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生田キリオ
原稿用紙とスマートフォン
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ようやく帰宅して、桐生光は重い足を引きずるように自宅の玄関扉を押し開けた。
滑り込むように入ると壁に背中を預け、先程起きた出来事を頭の中で繰り返す。先程部下から言われた言葉は、聞き間違いではなかった。
「…好き、だとか……冗談だろう」
職場の上司として、好いていると言う意味のはずだ。そう自分に言い聞かせる。
あの後すぐ到着した電車に飛び乗り、自宅に戻るまでの記憶が朧気だった。それだけ衝撃的すぎて、桐生はよろけながら玄関から廊下に上がる。
まっすぐリビングの奥にある寝室に向かい、スーツとシャツ、スラックスを脱いでハンガーに掛ける。シャツのポケットから落ちてきた包みを拾いベッドの上に放り投げ、下着の上からクローゼットに掛けていたバスローブだけ身に纏い、そのままベッドへ倒れ込んだ。
もしかしたら、拾われた原稿を読まれたかも知れない。そんな恐怖心が沸いてきてしまって、桐生は横向きになりベッドの上で膝を丸める。無意識のうちに取る体勢で、こうしていると自然と心が落ち着くのだ。
もしそうだとしたら、明日からどんな顔をして会えばいいのだろう。自分のような男が、…男性同士のラブストーリーを書いているなんて知られてしまったら。
それもモデルにしている張本人に。
「……」
はぁ、と溜息をついて瞼を無理やり閉じる。シーツの上をまさぐって、掴んだまだ中身のある包み紙を開いて頬張った。口の中に苦くて甘いチョコレートの味が広がっていく。
ただの後輩、部下でしかない、音無美影。それなのに、桐生は彼に対して淡い恋心のようなものを抱いていた。
× × ×
告白した瞬間に見た彼の顔を、忘れられる訳がなかった。
生田キリオと言う名前をまた見れる日が来るなんて、正直夢なんじゃないかと思った矢先の出来事。
子供の頃、実家の押し入れに入っていた薄っぺらい本。五歳上の姉貴のものだろうと分かっていたけど、中身が気になりページを捲った。
中には文章の羅列がびっしり並んでいた。読み進めるとそこには物語の世界が目の前に広がってくるような、広大なストーリーが続いていて何時の間にか夢中になっていた。
当時の俺は「R-18」の意味さえロクに知らないクソガキだったから、読めない漢字は読み飛ばし先へと進んでいった。辛うじて分かったのは、男Aと男Bがいて、そいつらは互いに好き合っていたと言うことだ。男の俺にも嫌悪感を抱かせないその文章に、時間も忘れて夢中になった。
そこには、甘酸っぱい青春があった。些細なことから始まるすれ違いがあった。そして、耽美なキスシーンやベッドシーンもあった。男同士の恋愛だって案外捨てたもんじゃない、そう思わせる文才と語彙力に憧れた。
意味もわからず悲しくなったり、嬉しくなったり、興奮したり、今思えばマセガキなんて言えたもんではなかっただろう。それでも俺が文章を書くきっかけになったのは、間違いなく「生田キリオ」の存在があったからだ。姉貴にバレて全部隠されてから、その名前は実家じゃ禁忌となった。姉貴も両親に内緒で買っていたが故の秘匿。それは正規の商業誌じゃなくて、素人が趣味で作った同人誌と言うものなのだと後になって知った。
「……あれからもう、十年かぁ」
生田キリオの正体なんて、今まで気にしたことがなかった。女でも、男でも、若くても年寄りでもどうでもいい。ただ、その人の小説が読みたかった。大学生になりネットを漁ってみても、どの本も絶版か高額オークションにかけられていて手が届きようがない。個人サイトは閉鎖していて、SNSのアカウントもない。最後にその名前が載った本の通販は、当時だと二年前…今から八年前で終わっていた。
桐生さんが、うちの会社に入る前だ。
憧れている上司は、それと同時に長い間探していた憧れの作家だった。こんな偶然、そうそうある訳が無い。それこそ誰かが書いた本にありそうなシチュエーションなのに、俺はずっと仮面を被り続けた。昼休み、原稿用紙に書かれていた「生田」という苗字を見て、もしかしてと思ったけれど言及するのが恐かった。そして帰り道に拾った彼の原稿にはっきりと書かれていた、その下の名前を見て確信する。桐生さんが生田キリオの名前をひた隠しにするなら、俺はそれに従うまでだ。その名前を昼休みに見かけてしまってから、ずっと心の中で小躍りしているけどここにきて自分の浅はかさが重く圧し掛かる。あの原稿用紙に貼り付けた、付箋でさえも。
「はぁ━━━っ……」
それでも、やっぱり時期尚早だっただろう。桐生さん本人は、恐らく予想できていない筈だ。溜息ばかりが出てしまう。どうにかしてキリオ先生の小説が読みたい気持ちと、桐生さんに迷惑を掛ける訳にはいかないと言う理性がせめぎ合う。いつものように出社して、いつものように挨拶して、いつものように…
話し掛けれるのだろうか?
