんで、小川を覗き込む。
その子どもじみた仕草が、スーツとまるであっていなくて羽柴は思わず顔をほころばせた。後ろをついてきていた店員もクスクスと笑っている。
ショーンは、そんな二人に気付くことなく、「すげぇ可愛い」と呟いている。
「それは金魚だよ」
羽柴も同じようにしゃがみ込んで、囁く。
「金魚?」
「そ。見たことないのか?」
「テレビとか映画でしか見たことない。実際に見たことある魚は、ブラックバスとか、そういうヤツしか・・・」
確かに、ブラックバスとかしか見てないのなら、金魚は大層可愛く見えるだろう。
「・・・君の髪とお揃いできれいな色してるよな」
羽柴がポツリと呟くと、ショーンが羽柴を見た。
しばらく無表情で羽柴の顔を見つめてくる。
「ん?」と羽柴が小首を傾げると、たちまちショーンは顔を赤くした。幸い、店内が薄暗いお陰で、羽柴にしか分からなかったが。
「日本人って、皆そうなのか?」
口を尖らせてそう訊いてくる。
「なにが?」
「だから、その・・・。や、もういい。何か、何て言っていいか分からない」
「なんだい、そりゃ」
「い、行こう。腹減った」
ショーンは立ち上がって、黙々と奥に入って行く。
羽柴は店員と顔を見合わせて肩を竦めると、ショーンの後についていった。
奥のスペースは、表のスペースがまんま逆さに反転したような格好になっており、表と同じ様な半円型のカウンターとその奥にテーブル席が幾つかあった。
なるほど、奥は常連達の憩いの場という感じで、サワサワと心地のいいざわめきが感じられる。
店員はショーンが何者か知っているようで、素早く二人を一番奥の目立たない席に案内してくれた。
ようやく席に着けてショーンがほっとしていると、この店のオーナーらしき口ひげを生やした日本人がテーブルにやってきた。
「今日はえらく可愛いお連れさんを連れて来たね」
そう声を掛けてきた彼は、カウンターの中にいる料理人とは違って、紺色と淡い水色のスプライト柄のキモノを着て、腰から下にエプロンのようなものを巻いている。
足は冬場だというのに素足で、ヒールの高い木の靴を履いていた。何だかビーチサンダルのようだが、形が四角い。
ショーンが思わず覗き込んでいると、「ハッハッハ、下駄に興味があるかい?」とオーナーは訊いてきた。
「紹介しよう。こちら、ここのオーナーでミスター・イソベ。俺がこっちに来たてで苦労していた時に、よく世話になった人だ。で、磯部さん、こちら、“ミスター・イチロー”」
ショーンがギョッとして羽柴と磯部を代わる代わる見ると、磯部はまたハッハッハと歯切れのいい笑い声を上げて、「去年の君の最多安打記録は素晴らしかったよ。日本人として誇らしく思ったね」と返してきた。
ショーンも思わず顔がほころぶ。
ホテルマンのシラーといい、この磯部といい、羽柴の周囲にいる人達は『優しい嘘』に快く付き合ってくれる人ばかりだ。
その居心地の良さといったら。
そういう感覚は、田舎を出る前、クリスと居た時によく感じた感覚だった。
ショーンと一定の距離を置きながらも、その優しさは深くて濃い。
「羽柴さん、何にする?」
「磯部さんに任せるよ。ビックリするほど美味しい日本料理、食わしてやって」
「あいよ」
磯部が日本語で変わった返事をしたので、ショーンは更に微笑んだ。
艶のある大人のスーツとギャップのある、あどけない笑顔。まるでガラス玉のように輝く大きな瞳が、磯部の姿を真っ直ぐ映している。
磯部は口を真一文字に弾き結ぶと、「全く、本当にえれぇ可愛い子を連れてきたもんだ」と日本語で呟きながらカウンターの向こうに消えていった。羽柴もそれを聞いて、思わず吹き出してしまう。
「何?」
ショーンが笑顔を浮かべたまま、羽柴に意味を訊いてくる。
「ん? ああ、君があんまりハンサムなんでビックリしてるのさ」
羽柴が答えてやると、ショーンはまた顔を赤らめ、俯いた。
「俺、そんなに格好良くなんかないよ・・・。それを言うならアンタの方が・・・」
「俺がかい? 俺なんて、君の年齢とほぼダブルスコアのしがないオジサンだよ」
「そんなことない! アンタは凄く、凄く・・・」
ショーンは、自分がつまらないことでムキになっていることに気が付いたらしい。急にそっぽを向いて、「アンタといると調子狂う」とぼやいた。
「酷いなぁ。俺のせいか」
半分冗談で羽柴がそう言うと、ショーンはギクリと怯えた表情を浮かべた。
それを見て、羽柴はしまったと思う。
どうやらこの子は、自分に対して攻撃的な意味合いの言葉を受けると、すぐに萎縮してしまう。いや、萎縮というより純粋な恐怖か。大分ショービズの世界で痛い目にあってきているのだろうか。随分他人に遠慮して生活しているのが窺えた。
