碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第二十三章 振られ、ちゃった……

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 高校を出た大通りを進み国道を過ぎてあの丘のある公園に隣する坂をのぼる。女子のコースは坂を下るが男子はさらに向こうの山を迂回して市街に戻ってくる。
 それに比べたら負担は軽い。
 私の足は、重い。
 前に走っていた子たちがとうとう、坂道の頂点の向こうに消えて見えなくなった。
 真夏の炎天下でも無いのに路面上を逃げ水が流れ、蜃気楼の遠さだった。日に晒されたアスファルトを蹴っても蹴っても、靴底が砂地に吸い込まれる負荷をただ私の足に与えるだけだった。
 ドンケツだ。
 ドンジリ。
 紗優は運動部でも通用する運動神経の良さだし、ついぞ六月まで現役だった小澤さんは言わずもがな。先に行ってと伝えたが、どのみち待つに耐えない遅さだったろう。
「うあ。キツ、い」
 心臓破りの坂をようやくくだりにかかる。その勢いに任せ直前を走る子に追いついた。足を痛めやすいのが下りだと知ってはいるがこの速度では痛めるにまで至らない。
「やっだあ! 真咲せんぱいちょーバッテバテじゃーん」
「ま、ね……」
 ドベ2の石井さんにそう言われる有様だ。会話をする体力も惜しい。ワーストスリー以降は離れて坂道の根元に及ぶ。頑張れば追いつけるだろうか。
 完走するので、やっとだ。
 完走という単語に、さっきの和貴の発言が思い出される。
 ……よく分からないけれど。
 和貴は一位を獲れなければさっきのあの子たち全員とデートをする。
「男子、もーゴールしとる頃やろねえ」
 遠い鉄塔あたりを視線でさらい石井さんはそう言う。この坂のうえの一帯は団地が多いが車が無ければ厳しいエリアで、自転車を乗るとしたら行きか帰りの片方が地獄だろう。
「やっだーせんぱいてばそぉんな顔せんとぉー」どんな顔をしているのか、石井さんは私の顔を見てけらけら笑う。「和貴なら一位に決まっておるってぇー。やって足ちょー速いもぉーん」
 それは私も知っている、しかし。

 緑高はおろか緑川一帯を見回してもライバルなど不在と言われる、水野くんが居る。

『貴様は負ける覚悟をしておけ。去年の記録をぶち抜いてやる』
 ……ああ言ったマキが手を抜くと思えない。

 それにしても私がリタイアしてはお話にならない。
 下り道の終盤にかけて、最後から三番目の子とどんどん引き離される。競歩のひとにも勝てないだろう。
 これでも力の限りだった。

 下田先生がストップウォッチを止める電子音を聞く。スタートから一時間以上が経過。タイムなんて計る価値も無かったろうに。
 テントのしたで団扇をあおいでいた宮本先生からお疲れとペットボトルを手渡されるも、すぐ口をつけられる状況に無く。脈拍が胸郭を叩いて酸素不足を訴える。隣で喉を鳴らして実に、美味しそうに石井さんがミネラルウォーターを飲んでいる。
 テントの影でも油断すれば倒れ込みそう。
 長机に手をつき、一旦は安定した呼吸を取り戻そうとした。ペットボトルはその机に置く。
「あ」
 それが、かっさらわれる。
 抗議と驚き混じりで見あげたところ、ぱきぱきとペットボトルの蓋を開いてくれていた。
 無愛想に突きつけられる。
 急ぎはや私は補給をする。
 ……生き返る……。
「ほんじゃー真っ咲せんぱぁーいおつかれんこーん! マキ先輩もまったねぇー」
 ぷっはーっと豪快に飲み終え元気に校舎へと駆け出していく。……走る余力を全然残してそうな。ひょっとして石井さん。

 私に合わせてペースを落としてくれた?