「いや…無理、だよな」
どんな顔で会えばいい?何から話し始めればいい?そんことばかり、頭に浮かぶ。
俺は今まで、好きになったら異性同性関係なくアタックしてきたけどその度に玉砕してきた。今更隠せるものじゃないし、自分自身に正直でいたいから。もし、もしも…桐生さんと、両想いだったら?
ありえないとは思うけど、1パーセントくらいなら可能性としてはあるかも知れない。でも、そうだとしたら、果たして俺は…
桐生光の「部下」のままで、いられるのだろうか。
×
「ただいま」
玄関照明のスイッチを押し、うにゃーんと鳴きながら出迎えてきた愛猫の頭を撫でる。音無美影は頭の中が真白になりつつもどうにか帰宅し、玄関の内鍵を掛けた。なんであのタイミングで言ってしまったのか、自分で自分の言った言葉が信じられない。穴があったら隠れてしまいたい。
リビングに戻ってソファに座り、尚頭を抱えていた。
「はぁ…またやっちまった……」
自分の気持ちは嘘ではない。嘘ではないが、あの表情を見るからに拒絶されてしまうだろう。明日からどんな顔で仕事をすればいいのか、わからない。
以前惚れた上司への失恋は、比較的直ぐに立ち直れた。相手が結婚し、職場から居なくなったので吹っ切れたと言ってもいい。しかし、今回ばかりは立ち直れそうにもない。上司への憧れが、好意に変わる瞬間を実感した。
無防備ともとれる桐生光の素顔。眼鏡を外したその眼に、凪いだ海のように穏やかな表情に、一目惚れしてしまったから。
「おねこ…どうしよう」
首を傾げて飼い主(と書いて下僕と読む男)を見つめた小さいトラ猫が、片方の前足を上げて音無の腕に触れた。慰めているようにも見えるが、おねこは全く意に返さず遊んで欲しいだけである。しかしこの猫好きな男は、自分の飼い猫に対してだけは都合のいいように汲み取る術に長けていた。
分かってくれるか、と胸元に抱き寄せ頬ずりされ、その温かさが居心地よく目を細めるおねこ。
一方通行な思いは噛み合わないが、それでもお互いに居心地がいい。おねこはゴロゴロと喉を鳴らすと、小さい体を丸めて音無の胡座をかいた隙間にすっぽり収まる。その寝姿に癒されている間も、目標としていた小説公募の締切は刻一刻と迫っていた。
今は九月の半ば過ぎで、締切は十月末だ。あと1ヶ月もないのに、果たして完成するのか自分でも疑問だった。
「……困った時のおねこ頼みだな」
音無が何かに行き詰まった時、指針にしているのはおねこの尻尾だった。横に振ってYES、縦に2回打ち付ければNOを示すそのサインは、あらゆる時に音無へ勇気を与えてくれる。今日、桐生に話し掛けるきっかけだっておねこが作ってくれたようなものだ。まさか彼が猫好きだとは思わなかったが。
「なぁ、おねこ…もう諦めた方がいいか…?どっちも…」
自分は桐生光の部下である以前に、生田キリオのファンだ。ならばどちらの彼を尊重するべきなのか。ファンである以上、生田キリオに迷惑を掛ける訳にはいかない。しかし桐生光のことが好きなのは紛れもない事実だった。
おねこが尻尾を縦に二度振ったら、明日、彼に謝ろう。そして全部忘れて欲しいと頭を下げる。もしかしたら、既に忘れているかもしれない。それなら都合がいいのにと、ちくちく痛む心のままリビングの座卓に置いたノートパソコンを立ち上げた。桐生に対する想いが玉砕しても、小説は完結させたいと思っている。しかしモチベーションが続くかは分からない。そんな不安を抱えていた音無にはお構いなしに、おねこが突然起き上がった。
にゃ、と一声鳴いて振られた尻尾は、横に揺れている。
