碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第二十二章 おまえがそうするように、俺も選んでいるだけだ

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 人は一人では生きられない、とはよく言ったものだ。

 実際、誰とも関わりを持たずにこの社会を生き抜くことはできない。社会とは人間の集合体だ。蛇口を捻って出る水で口をゆすぐにしても電源を指一本で入れられるパソコンを使うにしても、これらの対象物には私の知らないところで様々な労力がかかっている。いわばひとの労力を介した媒体だ。単に私が経路にプロセスを知らないだけであって。

 与り知らぬところで人と人とが繋がっている。

 間接的でなく直接的な接触という意味ではどうだろう。誰かと一切関わらずに、例えば一言も会話をせずに生きていくのも、人里離れた山奥に一人住まうのでも無ければ実現不可能に思う。店員さんと会話をするのだって立派なコミュニケートだ。田舎に住まう老人は、そこに流れるときが穏やかなせいか、のんびりした話し方をし、穏やかにひとと接触する。おざなりにはしない。本屋やスーパーや通りがかりの酒屋さんでの立ち話を見かける率は東京よりも断然高い。
 私は緑川と東京を比べてばかりいる。
 二つ以上物事が揃えば比較するのが人間の性分に思う。
 対象はなにも物質に絞られず――人が二人以上集まれば、己と比較するのは必定の理。

 顔がいい、
 頭がいい。
 明るい、
 人当たりがいい。

 私のほうが。

 あの人のほうが。

 その対象範囲が、生まれて間もなき頃は養育者のみだが友人に知人に広がることにより、素知らぬ他人を。情報社会の発展により見も知らぬ芸能人などのことをあれこれと語る。
 時には、さも自分が当事者かのように。
 他人と比べることで成り立つ、自分が自分であるという感覚。他者から与えられる、自分への評価。内省しつつ丹念に顧みる、自己分析の結果。――これら一連を咀嚼し、摺り合わせ、自分という人間の特性を規定しながらに私たちは生きていく。なるほどこのようにして社会的アイデンティティは形成されるのだ。

「手が、……止まってんぞ。どうした」

 ここが図書館だという遠慮を知らぬ声量に、この場にふさわしからぬ黙考に囚われていた私はしいっと指を立てて注意を喚起する。
 かすかに、しかし彼にしては十分なほどに微笑んだ。
 右眉があがるのは愉快だというシグナル。
 街路樹が秋の色を深める、十月も末のことだった。

 マキと図書館に来ている。

 女の子の目を引くマキに告白され、人気を集める和貴と一悶着を起こした。
 直後マキに抱きかかえられ、運ばれたという、……妬ましがられる状況に陥った。
 一連を目撃したひとは少なかったのだが、人の口に戸は立てられない。
 マキと、和貴のファンの両方を刺激した。
 同学年だけでなく、違うクラスの、名前も知らない女の子に睨みつけられるのも少なくはない。

 私は、他者から見ればどういう人物なのかというと、

 親が、離婚している。
 この地に根付かないよそ者であり、
 突然進学希望に変更した異端者でもある。
 人気者でもべっぴんさんでも好感度の高い人物でもない。

 この主観に見ても宜しくない要素で満載だ。だから、私をよく思わない人間が多くてもなんら不思議はない。

 私も、彼女たちに嫌われる以前に、二人の間で定まらない自分が嫌いだ。

 学園祭後間も無くして中間試験が開始した。紗優は推薦の準備も重なり、連日寝不足でマニキュアを塗る暇も無い。なるべく、紗優の前では明るく振舞った。
 一組に受験生は数名おり、休み時間も勉強する雰囲気ができあがっているのには助かっていた。授業と授業の間はそのようにして過ごし、学校が終われば市の図書館に直行する。しようと思えば、見も知らぬ人々からの評価など回避できるというものだ。
 私の、他人の目に映る現状はなに一つとて変わらない。
 ただ一点。

 彼もついてくるようになったのを除けば。

「帰るぞ」
 いつも、閉館のぎりぎりまで粘る。集中していると時間を忘れ、彼の、一声で教室のうえを片付けることもしばしだ。出遅れた私は、かばんにノートとテキストの端っこを曲げぬよう急いで詰め込んだ。
 私たちが最後の退室者だった。
 さっきまで座っていた窓際のシートに、後ろ髪を引かれる思いがする。

 季節を隔てて状況は変わった。マキの座る私の隣席は――和貴の、指定席だった。

『まさーきさん、おっはよー。今日も早いねえ』

 誰のこころの奥底までも照らす、まばゆい笑顔だった。
 屈託もない明るい、声がこの胸に響いた。
 真夏のひまわりとともに消えた。
 急かされる前に、私はこの感傷に別れを告げ、せっかちに出ていく広い背中に追いついた。