「おせえから日が暮れるかと思ったぞ……」
 蓋まで閉めてくれるマキが、彼なりの心配を口にするも。
 テントの影のなかでチープに光る、
 その首にかけられたメダルの色が私は気になった。
「マキは、……何着だったの」
 震える声で訊くとマキは事も無げに言う。

「一着」

 グラウンドまで続くこの道がどうしてこんなに長い。うまく動かない思考が、走りの進まないこの足が、もどかしい。
 終わったら全員教室で待機してるはずなのに、グラウンドに近づくほどひとが増えるのが嫌な予感を駆り立てる。
 校舎から身を出して見ているひともちらほらと。
 人々の興味を引くなにかが、あの中心でいま、展開されている。
「おい。どうした」
「か。和貴が……!」
「あれか?」
 呼吸を乱さず私に並んだ彼が、ひときわ目立つ人だかりを指さした。
 人垣をだ。
 横に長くて肝心なところが見えない。ジャンプしても無意味だった。
「すみません。ちょっと、通してください」
 声を張っても敢え無く弾き返される。集団に一個人はあまりに無力だった。
 舌打ちを聞いた。
「どけ」
 肩を押さえられ、片手でかき分ける彼についていく。
 瞬く間に集団の先頭に出られた、そこには――

 ほかに走るひとは、居なかった。
 彼を、除いて。
 一見、居残りの罰でも受けているのかといった印象だが、砂埃にまみれた世界に、天上の雲の切れ間からひかりが降り注ぐ。画家が抽象画として描く類の、清廉で潔白な光景でもあった。
 あまりにも異様だったのは。
 いつもの、規則的な腕の動きがなりを潜め。
 からだの軸が不安定だ。お年寄りの運転する自転車と変わらない。
 言葉に態度に携える彼の軽快さが欠片もそこには無く。
 まっすぐひとを見据えるクセを持つあの真摯な眼差しが跡形も無い。足元しか見ていないのか。或いは見えないのか。時折顔を左右に振る行動は、……苦しみの只中にいる、自分を奮いたたせている。
「ちょっと」
 左を向けばさっきの彼女たちが、最前列に居た。全員だ。
「止めて。もういい。私の負けでいい」
 和貴は走れる状態なんかに無い。
 それを。なにをこのひとたちは傍観しているのか。
「そりゃあ、和貴が言い出したことだけれど……和貴がっ、」
 胃の最も低いところから湧く、もどかしさを私は言葉にして放った。
「あんまりご飯食べれてないってことくらい。やつれてることくらいそんなの、見てれば分かるでしょうっ!」
 ……ああ。
 気まずげに視線を彷徨わせる彼女たちに訴えたところで、なんの打開にもならない。
 動くしかない。
 動きかけたのがしかし、
 強く、肘を引かれていた。
「……タスク」
 諭すように彼は顔を横に振る。
「責めないであげてください。……吉田さんたちは止めたんです。それでも、走るのは、彼の意志です」
 やや険しいタスクの視線を追い、再び和貴に目を戻す。
 顔面は蒼白。
 滴る汗が目に入るのか、乱暴に腕で拭う。
 あんなふらついた走りを私は知らない。
 いつ、倒れてもおかしくない……。
 不安に胸が掻きむしられる。
「あと一周やで」
 タスクの隣で、坂田くんが黒のG-shockで時間を確かめる。さらに隣の水野くんにもいまさら気づいた。「タオルとか用意しといたほうがいいやろな。蒔田、いつでも出てけるよう用意しておけよ」
「ああ」マキの澄んだ声が頭上から降る。
 おいここを通せっ、と水野くんが言えば野次馬は道を開く。……男の子の声のほうが効果的みたいだ。
 感情的にならず彼らが対応する間に、私は息を整え、すこし落ち着きを取り戻した。
 タスクの握力の強い手が、離れていた。
「よく見ておいてくださいね。都倉さん……」
 和貴が大きく転んだ瞬間を私の目は捉える。
「あっ……」
 間に合わなくても。
 彼の元に、行きたい。
 痛々しい彼の、支えになりたい。
 前のめりにからだが動いた。

「守りたいものがあるために何度でも立ち上がる彼の姿を」

 この場に縛りつける一言だった。
 和貴は、膝を立て、また顔を振り、決意を固めるように再び、走りだす。
 見守ることしか、できない。なんの力にも、なれない。
 無力だった。

「……タスク。すこし黙っておけ」

 タスクが微笑するのを空気で感じた。

「あと、半周ですね」

 タスクのカウントに、
 震える手を私は組み合わせた。

「がんばって」
「がんばれえ」
 見ていた観衆から次々声があがる。
 この場が彼を応援する空気に変わっていく。
 強く、祈った。

 和貴。がんばって……!