俯いて、だらりと垂れたショーンの両手を、テーブルの下で捉えてギュッと握った。
ショーンがハッとして顔を上げたところを見計らって、羽柴は真っ直ぐショーンの瞳を捉える。
「悪かった。君を傷つけるつもりはなかった」
ショーンの大きな瞳がグラグラと揺れる。
「大丈夫。俺を見て」
そう囁くと、息をスッと吐いた後、唇を噛みしめ、羽柴を見る。
「君は、凄く素直でいい子だ。君の周りで、君を傷つけるような人間がいるとすれば、きっとそれはやがて彼ら自身に返っていく。君の感じた苦しみは、君の中をただ通り抜けて行くだけだ。君の中には決して止まらないから安心するといい。君のようないい人間の心の中に止まっておれるのは、本当の優しさと潔い勇気。そして愛情だと俺は思う」
ハッとショーンが息を吸い込んで呼吸を止めた。
そして次にショーンが呼吸を始めたと同時に、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちてきた。
堪らなくなったのか、ショーンがギュッと目を瞑る。
それと同時に、羽柴の手を握る力も強まった。
羽柴は優しく、ショーンの指を撫でてやる。
こんなに壊れやすい純粋な心を持った人間は、今まで羽柴の身の回りにいなかった。
羽柴の愛した須賀真一は、羽柴でも舌を巻くほどの強さを持った人間だったし、いつも傷ついて口を尖らせていた隼人でさえ、その根底では真一から受け継いだ逞しさを持っていた。
そして日本にいた頃の同僚や、ましてアメリカに来てから知り合った人々は皆、どこか諦めに似た妥協で自分を誤魔化し、自分が傷つかないようにと大人になればなるほど狡猾になっていく。
もちろん羽柴自身も、そんな思いを最近抱きつつあると感じていた。
それなのにどうだ。
この青年の純粋さときたら。
一言で『弱い』と片づけるのは簡単だ。
けれどそれだけではない何かを感じさせる。
きっと本当は、こういう純粋さが最後には本当の強さを発揮するのだ。
揺るぎない信念と迷いのない素直さ。
窮地に立たされている今だからこそ・・・いや、恐らく一般社会以上に暴力的な嘘と虚栄が立ちこめるショービジネスという世界に身を投じているからこそ、不必要に傷つけられて『弱く』見えているのかもしれない。
人間誰しも、人に言えない苦労をしながら、時に涙を流し、皆一人前になっていく。
そんな経験のない大人など、中身のない軟弱な人間にしかならない。
彼は今、人生の中で繊細で苦しい、けれども一番実りのある時期の真っ直中にいるのだ。
ただ羽柴が気になるのは、今彼の周辺にそれを理解して支えてくれる人間が、いないということ。
青年が見せる怯えた表情を見れば、それは一目瞭然だった。
・・・可愛そうに。
同情するのは、彼にとっても本意ではないと思ったが、羽柴はそう思わずにはいられなかった。
そして、恐らく今晩だけの出会いになるだろうが、一緒にいる限りは支えてやろうと思った。
今の彼には、無条件に信頼できる愛情が必要なのだ。
きっと、彼が育ってきた故郷に置いてきてしまった、大切な愛情に限りなく近いものが。
「・・・こんなトコで・・な、泣き出すなんて・・・俺、酷いよね・・・」
えづきながらそう言うショーンに、「俺なんか、ミヤザキアニメ見たら、多分どこでもおいおいと泣けるぞ」と返してやる。
「ミヤザキアニメ? チヒロ?」
どうやらショーンもミヤザキアニメを知っているらしい。涙に濡れた目で少し上目使いに羽柴を見つめてくる。
「ああ、そうだ。チヒロもいいけど、ナウシカが一番」
「ナウシカ?」
生憎とショーンはナウシカまでは知らないようだ。
「こんなでっかい虫が出てくるんだ。ニューヨークなんかあっという間に踏みつぶしてしまうくらいに大きな虫が」
ショーンは鼻をグスグス言わせながらも、泣き顔とは無縁の顰めツラを見せて、「虫なんて気持ち悪い」と返してくる。
「失礼な。その虫は環境破壊の進んだ世界の守り神みたいなもので、人間に大切なことを教えてくれるんだぞ」
「え~・・・。虫が?」
「ああ。君も見たら絶対に泣くと思う。DVD屋に置いてあると思うから、買って見てくれ」
「そんなの、よく分からないよ」
「じゃ、俺が買っておくから、今度一緒に俺の家で見よう」
ショーンの顔が一気にパッと明るくなる。
「ホント? いいの?」
「君こそ、いいのか? ちなみに俺の家、ヴァージニア州のC市にあるんだが」
「えぇ! 本当に?! 信じられない。俺、その隣町で生まれたんだ!! 17までそこで暮らしてたんだ。すっごい偶然!」