「……おまえ、生物で受験するのか」
 紺色の画用紙に銀の粉を吹きつけたような夜空の下を並んで歩く。ブレザーだけでは肌寒くなってきた。
「そう、だけど……」
「あの点数はまずいな」
「……分かってるよ」
 貼りだされた模試の結果を彼は言っている。一教科だけでも上位に食い込めば40を下回る日本史と生物の偏差値が丸裸にされるシステム。どうにかして頂きたい。
 一番どうにかしなければならないのは私の偏差値の下限だ。
「……日本史は暗記が中心だからあまり力にはなれんが、生物なら教えてやってもいいぞ」
「ほ、んと?」
 ぱっと気持ちが明るくなる。救われた思いがした。
「ああ。不得意分野はなんだ」
「遺伝と細胞と……あとは」
 みなまで聞かず彼は眉を歪めて笑った。「一番抑えとかなきゃならん分野じゃないか」
「それも、分かってる。簡単なのはいいけど応用が駄目で……いつも大問を落とすのが痛いよ」
「演習ありきだ。応用を落とすのは基礎がなっていないということと、時間を取られる焦りが関係している。点を取らなきゃならないという苦手意識が、実力を出す際に足かせとなるんだな……練習を重ねることでこのような気持ちの問題はやがては解消できる。パターンを覚えこませることだ。慣れれば、表やグラフを見ただけでどんな問いだかがひと目で分かるようになるさ」
 勉強してもなかなか目立った進歩を得られず。
 足踏みするようなもどかしさと、ときどき苛立ちが私の内面を支配する。
 私は口には出さないけれども、日頃の言動で悟ってか。
 彼は、私の思考を先回りする。「……焦ったところで効率はあがらんぞ。時間が足りないのは事実だ、しかしできることなど限られている。成果などすぐに現れるものではない。諦めずに続けていけば、……ある日、突然にな。分かった、と思える瞬間が来る。……自分を信じることだ」
 自分のことでもないのに。
 確信を持って言う彼に私は驚きを込めて伝えた。「すごい、……自信だよね」

「諦められないのなら信じるしかないだろ」

 冷静な横顔を見せていた彼が、こちらに視線を流し、さらりと言う。

 勉強の話をしているのに、不覚にも心臓にときめきを覚えた。

 そして何気なく緑川駅を通り過ぎた。そこで別れていたはずのマキはいつも、私の家まで見送る。別にいいのに、と言ったところ、

『文句は言わせん。俺の目的は果たせるし、おまえの安全も保証できる。一石二鳥じゃねえか』

 駅員さんの視線を浴びつつ堂々と言ってのけるものだから従うほかなかった。
 それ以上なんか噂にされたら、たまったもんじゃない。

「ここで大丈夫だから。……ありがとう」
 裏手から家に入ることは彼も知っているが、正面玄関に差し掛かった辺りで私から声をかけた。

「ああ。じゃあな」

 諦められないなら信じるしかない。
 でも私は。

 ――信じる価値など無い人間だ。

「マキ」

 聞こえるか聞こえないかの声だけれど。
 マキは即座に、止まった。

「あの。私は、……マキが思ってるようなひとじゃない。酷い、人間だからその……関わらないほうがいいよ」

 皮肉にも、以前に和貴が伝えた台詞がこぼれた。
 彼は、どんな気持ちでこれを言ったのか。
 どんな表情でこれを伝えたの、だろうか。

 私の胸のうちを占めるのは、たった一人だと分かった。

 それなのに、これを続けるのは、裏切り続ける行為だ。

 自分も、相手をも。

 友達とか仲間とか、……好きだったひととか、そんな言葉で、コンクリートで道路を舗装でもするようにならしてはならない。

 慣れては、いけない。

 振り返るマキは、なんの表情も浮かべず、待つ姿勢を。こちらの話を訊く構えを……接近しながら、示している。

「私は、マキの気持ちには応えられない。……知ってる? 私がこれからどこに行くのか。だから、」
「だから、どうした」

 目を細める彼の口調は、いままでにないほどに優しかった。
 挙がった彼の手が、……ブレザーの丈のちょうどな袖口が、手首が。まっすぐ、頭頂部に降りてくる。
 ぐちゃっと掴む。と思ったら、
「要らん気を回すな。こんの頭でっかちが」
「ちょっと髪ぃ」痛い。拳でぐりぐりと押さえつけられてる。「背が、縮むってば」
「縮みゃあいいじゃねえか」
「ひっどい。ばかぁ」
「確かに。……馬鹿以外の何者でもない」

 押さえつけていた力が、ようやくして、抜かれる。
 ものすごく乱れただろう髪のセットを、丁寧に、整えてくれる。

「好きなところへ行け。好きなやつのことを考えろ。……自由を束縛する趣味は俺には無い。干渉したがる趣味ならあるがな。つまり、」

 躊躇うように言葉を切る。
 どうしたのだろうと顔をあげれば、切なげな眼差しと、かち合った。

「おまえがそうするように、俺も選んでいるだけだ」

 マキ……。

 ぺちん、と頬に手を添えられた。
「痛っ」軽い平手打ちだこんなの。
「ちいせえ脳みそで悩んでんじゃねえぞこの出遅れ受験生が。……勉強しろよ」
 ひとの気にしてることを。「わ、かってるよっ」
 いったいどんなひどい顔を作らせてるのか。
 両手で挟み込んで喉の奥で笑った。
 用を済ませれば即立ち去る。薄い闇を浮かび上がる彼のシルエット。

 温められた頬を押さえてぼんやりと見送っている場合ではない。

 ぬるい自分に喝を入れた。そして、正面玄関を開く。

 以降の行動はマキも知らない、――事実だ。

「いらっしゃ、あー……真咲か」
「ただいま」
「おかえりなさい。寒かったやろ?」
「へーき。お弁当ちょうだい?」
「一郎によろしゅうな」
 強面の祖父からカウンター越しに手渡される。大きな風呂敷は塾通いのためだと思われてるのかも。店内のお客さんに頑張ってねえと声をかけられた。ありがとうございますごゆっくりぃくらい私も愛想笑いをするようになった。
 家の脇に置いた自転車が鈍くひかり、今宵も私を待っている。
 ライトを点けると途端にペダルが重たくなる。私は勉強道具ももろもろ前かごに突っ込み、サドルをまたいだ。

 これから行く先は、

 ――和貴の家。
 
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