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第十八章 明日という日を逃したら、多分私は一生後悔します
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「泊まってけってさ」
電話を終えた和貴が台所に戻るなりそう言ってくる。
「や、帰るよ、家に……」
「帰りたくないんでしょう」
心臓にどきりときた。
透明でいろを持たない瞳に、すべて見透かされてるような気がして。
「……じーちゃん、真咲さんのおじーちゃんと飲んでんの。スッカリ出来上がっちゃってるってさ。電話、真咲さんのおばーちゃんからだったよ」
一瞬威圧するかの真剣さが見間違えだったかのように。柔和な笑みに彼は戻り、「一人でさせちゃってごめんね?」と隣に来た。
狭いシンクに並ぶと私の右腕と和貴の左腕がぶつかりそうだ。
「ううん。ごちそうになっちゃったの私だし。あそこの泡ついたの流してくれる?」
「イエッサー」
おどけて敬礼なんかする。その肘を左に避ける。
私はすこし笑いながら彼に問いかける。「その意味って知ってる?」
「うんにゃ」蛇口を自分のほうに傾けながら和貴。
「Yessirだよ。言葉通りにYes, sir.を一つにした単語で、軍隊の兵隊さんが上官に応えるときに使うの。確か、陸軍だったかな……」小皿の裏っかわにソースの汚れが。スポンジでごしごし。「Sirって知らない男性に呼びかけるときにも使えるの。男の人の敬称だからね」
その小皿を受け取り「知らんかった。ほんなら今度からアイアイサーにするよ」
話の中核を理解していない和貴に私は笑った。「だからAye, aye, sirはね……」
「うん?」
こんな風にお喋りをしながらも、左から右への流れ作業が驚くほどに捗った。
お風呂まで頂き、「それじゃ寝られんでしょ」と和貴のだぶだぶなパジャマをお借りし、新品の歯磨きセットを頂戴し、二階の和貴の隣の部屋に通される。
お布団を敷くのを手伝ってくれた。
なんだかいたせりつくせりで恐縮する。
ずいぶんと気が利くし。
敬意混じりの気持ちでちら見すると、
「もし一人で寝れんようやったら遠慮無く言って? 添い寝したげるから」
「ううんぜんぜん平気」
きっぱり言い切ったせいか。
和貴は頭に手をやりながら部屋を出ていった。「おやすみなさい」
「……おやすみなさい。和貴」
ひとの家は自分の家とは違う匂いがする。……すこし、埃っぽい。締め切られた独特の押し入れに似た匂い。この畳の一室は、ひょっとすると元は和貴のお母さんが使っていた部屋だろうか。和貴の部屋を知らないから不定だけれども。勉強机がある。以外に目立った物の無い。ポスターを貼ったテープの跡が、シールを剥がした痕跡が木枠に残る。
机のうえに目覚まし時計がある。時刻は、……十時になりかけ。
いつもの私なら勉強をする時間帯だ。
道具も場所も揃っている、のに。
――落ち着いて聞いて。真咲。……あなたの父親は柏木慎一郎。
どう落ち着けというのだ。
母の言葉がめまぐるしく脳内を巡りだす。
リセットが必要だった。
換気をしよう、部屋も、こころも。
スリッパが用意されていた。ベランダの手すりが拭き掃除されていたのか、触っても綺麗だった。室内よりも外気のほうが涼しい。見える緑川の町並みはうちと同じ種類だけれど交通量の多い道路が無いので車の音がしない。
静けさだった。
高層ビルのたぐいも見当たらない。それはこの町のすべてにおいてだった。一階建て二階建てがほとんど。まれに背の高い建物があっても五階程度の。
ネオンのけばけばしさとは無縁のこの町は、宇宙のきらめきを極限まで浮かび上がらせ、見たこともない、手を伸ばせば届きそうな満天の星空を与えてくれる。町田ではこのような空は先ず、拝めない。
私の悩みなど、宇宙を漂う星屑に比べればちっぽけなものだ。
一見するとゴーストタウンに見えなくもない住宅街、あのなかでひとが生きている。明かりの点いた窓は少なく、暗い窓の奥で人々が休んでいる。