「……『いいえ』ってか…まだ、諦めるなってこと?」
「んにゃっ」
「そうは言ってもなぁ…うぅん…」
畳んでいたモニターを起こし、画面に映る文章入力アプリの文字列を見遣る。書きかけの小説は、まだ誰にも見せられるものでは無い。起承転結で言えば、まだ承に入り掛けた場面だからだ。小鳥遊瑛太という名の主人公が、今の音無と同様に自分の選択に迷っているシーンだった。
「…俺はどうしたらいいのかな……」
音無は空腹も忘れ、キーボードをひたすら打ち込む。しかし、頭の中には違う言葉がぐるぐると回っていた。「生田キリオ」と「桐生光」、ふたつの名前が。
「にゃーっ!」
「…んぁ?うわぁぁっ!おねこ!!」
『頭を抱えている小鳥遊の背後かうぇrちゅいおpあsdf』
気づけば、画面には意味不明な文字が並んでいる。我に返って削除しようとして、深く溜息をついた。
猫飼いにはよくあることだ。キーボードの上に乗られて、良く分からない文字を打たれる。考え事に耽っていると大体こうなってしまう。急いで復元して、今日は夜食を摂って寝ることにした。そして無意識に書いていた名前、桐生光の名前を慌てて削除する。明日のことは…明日、考えればいい。
× × ×
嫌な夢を見た。
目を閉じても眠ることができず、どうあっても目が冴えてしまう。こんな時、話し相手になってくれるような人間がおれにもいたら良かったのだろうが、生憎と思い当たる様な人物は直ぐに思い浮かんでこなかった。
SNSもやっておらず、目ぼしい友人もいない。ただ一人、それなりに会話ができたと言えば懐いてくれた部下ぐらいだ。しかし仮に連絡先を聞いていたとしても、こんな時間に電話しては迷惑になるだろう。それにいきなり電話して、驚かせてしまうのは目に見えていた。大人しく起き上がり、また眠くなるまで原稿を整理することにした。緩慢な動きでベッドから降りて、ビジネスバッグから原稿用紙を取り出しベッドサイドのデスクチェアに座る。折り畳まれて皺だらけの原稿用紙を拡げると、中には一枚の付箋が貼られていた。書き殴られたような文字は、音無の筆跡だと直ぐに分かった。
『もし良かったら、話し相手になってくれませんか』
その下に書かれていたのは、あいつの携帯番号だった。
学生じゃあるまいし、こんな方法で伝えなくてもいいのに。思わず笑ってしまって、付箋を剥がしパソコンデスクに貼る。古びたノートパソコンの電源を付け、トップ画面にパスワードを入れた、その時。
おれのスマホがけたたましく着信音を鳴らした。
「こんな時間に何なんだ…」
時計を見たら、とうに二十三時を回っていた。さらに驚くのは、画面に映った電話番号。
付箋に書いてある、音無の携帯番号と一致した。魔が差したと言うべきか、スマホを手に取り通話表示をタップする。
「……はい、桐生ですが」
『おっ、音無です、桐生さ』
「そうでなかったら出ていない」
『えぇっ!?』
「………要件が済んだのなら切るぞ」
『すいませ…寝てました?』
「…いや、これから原稿を書こうとしていた所だ」
不思議と怒る気力も失せて、音無の声にぽつぽつと言葉を返す。プライベートで電話をするのは何年ぶりだろう。微かに猫の鳴き声がして、おねこと言う猫と同居しているのは間違いないと分かった。
『すみません、猫がうるさくて…』
「もっと声が聞きたい」
『…は?』
「………おねこのだ」
『あっ、そうですよね…ほーら、おねこ。キリオお兄さんだよ』
「っ……!」
『ンニャッ』
「……」
かわいい。
それしか思い浮かばないおれの語彙力を赦して欲しい。それよりもキリオお兄さんって何だ。おれのことか…?