さっきまでの涙はどこへやら。すっかり興奮したショーンは自分が身を隠していることも忘れ、大きな歓声を上げる。
「ねぇ、ホントに行っていい? 駄目かな? 俺、アンタん家に行きたい。もし迷惑じゃなけりゃ・・・」
急き立てられるように、矢継ぎ早に言葉が出てくる。
羽柴は、分かった、分かったとショーンから手を離して、懐から自分の名刺とペンを取り出した。
テーブルの上で、名刺の裏に自宅の住所と電話番号を書き付ける。
ショーンはいかにもワクワクとした顔つきで、羽柴の手元を見つめている。
「はい」
羽柴が名刺を差し出すと、「ああ、無くさないようにしなきゃ・・・。でもこのスーツは借り物だし・・・」と呟いている。そして思いついたのか、ジャケットを脱いで、左のYシャツの袖を捲ると、革のリストバンドが現れた。
「この間に挟んでおく」
そう言った彼は、その幅広いリストバンドを外して、名刺をその裏側に沿わせると、またしっかりと締め直した。
「おい、そんなにきつく締めたら、手首に跡がつくぞ」
「だって、落としたら困るから」
そう呟くショーンは、まるっきり羽柴の言うことなど聞くつもりはないらしい。
また元通りにYシャツの袖を戻し、ジャケットを着たショーンは、すっかり機嫌を取り戻し、寧ろご満悦な微笑みを浮かべた。本当に幸せそうな笑顔を浮かべる。
いやはや参ったな・・・。
羽柴は内心冷や汗を掻く。
そんな笑顔を見せられたら、目に焼き付いて離れなくなるよ。
『やれやれ、耕造さんったら』
胸元で真一が囁いたような気がして、思わず羽柴はドキリとした。
や、これは浮気なんかじゃないからな。第一彼と俺は親子ほどの年が離れてるんだから・・・。
ゴニョゴニョゴニョと羽柴は心の中で呟いてみる。
「随分盛り上がっているようだね。腹の準備はできてるのかい?」
ベストなタイミングで磯部が料理を運んできてくれた。
日本でも馴染みの天ぷらの盛り合わせだ。それは、今まさに揚げたてといった湯気を立てている。
恐らく、カウンターから密かに羽柴のテーブルの様子を窺いながら仕上げてくれたのだろう。
この店を選んで本当に良かった、と羽柴は思った。
「うわぁ、これ何?」
「天ぷら。美味いぞ。熱いから、気をつけて。その器に入ってるのが天つゆ。そっちの皿に入ってるのが抹茶塩。その横が普通の塩。好きなものにつけて食べたらいい」
「そんなの、よく分からないよ」
「じゃ、味が分かるまで俺のするようにして食べたらいい。・・・箸は使える? 駄目だったら、そこのフォークで食べたらいい」
最初ショーンは箸を持って奮闘していたが、一向に挟める気配がないので、観念してフォークに持ち替えた。箸でひょいひょい摘んでいる羽柴を見て、心底悔しそうにしていた。
「これ、何? 黒い」
ショーンはノリの天ぷらを持ち上げて、顔を奇妙に歪ませている。
「黒い食べものなんて初めて見た・・・。本当に食えるの?」
「ノリだよ。海草。海の香りがして美味いんだ」
「マジで?」
「ああ。それに君は、真っ黒い食べ物を見たことがないっていうけど、アメリカ人は大抵庭先のバーベキューで真っ黒に焼き過ぎた肉を年中頬張ってるんじゃないのか?」
羽柴がそう言うと、ショーンはケタケタと笑いながら、「確かにそうだね」と言った。 磯部の細やかな気遣いのお陰で、随分と楽しい食事になった。
ショーンも、今置かれている騒がしい状況をすっかり忘れて、羽根を伸ばせたようだ。
「エビが美味しかった。エビの天ぷら。それとアボカドも」
「アボカドが食えるんなら、トロも絶対食えると思ったのにな」
羽柴は、最後に出された日本茶を啜りながらそう言った。
結局ショーンは、生の魚は口にできなかった。
炙ったサバがのせられた寿司は美味そうに食べていたが、やはり生物は苦手らしい。
日本酒も飲ませてみたかったが、生憎ニューヨークでは21歳にならないと酒は飲んではいけないことになっているので(といってもそれを大人しく守っている高校生がどれだけいることか)、何かあってはマズイと、日本茶を飲ませた。
日本茶は意外に気に入ったようで、お代わりを磯部に頼んでいた。
磯部にチェックを頼み、店員が来るまでクレジットカードを構えていると、「あら!」と背後から声をかけられた。
「ん?」
羽柴が振り返ると、そこには友人の伊藤理沙が友人を連れて立っていた。
理沙はこのレストランで知り合った日本人ニューヨーカーで、ファッション雑誌『エニグマ』のコーディネーターをしている。早い話が、ディレクターのような仕事だ。
