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16-【ダメ見本】逃げ出してはいけません。

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 ふうっと浮きあがった意識のなかで、規則正しく刻まれる呼吸音を聞いた。深くて、安定していて、まるで打ち寄せる波の音みたいだ。聞いてるだけで落ち着く。
 この音を聴きながらもっと寝ていたかったのに、良質な睡眠を得たせいか、目蓋が自然と持ちあがってしまった。

 目を開けたものの室内は暗く、朝はまだ遠い。暗くてもここがどこかは、はっきりとわかった。大悟の部屋だ。それから、目の前の太い首すじと、この深い寝息は大悟のもので、昨夜、俺たちは……。

 全身がだるくて重い。なのに、気持ちは満たされて軽かった。腰の奥には、いつもより少し濃い違和感と、いつもより甘い満足感が纏わりついている。まだ何かが挟まってるような感覚と、酷使しすぎて少し腫れぼったいそこが面映ゆかった。


 さらりと清潔な素肌に昨夜の最後の記憶を引っ張り出してみたけど、どうにも思い出せない。
 あれ? もしかして俺、寝落ちしたのか?
 勝手に跨って、好きなだけイッて、ひとりで寝落ちした俺を、風呂に入れてシャツまで着せつけたのか、大悟は……。

 胸の奥にあたたかい感情がふわっと広がっていく。この感情も、昨夜感じた焦燥感と同じく、あまり馴染みはない。感謝にも似ていて、でもどこか違うその気持ちを、胸の奥でうっとりと味わいながら絡んでいた脚をそっと解いた。

 上半身を起こすと、こちらを向いていた大悟がころんと上向きになる。
 よく寝てる。精悍な顔は、瞳を閉じていてもやはりカッコいい。バスケをやめてから伸ばし始めた髪もだいぶ伸びて、男前度があがってる。

 そうして大悟の寝顔を眺めていたら、例の焦燥感が少しだけ胸に込みあげてきた。昨夜ほど激しいものじゃなくて、じわじわと胸を熱くしていくこんな感じは嫌じゃない。


 大悟と寝たことは後悔してない。あのときの俺にはああするほかなかったし、実際、予想以上に悦くて、それを体験できただけでも大悟と寝た価値はあったと思う。

 事後の羞恥が多少気がかりではあったけど、こうして隣にいても気持ちは落ち着いている。身体を重ねたことで、もう親友ではいられなくなったかもしれないけど、でもきっと俺たちなら、別の形になったって、ずっと一緒にいられる。
 見慣れない大悟の寝顔を眺める自分の視線に、俺はそんな確信を得ていた。

 でも、大悟は?
 大悟は目が覚めたらどうするだろう? 俺とセフレになってくれるんだろうか。

 大悟の反応を考えたら、少しだけ、腹の真ん中を不安が競りあがってきた。
 いや、大悟だって、寝入ってた俺の世話を焼き、俺の隣で熟睡してるんだ。俺と寝たことを後悔してるとは思えない。大丈夫だ。きっと。


 大悟とセフレになるって、どんな感じなんだ?
 大悟が目覚めたあとの、以前とは変わってしまっただろう関係に想いを馳せる。
 セックスフレンドって、セックスもする友達ってことだよな。いままでみたいに、ときどき会ってテレビを見たり、ぐだぐだしたりしながら、その延長上にセックスがあるって感じかな?

 俺がこれまで関係を持った男たちは、セフレとは違う気がする。

 茂兄とは、セフレというよりもセックスに関する師弟みたいな関係だった。家族に隠さなきゃならないタブー感はあったけど、そんなに重たい雰囲気じゃない。教えを請い、教授され、心置きなくじゃれ合いながら、あれこれ二人で試すような、そんな感じだった。

 兄弟とか、先輩後輩にも似た師弟関係。その表現が一番しっくりくる。茂兄の部屋へ通うのも、まるで楽しい部活気分だったんだ。


 うん、俺の考えるセフレとはちょっと違う。
 他の男たちも、そうだ。一夜限りの男のことをセフレとは言わないだろう。セックスはしても友人関係にはないし、そもそも互いに二度と会わないつもりでいるんだから、関係も何もない。
 まあ、知人関係にあったと後から知った田崎は例外だけど、ヤツとも二度は寝てないし、寝るつもりもない。ならやはり、セフレとは違うよな。