「…まだ、子猫だな」
『そうなんですよ、やんちゃ盛りで…』
「会いたい、と言ったら会ってくれるか?」
『うーん、どうでしょう…機嫌次第かなぁ。あっ、今すごくいい顔してますよ!』
いい顔?どんな顔をしているんだ?そこのところを詳しく話せ。いっそのこと
『写メってくれ』
「えっ」
『あっ…いや、何でもな…』
「写真撮ったら、送りましょうか?」
『…いいのか?』
「もちろんですよ!明日、メルアド教えてくださいね」
×
少し食い気味な桐生さんの声に、俺はおねこの肉球とハイタッチしていた。キョトンと首を傾げながらも、ぐりぐり頭を手のひらに押し付けて構ってほしそうにしている愛猫を撫でる。
急に電話して怒られると思ったけど、少しだけ安心した。
「あの、桐生さん」
『うん?』
「……、あのことですけど」
『どれのことだ?おれの話が読みたいとか…好きだとか何とか…』
「…桐生さん、今俺って言いました…?」
『ああ、別に…変なことではないだろ』
変などころか…普段の一人称が「私」な上に、丁寧な口調とのギャップが凄い。なんと言っていいか分からない。
スマホを握りしめる手の平が、少しだけ汗ばんできた。
「かっこいいです」
『は?なんだそれ』
「だって普段、桐生さんは…何と言うか、誰も寄せ付けないような喋り方するじゃないですか」
『それは職場だからだ…いたって普通だと思うが』
「それから、…桐生さんは…男同士の恋愛ってどう思います?」
『……聞きたいことがまた増えてるな』
「だって、いっぱい知りたいですから。桐生さんのこと」
『まったく、なんだってこんな時に……。おれは…人の恋愛事情に首突っ込むような野暮なことはしないし、する筋合いもないだろ。誰だろうと好きになったもんは口出しするべきでは無いと思ってる』
桐生さんの低くて聞きやすい声が、ダイレクトに鼓膜を震わせる。はい、としか返すことが出来なくて、もしかして今聞くべきなのかと息を大きく吸い込んだ。
「桐生さんは…好きな人、いますか」
『……』
『いる、って言ったら』
「……その、人は…」
『言ったら…おまえはどう思うだろうな……』
気づけば時計の針は日付が変わろうとしていた。頭の中が真っ白になって、無理だ、と呟いていた。急に涙腺が緩くなりだして、後から後から涙が零れて止まらない。桐生さんのことならなんでも知りたかったのに、いちばん知りたくない言葉を真っ先に聞いてしまうなんて思わなかった。きっと桐生光には心に決めた人がいて、俺なんかが入り込む余地は微塵もないのだろう。
『おい、音無』
「……っ…は、い」
『泣いてるのか?』
「泣いて、なんか…」
『あのな、おれは……おまえに、謝らないといけないことがある…』
「えっ?」
『気味悪がられると思われるだろうから、この先も言うつもりはなかったんだが』
正直聞きたくはなかった。きっと、あの告白の答えだろうと思った。でも気味悪い、ってなんだ…?
続く桐生さんの言葉に、少しだけ身構えた。もう振られたも同然だから、半ばヤケクソだ。
『……音無』
「はい」
『…おれが書いているのは…お前を…モデルにした小説だ』
???