雑誌編集長が希望するイメージのモデルを探し出し、適任のカメラマンやモデル事務所、撮影場所の交渉から契約、スケジュール調整まですべて彼女がこなす。
今やヴォーグに負けるとも劣らないセンセーショナルな雑誌として注目を集めている仕事場に勤めている。
羽柴とは、同じアメリカの地で働く日本人同士ならではの愚痴なども気軽に言い合える仲として、結構つきあいが長い。
彼女は先頃、年下のカメラマンと国際結婚をしたばかりで、その結婚式には羽柴も出席した。
「羽柴君、久しぶりね。今度はいつまでいるの?」
「ああ、明日には帰るんだ」
「あら、残念。来たのなら来たで、電話くれたらいいのに」
「新婚家庭を邪魔するような真似はしたくないよ。惚気られるとこっちが困る」
「やだ。やっぱり惚気てるように見える?」
「見える見える」
「最近、編集長にも言われてるわ。ページの構成に滲み出てるって。もう不甲斐ないったら・・・って、あら?」
理沙がショーンに気が付いた。
理沙は明らかにショーンを知っているという顔つきをして見せたが、羽柴がショーンに気付かれないようにショーンに背を向けたまま、小さく両手を合わすと、理沙はすぐに事情を察してくれたらしい。
「可愛らしいお友達ね。初めまして、リサ・イトウです」
理沙は、ごく自然にショーンに向かって手を差し出す。ショーンも立ち上がって、理沙の手を軽く握った。
「初めまして。僕は・・・」
「ミスター・・・」
ショーンの言葉を遮って、理沙がチラリと羽柴を見る。
「イチロー」
「イチローね。あら、あなたと似たような名前の日本人が大リーグで活躍していること、ご存じ?」
理沙は大げさに顔を顰めながら言う。
ショーンはハハハと笑った。
理沙がハァと感嘆の溜息をついて、羽柴の肩を肘で小突く。
「やだ。マジで本物って、こんなに可愛いのね。ミュージシャンにしておくのが勿体ないくらい。ねぇ、彼、うちの雑誌に載ってくれないかしら。私なら、グッチのグラマラスなスーツ着せる。絶対」
理沙が、そう日本語で囁く。
羽柴は、目だけで天を仰いで、「お前もそういう反応か」と呟いた。
「ちょっと願望を言っただけよ」
「What?」
ショーンが訊いてくる。
理沙は満面の笑みを浮かべると、きちんとした英語で「羽柴君みたいな男にくっついてると、彼女を作ってはすぐフルような悪い男になってしまうって話してたの」と言った。羽柴がギョッとする。
「理沙、お前なぁ!」
「だって、殆どホントでしょ?」
「悪い男は余計だろ。俺はいつも誠実に付き合ってきたつもりなんだ。ただちょっと長続きしないだけで・・・」
「いまだに日本で付き合ってた恋人のことが忘れられないのよ、彼。寂しいオジサンをそのキュートな笑顔で慰めてやってね、“イチローさん”」
理沙はそうショーンに囁くと、ウインクをして開いているテーブルに着いた。
ショーンは大きな目を更に大きく見開いて、羽柴を見上げている。
「彼女が言ったことホント?」
「・・・だから悪い男というのは余計だ」
そんなこと訊きたい訳じゃないのに・・・とショーンは思った。
本当は、左手の薬指に結婚指輪みたいなデザインのリングを二つも填めているくせに、結婚していないのかという意味で問いかけたつもりだった。
ショーンにとっては、羽柴が悪い男かどうかなんて二の次の話なのに、羽柴は『悪い男』呼ばわりされたことに拘っているらしく、その先の追求はできそうにもなかった。
入口は障子の張った格子戸になっていて、中の明かりが通りに漏れてきている。
建物自体は、煉瓦造りの昔からニューヨークにあるような建物だったが、入口の両脇には竹が数本ずつ飾られてあり、そこだけが純和風の異空間になっていた。
店内はほのかに明るく落ちついた雰囲気で、客は九割が日本人だった。しかも年齢層が高いのか、室内で帽子を取ったショーンに物珍しそうな視線を向けはするが、羽柴の言った通り、ショーンが何者かは分かっていないようだった。
「な、店の表側にいるのは殆どが熟年の観光客なんだ。ニューヨークに住んでる日本人の常連組は店の奥の席に陣取るようになっていてね」
羽柴はそう言ってウインクをする。
店の中に入ってすぐに半円型のカウンター席が構えられ、その向こうには白衣に身を包んだ日本人の料理人が数人いて、日本語の刻印が入った大きなナイフで何かを丁寧に切っている。
店の片隅には小川のような水の流れがあり、サラサラというせせらぎと共に店の奥に繋がっている。
「いらっしゃいませ」
「やぁ。奥の席、開いてるかな?」
「ええ、どうぞ。お連れ様のお帽子、お預かりしましょうか?」
「え? ああ」
ショーンはぎこちなく帽子を預けた。
