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第八章 嫌いになろうと思ったけど決めたんだ
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「病み上がりなのに本当に平気なの。もしぶり返しでもしたら……」
「へーきへーき。あったかくしとるもん。見て! これなー頼んどったんが届いたばっかなんよぉ。いーやろ?」
マフラーの尻尾をひらひら見せドアノブに手を掛ける紗優に続く。
あの定位置に、
先客が。
「あんたまーたこそこそ煙草吸っとるんか。いーかげんやめいや」
同感。
ところで紗優も知ってるんだ。……もしかして宮本先生以外みんな知ってたり。
私たちが歩き寄ろうとも残り短い煙草をくゆらせる。
その態度に紗優はふんと鼻を鳴らした。
「宮本先生にチクったる」
「怖くねえ」
舐められてますよ先生。
外からが駄目なら内から揺さぶるべきか。「喫煙始めるのって若ければ若いほど肺癌になる確率が高くなるんだってね。本当……辞めたほうがいいと思うよ。からだの健康のためにも」
「暇なんだよ」
そう来ましたか。
でねじ込む。
残存する白い煙に、火葬場の煙突からのぼる煙を彷彿する。
何度かこの屋上で会ったとき、私は彼の左に回るのが常だった。いま紗優が立つ位置に。
いつもと違う、彼の右からは拡大して見える。ある場所の全体が。
サッカーグラウンド。
六月の県大会でベスト四に入ったと聞いた。緑高で稀に見る大躍進だったんだとか。
『……それとサッカー部の奴の一部』
自分が抜けたあとの仲間の活躍を、彼は、どんな気持ちで耳にしているのだろうか。
接する陸上トラックに目が行く。
胸のうちの痛みが、気まずさに、覆われる。
ほんの少しだけ、軽やかな彼の風に乗せられた体育祭がずいぶん、遠く離れた出来事に思える。
私は、和貴を、避けている。
正直にどう接すればいいか分からない。彼、顔寄せてからかうのは変わらず。
あのときは違った。
別人だった。
どうとも思わない、と言い切れる彼が、……私は怖かった。
『怖い?』
こっちの気持ちに寄り添う態度が嘘だったと信じられるほどに。
私のなかで瓦解した。
それなのに彼の態度は、変わらない。目の当たりにしたあの表情、言葉、彼の言動がなかったことのように。
なかったことではない。
現実と現実に挟まれ、
混沌としている。
私の内部。
「あのなー。あたし真咲と喋りに来たんに。も。聞いとるん?」
ませんでした。
考えごと始めると周りの一切が失せるこの集中力、どこか別のところに活かせたらと思う。
「ごめん。なんの話だったっけ?」
間に喫煙者を挟んでるので金網の向こうに呼びかけてる状態となる。
「ほら来週マラソン大会あるやろ? なんか最近やったら寒いしウィンドブレーカーとか用意しといたほうがいいかもしらんよ。ジャージって重たいやんか、みんなうえTシャツにして走んねよ」
覚えてます。
建前では服装自由だけど学校の体操着をみんな着るんだと小澤さんから聞いたばかりです。上着と靴は私物可ってことも。
されど私、
なるべく思い出さぬよう記憶の底へと追いやった。
七キロを走り続けた経験など持たない。
私と異なる隣人は缶コーヒーをあおるように飲む。
「男子も七キロだっけ」
「十キロ」
奇遇ですね。
こともなげに言ってのけるマキが毎日走る距離と同じじゃないですか。余裕で完走ですよねマキなら。
「学祭終わったら行事がなくなるって」……和貴。だった。これを教えてくれたの。「本当なんだね。年内残ってる行事って期末試験くらいでしょう」
「ん」と紗優は午後ティーのホットをすすり、「三年なっても変わらんよおー二年ときと違うんは修学旅行ないってだけえ」
嬉々と語る紗優とは対照的に、私は嫌気が差した。
三年にあがってもマラソン大会があるというのか。
……受験対策で免除されないだろうか。や、むしろ学校側が推奨しそうな行事だ。体力作りの一環とかうたって。
「修学旅行ってみんなどこに行ったの」
「京都と奈良。真咲は?」
「北海道だったみたい」
「みたい、とはどういう意味だ」
珍しくマキが私に直接問う。
「私は行ってないから」
ミルクティーで手のひらを温め、何気なく答える。
沈黙。
不自然に走る沈黙に顔をあげれば、
やや身を引かせたマキはBOSSのブラックに口をつけたまんま。
金網を掴んだ紗優は同様に白眼を大きくし、
私のことを見ていた。
世の中には知らないことだらけだ。
地方によって修学旅行の時期が異なることを私は緑川に来て初めて知った。