私の知らない沢山のひとが。
それぞれに悩みや苦しみ、痛みを抱えて。
そう思うとするも、私は、項垂れた。
自分が何者であるかも分からない。
本当の父親の顔すら知らないのだ。
「真咲さん……」
すると声がした。公園で私を引き止めてくれたあの声が。
顔を傾ければ。
同じく音を立てぬようベランダに出たのだろう。和貴の部屋から通じるベランダの端に、身を乗り出すようにして和貴が立っていた。
「眠れんのっ?」
普通の声量で和貴が訊くから私は慌てて右端に移動した。一般にご老人の就寝は早い。
心中を理解してか片方の肩だけをすくめる。「じーちゃんまだ帰っとらんから気ぃ遣わんでいいんに」
「そうなの?」
「ん」
深く息を吸い、一メートルほどの空を隔てて向き合う和貴。
いつかの桜がマキを愛でていたというなら、今宵は月が彼を愛でている。
互いに部屋の大きな明かりを消したせいか。ほのかな月のひかりのみが彼の存在を照射する。薄闇の中でも彼の髪をまたたかせ、少女のような輪郭を浮かばせる。
こちらを向く彼の口許はわずかに緩み。長い、びっしりと生えたまつげが影を作るもその奥の瞳は不可思議に星よりも瞬いていて。
目を逸らすことも、まばたきですらも、叶わなかった。
なにも言わずにこちらの一挙一動を見守る、
なんだかその眼差しにも沈黙の限りにもいたたまれなくなり、
「そ。そっちに行こうかとか言わないの?」
「前言撤回」一瞬くすりと笑うと笑みを消し去り、
「そっちに行くと自分を制御できるか自信が持てない」
「あ……」
なんてことだ。
「な。夏休みはどうするの」胸を押さえ、話題の転換を試みる。すると和貴はすらすらと答えた。「ボランティアだね。緑川の老人ホームに一週間。ちょっと遠いけど畑中市にも行ってくる。二週間泊まり込みでね」
「二週間も?」
「じーちゃんの知り合いにツテがあってさ。がらあきのアパート一室に一人っきりで生活すんの。……行くまでの間に料理練習しとくよ。材料いっぱい残っちゃったかんね」
確かに、大量の調味料やらが。
思い出し笑みを漏らす私に対して和貴はやや思いつめたように肘を抱え、
「……僕の好きなようにやらしといて諦めさす作戦なんだ。老人介護がどこまで大変かってのを試させて早々に見切りつけさせるっつうのがも、ミエミエなんだよね。……じーちゃんも苦労した昔のひとだからさー公務員とかそーゆーお固い規則正しい仕事に就いて欲しいんだよ、本音ではね」
固く、低い声で語り、前方に突っ伏す。
……和貴の家庭にもいろいろとあるんだ。
「でもさ。僕は、……諦めたくないんだよね」と顔を起こす。彼は私を見ていない。「3Kどころか7Kですごく大変だってよって大人は簡単に言うけどさーそんなの、やってみなきゃ分かんないじゃんか。体力があるのは数少ない僕の取り柄だかんね、誰かのために役立てたいって思う。こーゆー前向きな気持ちに、我慢なんかしたくないんだ」
自問する彼は、夢の矛先だけを見ている。
「うん、……そうだね」
「ま論より証拠。夏休みの間はやるだけやってみるよ。だからボランティアの日程でいっぱいにしたんだ」
「そっか」大変だろうけども、「……頑張って」
和貴の言う通りだと思った。
夢に邁進する推進力を、
ぶつかるかもしれない壁を乗り越えようとする意志を、
信じる気持ちを込めて伝えた。
私の言葉に和貴は、なにか、考えたのか、頬の筋肉をやや強張らせ、
「真咲さんも、頑張って」
開かせる、
淡い光のもとで花を開かせる笑みを。
私は彼の笑みを目の当たりにして、
――こーゆー前向きな気持ちに、我慢なんかしたくないんだ。
答えが、
手の届くところに答えがあるのだと分かった。
直感ではなく痛感だった。
表層に浮かびかけたそれが明確な一つとなる。
非常に納得させるものであり、
迷妄した思考を、まとまらせるものだった。
分解した成分に近かった私が、こころに平穏を覚えたのは紛れもなく、
彼の言動であり、
