碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第十九章 当たり前やろが

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「……私の話は以上だ。さて、質疑応答の時間に入ろう。質問のある方には、挙手を願う」

 こういうときには口を閉ざし様子伺いをするのが私という人間の性分なのだが。

「そちらの――そうだね、制服を着ているきみ。どうぞ」

 信じられないことに手が挙がっていた。

 彼の、声が聞きたいという気持ちを私は抑制できなかった。
 助手の人がマイクを持ってこちらに来る。その間にテーブルをたたみ、席を立つものの。

 なんにも考えてやしなかった。

 冷や汗が出る。脇の下から手の内側から。喉の奥が乾き、水分を欲する。

 ――『柏木慎一郎』が、私を見ている。

「……都倉といいます、本日は貴重なお時間を下さり、ありがとうございます」頭を下げる。「ふ。フロイトが診察した患者の症例に、……焦げたプディングの話をした女性がいたと思います。その症例につきまして是非、教授の口から説明賜りたいと……」
「ルーシーのことだね」マイクが離れる。助手さんが変な目で私を見てくる。「彼女のケースは、フロイトが催眠を放棄して自由連想法を編み出す契機でもあった。……うん、各症例の話が今回は足りなかったね。きみ、座って構わないよ」
 おとなしく座る。
 それにしても。
 
 賜るってなんだ。

 変な質問で恥をかいた気分の私を含め、柏木慎一郎は聴衆に語り始める。

「ルーシーとは」
 フロイトが治療した患者として知られている女性だ。

 彼女は住み込みで家庭教師の仕事をしている。雇い主は妻を亡くした男性で、家族は女児が二人。一家の身の回りの世話をする人間は彼女以外にもおり、彼女はその女性たちから爪弾きにされているのではないかと悩んでいた。
 そんな折に、遠方に住む実母から手紙が届く。封を開こうとする彼女に、――

「だめ、いま読んじゃだめえ」と子どもたちが飛びついて手紙を取り上げる。

 きっとお誕生日のお祝いの言葉だわ。手紙は誕生日までおあずけよ、と。

 ルーシーの誕生日は二日後に迫っていた。
 なんて、可愛い子どもたちなのだろう。
 こんなにもなついてくれていることが、彼女には嬉しかった。
 ちょうどその時、焦げた匂いが立ち込めた。子どもたちが焼いていたケーキが焦げてしまったのだ。

 以来、その焦げた匂いが鼻について離れない。

 ――あなたは、家の主人を愛しているのですね。

「フロイトは彼女の気持ちを見抜いた」

 柏木慎一郎は資料も手元のなにも見ていない、聞く私たちだけをじっくりと眺めている。「先ほどの理論に当てはめると――子どもたちが可愛いと思った時、ルーシーに、子どもたちの母親になりたい、という気持ちが生まれた。押し込めていた彼が好きだという気持ちも同時に。だがそんな気持ちは持ってはならないと、気づかぬうちに彼女はそれらの想いを抑え込んだ。……抑制しようと思うほどに燃え上がるのが恋心というものだよ」

 淡々とした声でどきりとする発言を挟む。

「相対する気持ちが結びついたのが、ケーキが焦げたその時だった。言うなれば、ルーシーは彼が好きだと認めることへの苦しみを、鼻の匂いに代替することで解消していたのだよ。……治療についてはいくつかの過程を経て収束を見たのだが。その後の彼女の話を知っているかね」

「いいえ」マイクが既に離れていたけれどもつい声に出して答えた。
 それを一瞥してから柏木慎一郎は前方に向き直る。

「最後の分析から二日後に、ルーシーはフロイトの元を訪れる。まるで別人だった。一切の悩みをなくしたように、晴れ晴れとした表情をし、自信に満ち溢れていた。フロイトは思う。これはひょっとして、家の主人との恋が成就したのではないかと思いきや、」

 ――見込みはありません。それだからといって不幸ではないのです。

「あなたはまだその父親を愛していますか、とフロイトが訊くと……」

 ――ええ愛しています。でもただそれだけです。

 自分ひとりで好きなことを考えたり感じたりするのは自由ですから。

「ルーシーの言葉はとても印象的だ。心の重荷から解き放たれ、あるがままに現実を受け入れている。……この話を読んだ時に、私はなんとも清々しい思いがした。上手くいかない状況も、自分の気持ちも、認められたからこその開放感を、彼女は得られたのだろう。もしかしたら、」