私の前の学校だと二年の九月。ちょうど私がいなくなってからの時期だ。
転入先の緑川高校では二年の五月。爽やかな新緑の季節に古都の観光……きっと楽しかったことだろう。
班決めも済んでた。転校したって一緒に来れればいいのにって言ってくれた子もいた。
私曖昧に笑って誤魔化した。
まさか。
高校生活最大の楽しみと言われる修学旅行を自分が経験しないことになるなんて、――思わなかったもん。
「えーほしたら真咲行っとらんが? 修学旅行。……かなしいなぁ」
「うん。まあ……けど仕方ないよ」首を振る。
自分のことみたく顔を歪ませてる紗優には。
宮本先生から貰った学校行事表を見て失意に落ちたことは明かさないでおく。
「四月なったらなー遠足あるがよ。そこの山見えるやろ、頂上まで登るんよ。山登りつってもぜんぜんキツないしお菓子もいぃぱい持ってくのん。途中でいぃつも桜咲いとるとこあってきっれーながよ。私服オッケー。やさけなに着てくか考えるんが楽しいよ? なーな、遠足んときあたしとのぼろうなあ?」
五ヶ月後の約束なんて気の早い。
でも、
「うん」
根底にある思いこそが私には嬉しかった。
間に立つマキは。
無関心に、振ってる。私のより小さなショート缶を。さっきから黙々と口に運び続けてるもんそりゃ空だよ。
――もうねえのかよ。
そんなつぶやきが聞こえるようで。
「なにが可笑しい」
「別に」
……その。
缶飲むとき、すっごく。
小指、立ててた……。
だってこのひとこんな端整な顔してるのになにあのオカマな飲み方。なになにどーしたがって紗優に訊かれても答えられない。ツボにハマった。
「おまえら。いつまで喧嘩してるつもりだ」
私の笑いは消滅した。
「喧嘩なんか、してない」
「嘘つけ」空の缶を持て余す彼はからだを反転させる。かしゃん、と預けた金網が鳴る。「おまえも和貴も態度に出し過ぎだ」
「なになに? 和貴と真咲がどしたん? 喧嘩って……」
釣られて入り口を向く紗優にちらり、彼私を睨んで答える。
「こいつと和貴が口を利かねえ。やりづらくて仕方がねえ」
……悪かったわね。
「うっそお。めっずらしいなー和貴がぁ? 異性相手にぃ? だーってあいつ。女の子は怒らせるんじゃなくって悦ばせる相手やーってのがちっさい頃からのポリシーやよ?」
「宮沢一言いや二言余計だ」
あっ、と口を噤んだ紗優に。
眉間のしわを深めたマキに注目されようとも。
「あんな……」
急に、腹が立ってきた。
『キスくらいどうとも思わない』
「あんっな女たらしだとは思わなかったっ!」
「……真咲ぃ」
「おまえまさか妬いてんのか」
「違いますっ」
怒って言われようとポーカーフェイスが変わらない。本当に喜怒哀楽を表さない人だ。
一方で哀のほうが強い紗優は、
「あんなぁ……真咲。和貴はほんまに気立てのええ子やよ。親おらんくて辛い思いもいっぱいしたはずなんにそんなん誰にかて言うたこともない。そこらの男みたくグレもせん。ケーサツ引っ張られたこともないんよ? こころの優しーおじいちゃん子やわいね。そりゃあ昔はな。ん。……んーっといまももしかしたらちょっとは手癖悪いかもしらんけど」
喋るほどに墓穴掘ってるよ紗優。
「親がいればいいというものでもないがな」
「まーた。あんたは、そんなことゆわんの」
「じゃ私、行くね」
ミルクティー飲み干して金網から背を離す。置いていたかばんを手にする。
「なして? 来たばっかやん」
でも紗優。
いっぱい喋るつもりなんかなくって。
和貴のフォロー入ろうとしてる。
「送ってく」
「へーき。紗優のこと送ったげて」
変わらず無表情のマキと。
不安げな紗優の目線をびしびし感じつつ。
ドア開いたとこで私、彼らに笑いかけた。
「二人ともそんな心配しなくっても大丈夫だよ。そのうち普通に戻るから」
翌朝。
「おはよー真咲さん」
「……おはよ」
宣言して半日経たぬうちに目を逸らす。
私の嘘つき。
* * *
ピンクの文字盤を確かめる。約束の時間を十分過ぎていた。
すこし来るのが早かったかもしれない。
私は紗優の家の場所を聞いても分からないので中間地点である緑川駅にて待ち合わせしている。
ボストンバッグ、ベンチに置いてしまおうかな、と判断が働いたときに「ごめんごめーん遅なって」と向こうのバス停のほうからやってきた。
ポニーテールの尻尾をなびかせ。
ミニスカートで素足を晒すのが常なのに滅多にないサブリナパンツ。
赤のスポーツバッグを肩に引っ掛け、「行こか」と切符売り場へ直行。……あれ。「紗優の家に行くんじゃ」
「まっさきぃ。あんた緑川出たことないんやろ? たまには出かけよ。な?」