「俺、もしかしなくてもキリオ先生のお話に出てるんですか?」
『……音無?』
今度は桐生さんが驚いていた。それにしても、いや、まさか……本当に、俺の知っている「生田キリオ」はこの人なのだろうか。本当にその人なら、憧れていた作家の小説に自分が出ているなんて夢のような話だ。
「…俺の姉貴、生田キリオの…アマチュア作家のファンで…俺もガキの頃から、その人の小説を読んでいたんです。昼休みに見つけた原稿用紙に書かれていたのが同じ苗字で、夕方拾ったら下の名前はキリオだったから…まさかとは思ってたけど…」
ぽつぽつと話していると、スマホの向こう側で息を飲む音が聞こえた。次いで聞こえたのは、何かを探っているような音だ。次の瞬間、桐生さんの口から出た言葉は…自分でも予想のつかない言葉だった。
滑り込むように入ると壁に背中を預け、先程起きた出来事を頭の中で繰り返す。先程部下から言われた言葉は、聞き間違いではなかった。
「…好き、だとか……冗談だろう」
職場の上司として、好いていると言う意味のはずだ。そう自分に言い聞かせる。
あの後すぐ到着した電車に飛び乗り、自宅に戻るまでの記憶が朧気だった。それだけ衝撃的すぎて、桐生はよろけながら玄関から廊下に上がる。
まっすぐリビングの奥にある寝室に向かい、スーツとシャツ、スラックスを脱いでハンガーに掛ける。シャツのポケットから落ちてきた包みを拾いベッドの上に放り投げ、下着の上からクローゼットに掛けていたバスローブだけ身に纏い、そのままベッドへ倒れ込んだ。
もしかしたら、拾われた原稿を読まれたかも知れない。そんな恐怖心が沸いてきてしまって、桐生は横向きになりベッドの上で膝を丸める。無意識のうちに取る体勢で、こうしていると自然と心が落ち着くのだ。
もしそうだとしたら、明日からどんな顔をして会えばいいのだろう。自分のような男が、…男性同士のラブストーリーを書いているなんて知られてしまったら。
それもモデルにしている張本人に。
「……」
はぁ、と溜息をついて瞼を無理やり閉じる。シーツの上をまさぐって、掴んだまだ中身のある包み紙を開いて頬張った。口の中に苦くて甘いチョコレートの味が広がっていく。
ただの後輩、部下でしかない、音無美影。それなのに、桐生は彼に対して淡い恋心のようなものを抱いていた。
× × ×
告白した瞬間に見た彼の顔を、忘れられる訳がなかった。
生田キリオと言う名前をまた見れる日が来るなんて、正直夢なんじゃないかと思った矢先の出来事。
子供の頃、実家の押し入れに入っていた薄っぺらい本。五歳上の姉貴のものだろうと分かっていたけど、中身が気になりページを捲った。
中には文章の羅列がびっしり並んでいた。読み進めるとそこには物語の世界が目の前に広がってくるような、広大なストーリーが続いていて何時の間にか夢中になっていた。
当時の俺は「R-18」の意味さえロクに知らないクソガキだったから、読めない漢字は読み飛ばし先へと進んでいった。辛うじて分かったのは、男Aと男Bがいて、そいつらは互いに好き合っていたと言うことだ。男の俺にも嫌悪感を抱かせないその文章に、時間も忘れて夢中になった。
そこには、甘酸っぱい青春があった。些細なことから始まるすれ違いがあった。そして、耽美なキスシーンやベッドシーンもあった。男同士の恋愛だって案外捨てたもんじゃない、そう思わせる文才と語彙力に憧れた。
意味もわからず悲しくなったり、嬉しくなったり、興奮したり、今思えばマセガキなんて言えたもんではなかっただろう。それでも俺が文章を書くきっかけになったのは、間違いなく「生田キリオ」の存在があったからだ。姉貴にバレて全部隠されてから、その名前は実家じゃ禁忌となった。姉貴も両親に内緒で買っていたが故の秘匿。それは正規の商業誌じゃなくて、素人が趣味で作った同人誌と言うものなのだと後になって知った。
「……あれからもう、十年かぁ」
生田キリオの正体なんて、今まで気にしたことがなかった。女でも、男でも、若くても年寄りでもどうでもいい。ただ、その人の小説が読みたかった。大学生になりネットを漁ってみても、どの本も絶版か高額オークションにかけられていて手が届きようがない。個人サイトは閉鎖していて、SNSのアカウントもない。最後にその名前が載った本の通販は、当時だと二年前…今から八年前で終わっていた。
桐生さんが、うちの会社に入る前だ。
憧れている上司は、それと同時に長い間探していた憧れの作家だった。こんな偶然、そうそうある訳が無い。それこそ誰かが書いた本にありそうなシチュエーションなのに、俺はずっと仮面を被り続けた。昼休み、原稿用紙に書かれていた「生田」という苗字を見て、もしかしてと思ったけれど言及するのが恐かった。そして帰り道に拾った彼の原稿にはっきりと書かれていた、その下の名前を見て確信する。桐生さんが生田キリオの名前をひた隠しにするなら、俺はそれに従うまでだ。その名前を昼休みに見かけてしまってから、ずっと心の中で小躍りしているけどここにきて自分の浅はかさが重く圧し掛かる。あの原稿用紙に貼り付けた、付箋でさえも。
「はぁ━━━っ……」
それでも、やっぱり時期尚早だっただろう。桐生さん本人は、恐らく予想できていない筈だ。溜息ばかりが出てしまう。どうにかしてキリオ先生の小説が読みたい気持ちと、桐生さんに迷惑を掛ける訳にはいかないと言う理性がせめぎ合う。いつものように出社して、いつものように挨拶して、いつものように…
話し掛けれるのだろうか?