羽柴は、店員に案内されるのを待たずして、勝手知ったるなんとやらで小川の脇を通って奥に進んで行く。さり気なく腰に手を回されエスコートされて、ショーンは羽柴をチラリと見上げた。
その慣れた仕草を見ていると、どうやら何人もの女性とロマンティックなディナーを重ねてきているのだろう。同じ男として、彼のスマートさにつまらない嫉妬を感じてしまう。
いや、嫉妬を感じているのは、自分の男としての未熟さか、それとも羽柴と食事を、いやあるいはそれ以上のことを楽しんだ女性に対してなのか。
いずれにしても、その先を考えると滅入る気がして、ショーンは首を振ってその考えを消した。
「ん?」
ふいに羽柴が足を止めて、ショーンの顔を窺う。首を振ったことが気になったらしい。
「何だ、ひょっとして日本食は駄目かい?」
「え! や、違うよ! そんなんじゃ・・・」
急に気恥ずかしくなって、ショーンは視線を下げる。と、その時、小川に小さな赤い魚が泳いでいることに気が付いた。
「え?! わ! 魚だ!」
ショーンはふいにしゃがんで、小川を覗き込む。
その子どもじみた仕草が、スーツとまるであっていなくて羽柴は思わず顔をほころばせた。後ろをついてきていた店員もクスクスと笑っている。
ショーンは、そんな二人に気付くことなく、「すげぇ可愛い」と呟いている。
「それは金魚だよ」
羽柴も同じようにしゃがみ込んで、囁く。
「金魚?」
「そ。見たことないのか?」
「テレビとか映画でしか見たことない。実際に見たことある魚は、ブラックバスとか、そういうヤツしか・・・」
確かに、ブラックバスとかしか見てないのなら、金魚は大層可愛く見えるだろう。
「・・・君の髪とお揃いできれいな色してるよな」
羽柴がポツリと呟くと、ショーンが羽柴を見た。
しばらく無表情で羽柴の顔を見つめてくる。
「ん?」と羽柴が小首を傾げると、たちまちショーンは顔を赤くした。幸い、店内が薄暗いお陰で、羽柴にしか分からなかったが。
「日本人って、皆そうなのか?」
口を尖らせてそう訊いてくる。
「なにが?」
「だから、その・・・。や、もういい。何か、何て言っていいか分からない」
「なんだい、そりゃ」
「い、行こう。腹減った」
ショーンは立ち上がって、黙々と奥に入って行く。
羽柴は店員と顔を見合わせて肩を竦めると、ショーンの後についていった。
奥のスペースは、表のスペースがまんま逆さに反転したような格好になっており、表と同じ様な半円型のカウンターとその奥にテーブル席が幾つかあった。
なるほど、奥は常連達の憩いの場という感じで、サワサワと心地のいいざわめきが感じられる。
店員はショーンが何者か知っているようで、素早く二人を一番奥の目立たない席に案内してくれた。
ようやく席に着けてショーンがほっとしていると、この店のオーナーらしき口ひげを生やした日本人がテーブルにやってきた。
「今日はえらく可愛いお連れさんを連れて来たね」
そう声を掛けてきた彼は、カウンターの中にいる料理人とは違って、紺色と淡い水色のスプライト柄のキモノを着て、腰から下にエプロンのようなものを巻いている。
足は冬場だというのに素足で、ヒールの高い木の靴を履いていた。何だかビーチサンダルのようだが、形が四角い。
ショーンが思わず覗き込んでいると、「ハッハッハ、下駄に興味があるかい?」とオーナーは訊いてきた。
「紹介しよう。こちら、ここのオーナーでミスター・イソベ。俺がこっちに来たてで苦労していた時に、よく世話になった人だ。で、磯部さん、こちら、“ミスター・イチロー”」
ショーンがギョッとして羽柴と磯部を代わる代わる見ると、磯部はまたハッハッハと歯切れのいい笑い声を上げて、「去年の君の最多安打記録は素晴らしかったよ。日本人として誇らしく思ったね」と返してきた。
ショーンも思わず顔がほころぶ。
ホテルマンのシラーといい、この磯部といい、羽柴の周囲にいる人達は『優しい嘘』に快く付き合ってくれる人ばかりだ。
その居心地の良さといったら。
そういう感覚は、田舎を出る前、クリスと居た時によく感じた感覚だった。
ショーンと一定の距離を置きながらも、その優しさは深くて濃い。
「羽柴さん、何にする?」
「磯部さんに任せるよ。ビックリするほど美味しい日本料理、食わしてやって」
「あいよ」
磯部が日本語で変わった返事をしたので、ショーンは更に微笑んだ。
艶のある大人のスーツとギャップのある、あどけない笑顔。まるでガラス玉のように輝く大きな瞳が、磯部の姿を真っ直ぐ映している。