切符代が四百円強。やはり、高い。町田からなら新宿まで余裕で行ける。フロム緑川なら果たしてどこまで。
いつかと同じ白髪の駅員さん(というより改札内の駅員さんをこちらのご老人以外に見たことがない)に切符を切ってもらい、ホームへと。待たずに二両電車に乗れた。八時台と、学校へ行く並みに早い時間のためか、貸切状態だ。
「行き先はどこ」
「ひっみつぅー」
指立てていたずらに笑う。
その動きに誰かを思い出す、……思い至り私は複雑な気分になった。
ドッジボールの日の、和貴だ。
滑りだす電車、東京のほどスムーズには行かない。振動が、大きい。東海道ほど荒くはないものの。
久しぶりの電車に乗る感覚だった。
見慣れた建物を離れ、……向かうのは畑中方面のようだ。初めてこの地に来た方向を逆に辿っている。
思えば私が緑川を離れるのは緑川の地を訪れて以来だ。
前回とは違い室内の気温は不快にさせるものではなく、むしろほんのすこし肌寒い程度だった。窓の外であれほど鮮やかに田舎を飾り立てていた緑はなりを潜め、人生でいう中年期を迎えた円熟味を私たちに示す。紅葉はとっくに過ぎている。
眼前には母に代わり紗優がいる。
「なんか、企んでるでしょう」
鼻膨らます癖があるのだ、紗優には。
「なーんも? ほらこれ。真咲の好きな午後ティーのミルク。飲む?」
「ありがと」あ、まだあったかい。来る途中で買ってくれたんだろう。
「それとな。真咲が気になっとったCD」イヤホン取り出し、「かたっぽやけど聴かん?」
ジュディマリだ。「聴いたことあるなこれ。なんて曲?」
「BIRTHDAY SONG」
生まれたての愛を考えているうちに、視界に、海が、開ける。
気持ちのいい音に乗せられ。
道のりを振り返る不思議な、
ショートトリップ。
三ヶ月が経った。
東京を離れ。
この地にやってきて。
振り返ることもなかった。
必死だった。
色々なことがあった。
紗優に、出会えて。
タスクに関わって。
マキに、惹かれて。
和貴に……。
和貴が最後に私に笑いかけてくれたのはいつだったろう。
違う一面を知る前の、少女のような。
閉じていた花が静かに、蕾を開かす。
音もないのに、ふわりと。
期待に満ちた瞬間を。
けばけばしさのない、薄い桃色をした、花びらのにおい。
目を閉じてみると、暗闇のなかにそれが浮かんだ。
華やぎと人生のはかなさを感じさせる。
芍薬の花に通じる。
和貴のイメージと重なってそれは綺麗だった。
『真咲さーん』
子どもと同じ素直さをもって相手に対する関心を表す。
和貴は、誰かに興味を持つことや。
好き、という感情を恥じない人だと思った。
大人を真似て自分を伏せることを覚え始めた私には、彼の、無防備とも呼べるほどに晒す態度や。
反面、自分の見目形を自覚したうえでの余裕は。
魅力に映った。
隠し立てのない、明るい響きを最初から与えてくれていた。
猫じゃらしで猫が遊ぶ、胸踊る感じを。
恋を歌う歌に乗せられてか私の内面は締め付けられてしまった。
懐かしき電車の振動と。
失ったものを二度と戻せない予感とセンチメンタリズムに酔ったのかもしれない。
「ほら真咲ぃー、次。次で降りるから」
ブラックアウトした意識のなかでも花に手を伸ばしていた。
砂地で水を乞う感覚――私のなかに残存していた。突っ伏した姿勢のせいかおでこが痛い。赤くなってないか? 睡眠不足はからだに毒だ。こんな風に朝から眠たくなる。
耳に入っていたイヤホンは抜かれている。
のろのろと身を起こす。
「見てえ外。ほぉら」
海だった。
群青を濃くした海――
緑川で見られるそれよりももっと深い、一色に形容しがたい、緑や紺、複雑な配色を交えた海が、いつかと同じように。鏡でも誰か持ってると疑うほどに太陽を吸い込んで乱反射する。驚くほどの電車と海との近さ。海の中を突っ切ってる不可思議な錯覚。
窓越しの海面を、私はきれいだと、思った。
海なんて見慣れてるはずの紗優が童謡の『うみ』なんて歌っちゃってる。
私も加わる。
「あっは。なんやら子どもみたいやなあ」
つけてるイヤホンが流すのはきっと違う曲だろう。
歌ってるうちに電車が減速していく。紗優はイヤホンをぐるぐるにCDウォークマンに巻きつけるとスポーツバッグに突っ込み、机に置いた缶の残りを通勤途中のサラリーマンみたいにぐいっと飲み干す。
腕時計は、二十三分の経過を示していた。
改札を出ると更に驚くべきことが待っていた。
「おせーぞ」
私服だ。……当たり前か、休日なんだから。
いえ休日の彼を見るのなんて当たり前ではない。あ、たまが、……こんがらがる。これ夢の続きかなんか?