「いや…無理、だよな」
どんな顔で会えばいい?何から話し始めればいい?そんことばかり、頭に浮かぶ。
俺は今まで、好きになったら異性同性関係なくアタックしてきたけどその度に玉砕してきた。今更隠せるものじゃないし、自分自身に正直でいたいから。もし、もしも…桐生さんと、両想いだったら?
ありえないとは思うけど、1パーセントくらいなら可能性としてはあるかも知れない。でも、そうだとしたら、果たして俺は…
桐生光の「部下」のままで、いられるのだろうか。
×
「ただいま」
玄関照明のスイッチを押し、うにゃーんと鳴きながら出迎えてきた愛猫の頭を撫でる。音無美影は頭の中が真白になりつつもどうにか帰宅し、玄関の内鍵を掛けた。なんであのタイミングで言ってしまったのか、自分で自分の言った言葉が信じられない。穴があったら隠れてしまいたい。
リビングに戻ってソファに座り、尚頭を抱えていた。
「はぁ…またやっちまった……」
自分の気持ちは嘘ではない。嘘ではないが、あの表情を見るからに拒絶されてしまうだろう。明日からどんな顔で仕事をすればいいのか、わからない。
以前惚れた上司への失恋は、比較的直ぐに立ち直れた。相手が結婚し、職場から居なくなったので吹っ切れたと言ってもいい。しかし、今回ばかりは立ち直れそうにもない。上司への憧れが、好意に変わる瞬間を実感した。
無防備ともとれる桐生光の素顔。眼鏡を外したその眼に、凪いだ海のように穏やかな表情に、一目惚れしてしまったから。
「おねこ…どうしよう」
首を傾げて飼い主(と書いて下僕と読む男)を見つめた小さいトラ猫が、片方の前足を上げて音無の腕に触れた。慰めているようにも見えるが、おねこは全く意に返さず遊んで欲しいだけである。しかしこの猫好きな男は、自分の飼い猫に対してだけは都合のいいように汲み取る術に長けていた。
分かってくれるか、と胸元に抱き寄せ頬ずりされ、その温かさが居心地よく目を細めるおねこ。
一方通行な思いは噛み合わないが、それでもお互いに居心地がいい。おねこはゴロゴロと喉を鳴らすと、小さい体を丸めて音無の胡座をかいた隙間にすっぽり収まる。その寝姿に癒されている間も、目標としていた小説公募の締切は刻一刻と迫っていた。
今は九月の半ば過ぎで、締切は十月末だ。あと1ヶ月もないのに、果たして完成するのか自分でも疑問だった。
「……困った時のおねこ頼みだな」
音無が何かに行き詰まった時、指針にしているのはおねこの尻尾だった。横に振ってYES、縦に2回打ち付ければNOを示すそのサインは、あらゆる時に音無へ勇気を与えてくれる。今日、桐生に話し掛けるきっかけだっておねこが作ってくれたようなものだ。まさか彼が猫好きだとは思わなかったが。
「なぁ、おねこ…もう諦めた方がいいか…?どっちも…」
自分は桐生光の部下である以前に、生田キリオのファンだ。ならばどちらの彼を尊重するべきなのか。ファンである以上、生田キリオに迷惑を掛ける訳にはいかない。しかし桐生光のことが好きなのは紛れもない事実だった。
おねこが尻尾を縦に二度振ったら、明日、彼に謝ろう。そして全部忘れて欲しいと頭を下げる。もしかしたら、既に忘れているかもしれない。それなら都合がいいのにと、ちくちく痛む心のままリビングの座卓に置いたノートパソコンを立ち上げた。桐生に対する想いが玉砕しても、小説は完結させたいと思っている。しかしモチベーションが続くかは分からない。そんな不安を抱えていた音無にはお構いなしに、おねこが突然起き上がった。
にゃ、と一声鳴いて振られた尻尾は、横に揺れている。