磯部は口を真一文字に弾き結ぶと、「全く、本当にえれぇ可愛い子を連れてきたもんだ」と日本語で呟きながらカウンターの向こうに消えていった。羽柴もそれを聞いて、思わず吹き出してしまう。
「何?」
ショーンが笑顔を浮かべたまま、羽柴に意味を訊いてくる。
「ん? ああ、君があんまりハンサムなんでビックリしてるのさ」
羽柴が答えてやると、ショーンはまた顔を赤らめ、俯いた。
「俺、そんなに格好良くなんかないよ・・・。それを言うならアンタの方が・・・」
「俺がかい? 俺なんて、君の年齢とほぼダブルスコアのしがないオジサンだよ」
「そんなことない! アンタは凄く、凄く・・・」
ショーンは、自分がつまらないことでムキになっていることに気が付いたらしい。急にそっぽを向いて、「アンタといると調子狂う」とぼやいた。
「酷いなぁ。俺のせいか」
半分冗談で羽柴がそう言うと、ショーンはギクリと怯えた表情を浮かべた。
それを見て、羽柴はしまったと思う。
どうやらこの子は、自分に対して攻撃的な意味合いの言葉を受けると、すぐに萎縮してしまう。いや、萎縮というより純粋な恐怖か。大分ショービズの世界で痛い目にあってきているのだろうか。随分他人に遠慮して生活しているのが窺えた。
俯いて、だらりと垂れたショーンの両手を、テーブルの下で捉えてギュッと握った。
ショーンがハッとして顔を上げたところを見計らって、羽柴は真っ直ぐショーンの瞳を捉える。
「悪かった。君を傷つけるつもりはなかった」
ショーンの大きな瞳がグラグラと揺れる。
「大丈夫。俺を見て」
そう囁くと、息をスッと吐いた後、唇を噛みしめ、羽柴を見る。
「君は、凄く素直でいい子だ。君の周りで、君を傷つけるような人間がいるとすれば、きっとそれはやがて彼ら自身に返っていく。君の感じた苦しみは、君の中をただ通り抜けて行くだけだ。君の中には決して止まらないから安心するといい。君のようないい人間の心の中に止まっておれるのは、本当の優しさと潔い勇気。そして愛情だと俺は思う」
ハッとショーンが息を吸い込んで呼吸を止めた。
そして次にショーンが呼吸を始めたと同時に、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちてきた。
堪らなくなったのか、ショーンがギュッと目を瞑る。
それと同時に、羽柴の手を握る力も強まった。
羽柴は優しく、ショーンの指を撫でてやる。
こんなに壊れやすい純粋な心を持った人間は、今まで羽柴の身の回りにいなかった。
羽柴の愛した須賀真一は、羽柴でも舌を巻くほどの強さを持った人間だったし、いつも傷ついて口を尖らせていた隼人でさえ、その根底では真一から受け継いだ逞しさを持っていた。
そして日本にいた頃の同僚や、ましてアメリカに来てから知り合った人々は皆、どこか諦めに似た妥協で自分を誤魔化し、自分が傷つかないようにと大人になればなるほど狡猾になっていく。
もちろん羽柴自身も、そんな思いを最近抱きつつあると感じていた。
それなのにどうだ。
この青年の純粋さときたら。
一言で『弱い』と片づけるのは簡単だ。
けれどそれだけではない何かを感じさせる。
きっと本当は、こういう純粋さが最後には本当の強さを発揮するのだ。
揺るぎない信念と迷いのない素直さ。
窮地に立たされている今だからこそ・・・いや、恐らく一般社会以上に暴力的な嘘と虚栄が立ちこめるショービジネスという世界に身を投じているからこそ、不必要に傷つけられて『弱く』見えているのかもしれない。
人間誰しも、人に言えない苦労をしながら、時に涙を流し、皆一人前になっていく。
そんな経験のない大人など、中身のない軟弱な人間にしかならない。
彼は今、人生の中で繊細で苦しい、けれども一番実りのある時期の真っ直中にいるのだ。
ただ羽柴が気になるのは、今彼の周辺にそれを理解して支えてくれる人間が、いないということ。
青年が見せる怯えた表情を見れば、それは一目瞭然だった。
・・・可愛そうに。
同情するのは、彼にとっても本意ではないと思ったが、羽柴はそう思わずにはいられなかった。
そして、恐らく今晩だけの出会いになるだろうが、一緒にいる限りは支えてやろうと思った。
今の彼には、無条件に信頼できる愛情が必要なのだ。
きっと、彼が育ってきた故郷に置いてきてしまった、大切な愛情に限りなく近いものが。
「・・・こんなトコで・・な、泣き出すなんて・・・俺、酷いよね・・・」
えづきながらそう言うショーンに、「俺なんか、ミヤザキアニメ見たら、多分どこでもおいおいと泣けるぞ」と返してやる。
「ミヤザキアニメ? チヒロ?」