学校のときよりハードにセットせぬラフな前髪、夢のなかでもこんなリアルなの?
「ごっめんなーあたしが準備に時間かかってしもうてな、一本遅れてん」
右の頬を引っ張ってると、視線がぶつかる。
「行くぞ」
せっかちな性格も、
そっけなさも変わらず。
私が動き出すのは、紗優に腕を絡められてからだった。「行こ行こっ」
どこに。
なにが。
だれと。
後ろ姿を注視してしまう。……そうだ、夏祭り以来だ。タイトなジーンズを好むのかな。足、細い。超長い。重ねたシャツに隠れてても腰の位置で分かる。ぜんぶ黒と思いきや、足元のスニーカーに唯一細くピンクのラインが入ってて、その意外さが可愛らしかった。
黙々と進むマキにも、ジュディマリ歌ってる紗優に問うても機能しなさそうなので私は駅を振り返る。
掘っ立て小屋みたいな駅の看板に、
海野駅、と書いてある。
ちょっと笑った。
駅前の寂れた商店街を抜けると、右手に広大な海と、道を挟んで、風情ある木造の建物が続く。この二つを視野に入れて歩いて行く……観光気分。紗優の歌声をBGMに。
この道、緑川のよりちょっと細いし、車通りも少ないけど、青い看板が立ってた。国道256号線。緑川の海近くを走る国道がここに繋がっている。
私の知らないところで世界は繋がっている。
旅館のなかでも特に老舗っぽい、でっかくて松の木が両脇から囲う、明治に建てられたと言われても納得の一軒で立ち止まると、脇道を突っ切り、裏手に回る。……うちと同じ作りだ。でも規模が違う。表から裏玄関に回るのに五分は掛かりそうだ。和風庭園が囲う老舗旅館の雰囲気に内心で気圧される。
先導するのは黒ずくめの男。
まさか。
まさかとは思ったんだけど。
マキは、飛び石の庭をずんずん入り、木製の扉を一息に開く。
「ただいま」
またびっくりして声も出なかった。
半纏着た人懐っこそうなおじいさんがおぉー坊っちゃんお帰りなさいませ。私たち見てさーさー裏口でなんですがお入りください。女将さん呼んで来ますねえって言ってる。
女将さん。
呼ばれる前に、正面の廊下からやってきた。
私そのかたを見てようやく飲み込めた。
表の看板に『うみのの宿 なみのはな』って書いてあったけど……
「遠いところをようお越しくださいました。自分のおうちやと思って、くつろいでってくださいね」
マキの、お母さんだ。
切れ長の目がおんなじ。舞妓さんみたいにお綺麗で藤色の着物がパーフェクトに似合う。紗優のお母さんは洋風美人だったけどマキのお母さんは和風で、涼やかな眼差しに惹きこまれる。あ、笑顔がほんとすてき。
マキが、笑ってるみたい……。
「お邪魔します。急なことですみませんが、お世話になります。あのですね、こちらが都倉真咲さんで、あたし、宮沢紗優って言います」
出遅れた私に比べて紗優はそういうところがしっかりしてる。
「……息子のほうこそお世話になっております。常々みなさんのお話は伺っております」
嘘でしょ。
女の子の話をお母さんにするなんてキャラに思えない。前に回ってマキを確かめられないのがつくづく惜しく思う。
女将さーん源造さんちょっと来てくださーい、と大きな声が奥からする。やんわり微笑んで、「ごめんなさいね、お部屋がまだ空いとりませんで。二階のお部屋にお通ししてくださる?」
最後は半纏のおじいさんに向けたようだったが、
「いや、いい。俺が連れてく」
「……そう。ほんなら失礼のないようにね」
二度呼ばれたおじいさん、さーさどーぞどーぞって言いつつ急いで。女将さんは慌てず騒がず悠然と、おそらく旅館と宅を隔てる扉に消えていった。
涼やかな風をそこに残して。
旅館の、裏手……ここから通学してるんだろう、マキは。
毎日を過ごしてる。
マキの居住空間なんだ。
踏み込むのに緊張する。
うちと違う、においがする。
幅が広い。うちより狭い玄関なんてそうそうないもん。扉付きの天井まで続く下駄箱に収まりきらないのか、おっきなおじさんぽいサンダル、使い古したスニーカーが二三足。黒ばっかだ。……マキの学校に履いてくる革靴発見、女物の靴は見当たらない。