 こころで叫んだそのとき。
 確かに、和貴はこちらを見た。
 汗をしたたらせ苦しげに顔を歪めていたのが、口許で花のように、笑った。
 力を取り戻したかのように、いままでの苦しみが嘘だったみたいに、俊足を、見せつける。
 私の知る和貴がそこには、居た。
 ゴールまでを一直線に駆け抜ける。
「和貴っ!」
 私が叫んだこの声は、通してくれっ、と戻ってきた水野くんの大声と、湧き上がる歓声にかき消された。

「……ったく。保健室直行やなあ。おい、歩けるか桜井」
 ゴールするなり倒れこみかけたのを、支えたのは水野くんと坂田くんだった。
 両脇からマラソン選手みたいに抱えて歩かせている。
 校舎から様子伺いするひとびとは変わらずだが、周辺の見物客は、減った。
 マキは、隣に並ぶ私ごとタスクに右手で制されて、倒れこむ和貴を支えることができなかった。
 頭からタオルを被った状態の和貴は、喋るのも苦痛なのか。いまだ肩で荒々しく息をし、坂田くんの問いに頷くことで返す。
「嘘つくな。足元ふらっふらやんかこのあほんだらが」
 悪態をつく水野くんに返す体力も無いらしい。
 周囲を見回す坂田くんの目線が、ふと私のところで止まった。あっちゃあ、と彼は顔をしかめた。「せっかくのべっぴんさんが、どえらいことになっとるやんか……これつこうて」
「はりはと」
 顔を背け目元を拭う。
 後ろポケットから取り出されたポケットティッシュはちょっと生温かった。
 マスターにしたことを坂田くんを通してお返しされてるみたいだった。
「ら。らいじょうぶなのかずぎ」
「心配要らん」水野くんは和貴に顔を傾け、軽く睨んだ。「単なる運動不足と体力不足。病気でもなんでもない。休んどけば落ち着く」
「ある種の病気かもしれませんがね……」
 正面に回ったタスクが、腕を二人の肩に回しているために自由のきかない和貴を、タオルで美容師みたいに拭い、そして首にかけさせた。
 いまだ顔色が青ざめている。こめかみから汗を二筋三筋垂らし、肩を上下させる和貴が澄んだ眼差しで捉えるのは、
「桜井くん……」
 約束の相手が、待っていた。
「いっ、つに、……する?」
 自分から持ちかけ、顔を歪ませて笑う。
 声が乾いて、かすれていた。さっきペットボトル一本を丸々飲み干したはずが。
 ――和貴が言うのは、デートのことだ。
 想像するだけで胸が絞られる。
「桜井くん、あたしたち、な……」
「あーなんかかっこわるっ!」
 他の子が殊勝に言いかけたのを吉田さんが遮った。
 ロングのストレートの黒髪を強く払い、和貴のほうに呆れ目線をよこす。
「あんなんこっちから願い下げやわ。……桜井くんにはがっかりした。あんっまりにも無様やもん。ファンなんか辞めるわ、ほんで蒔田くん一本にする」
「どしたが千津子(ちづこ)、あんた……」
「これ以上つき合っとられん。二度とあたしたちには関わらんといて。じゃーね」
 吉田さんがまた髪を払い、そう言い捨てると他の子たちも次々戸惑いながらも追いかける。「待ってぇな千津子」「ちょっといまのどういうことっ」と。
 呆然と残された我々と彼女たちとの間に冷たい風が吹き抜ける。
「振られ、ちゃった……」
 か細い和貴の声にどっと笑いが起きた。
「おま。ほんまアホか」
「そう落ち込むなよ。最後までオレに勝てんかったんは気の毒なこった」
「聞きましたよ桜井くん。また啖呵を切ったんですってね」
「俺は……」顎先を摘み、一人、なにか考え込んでいたマキが顔を起こした。「宮本に報告してくる」
「あ。私も荷物取ってくる」輪から離れていたマキに私は近づき、彼らのほうを振り仰いだ。「保健室行ってそのまま帰るでしょう、和貴」
「いや」
 唐突に額に温かさが加わった。
 人間の皮膚だ。
 そのまま私の前髪をかきあげる。前頭部のカーブを確かめる手が、手首から続く肘が、前を向く私の視界を妨げていた。
 やや大胆な行動にも関わらず、彼は自分を嘲る感じで薄く、笑った。

