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第二十七章 天然というのも罪ですね
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「よう来てくれたわい。元気しとったかね」
「……はい」
午後四時四十五分。
玄関に通され曖昧に私は頷いた。
「……んなこつお嬢さん。お通夜に行って来たよな顔しとるぞ」
「おじいさん」頬の筋肉がこわばっていて、笑おうとしてもぎこちないものになった。「挨拶させて頂いても宜しいでしょうか。お祖母さんと、お父さんとお母さんに」
「あんたならいつでも歓迎やわ」
――久々の桜井家。
懐かしさを私たちは嗅覚で記憶する。フロイトが言うには五感のなかでも視覚の働きが一番大きいんだとか。玄関横の四角いごみ箱も、大きなたぬきの置き物も変わらない。
一ヶ月二ヶ月で家がそんな変化をするはずがないのだ。
だが人間関係の破壊は、一秒足らずだ。
お仏壇の前に正座すると、吹き荒れた胸の嵐がすこしおさまるのを感じた。
ろうそくに手を灯し、線香に火を点け、焼香台に添える。――すっかり慣れた動作だけれど、慣れた気持ちでなんか行いたくなかった。
和貴の、
「お祖母さん。お父さん。お母さん……」
――僕は、応えられない。
「お邪魔します。今日は、天気がよくって、雪も降らない日で」
あの目が胸に刺さる。
合わせる手が、震える。彼は――
私のことなんか、見ていない。
「――ごめんなさい」
なんとお声をかけたらいいのか、いまの私には、分かりません……。
あの瞳を思い出すと一筋が頬を伝う。
「お嬢さん」
「はい」私は座布団から降りた。いつも傍で待っているおじいさんは、なにか仕度をしていた様子。台所から流しの流水音を聞いた。
「茶ぁいれたさけ、こっちに来て飲みんしゃい」
膝のスカートを整えつつ手の甲で目許を拭った。「おじいさん、お茶を淹れられるんですね。知りませんでした」
「たわけ。そんくらいできるわ」
強い言葉にぎょっとしつつも、そうですね、と頷いて立ち上がった。
悲しみから解き放つにはときに強さが必要だった。
驚きや怒りの類は効果がある、だからわざとそれを与える――
水野くんが一組に乗り込んだときも、
かつて私を、……突き放したときも。
笑ってるのが合ってるよ、と優美な笑みで語れる彼を彷彿させる。
そんなところもお孫さんはしっかり引き継いでいます、おじいさん。
台所にはポットが買い足されていた。それなりに日々が過ぎたことを思い起こさせた。いつも、お湯をやかんで沸かしていた。
和貴は家でもスポーツドリンクばかりなのだろうか。
うまく回らない頭で、和貴が糖尿病にならないかが心配になった。
「――あ」
お茶に合うものを持参していた。
私は隣の椅子に置いた袋から一個を取り出し、おじいさんの前に置いた。「お茶受けにいかがでしょう」
「……新造のぶんは残っておるんか」
「しばらく甘いものは見たくもないそうです。……味見にさんざん付き合わされたので」
そーかそーか、と顔を皺だらけにして笑ったと思えば、物珍しげに摘まみ、
「ばあさんはこんなハイカラなもん作らんかったぞ」
表と裏、上と下。
手に取ったどんなものでも、くるくる手首を返し確かめるおじいさんの挙動は和貴そのもので――私の胸をすこし痛くさせた。
「ありがとう。……いただくわ」
大切なものを頂いたように、丁寧に開封するおじいさんを見ていて、はやくマキの元へ行かなければと思う。
「もう、行くんか……」
名残惜しそうにおじいさんが言う。
おじいさんが和貴だったらよかったのに。
身支度を整える間、おじいさんは終始無言だった。いつもなら朗らかにご近所さんの話とかをするのに、顎先を摘み考えこんで、……こころあらずといった様相だった。
「突然お邪魔してすみませんでした」
意識して大きな声で私は頭をさげた。
虚を捉えていた瞳が動いた。「……あんたならいつやって歓迎やわ。それから、お嬢さん」
「はい」
気をつけの姿勢になった。
昔のひとの眼力は若人をすくませるなにかがある。
顎先から指を離すと、おじいさんはなにか瞳に憤りを燃え立たせ、
「わしゃあ、孫を殴りつけたほうがいいがか。そんだけ、教えてくだされ」
泡を吹かせる一言を吐いた。
「いえ、これは和貴には関係ありません。単に、感傷的になっちゃっただけで……」
「うむ」
まずい。
どう見ても納得していない。
「明日、……母と東京に行くんです。一人暮らしする部屋を探しに……」
「元々住んでおったおうちには住まんがか」
「木島の家に私の居場所はありませんから」口にしてみると不思議と割りきれていた。「既に関係の切れた私がうろつくのもどうかと思うので、……近辺は避けたんです」
受験する大学も西関東寄りにした。
何故だか、こういう母にも祖父母にも明かさない事実を、おじいさんになら明かせる。
私よりも沈痛な面持ちのおじいさんは、本当のおじいさんみたいだった。
ほかのひとにされるのは苦手なたぐいの踏み込まれた質問をされても、嫌とは感じない。
特別な存在と感じつつ私は笑いかけた。「まだ寒い日が続きますね。……お元気で」
「あんたも達者でな」
凍える外気に身を投じもう一度後ろを確かめる。
微笑んでくれた。
猫のようにわずかに目を細める、下瞼の動き方も、愛しいひとそのものだった。