 風が吹き抜けるような心地よさだったかもしれないね。

 柏木慎一郎が、私に向かって、微笑みかけていた。
 そのときを思い返してだろうか、
 涼やかな、風の抜けるような笑みで。

「……さて、ほかになにか質問はあるかい? 心理学に関わらず、この大学のこと全般でも構わないよ」

 それは、ごくわずかな時間だった。
 対象をほかに戻す。

 そうだ彼は私ばかりを見るのが仕事ではない。
 私のなかに聞きたいことは山ほど残っている。
 それなのに。
 分かっているのに――

 私の鼻をつく匂いはひとつもなかった。
 あったらそれがもしかしたら離れなくなったかもしれない。

 * * *

 森のなかに赤いベンチがひとつ。
 空を森を映す鏡の湖を間に置き。
 対峙して向こう岸にもうひとつ。

 緑と赤の色彩に歩を止めさせられた。
 私はそのひとつに腰掛ける。

 脱力感のほうが強かった。

 いきなり現れ――
 私があなたの子です、
 などと名乗れるはずもなく。

 見てみたかった。
 会いた、かった。
 確かめたかった。

 私の内的な問題がそれだけでは解消されるはずもなく。
 己の手のひらを眺める。この薄い皮膚の裏に赤い血が流れる。俗な言い方に頼れば『私には彼の血が流れている』。
 しようとしたことは達成した。だが著しく無力だった。私が私であるという解法は得られず――近頃、父が夢に出てくる。木島義男に肩車をされて歩いた、高い所から拝んだ景色の断片がリプレイされる。近所にあった公園、あのジャングルジムはいまもあるだろうか。犬に吠えられ私を抱えお父さんが息切らせて走った、あの犬は生きているだろうか。
 知らぬ間に意識せぬうちに物事は流れていく。
 既視できるかいかんに関わらず。
 受け入れられるか否か、精神だけが問題なのだった。

 トイレに行きたいときにトイレが夢に出てくるという。ならば父の夢は、

 私にとってなにを意味する。

 ストレートに、
 会いたいという、渇望を、
 欲望を押し隠す精神をこそ?
 そしてこれを直視するのが人間に必要な勇気だと語った。

 私の、実父が。

 私の知らない、私を知らない、父を父とみなすのはどうなのだろう。
 父と呼ぶべき養育をしてくれたのは違う人間だった。
 ここから町田まで二時間足らずで会いに行ける。
 路線図を見上げ計算が働いた自分がつくづく嫌になった。
 迷惑に決まっている。迷惑に――

 唐突にプリーツの膝が迫る、
 私は頭を抱え込んでいた。

 はっきりした意志を持ってきたのが。
 なにを、こんなところで思い悩む。泊まったホテルから家に電話をしたばかりだがまた、電話したほうがいいだろうか、
 不安を感じているだろううちの家族は。

『まさーきさん』

 どうしてだか猛烈に思い出される。
 こんな風に思い悩む私のことを見つけてくれた、
 あの彼のことが、

「きみ」

 空想が現実と化すのを容易に認められない。
 だが私の聴覚が拾うのは、
 知っている、人物の、声だった、
 正確には昨日の昨日まで知らなかった、厳密には私という遺伝子を生み出した生命体が。
 芝を踏みしめる、靴音は素早く、
 こちらに、迫り、

「具合でも悪いのかい」

 夢ではなく現実に、
 現れでた、
 使い込まれたでも手入れの行き届いた磨かれた革靴の先、プレスのきいたパンツ、膝の頭に添えた右の手、シミひとつ許されなさそうな、ジャケット――