頑張ってという、エールだった。
誰しも戦う人生を過ごす。
思い通りにならないこともある、待って凌ぐこともある。
その知れない人生の辛苦のいくばくかを体感しながらも、
枕の違う、私はベッド派だというのに。十二時まで勉強したあとにいままでにないくらいに深い、安眠を得られた。
一方で、和貴は違ったのか。
部屋の電気が点けっぱなしで廊下に漏れていた。
* * *
とはいえ、寝ているだろうから。
たたんだパジャマのうえに書き置きを残し、音を立てぬよう階段を降りる。
襖戸の開いた和室には、
「おはようございます、お祖父さん。お世話にありました」
早朝から一人将棋指し。研ぎ澄まされた眼差しのままに。私に将棋のことは分からないけれども積木くずしでは無いことは確かだ。
「また……いつでも来てくだされ」腰を浮かせようとするから、「あいえ、こちらで結構です。ご不在なのにお邪魔して、すみませんでした」
お祖父さんのいるかいないかのうちにお泊り。考えようによっては非常識なのだった。しかしお祖父さん。
ちょっとお酒臭い。
「新造にもよう伝えといてくだされ」
会ってきたばっかなのに。
二日酔いを感じさせぬ柔和な笑みに呼応して桜井家をあとにする。
次に向かうのは――
どうにも頭が寝ぼけている。電車の始発じゃ遅いからバス停に来たここまではよかった。
財布が無いのを忘れていた。やはり――戻らなければならない。
鍵が、あいていた。かなりのおうちがするように。緑川には、有人で在宅なら鍵をかけるどころか玄関戸を開いていてもオッケーという田舎独特の不可思議なカルチャーがある。うちはお店の表玄関は閉めていると思うが。宅部分にひとの気配はない。忍び足で階段をのぼる。――今日のところは助かるけどもいくら玄関戸の開閉がうるさいにしろ、このシステムはどうかと思う。私が泥棒だったらどうするのか。
帰ったら鍵くらいかけるように言おう。
下着をポロシャツを替えたところでまた制服を着用する。……本当は夏服のスカートがもう一枚欲しい。夏を過ぎれば二度と着なくなる。押し入れを開けたついでにボストンバッグを取り出す。薄いピンク地に、TOMMY HILFIGERのトリコロールのロゴが入った小さめの。結構気に入ってるんだけど使う機会があまり無かった。海野に行ったとき以来か。かばんは――学生かばんにして問題集を足して行こう。
勉強机に視線を走らせたときに違和感を覚えた。
白い、封筒だ。
昨日の朝までには無かった。以前おにぎりに添えられてたのとおんなじ。表書きは、
『真咲へ』
なにかに使うことがあれば使ってください。
便箋と一万円札が五枚も。加えて宿泊同意書なる紙も入っていた。
はは、と自嘲の笑いを漏らす。
考えることなどお見通しということだ。
意を決した私は次の目的地へ突き進む。
「先生、おはようございます」
期待していなかったのだが。六時ジャストに来てるのなんて宮本先生くらいのものだ。生物室でなく職員室にいる姿自体を私はあんまり見たことが無かった。
「おー気合入っとんなあ都倉。……どうしたその荷物は?」
自身を仰いでいた扇を止め、冗談めかして「まさか、旅に出るて言うなや?」
「先生、偶然ですね。そう言おうと思っていたところです」
「こら。いいからそこ、座れや」
先生の表情が一変するものの私はたじろがなかった。
「すみません。今日と明日の模試には出られません」
「大事な時期やと分かっとるやろが」
「行かなければならない場所があるんです」
座ったままで見上げる宮本先生の眉がぴくりと動く。
「明日という日を逃したら私は一生後悔します。……遊びに行くわけではないです。来月の模試は受けます。夏期講習も休みません」
「……模試の払ったお金は戻ってこんぞ?」
宮本先生が言ったのはたぶん冗談でだった。「分かってます」
「わーった。……遠出すんのやったら事前に知らせて欲しいがやけどな。ま見逃したる。怪我だけはするな。事故にだけは遭うなよ? 必ず、無事で戻って来い」