「……『いいえ』ってか…まだ、諦めるなってこと?」
「んにゃっ」
「そうは言ってもなぁ…うぅん…」
畳んでいたモニターを起こし、画面に映る文章入力アプリの文字列を見遣る。書きかけの小説は、まだ誰にも見せられるものでは無い。起承転結で言えば、まだ承に入り掛けた場面だからだ。小鳥遊瑛太という名の主人公が、今の音無と同様に自分の選択に迷っているシーンだった。
「…俺はどうしたらいいのかな……」
音無は空腹も忘れ、キーボードをひたすら打ち込む。しかし、頭の中には違う言葉がぐるぐると回っていた。「生田キリオ」と「桐生光」、ふたつの名前が。
「にゃーっ!」
「…んぁ?うわぁぁっ!おねこ!!」
『頭を抱えている小鳥遊の背後かうぇrちゅいおpあsdf』
気づけば、画面には意味不明な文字が並んでいる。我に返って削除しようとして、深く溜息をついた。
猫飼いにはよくあることだ。キーボードの上に乗られて、良く分からない文字を打たれる。考え事に耽っていると大体こうなってしまう。急いで復元して、今日は夜食を摂って寝ることにした。そして無意識に書いていた名前、桐生光の名前を慌てて削除する。明日のことは…明日、考えればいい。
× × ×
嫌な夢を見た。
目を閉じても眠ることができず、どうあっても目が冴えてしまう。こんな時、話し相手になってくれるような人間がおれにもいたら良かったのだろうが、生憎と思い当たる様な人物は直ぐに思い浮かんでこなかった。
SNSもやっておらず、目ぼしい友人もいない。ただ一人、それなりに会話ができたと言えば懐いてくれた部下ぐらいだ。しかし仮に連絡先を聞いていたとしても、こんな時間に電話しては迷惑になるだろう。それにいきなり電話して、驚かせてしまうのは目に見えていた。大人しく起き上がり、また眠くなるまで原稿を整理することにした。緩慢な動きでベッドから降りて、ビジネスバッグから原稿用紙を取り出しベッドサイドのデスクチェアに座る。折り畳まれて皺だらけの原稿用紙を拡げると、中には一枚の付箋が貼られていた。書き殴られたような文字は、音無の筆跡だと直ぐに分かった。
『もし良かったら、話し相手になってくれませんか』
その下に書かれていたのは、あいつの携帯番号だった。
学生じゃあるまいし、こんな方法で伝えなくてもいいのに。思わず笑ってしまって、付箋を剥がしパソコンデスクに貼る。古びたノートパソコンの電源を付け、トップ画面にパスワードを入れた、その時。
おれのスマホがけたたましく着信音を鳴らした。
「こんな時間に何なんだ…」
時計を見たら、とうに二十三時を回っていた。さらに驚くのは、画面に映った電話番号。
付箋に書いてある、音無の携帯番号と一致した。魔が差したと言うべきか、スマホを手に取り通話表示をタップする。
「……はい、桐生ですが」
『おっ、音無です、桐生さ』
「そうでなかったら出ていない」
『えぇっ!?』
「………要件が済んだのなら切るぞ」
『すいませ…寝てました?』
「…いや、これから原稿を書こうとしていた所だ」
不思議と怒る気力も失せて、音無の声にぽつぽつと言葉を返す。プライベートで電話をするのは何年ぶりだろう。微かに猫の鳴き声がして、おねこと言う猫と同居しているのは間違いないと分かった。
『すみません、猫がうるさくて…』
「もっと声が聞きたい」
『…は?』
「………おねこのだ」
『あっ、そうですよね…ほーら、おねこ。キリオお兄さんだよ』
「っ……!」
『ンニャッ』
「……」
かわいい。
それしか思い浮かばないおれの語彙力を赦して欲しい。それよりもキリオお兄さんって何だ。おれのことか…?