どうやらショーンもミヤザキアニメを知っているらしい。涙に濡れた目で少し上目使いに羽柴を見つめてくる。
「ああ、そうだ。チヒロもいいけど、ナウシカが一番」
「ナウシカ?」
生憎とショーンはナウシカまでは知らないようだ。
「こんなでっかい虫が出てくるんだ。ニューヨークなんかあっという間に踏みつぶしてしまうくらいに大きな虫が」
ショーンは鼻をグスグス言わせながらも、泣き顔とは無縁の顰めツラを見せて、「虫なんて気持ち悪い」と返してくる。
「失礼な。その虫は環境破壊の進んだ世界の守り神みたいなもので、人間に大切なことを教えてくれるんだぞ」
「え~・・・。虫が?」
「ああ。君も見たら絶対に泣くと思う。DVD屋に置いてあると思うから、買って見てくれ」
「そんなの、よく分からないよ」
「じゃ、俺が買っておくから、今度一緒に俺の家で見よう」
ショーンの顔が一気にパッと明るくなる。
「ホント? いいの?」
「君こそ、いいのか? ちなみに俺の家、ヴァージニア州のC市にあるんだが」
「えぇ! 本当に?! 信じられない。俺、その隣町で生まれたんだ!! 17までそこで暮らしてたんだ。すっごい偶然!」
さっきまでの涙はどこへやら。すっかり興奮したショーンは自分が身を隠していることも忘れ、大きな歓声を上げる。
「ねぇ、ホントに行っていい? 駄目かな? 俺、アンタん家に行きたい。もし迷惑じゃなけりゃ・・・」
急き立てられるように、矢継ぎ早に言葉が出てくる。
羽柴は、分かった、分かったとショーンから手を離して、懐から自分の名刺とペンを取り出した。
テーブルの上で、名刺の裏に自宅の住所と電話番号を書き付ける。
ショーンはいかにもワクワクとした顔つきで、羽柴の手元を見つめている。
「はい」
羽柴が名刺を差し出すと、「ああ、無くさないようにしなきゃ・・・。でもこのスーツは借り物だし・・・」と呟いている。そして思いついたのか、ジャケットを脱いで、左のYシャツの袖を捲ると、革のリストバンドが現れた。
「この間に挟んでおく」
そう言った彼は、その幅広いリストバンドを外して、名刺をその裏側に沿わせると、またしっかりと締め直した。
「おい、そんなにきつく締めたら、手首に跡がつくぞ」
「だって、落としたら困るから」
そう呟くショーンは、まるっきり羽柴の言うことなど聞くつもりはないらしい。
また元通りにYシャツの袖を戻し、ジャケットを着たショーンは、すっかり機嫌を取り戻し、寧ろご満悦な微笑みを浮かべた。本当に幸せそうな笑顔を浮かべる。
いやはや参ったな・・・。
羽柴は内心冷や汗を掻く。
そんな笑顔を見せられたら、目に焼き付いて離れなくなるよ。
『やれやれ、耕造さんったら』
胸元で真一が囁いたような気がして、思わず羽柴はドキリとした。
や、これは浮気なんかじゃないからな。第一彼と俺は親子ほどの年が離れてるんだから・・・。
ゴニョゴニョゴニョと羽柴は心の中で呟いてみる。
「随分盛り上がっているようだね。腹の準備はできてるのかい?」
ベストなタイミングで磯部が料理を運んできてくれた。
日本でも馴染みの天ぷらの盛り合わせだ。それは、今まさに揚げたてといった湯気を立てている。
恐らく、カウンターから密かに羽柴のテーブルの様子を窺いながら仕上げてくれたのだろう。
この店を選んで本当に良かった、と羽柴は思った。
「うわぁ、これ何?」
「天ぷら。美味いぞ。熱いから、気をつけて。その器に入ってるのが天つゆ。そっちの皿に入ってるのが抹茶塩。その横が普通の塩。好きなものにつけて食べたらいい」
「そんなの、よく分からないよ」
「じゃ、味が分かるまで俺のするようにして食べたらいい。・・・箸は使える? 駄目だったら、そこのフォークで食べたらいい」
最初ショーンは箸を持って奮闘していたが、一向に挟める気配がないので、観念してフォークに持ち替えた。箸でひょいひょい摘んでいる羽柴を見て、心底悔しそうにしていた。
「これ、何? 黒い」
ショーンはノリの天ぷらを持ち上げて、顔を奇妙に歪ませている。
「黒い食べものなんて初めて見た・・・。本当に食えるの?」
「ノリだよ。海草。海の香りがして美味いんだ」
「マジで?」
「ああ。それに君は、真っ黒い食べ物を見たことがないっていうけど、アメリカ人は大抵庭先のバーベキューで真っ黒に焼き過ぎた肉を年中頬張ってるんじゃないのか?」
羽柴がそう言うと、ショーンはケタケタと笑いながら、「確かにそうだね」と言った。 磯部の細やかな気遣いのお陰で、随分と楽しい食事になった。
ショーンも、今置かれている騒がしい状況をすっかり忘れて、羽根を伸ばせたようだ。
「エビが美味しかった。エビの天ぷら。それとアボカドも」