「気をつけます。先生、……ありがとうございます」
「礼言われるよりかしあさって元気な顔見してくれるほうがおれは嬉しいわ」
朝っぱらからなにをそんな作業することがあるのか、宮本先生はデスクワークに戻る。授業絡みのことではなく本を読んでいるようだったが……
シリアスに熟読する宮本先生を見ながら、入り口で頭を下げる。
戸口に手をかけると、
「都倉っ」
なにか、
飛んできた。
空を飛んだ物体は鈍い私にもキャッチできた。手のなかを確かめる。
ブルーベリー味の板ガムだ。
新品の、未開封のものだった。
「乗り物酔いだけはすんなよ?」
「だけはするな」と三度も繰り返した宮本先生は、しかめっ面を解いた笑顔で面を上げた。
笑顔は私に伝染する。
ナーバスになりかけた私の精神をすこし落ち着かせるものだった。
「先生、ありがとう」
もうデスクに戻っていたけども、
勇気を頂いた意味を含めて礼を言った。
一息つけるのはバスの座席でだった。
半日かけて夕方の六時には着くはず。夜行バスならぬ早朝バスなんて乗るのは初めての体験だった。……模試代を無駄にしたこともあるからあんまり、お金をかけたくなかった。飛行機なら畑中行きバスと合わせて四時間、新幹線と電車とを組み合わせて六時間くらいに短縮できる。
けど私の目的は明日だから、急ぐ必要は無かった。勉強時間のロスは痛いけども、頭のなかで復習したりはできる。……寝てしまいそうだけども。
制服の裾を整えて座り直し、あんまり噛まない主義のガムを噛む。
ポケットのなかのマキとタスクとからのお守りを意識し。
いつもマキを見送っていた駅を右に見据え、
まぶたを下ろす。
『真咲さんも、頑張って』
武者震いに気づき、膝の上の拳を固める。
英語の単語からかかろうとする、するとひとつセンテンスが出てきた。
I do not know exactly where I am going to, but I am sure that I want to do this.
思いを乗せてこのバスは一路向かう。
――東京へ。
――……柏木慎一郎の住む街へと。
電話を終えた和貴が台所に戻るなりそう言ってくる。
「や、帰るよ、家に……」
「帰りたくないんでしょう」
心臓にどきりときた。
透明でいろを持たない瞳に、すべて見透かされてるような気がして。
「……じーちゃん、真咲さんのおじーちゃんと飲んでんの。スッカリ出来上がっちゃってるってさ。電話、真咲さんのおばーちゃんからだったよ」
一瞬威圧するかの真剣さが見間違えだったかのように。柔和な笑みに彼は戻り、「一人でさせちゃってごめんね?」と隣に来た。
狭いシンクに並ぶと私の右腕と和貴の左腕がぶつかりそうだ。
「ううん。ごちそうになっちゃったの私だし。あそこの泡ついたの流してくれる?」
「イエッサー」
おどけて敬礼なんかする。その肘を左に避ける。
私はすこし笑いながら彼に問いかける。「その意味って知ってる?」
「うんにゃ」蛇口を自分のほうに傾けながら和貴。
「Yessirだよ。言葉通りにYes, sir.を一つにした単語で、軍隊の兵隊さんが上官に応えるときに使うの。確か、陸軍だったかな……」小皿の裏っかわにソースの汚れが。スポンジでごしごし。「Sirって知らない男性に呼びかけるときにも使えるの。男の人の敬称だからね」
その小皿を受け取り「知らんかった。ほんなら今度からアイアイサーにするよ」
話の中核を理解していない和貴に私は笑った。「だからAye, aye, sirはね……」
「うん?」
こんな風にお喋りをしながらも、左から右への流れ作業が驚くほどに捗った。
お風呂まで頂き、「それじゃ寝られんでしょ」と和貴のだぶだぶなパジャマをお借りし、新品の歯磨きセットを頂戴し、二階の和貴の隣の部屋に通される。
お布団を敷くのを手伝ってくれた。
なんだかいたせりつくせりで恐縮する。
ずいぶんと気が利くし。
敬意混じりの気持ちでちら見すると、
「もし一人で寝れんようやったら遠慮無く言って? 添い寝したげるから」