チェストのうえに目が留まる。
彼の、活躍っぷりが、分かる。
すごいな……。
賞状。トロフィー。写真立て。めいっぱい乗ってる、地震が来たらえらいことになりそう。私、東京から賞状やトロフィー持ってきたけどこれらに比べると断然少ない。ここには、小中学校時代のも、もっと前のも置かれてるのだろう。ユニフォーム姿での全体写真や、試合中なのかな。ボールを蹴り出す瞬間を捉えたものも。
集合写真でもすぐ彼を見つけられる。
目許が、まったく変わらない。きりっとした眼差しの色白な少年は、後列ではなく意外にも最前列で中腰姿勢をとる。
いつ、あんなに背丈が伸びたのかな。
ミニチュアなマキが微笑ましい。……こんなちっちゃな頃があったんだマキにも。
「ねえこれ、全部マキ?」
ああ、とそっけない返事を予測していた。
階段を足をかけたマキは、そんな私を一瞥し、
「全部、兄貴だ」
捨てるように言い、段をのぼる。
サンダルを脱いだ紗優はスリッパに履き替えてる。
私は、動けなかった。
全部、お兄さんって?
お兄さんもサッカーをしてるの。
――マキの。
マキのぶんは。
「早くしろ」
急かされ、様々な疑問を残したまま私は、初めての。
気になるひとの領域に踏み込んだ。
「へーきへーき。あったかくしとるもん。見て! これなー頼んどったんが届いたばっかなんよぉ。いーやろ?」
マフラーの尻尾をひらひら見せドアノブに手を掛ける紗優に続く。
あの定位置に、
先客が。
「あんたまーたこそこそ煙草吸っとるんか。いーかげんやめいや」
同感。
ところで紗優も知ってるんだ。……もしかして宮本先生以外みんな知ってたり。
私たちが歩き寄ろうとも残り短い煙草をくゆらせる。
その態度に紗優はふんと鼻を鳴らした。
「宮本先生にチクったる」
「怖くねえ」
舐められてますよ先生。
外からが駄目なら内から揺さぶるべきか。「喫煙始めるのって若ければ若いほど肺癌になる確率が高くなるんだってね。本当……辞めたほうがいいと思うよ。からだの健康のためにも」
「暇なんだよ」
そう来ましたか。
でねじ込む。
残存する白い煙に、火葬場の煙突からのぼる煙を彷彿する。
何度かこの屋上で会ったとき、私は彼の左に回るのが常だった。いま紗優が立つ位置に。
いつもと違う、彼の右からは拡大して見える。ある場所の全体が。
サッカーグラウンド。
六月の県大会でベスト四に入ったと聞いた。緑高で稀に見る大躍進だったんだとか。
『……それとサッカー部の奴の一部』
自分が抜けたあとの仲間の活躍を、彼は、どんな気持ちで耳にしているのだろうか。
接する陸上トラックに目が行く。
胸のうちの痛みが、気まずさに、覆われる。
ほんの少しだけ、軽やかな彼の風に乗せられた体育祭がずいぶん、遠く離れた出来事に思える。
私は、和貴を、避けている。
正直にどう接すればいいか分からない。彼、顔寄せてからかうのは変わらず。
あのときは違った。
別人だった。
どうとも思わない、と言い切れる彼が、……私は怖かった。
『怖い?』
こっちの気持ちに寄り添う態度が嘘だったと信じられるほどに。
私のなかで瓦解した。
それなのに彼の態度は、変わらない。目の当たりにしたあの表情、言葉、彼の言動がなかったことのように。
なかったことではない。
現実と現実に挟まれ、
混沌としている。
私の内部。
「あのなー。あたし真咲と喋りに来たんに。も。聞いとるん?」
ませんでした。
考えごと始めると周りの一切が失せるこの集中力、どこか別のところに活かせたらと思う。
「ごめん。なんの話だったっけ?」
間に喫煙者を挟んでるので金網の向こうに呼びかけてる状態となる。
「ほら来週マラソン大会あるやろ? なんか最近やったら寒いしウィンドブレーカーとか用意しといたほうがいいかもしらんよ。ジャージって重たいやんか、みんなうえTシャツにして走んねよ」