「……おまえは来るな。保健室に行け」

 否定的な言葉にくるまれた、解放の意図だった。

『好きなところへ行け。好きなやつのことを考えろ』

 ――かつて彼の語った自由が私の脳内にオーバーラップする。

 反対の手で私にペットボトルを返し、添えていた手で私の前髪を二三回押さえつけて彼は、坂田くんを呼びつけた。「おい坂田。行くぞ」
「はいよー」
 早歩きのマキに、スキップしながら追いつき、なにか余計なことでも言ったのか。思いきし叩かれていた。いってえなおんまーと甲高い声がこっちまで聞こえた。
「はーすっごい疲れた」背後の和貴に意識が吸い寄せられる。「……頭んなか白くなったよ」
「危ないこと言わないで」
 笑いながらも表情に余裕が無い。私は持っていたペットボトルを手渡す。
「サンキュ」
 上下する喉仏を見て、失念していたことを思い出した。
 もともと私が飲んでいた、つまりこれって間接――
「ぷっはあ」飲み終えたひとの言うことはいつもこうだ。タスクの右肩越しに、持って、という素振りを示し、タスクは左手で受け取った。
 私には返さなかった。
「それでは行きましょうか桜井くん。……休まれたほうがいいです」
「へーきだってば」
「だいたいおまえ、体重落としすぎ。こんなんやとなにやっても持たんぞ。ちったぁ長谷川に肉分けてもらえ」
「水野くん。面接では口を滑らせぬようご留意くださいね」
「そだタスク。ほんとにちょっと太ったんじゃない?」
 二人に抱きかかえられた体勢のまま、和貴は、蒟蒻畑のCMみたく脇腹あたりをちょいちょいリズミカルにつまむ動きをする。
 くすぐったいのか。タスクは珍しく眉を歪めつつ、
「……こんなことを彼は言っていますがね。都倉さん。彼が四位なのは僕に負けたからですよ。いわば負け惜しみです」
 言うねえ、と和貴が片目をすがめる。
 三位以内はメダルが貰えるらしく、水野くんの首からは銀の。マキには金でタスクには銅のメダルがぶら下げられていた。
「文化部なのに全校で四位……すごいねタスクって」
「あーあ。僕も女の子に褒められたいよ」私の率直な感想に対し、和貴がわざとらしく頭を伏せる。「……こんな野郎じゃなくって女の子を両腕に抱えたい」
「……タスク。和貴を蹴りたいんだけど、どうしたらいい?」
「どうぞご自由に」
 唐突にタスクが和貴を離す。
「わ」
 残っていたペットボトルの水を全て、体勢を崩した和貴に浴びせかける。
「なっにすんだよぉ」
 洗いたての子犬みたく顔をぶるぶると振る。
 どうやら一番被害を受けたのは和貴を支えていた、ジャージの上半身に濃い色の染みを作った水野くん、らしく。
「こら長谷川ぁ」
 追いかけにかかる。
 悠然と、笑みを残しタスクは校舎のほうへと走る。
 和貴も、僕もとばかりに追いかけにかかったのが、――

 胸元を押さえ、急に足を止めた。

 頭から血の気が引いた。

「ちょっと和貴、大丈夫!?」
 上半身を屈めていた彼の前に回り、支えに入ろうとした。
 ふ、と笑いにこぼす息を感じた。
 俯かせていた顔が、いたずらに赤い舌を、出した。
「……からかっただけ」
「お。怒るよ本当に……」
 言葉とは裏腹に、泣いているひとの声になった。
 どれだけ心配をかければ気が済むのだろう。
 彼がいまにも倒れるのではないかと思うだけで、気を失いそうだった。
「真咲さん。ごめんね……」
 徐々に顔を起こす彼の瞳を覗けば、そこには。
 久方ぶりに見る和貴のやわらかい笑みが、待っていた。
「変なことに巻き込んで。……心配かけて、ごめん……」
 ああ。
 和貴……!
 許されることならば抱きついていた。
 もっとも私は怜生くんではないのだからそんなことが許されるはずもなく、ただ、気持ちを押さえこんで、彼の腕を支えた両手を離すだけだった。
 つと彼は校舎のほうを見やり、さきほどよりは落ち着いた足運びを見せる。
 私は、彼から離れた。
 ガラス窓の校舎のなかから、水野くんとタスクが、こっちを見ている。
 和貴は彼らを見つめ返したまま口を開いた。
「……ホントにヤバいなって思ったときにね、……聞こえた気がしたんだ」
 微笑を口許に乗せ、彼は振り返る。

「真咲さんの、声」
 
 颯爽と中庭を突っ切る彼の、落ち着いた背中を見送りながら、私は押さえ込んでいた涙腺を崩壊させた。
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