「ううんぜんぜん平気」
きっぱり言い切ったせいか。
和貴は頭に手をやりながら部屋を出ていった。「おやすみなさい」
「……おやすみなさい。和貴」
ひとの家は自分の家とは違う匂いがする。……すこし、埃っぽい。締め切られた独特の押し入れに似た匂い。この畳の一室は、ひょっとすると元は和貴のお母さんが使っていた部屋だろうか。和貴の部屋を知らないから不定だけれども。勉強机がある。以外に目立った物の無い。ポスターを貼ったテープの跡が、シールを剥がした痕跡が木枠に残る。
机のうえに目覚まし時計がある。時刻は、……十時になりかけ。
いつもの私なら勉強をする時間帯だ。
道具も場所も揃っている、のに。
――落ち着いて聞いて。真咲。……あなたの父親は柏木慎一郎。
どう落ち着けというのだ。
母の言葉がめまぐるしく脳内を巡りだす。
リセットが必要だった。
換気をしよう、部屋も、こころも。
スリッパが用意されていた。ベランダの手すりが拭き掃除されていたのか、触っても綺麗だった。室内よりも外気のほうが涼しい。見える緑川の町並みはうちと同じ種類だけれど交通量の多い道路が無いので車の音がしない。
静けさだった。
高層ビルのたぐいも見当たらない。それはこの町のすべてにおいてだった。一階建て二階建てがほとんど。まれに背の高い建物があっても五階程度の。
ネオンのけばけばしさとは無縁のこの町は、宇宙のきらめきを極限まで浮かび上がらせ、見たこともない、手を伸ばせば届きそうな満天の星空を与えてくれる。町田ではこのような空は先ず、拝めない。
私の悩みなど、宇宙を漂う星屑に比べればちっぽけなものだ。
一見するとゴーストタウンに見えなくもない住宅街、あのなかでひとが生きている。明かりの点いた窓は少なく、暗い窓の奥で人々が休んでいる。
私の知らない沢山のひとが。
それぞれに悩みや苦しみ、痛みを抱えて。
そう思うとするも、私は、項垂れた。
自分が何者であるかも分からない。
本当の父親の顔すら知らないのだ。
「真咲さん……」
すると声がした。公園で私を引き止めてくれたあの声が。
顔を傾ければ。
同じく音を立てぬようベランダに出たのだろう。和貴の部屋から通じるベランダの端に、身を乗り出すようにして和貴が立っていた。
「眠れんのっ?」
普通の声量で和貴が訊くから私は慌てて右端に移動した。一般にご老人の就寝は早い。
心中を理解してか片方の肩だけをすくめる。「じーちゃんまだ帰っとらんから気ぃ遣わんでいいんに」
「そうなの?」
「ん」
深く息を吸い、一メートルほどの空を隔てて向き合う和貴。
いつかの桜がマキを愛でていたというなら、今宵は月が彼を愛でている。
互いに部屋の大きな明かりを消したせいか。ほのかな月のひかりのみが彼の存在を照射する。薄闇の中でも彼の髪をまたたかせ、少女のような輪郭を浮かばせる。
こちらを向く彼の口許はわずかに緩み。長い、びっしりと生えたまつげが影を作るもその奥の瞳は不可思議に星よりも瞬いていて。
目を逸らすことも、まばたきですらも、叶わなかった。
なにも言わずにこちらの一挙一動を見守る、
なんだかその眼差しにも沈黙の限りにもいたたまれなくなり、
「そ。そっちに行こうかとか言わないの?」
「前言撤回」一瞬くすりと笑うと笑みを消し去り、
「そっちに行くと自分を制御できるか自信が持てない」
「あ……」
なんてことだ。
「な。夏休みはどうするの」胸を押さえ、話題の転換を試みる。すると和貴はすらすらと答えた。「ボランティアだね。緑川の老人ホームに一週間。ちょっと遠いけど畑中市にも行ってくる。二週間泊まり込みでね」
「二週間も?」
「じーちゃんの知り合いにツテがあってさ。がらあきのアパート一室に一人っきりで生活すんの。……行くまでの間に料理練習しとくよ。材料いっぱい残っちゃったかんね」
確かに、大量の調味料やらが。
思い出し笑みを漏らす私に対して和貴はやや思いつめたように肘を抱え、