「だっ、」

 生まれいでた私は背中をしたたかぶつけた。
 驚いたようにやや眉があがる、開いた瞳もろとも元の落ち着きを戻し、

「……その様子だと大丈夫そうだね。体調がすぐれないようなら医務室に案内しようか」
「いえ、けッ、結構ですっ」
 結構のけで声が裏返った。
 泡を食ったこちらを認め。
 口の端のみで微笑し、柏木慎一郎は私の右側に――三日前に似た行動をした彼とは違い、やや離れ、腰を下ろす。
「眺めのいい場所だろうここは。昼間を外せば音もしない、思索に耽るには格好の場所でね――僕もよく来るんだ」
 言葉通り、私がいてもいなくても同じことをしただろう所作だった。かばんをさりげなく右に置くのといい。
 行動の一連を直視する勇気を持たない私は、視界の隅で動向を追うだけで、正面から顔を動かせなかった。
 本来は透明かもしれないが、湖底の水苔によりか森の映写によりか青緑色に規定された湖に鴨の群れが泳ぐ。水面にすすーっと線を描く。後ろに小さな何匹もが続く。
 親子だろう。
「……柏木教授が臨床心理士を志されたのはどのような理由があったのでしょうか」
「准教授だよ」ややも笑って柏木慎一郎は言う。「先生でいい、堅苦しくなくて構わない」
 微笑みを絶やさず、穏やかに映る横顔は、またも、重なって見えた。
 一つの場所を好きだと明かした彼に。
 仮に。
 柏木慎一郎にもうすこし早く会っていたとしたら、和貴を好きになった私はファザコンにあたるのだろうか。

 ――和貴を好きに、なった?

 自分から出た言葉に慄然とした。

「都倉さんといったね。関わる契機は人それぞれだ、どこに向かうのかも将来的になにになるのかも。自分なりに興味が湧くものがあるというのなら、その気持ちを大切にするといい」

 様子を伺う目的を持っての行為。
 けれどもそれを感じさせない、落ち着いた――迫力や強要とは無縁の、花が開くのを自然に待つことのできる、大人の眼差しが私に注がれる。

 母はこのひとを愛していたのだ。

「僕の両親も親戚一同も医者一家でね」私がある程度知っていることを見越してだろう、誘導する方向性が感じられる。「幼い頃から外科医になるべくして育てられた」
 私は彼の予想する質問をする。「反対されませんでしたか」
「想像通りだよ。……向こうでドクターの資格を得たのちに僕は希望を叶えた。……日本では不思議と、最初から臨床心理士を目指す人が殆どだね。米国などでは他の業種を経験してからその仕事に就く人も多いのだが」
 フロイトも元々は神経科医だ。
「いずれも必要である仕事には変わらないが、僕は目に見えないものを――無意識という実態のないものを科学的に追うほうがどうやら性に合っている。形の無いものこそに関心がそそられるというのかな……解法も結論も様々ではあるから」
 柏木慎一郎は医学部を卒業後にアメリカで精神科医の経験を積み、それからして東京心理大学に入り直し、臨床心理を学んだ経歴の持ち主だ。

『それが。お母さんのせいでその道を諦めようとしとって』――これは母の、言葉。

「夢の実現と引き換えに、失ったものはありませんでしたか」

 向こう岸に目をやる。
 対面する赤いベンチ――さきほどまで誰もいなかったそこには男女一組が座っている。私たちと異なるのは関係性だ。男性の身振り手振りが大袈裟で、女性が口に手を添えて笑っている。

「無いといえば嘘になるな」

 心なしか皮肉げに笑い、鼻から口の端にかけて筋が刻まれる。
 その遠く見る眼差しは、過去を懐かしんでいるように思えて、

「柏木先生。わ、たしっ」

 向き直ろうと座り直したのがいけなかったのか。

 ――どうして、見てしまったのだろう。

「ご結婚、……されているんですね」

 勢いづいたものが削がれた。
 代わりに浮かぶ失望を押し隠し、私はそう、口にした。

「ああ」視線に気づき、膝から軽く手を浮かせる。「授業の間やカウンセリング中は外すようにしている。僕のパーソナルな情報は治療の妨げになることもあるからね」

 ――薬指に光る、家庭の証に。

「……お子さんはおられるのですか」
「いや、いない」

 私があなたの――

 言いたくなる衝動を抑え、膝に添える手に力を込めた。「柏木先生、色々お聞かせくださりありがとうございました。電車の時間がありますので、私はこれで」

 頭を下げる。
 荷物を手に、その場を立つ。

 あまり見ることはできなかった。
 されどそれだけ確かめれば、充分だった。

 彼の手は、恐ろしいほどに私のそれと似ていた。

 細くて長めの指、第二関節がやや太い。扁平な男爪。スーツの袖から覗いた、やや突き出た骨の感じといい。

「なあ。もしかしたらきみは――」

 私のこころが作り出した幻聴だったのか。
 その声を背に私は進む。

 後からあとから涙が頬を伝う。

 声を大にして言えたら……私があなたの子ですと。
 また会えることがあるかは分かりませんが、どうか、お元気で。

 振り返りもせず立ち止まりもせず、滲むキャンパスをあとにした。
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