「アボカドが食えるんなら、トロも絶対食えると思ったのにな」
羽柴は、最後に出された日本茶を啜りながらそう言った。
結局ショーンは、生の魚は口にできなかった。
炙ったサバがのせられた寿司は美味そうに食べていたが、やはり生物は苦手らしい。
日本酒も飲ませてみたかったが、生憎ニューヨークでは21歳にならないと酒は飲んではいけないことになっているので(といってもそれを大人しく守っている高校生がどれだけいることか)、何かあってはマズイと、日本茶を飲ませた。
日本茶は意外に気に入ったようで、お代わりを磯部に頼んでいた。
磯部にチェックを頼み、店員が来るまでクレジットカードを構えていると、「あら!」と背後から声をかけられた。
「ん?」
羽柴が振り返ると、そこには友人の伊藤理沙が友人を連れて立っていた。
理沙はこのレストランで知り合った日本人ニューヨーカーで、ファッション雑誌『エニグマ』のコーディネーターをしている。早い話が、ディレクターのような仕事だ。
雑誌編集長が希望するイメージのモデルを探し出し、適任のカメラマンやモデル事務所、撮影場所の交渉から契約、スケジュール調整まですべて彼女がこなす。
今やヴォーグに負けるとも劣らないセンセーショナルな雑誌として注目を集めている仕事場に勤めている。
羽柴とは、同じアメリカの地で働く日本人同士ならではの愚痴なども気軽に言い合える仲として、結構つきあいが長い。
彼女は先頃、年下のカメラマンと国際結婚をしたばかりで、その結婚式には羽柴も出席した。
「羽柴君、久しぶりね。今度はいつまでいるの?」
「ああ、明日には帰るんだ」
「あら、残念。来たのなら来たで、電話くれたらいいのに」
「新婚家庭を邪魔するような真似はしたくないよ。惚気られるとこっちが困る」
「やだ。やっぱり惚気てるように見える?」
「見える見える」
「最近、編集長にも言われてるわ。ページの構成に滲み出てるって。もう不甲斐ないったら・・・って、あら?」
理沙がショーンに気が付いた。
理沙は明らかにショーンを知っているという顔つきをして見せたが、羽柴がショーンに気付かれないようにショーンに背を向けたまま、小さく両手を合わすと、理沙はすぐに事情を察してくれたらしい。
「可愛らしいお友達ね。初めまして、リサ・イトウです」
理沙は、ごく自然にショーンに向かって手を差し出す。ショーンも立ち上がって、理沙の手を軽く握った。
「初めまして。僕は・・・」
「ミスター・・・」
ショーンの言葉を遮って、理沙がチラリと羽柴を見る。
「イチロー」
「イチローね。あら、あなたと似たような名前の日本人が大リーグで活躍していること、ご存じ?」
理沙は大げさに顔を顰めながら言う。
ショーンはハハハと笑った。
理沙がハァと感嘆の溜息をついて、羽柴の肩を肘で小突く。
「やだ。マジで本物って、こんなに可愛いのね。ミュージシャンにしておくのが勿体ないくらい。ねぇ、彼、うちの雑誌に載ってくれないかしら。私なら、グッチのグラマラスなスーツ着せる。絶対」
理沙が、そう日本語で囁く。
羽柴は、目だけで天を仰いで、「お前もそういう反応か」と呟いた。
「ちょっと願望を言っただけよ」
「What?」
ショーンが訊いてくる。
理沙は満面の笑みを浮かべると、きちんとした英語で「羽柴君みたいな男にくっついてると、彼女を作ってはすぐフルような悪い男になってしまうって話してたの」と言った。羽柴がギョッとする。
「理沙、お前なぁ!」
「だって、殆どホントでしょ?」
「悪い男は余計だろ。俺はいつも誠実に付き合ってきたつもりなんだ。ただちょっと長続きしないだけで・・・」
「いまだに日本で付き合ってた恋人のことが忘れられないのよ、彼。寂しいオジサンをそのキュートな笑顔で慰めてやってね、“イチローさん”」
理沙はそうショーンに囁くと、ウインクをして開いているテーブルに着いた。
ショーンは大きな目を更に大きく見開いて、羽柴を見上げている。
「彼女が言ったことホント?」
「・・・だから悪い男というのは余計だ」
そんなこと訊きたい訳じゃないのに・・・とショーンは思った。
本当は、左手の薬指に結婚指輪みたいなデザインのリングを二つも填めているくせに、結婚していないのかという意味で問いかけたつもりだった。
ショーンにとっては、羽柴が悪い男かどうかなんて二の次の話なのに、羽柴は『悪い男』呼ばわりされたことに拘っているらしく、その先の追求はできそうにもなかった。
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