「……僕の好きなようにやらしといて諦めさす作戦なんだ。老人介護がどこまで大変かってのを試させて早々に見切りつけさせるっつうのがも、ミエミエなんだよね。……じーちゃんも苦労した昔のひとだからさー公務員とかそーゆーお固い規則正しい仕事に就いて欲しいんだよ、本音ではね」
固く、低い声で語り、前方に突っ伏す。
……和貴の家庭にもいろいろとあるんだ。
「でもさ。僕は、……諦めたくないんだよね」と顔を起こす。彼は私を見ていない。「3Kどころか7Kですごく大変だってよって大人は簡単に言うけどさーそんなの、やってみなきゃ分かんないじゃんか。体力があるのは数少ない僕の取り柄だかんね、誰かのために役立てたいって思う。こーゆー前向きな気持ちに、我慢なんかしたくないんだ」
自問する彼は、夢の矛先だけを見ている。
「うん、……そうだね」
「ま論より証拠。夏休みの間はやるだけやってみるよ。だからボランティアの日程でいっぱいにしたんだ」
「そっか」大変だろうけども、「……頑張って」
和貴の言う通りだと思った。
夢に邁進する推進力を、
ぶつかるかもしれない壁を乗り越えようとする意志を、
信じる気持ちを込めて伝えた。
私の言葉に和貴は、なにか、考えたのか、頬の筋肉をやや強張らせ、
「真咲さんも、頑張って」
開かせる、
淡い光のもとで花を開かせる笑みを。
私は彼の笑みを目の当たりにして、
――こーゆー前向きな気持ちに、我慢なんかしたくないんだ。
答えが、
手の届くところに答えがあるのだと分かった。
直感ではなく痛感だった。
表層に浮かびかけたそれが明確な一つとなる。
非常に納得させるものであり、
迷妄した思考を、まとまらせるものだった。
分解した成分に近かった私が、こころに平穏を覚えたのは紛れもなく、
彼の言動であり、
頑張ってという、エールだった。
誰しも戦う人生を過ごす。
思い通りにならないこともある、待って凌ぐこともある。
その知れない人生の辛苦のいくばくかを体感しながらも、
枕の違う、私はベッド派だというのに。十二時まで勉強したあとにいままでにないくらいに深い、安眠を得られた。
一方で、和貴は違ったのか。
部屋の電気が点けっぱなしで廊下に漏れていた。
* * *
とはいえ、寝ているだろうから。
たたんだパジャマのうえに書き置きを残し、音を立てぬよう階段を降りる。
襖戸の開いた和室には、
「おはようございます、お祖父さん。お世話にありました」
早朝から一人将棋指し。研ぎ澄まされた眼差しのままに。私に将棋のことは分からないけれども積木くずしでは無いことは確かだ。
「また……いつでも来てくだされ」腰を浮かせようとするから、「あいえ、こちらで結構です。ご不在なのにお邪魔して、すみませんでした」
お祖父さんのいるかいないかのうちにお泊り。考えようによっては非常識なのだった。しかしお祖父さん。
ちょっとお酒臭い。
「新造にもよう伝えといてくだされ」
会ってきたばっかなのに。
二日酔いを感じさせぬ柔和な笑みに呼応して桜井家をあとにする。
次に向かうのは――
どうにも頭が寝ぼけている。電車の始発じゃ遅いからバス停に来たここまではよかった。
財布が無いのを忘れていた。やはり――戻らなければならない。
鍵が、あいていた。かなりのおうちがするように。緑川には、有人で在宅なら鍵をかけるどころか玄関戸を開いていてもオッケーという田舎独特の不可思議なカルチャーがある。うちはお店の表玄関は閉めていると思うが。宅部分にひとの気配はない。忍び足で階段をのぼる。――今日のところは助かるけどもいくら玄関戸の開閉がうるさいにしろ、このシステムはどうかと思う。私が泥棒だったらどうするのか。
帰ったら鍵くらいかけるように言おう。
下着をポロシャツを替えたところでまた制服を着用する。……本当は夏服のスカートがもう一枚欲しい。夏を過ぎれば二度と着なくなる。押し入れを開けたついでにボストンバッグを取り出す。薄いピンク地に、TOMMY HILFIGERのトリコロールのロゴが入った小さめの。結構気に入ってるんだけど使う機会があまり無かった。海野に行ったとき以来か。かばんは――学生かばんにして問題集を足して行こう。