「…まだ、子猫だな」
『そうなんですよ、やんちゃ盛りで…』
「会いたい、と言ったら会ってくれるか?」
『うーん、どうでしょう…機嫌次第かなぁ。あっ、今すごくいい顔してますよ!』
いい顔?どんな顔をしているんだ?そこのところを詳しく話せ。いっそのこと
『写メってくれ』
「えっ」
『あっ…いや、何でもな…』
「写真撮ったら、送りましょうか?」
『…いいのか?』
「もちろんですよ!明日、メルアド教えてくださいね」
×
少し食い気味な桐生さんの声に、俺はおねこの肉球とハイタッチしていた。キョトンと首を傾げながらも、ぐりぐり頭を手のひらに押し付けて構ってほしそうにしている愛猫を撫でる。
急に電話して怒られると思ったけど、少しだけ安心した。
「あの、桐生さん」
『うん?』
「……、あのことですけど」
『どれのことだ?おれの話が読みたいとか…好きだとか何とか…』
「…桐生さん、今俺って言いました…?」
『ああ、別に…変なことではないだろ』
変などころか…普段の一人称が「私」な上に、丁寧な口調とのギャップが凄い。なんと言っていいか分からない。
スマホを握りしめる手の平が、少しだけ汗ばんできた。
「かっこいいです」
『は?なんだそれ』
「だって普段、桐生さんは…何と言うか、誰も寄せ付けないような喋り方するじゃないですか」
『それは職場だからだ…いたって普通だと思うが』
「それから、…桐生さんは…男同士の恋愛ってどう思います?」
『……聞きたいことがまた増えてるな』
「だって、いっぱい知りたいですから。桐生さんのこと」
『まったく、なんだってこんな時に……。おれは…人の恋愛事情に首突っ込むような野暮なことはしないし、する筋合いもないだろ。誰だろうと好きになったもんは口出しするべきでは無いと思ってる』
桐生さんの低くて聞きやすい声が、ダイレクトに鼓膜を震わせる。はい、としか返すことが出来なくて、もしかして今聞くべきなのかと息を大きく吸い込んだ。
「桐生さんは…好きな人、いますか」
『……』
『いる、って言ったら』
「……その、人は…」
『言ったら…おまえはどう思うだろうな……』
気づけば時計の針は日付が変わろうとしていた。頭の中が真っ白になって、無理だ、と呟いていた。急に涙腺が緩くなりだして、後から後から涙が零れて止まらない。桐生さんのことならなんでも知りたかったのに、いちばん知りたくない言葉を真っ先に聞いてしまうなんて思わなかった。きっと桐生光には心に決めた人がいて、俺なんかが入り込む余地は微塵もないのだろう。
『おい、音無』
「……っ…は、い」
『泣いてるのか?』
「泣いて、なんか…」
『あのな、おれは……おまえに、謝らないといけないことがある…』
「えっ?」
『気味悪がられると思われるだろうから、この先も言うつもりはなかったんだが』
正直聞きたくはなかった。きっと、あの告白の答えだろうと思った。でも気味悪い、ってなんだ…?
続く桐生さんの言葉に、少しだけ身構えた。もう振られたも同然だから、半ばヤケクソだ。
『……音無』
「はい」
『…おれが書いているのは…お前を…モデルにした小説だ』
???
「俺、もしかしなくてもキリオ先生のお話に出てるんですか?」
『……音無?』
今度は桐生さんが驚いていた。それにしても、いや、まさか……本当に、俺の知っている「生田キリオ」はこの人なのだろうか。本当にその人なら、憧れていた作家の小説に自分が出ているなんて夢のような話だ。
「…俺の姉貴、生田キリオの…アマチュア作家のファンで…俺もガキの頃から、その人の小説を読んでいたんです。昼休みに見つけた原稿用紙に書かれていたのが同じ苗字で、夕方拾ったら下の名前はキリオだったから…まさかとは思ってたけど…」
ぽつぽつと話していると、スマホの向こう側で息を飲む音が聞こえた。次いで聞こえたのは、何かを探っているような音だ。次の瞬間、桐生さんの口から出た言葉は…自分でも予想のつかない言葉だった。
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