覚えてます。
建前では服装自由だけど学校の体操着をみんな着るんだと小澤さんから聞いたばかりです。上着と靴は私物可ってことも。
されど私、
なるべく思い出さぬよう記憶の底へと追いやった。
七キロを走り続けた経験など持たない。
私と異なる隣人は缶コーヒーをあおるように飲む。
「男子も七キロだっけ」
「十キロ」
奇遇ですね。
こともなげに言ってのけるマキが毎日走る距離と同じじゃないですか。余裕で完走ですよねマキなら。
「学祭終わったら行事がなくなるって」……和貴。だった。これを教えてくれたの。「本当なんだね。年内残ってる行事って期末試験くらいでしょう」
「ん」と紗優は午後ティーのホットをすすり、「三年なっても変わらんよおー二年ときと違うんは修学旅行ないってだけえ」
嬉々と語る紗優とは対照的に、私は嫌気が差した。
三年にあがってもマラソン大会があるというのか。
……受験対策で免除されないだろうか。や、むしろ学校側が推奨しそうな行事だ。体力作りの一環とかうたって。
「修学旅行ってみんなどこに行ったの」
「京都と奈良。真咲は?」
「北海道だったみたい」
「みたい、とはどういう意味だ」
珍しくマキが私に直接問う。
「私は行ってないから」
ミルクティーで手のひらを温め、何気なく答える。
沈黙。
不自然に走る沈黙に顔をあげれば、
やや身を引かせたマキはBOSSのブラックに口をつけたまんま。
金網を掴んだ紗優は同様に白眼を大きくし、
私のことを見ていた。
世の中には知らないことだらけだ。
地方によって修学旅行の時期が異なることを私は緑川に来て初めて知った。
私の前の学校だと二年の九月。ちょうど私がいなくなってからの時期だ。
転入先の緑川高校では二年の五月。爽やかな新緑の季節に古都の観光……きっと楽しかったことだろう。
班決めも済んでた。転校したって一緒に来れればいいのにって言ってくれた子もいた。
私曖昧に笑って誤魔化した。
まさか。
高校生活最大の楽しみと言われる修学旅行を自分が経験しないことになるなんて、――思わなかったもん。
「えーほしたら真咲行っとらんが? 修学旅行。……かなしいなぁ」
「うん。まあ……けど仕方ないよ」首を振る。
自分のことみたく顔を歪ませてる紗優には。
宮本先生から貰った学校行事表を見て失意に落ちたことは明かさないでおく。
「四月なったらなー遠足あるがよ。そこの山見えるやろ、頂上まで登るんよ。山登りつってもぜんぜんキツないしお菓子もいぃぱい持ってくのん。途中でいぃつも桜咲いとるとこあってきっれーながよ。私服オッケー。やさけなに着てくか考えるんが楽しいよ? なーな、遠足んときあたしとのぼろうなあ?」
五ヶ月後の約束なんて気の早い。
でも、
「うん」
根底にある思いこそが私には嬉しかった。
間に立つマキは。
無関心に、振ってる。私のより小さなショート缶を。さっきから黙々と口に運び続けてるもんそりゃ空だよ。
――もうねえのかよ。
そんなつぶやきが聞こえるようで。
「なにが可笑しい」
「別に」
……その。
缶飲むとき、すっごく。
小指、立ててた……。
だってこのひとこんな端整な顔してるのになにあのオカマな飲み方。なになにどーしたがって紗優に訊かれても答えられない。ツボにハマった。
「おまえら。いつまで喧嘩してるつもりだ」
私の笑いは消滅した。
「喧嘩なんか、してない」
「嘘つけ」空の缶を持て余す彼はからだを反転させる。かしゃん、と預けた金網が鳴る。「おまえも和貴も態度に出し過ぎだ」
「なになに? 和貴と真咲がどしたん? 喧嘩って……」
釣られて入り口を向く紗優にちらり、彼私を睨んで答える。
「こいつと和貴が口を利かねえ。やりづらくて仕方がねえ」
……悪かったわね。
「うっそお。めっずらしいなー和貴がぁ? 異性相手にぃ? だーってあいつ。女の子は怒らせるんじゃなくって悦ばせる相手やーってのがちっさい頃からのポリシーやよ?」
「宮沢一言いや二言余計だ」