勉強机に視線を走らせたときに違和感を覚えた。
白い、封筒だ。
昨日の朝までには無かった。以前おにぎりに添えられてたのとおんなじ。表書きは、
『真咲へ』
なにかに使うことがあれば使ってください。
便箋と一万円札が五枚も。加えて宿泊同意書なる紙も入っていた。
はは、と自嘲の笑いを漏らす。
考えることなどお見通しということだ。
意を決した私は次の目的地へ突き進む。
「先生、おはようございます」
期待していなかったのだが。六時ジャストに来てるのなんて宮本先生くらいのものだ。生物室でなく職員室にいる姿自体を私はあんまり見たことが無かった。
「おー気合入っとんなあ都倉。……どうしたその荷物は?」
自身を仰いでいた扇を止め、冗談めかして「まさか、旅に出るて言うなや?」
「先生、偶然ですね。そう言おうと思っていたところです」
「こら。いいからそこ、座れや」
先生の表情が一変するものの私はたじろがなかった。
「すみません。今日と明日の模試には出られません」
「大事な時期やと分かっとるやろが」
「行かなければならない場所があるんです」
座ったままで見上げる宮本先生の眉がぴくりと動く。
「明日という日を逃したら私は一生後悔します。……遊びに行くわけではないです。来月の模試は受けます。夏期講習も休みません」
「……模試の払ったお金は戻ってこんぞ?」
宮本先生が言ったのはたぶん冗談でだった。「分かってます」
「わーった。……遠出すんのやったら事前に知らせて欲しいがやけどな。ま見逃したる。怪我だけはするな。事故にだけは遭うなよ? 必ず、無事で戻って来い」
「気をつけます。先生、……ありがとうございます」
「礼言われるよりかしあさって元気な顔見してくれるほうがおれは嬉しいわ」
朝っぱらからなにをそんな作業することがあるのか、宮本先生はデスクワークに戻る。授業絡みのことではなく本を読んでいるようだったが……
シリアスに熟読する宮本先生を見ながら、入り口で頭を下げる。
戸口に手をかけると、
「都倉っ」
なにか、
飛んできた。
空を飛んだ物体は鈍い私にもキャッチできた。手のなかを確かめる。
ブルーベリー味の板ガムだ。
新品の、未開封のものだった。
「乗り物酔いだけはすんなよ?」
「だけはするな」と三度も繰り返した宮本先生は、しかめっ面を解いた笑顔で面を上げた。
笑顔は私に伝染する。
ナーバスになりかけた私の精神をすこし落ち着かせるものだった。
「先生、ありがとう」
もうデスクに戻っていたけども、
勇気を頂いた意味を含めて礼を言った。
一息つけるのはバスの座席でだった。
半日かけて夕方の六時には着くはず。夜行バスならぬ早朝バスなんて乗るのは初めての体験だった。……模試代を無駄にしたこともあるからあんまり、お金をかけたくなかった。飛行機なら畑中行きバスと合わせて四時間、新幹線と電車とを組み合わせて六時間くらいに短縮できる。
けど私の目的は明日だから、急ぐ必要は無かった。勉強時間のロスは痛いけども、頭のなかで復習したりはできる。……寝てしまいそうだけども。
制服の裾を整えて座り直し、あんまり噛まない主義のガムを噛む。
ポケットのなかのマキとタスクとからのお守りを意識し。
いつもマキを見送っていた駅を右に見据え、
まぶたを下ろす。
『真咲さんも、頑張って』
武者震いに気づき、膝の上の拳を固める。
英語の単語からかかろうとする、するとひとつセンテンスが出てきた。
I do not know exactly where I am going to, but I am sure that I want to do this.
思いを乗せてこのバスは一路向かう。
――東京へ。
――……柏木慎一郎の住む街へと。
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