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30・蜜月 前
しおりを挟む「竜の館」に、いよいよ本格的な春が到来した。高地のため華やかな園芸植物は少ないが、そのぶん野趣あふれる可憐な花々が一斉に咲き乱れ、庭のそこここを彩った。青空のもと暖かい日差しが降り注ぎ、庭の草花は豆の茎のように一晩でびっくりするほど伸びていった。
もう三十年以上もこの館で働いている庭師の二コラは、毎年この季節は大忙しだ。王都の貴族の邸宅のようにきっちりと整える必要はない。だがこの季節は、花壇にあっという間に草がはびこり、小道の両脇から伸びた若枝が行く手を塞いでしまう。
「さあ次は、東の花壇だな。ああ忙しい、早いとこ刈ってやらねえと……」
大きな籠に鋏やスコップを入れて担いだ二コラは、大股で庭を横切っていった。忙しいとは言いながら、庭仕事は天職だ。歩きながらもきょろきょろと庭全体を見回して、庭木や花の様子を確認する。
「おっと」
小道へ曲がろうとして、二コラは慌てて歩みを止めた。そっと後ずさり、向きを変える。
彼は一瞬見てしまったのだ、主のヴィルフリートが林檎の木の下で、花嫁を抱いて口づけているのを。
「いけねえいけねえ。しょうがねえ、生垣を先にするか」
口の中で呟きながら去って行く二コラの顔はほころんでいた。
二コラだけではなかった。ここで働く者は皆、ヴィルフリートが子供のころから知っている者ばかり。なかなか番に巡り合えない主を、心の底から心配していたのだ。そんな主がやっと花嫁、アメリアを迎えた。どうか幸せにと祈るような思いで見守っていたのは、皆同じだ。
初めの十日ほどはぎこちなかったが、その後主夫婦は、見るからに仲睦まじい様子を見せるようになった。もちろん何があったか知っているのはレオノーラだけだ。それでもヴィルフリートが実に幸せそうにしているのを見れば、皆も嬉しくなってしまう。二コラではないが、仕事の手順が狂うくらいは何とも思わないのだった。
館の下働きをしているアンヌには、子供も孫もいる。そんな彼女から見れば、アメリアなどはもう孫に近い年齢だ。そのせいか、微笑み合う二人を見る度に泣けてきてしまう。
とは言え、何かとエプロンで顔を覆って泣くアンヌを笑える者は、館には一人もいない。
今日もアンヌは掃除道具を抱えて図書室の扉を開けた。本の整理は彼女の仕事ではないが、奥の棚から順に羽根箒でそっと埃を払い、床を拭いてゆく。本を損なうことのないよう慎重に仕事をしていたアンヌは、ふと顔を上げて驚いた。
いつの間にか長椅子に主夫婦が座り、仲睦まじく二人で大きな本を覗き込んでいる。
「あら、気付きませんで」
二人がいるのに埃などたてられない。アンヌは慌てて退散した。
―――入っていらしたのに気付かないなんて、あたしもついに耳が遠くなったのかね……? それにしてもお二人のお幸せそうなこと……!
図書室の扉の外で、アンヌはまたもエプロンで涙を拭った。
「アンヌの邪魔をしてしまったかしら、ヴィルフリート様?」
「アンヌなら大丈夫だ、私がここに入り浸るのはいつものことだからね」
笑ってヴィルフリートはアメリアのこめかみに口付ける。
二人が見ていたのは王国の地図で、いつもの崖の上から見える湖を調べていたのだった。
「うん、方向から言ってこのブリンツェ湖だろうね」
「まあ、見た目よりも遠いのですね」
アメリアが感心して覗き込むと、ヴィルフリートの指が街道を辿る。
「ちなみに王都はここだ。君はおそらく、この道を通って来たのだろう」
「王都……」
地図上に細く記される、一本の街道。「竜の城」があるとヴィルフリートに教えてもらった山からは、遠く離れている。湖までの距離の、いったい何倍あるのだろう?
「三日もかかるはずですね、こんなに遠いのでは」
あの長い旅を思い返し、アメリアはほうと息をついた。こうして地図で見ると、よくもここまで来られたものだと思う。
「……帰りたいとは、思わないか?」
思いがけない言葉に振り仰ぐと、ヴィルフリートは本を閉じて傍らに置き、アメリアの手をとった。
「王都には、ご家族もいるのだろう?」
「家族……」
確かにカレンベルク邸には、母と義父、それから弟がいる。しかしアメリアには、それはひどく色あせた、遠い記憶のように思えた。
「大丈夫です、ヴィルフリート様」
アメリアは微笑んで首を振った。
「アメリア、無理に笑うことは……」
「いいえ。……ヴィルフリート様は、私の家のことはご存じないのですね?」
「ああ。エクムントなら、多少聞いているかもしれないが」
アメリアは頷く。するとヴィルフリートがアメリアの腰を抱いた。
「聞かせてくれないか、君のことを」
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