真冬を燦然と照らす、おじいさんは太陽であり続けた。
私は小さく手を振り、限りないひかりに別れを告げた。
「……はい」
午後四時四十五分。
玄関に通され曖昧に私は頷いた。
「……んなこつお嬢さん。お通夜に行って来たよな顔しとるぞ」
「おじいさん」頬の筋肉がこわばっていて、笑おうとしてもぎこちないものになった。「挨拶させて頂いても宜しいでしょうか。お祖母さんと、お父さんとお母さんに」
「あんたならいつでも歓迎やわ」
――久々の桜井家。
懐かしさを私たちは嗅覚で記憶する。フロイトが言うには五感のなかでも視覚の働きが一番大きいんだとか。玄関横の四角いごみ箱も、大きなたぬきの置き物も変わらない。
一ヶ月二ヶ月で家がそんな変化をするはずがないのだ。
だが人間関係の破壊は、一秒足らずだ。
お仏壇の前に正座すると、吹き荒れた胸の嵐がすこしおさまるのを感じた。
ろうそくに手を灯し、線香に火を点け、焼香台に添える。――すっかり慣れた動作だけれど、慣れた気持ちでなんか行いたくなかった。
和貴の、
「お祖母さん。お父さん。お母さん……」
――僕は、応えられない。
「お邪魔します。今日は、天気がよくって、雪も降らない日で」
あの目が胸に刺さる。
合わせる手が、震える。彼は――
私のことなんか、見ていない。
「――ごめんなさい」
なんとお声をかけたらいいのか、いまの私には、分かりません……。
あの瞳を思い出すと一筋が頬を伝う。
「お嬢さん」
「はい」私は座布団から降りた。いつも傍で待っているおじいさんは、なにか仕度をしていた様子。台所から流しの流水音を聞いた。
「茶ぁいれたさけ、こっちに来て飲みんしゃい」
膝のスカートを整えつつ手の甲で目許を拭った。「おじいさん、お茶を淹れられるんですね。知りませんでした」
「たわけ。そんくらいできるわ」
強い言葉にぎょっとしつつも、そうですね、と頷いて立ち上がった。
悲しみから解き放つにはときに強さが必要だった。
驚きや怒りの類は効果がある、だからわざとそれを与える――
水野くんが一組に乗り込んだときも、
かつて私を、……突き放したときも。
笑ってるのが合ってるよ、と優美な笑みで語れる彼を彷彿させる。
そんなところもお孫さんはしっかり引き継いでいます、おじいさん。
台所にはポットが買い足されていた。それなりに日々が過ぎたことを思い起こさせた。いつも、お湯をやかんで沸かしていた。
和貴は家でもスポーツドリンクばかりなのだろうか。
うまく回らない頭で、和貴が糖尿病にならないかが心配になった。
「――あ」
お茶に合うものを持参していた。
私は隣の椅子に置いた袋から一個を取り出し、おじいさんの前に置いた。「お茶受けにいかがでしょう」
「……新造のぶんは残っておるんか」
「しばらく甘いものは見たくもないそうです。……味見にさんざん付き合わされたので」
そーかそーか、と顔を皺だらけにして笑ったと思えば、物珍しげに摘まみ、
「ばあさんはこんなハイカラなもん作らんかったぞ」
表と裏、上と下。
手に取ったどんなものでも、くるくる手首を返し確かめるおじいさんの挙動は和貴そのもので――私の胸をすこし痛くさせた。
「ありがとう。……いただくわ」
大切なものを頂いたように、丁寧に開封するおじいさんを見ていて、はやくマキの元へ行かなければと思う。
「もう、行くんか……」
名残惜しそうにおじいさんが言う。
おじいさんが和貴だったらよかったのに。
身支度を整える間、おじいさんは終始無言だった。いつもなら朗らかにご近所さんの話とかをするのに、顎先を摘み考えこんで、……こころあらずといった様相だった。
「突然お邪魔してすみませんでした」
意識して大きな声で私は頭をさげた。
虚を捉えていた瞳が動いた。「……あんたならいつやって歓迎やわ。それから、お嬢さん」
「はい」
気をつけの姿勢になった。
昔のひとの眼力は若人をすくませるなにかがある。
顎先から指を離すと、おじいさんはなにか瞳に憤りを燃え立たせ、
「わしゃあ、孫を殴りつけたほうがいいがか。そんだけ、教えてくだされ」
泡を吹かせる一言を吐いた。
「いえ、これは和貴には関係ありません。単に、感傷的になっちゃっただけで……」
「うむ」
まずい。
どう見ても納得していない。
「明日、……母と東京に行くんです。一人暮らしする部屋を探しに……」
「元々住んでおったおうちには住まんがか」
「木島の家に私の居場所はありませんから」口にしてみると不思議と割りきれていた。「既に関係の切れた私がうろつくのもどうかと思うので、……近辺は避けたんです」
受験する大学も西関東寄りにした。
何故だか、こういう母にも祖父母にも明かさない事実を、おじいさんになら明かせる。
私よりも沈痛な面持ちのおじいさんは、本当のおじいさんみたいだった。
ほかのひとにされるのは苦手なたぐいの踏み込まれた質問をされても、嫌とは感じない。
特別な存在と感じつつ私は笑いかけた。「まだ寒い日が続きますね。……お元気で」
「あんたも達者でな」
凍える外気に身を投じもう一度後ろを確かめる。
微笑んでくれた。
猫のようにわずかに目を細める、下瞼の動き方も、愛しいひとそのものだった。
真冬を燦然と照らす、おじいさんは太陽であり続けた。
私は小さく手を振り、限りないひかりに別れを告げた。
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