あっ、と口を噤んだ紗優に。
眉間のしわを深めたマキに注目されようとも。
「あんな……」
急に、腹が立ってきた。
『キスくらいどうとも思わない』
「あんっな女たらしだとは思わなかったっ!」
「……真咲ぃ」
「おまえまさか妬いてんのか」
「違いますっ」
怒って言われようとポーカーフェイスが変わらない。本当に喜怒哀楽を表さない人だ。
一方で哀のほうが強い紗優は、
「あんなぁ……真咲。和貴はほんまに気立てのええ子やよ。親おらんくて辛い思いもいっぱいしたはずなんにそんなん誰にかて言うたこともない。そこらの男みたくグレもせん。ケーサツ引っ張られたこともないんよ? こころの優しーおじいちゃん子やわいね。そりゃあ昔はな。ん。……んーっといまももしかしたらちょっとは手癖悪いかもしらんけど」
喋るほどに墓穴掘ってるよ紗優。
「親がいればいいというものでもないがな」
「まーた。あんたは、そんなことゆわんの」
「じゃ私、行くね」
ミルクティー飲み干して金網から背を離す。置いていたかばんを手にする。
「なして? 来たばっかやん」
でも紗優。
いっぱい喋るつもりなんかなくって。
和貴のフォロー入ろうとしてる。
「送ってく」
「へーき。紗優のこと送ったげて」
変わらず無表情のマキと。
不安げな紗優の目線をびしびし感じつつ。
ドア開いたとこで私、彼らに笑いかけた。
「二人ともそんな心配しなくっても大丈夫だよ。そのうち普通に戻るから」
翌朝。
「おはよー真咲さん」
「……おはよ」
宣言して半日経たぬうちに目を逸らす。
私の嘘つき。
* * *
ピンクの文字盤を確かめる。約束の時間を十分過ぎていた。
すこし来るのが早かったかもしれない。
私は紗優の家の場所を聞いても分からないので中間地点である緑川駅にて待ち合わせしている。
ボストンバッグ、ベンチに置いてしまおうかな、と判断が働いたときに「ごめんごめーん遅なって」と向こうのバス停のほうからやってきた。
ポニーテールの尻尾をなびかせ。
ミニスカートで素足を晒すのが常なのに滅多にないサブリナパンツ。
赤のスポーツバッグを肩に引っ掛け、「行こか」と切符売り場へ直行。……あれ。「紗優の家に行くんじゃ」
「まっさきぃ。あんた緑川出たことないんやろ? たまには出かけよ。な?」
切符代が四百円強。やはり、高い。町田からなら新宿まで余裕で行ける。フロム緑川なら果たしてどこまで。
いつかと同じ白髪の駅員さん(というより改札内の駅員さんをこちらのご老人以外に見たことがない)に切符を切ってもらい、ホームへと。待たずに二両電車に乗れた。八時台と、学校へ行く並みに早い時間のためか、貸切状態だ。
「行き先はどこ」
「ひっみつぅー」
指立てていたずらに笑う。
その動きに誰かを思い出す、……思い至り私は複雑な気分になった。
ドッジボールの日の、和貴だ。
滑りだす電車、東京のほどスムーズには行かない。振動が、大きい。東海道ほど荒くはないものの。
久しぶりの電車に乗る感覚だった。
見慣れた建物を離れ、……向かうのは畑中方面のようだ。初めてこの地に来た方向を逆に辿っている。
思えば私が緑川を離れるのは緑川の地を訪れて以来だ。
前回とは違い室内の気温は不快にさせるものではなく、むしろほんのすこし肌寒い程度だった。窓の外であれほど鮮やかに田舎を飾り立てていた緑はなりを潜め、人生でいう中年期を迎えた円熟味を私たちに示す。紅葉はとっくに過ぎている。
眼前には母に代わり紗優がいる。
「なんか、企んでるでしょう」
鼻膨らます癖があるのだ、紗優には。
「なーんも? ほらこれ。真咲の好きな午後ティーのミルク。飲む?」
「ありがと」あ、まだあったかい。来る途中で買ってくれたんだろう。
「それとな。真咲が気になっとったCD」イヤホン取り出し、「かたっぽやけど聴かん?」
ジュディマリだ。「聴いたことあるなこれ。なんて曲?」
「BIRTHDAY SONG」
生まれたての愛を考えているうちに、視界に、海が、開ける。