 そんなことを考えていたら、いまさらのことに気がついた。
 あれ……俺、大悟に『セフレになって』って、まだ言ってないんじゃないか?
 昨夜の大悟とのやり取りを、官能にまみれた記憶のなかから懸命に探る。
 そうだよ。確か、『カラダを鎮めて』とは言ったけど、肝心なお願いはまだ口にしてなかった。

 大悟が目を覚ましたら、ちゃんと言おう。セフレになってくれって。


 そこまで考えて、ふと、明るくなってきた窓に目が吸い寄せられる。朝陽が昇り始めたのか、カーテンの隙間から光が射し始めていた。

 あのときと似てる。茂兄との最後の日だ。『今日は特別』と言って茂兄がホテルをとってくれた。その翌朝が、こんな風景だった。
 カーテンの隙間から朝陽が射し始めたばかりの、まだ暗い室内で、茂兄は普段は吸わないタバコをベッドに腰かけて吸っていた。その背中がとても寂しそうだった。

 茂兄は、仕事の関係上転勤が多く、ひとところに長く留まることは珍しい。俺に声をかけ、別れを告げたように、引っ越す度にセックスパートナーを変えている。
 これまで何度、こんな朝を迎えたんだろうと思ったら、その寂しそうな背中に俺までせつなくなってしまった。本当は寄り添って慰めたかったけど、『もう触れない』と約束したばかりだったから我慢したんだ。


 そうだった。最初から離すつもりで繋いだ茂兄の手すら、実際に離すのは寂しくつらかった。
 セフレでも同じなんだろうか。その手を離すときは。

 一般的に、セフレの一方に恋人ができたら、セフレの関係は解消となるだろう。
 当然だ。友人の恋人に対して不誠実ではいられないからな。
 じゃあ、そうなったあとは?
 セックスする関係を解消して、友人に戻れるなら戻るし、もしかしたら、そうじゃない場合もあるのかもしれない。


 え、それって、……大悟とも?
 大悟と俺がセフレになった場合もそうなのか?
 大悟にもし恋人ができたら、セフレの俺は、当然のこととして大悟から離れないといけない?

 ……もしかして、俺、間違ったんじゃ……。

 嫌な予感に、空っぽの胃がぎゅっと締めつけられる。痛む鳩尾に手をやり撫でるけど、そんなことで治まる様子はなかった。
 これ以上はもう考えたくないのに、冴えていた頭だって白く濁って拒絶してるのに、一部の思考だけがとまらない。
 俺は、親友として離したくなかった大切な手を、いつか手を離す前提のセフレとして繋ぎ直そうとしてるのか?
 そんなの……っ!


 さっきまで嫌な感じはしなかったあの焦燥感が、いきなり大きく膨らみ吹き荒れた。胸の奥で起こったその勢いが、熱くて、痛くて、ひどく苦しい。

 大悟の寝顔を振り返る。まだぐっすり眠ってる。
 極端に無口で、普段は何を考えているかわからないこの男が、昨夜は俺の求めに応じて抱いてくれた。

 中学のときからずっと、この男の隣の静かな空間が俺の居場所だった。何も言わないし、何も聞かれない。そんな安心感が、俺のすべてを許してくれているようで、堪らなく心地よかったんだ。
 他者との違いに息苦しさしかなかった学校と、いつバレるかと気が気じゃなかった家庭。そんな狭い世界のなかで、唯一俺が楽に息をつける場所だったんだ。


 失いたくない。
 大悟の手を離すなんて、嫌だ。
 でももう、大悟とは身体を重ねてしまった。
 きっと、いままでと同じように親友として手を繋いではいられない。

 だからって、当初の予定通り言うのか?
 大悟が起きたら『セフレになって』って?
 いつかは恋人にその場所を譲って、背を向けるセフレに?
 離したくないこの手を、離す覚悟で?

 そんなこと……言えるわけがない。


 俺が絶望的な気分で結論に達したとき、大悟がふたたび寝返りを打った。

 どうしよう。大悟が起きる。
 いや、寝息は深い。まだ起きない。
 でも、起きるのは時間の問題だ。

 そこまで考えた次の瞬間、俺はひとつのことしか考えられなくなっていた。

 急げ。いますぐ逃げるんだ。
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