気持ちのいい音に乗せられ。
道のりを振り返る不思議な、
ショートトリップ。
三ヶ月が経った。
東京を離れ。
この地にやってきて。
振り返ることもなかった。
必死だった。
色々なことがあった。
紗優に、出会えて。
タスクに関わって。
マキに、惹かれて。
和貴に……。
和貴が最後に私に笑いかけてくれたのはいつだったろう。
違う一面を知る前の、少女のような。
閉じていた花が静かに、蕾を開かす。
音もないのに、ふわりと。
期待に満ちた瞬間を。
けばけばしさのない、薄い桃色をした、花びらのにおい。
目を閉じてみると、暗闇のなかにそれが浮かんだ。
華やぎと人生のはかなさを感じさせる。
芍薬の花に通じる。
和貴のイメージと重なってそれは綺麗だった。
『真咲さーん』
子どもと同じ素直さをもって相手に対する関心を表す。
和貴は、誰かに興味を持つことや。
好き、という感情を恥じない人だと思った。
大人を真似て自分を伏せることを覚え始めた私には、彼の、無防備とも呼べるほどに晒す態度や。
反面、自分の見目形を自覚したうえでの余裕は。
魅力に映った。
隠し立てのない、明るい響きを最初から与えてくれていた。
猫じゃらしで猫が遊ぶ、胸踊る感じを。
恋を歌う歌に乗せられてか私の内面は締め付けられてしまった。
懐かしき電車の振動と。
失ったものを二度と戻せない予感とセンチメンタリズムに酔ったのかもしれない。
「ほら真咲ぃー、次。次で降りるから」
ブラックアウトした意識のなかでも花に手を伸ばしていた。
砂地で水を乞う感覚――私のなかに残存していた。突っ伏した姿勢のせいかおでこが痛い。赤くなってないか? 睡眠不足はからだに毒だ。こんな風に朝から眠たくなる。
耳に入っていたイヤホンは抜かれている。
のろのろと身を起こす。
「見てえ外。ほぉら」
海だった。
群青を濃くした海――
緑川で見られるそれよりももっと深い、一色に形容しがたい、緑や紺、複雑な配色を交えた海が、いつかと同じように。鏡でも誰か持ってると疑うほどに太陽を吸い込んで乱反射する。驚くほどの電車と海との近さ。海の中を突っ切ってる不可思議な錯覚。
窓越しの海面を、私はきれいだと、思った。
海なんて見慣れてるはずの紗優が童謡の『うみ』なんて歌っちゃってる。
私も加わる。
「あっは。なんやら子どもみたいやなあ」
つけてるイヤホンが流すのはきっと違う曲だろう。
歌ってるうちに電車が減速していく。紗優はイヤホンをぐるぐるにCDウォークマンに巻きつけるとスポーツバッグに突っ込み、机に置いた缶の残りを通勤途中のサラリーマンみたいにぐいっと飲み干す。
腕時計は、二十三分の経過を示していた。
改札を出ると更に驚くべきことが待っていた。
「おせーぞ」
私服だ。……当たり前か、休日なんだから。
いえ休日の彼を見るのなんて当たり前ではない。あ、たまが、……こんがらがる。これ夢の続きかなんか?
学校のときよりハードにセットせぬラフな前髪、夢のなかでもこんなリアルなの?
「ごっめんなーあたしが準備に時間かかってしもうてな、一本遅れてん」
右の頬を引っ張ってると、視線がぶつかる。
「行くぞ」
せっかちな性格も、
そっけなさも変わらず。
私が動き出すのは、紗優に腕を絡められてからだった。「行こ行こっ」
どこに。
なにが。
だれと。
後ろ姿を注視してしまう。……そうだ、夏祭り以来だ。タイトなジーンズを好むのかな。足、細い。超長い。重ねたシャツに隠れてても腰の位置で分かる。ぜんぶ黒と思いきや、足元のスニーカーに唯一細くピンクのラインが入ってて、その意外さが可愛らしかった。
黙々と進むマキにも、ジュディマリ歌ってる紗優に問うても機能しなさそうなので私は駅を振り返る。
掘っ立て小屋みたいな駅の看板に、
海野駅、と書いてある。
ちょっと笑った。
駅前の寂れた商店街を抜けると、右手に広大な海と、道を挟んで、風情ある木造の建物が続く。この二つを視野に入れて歩いて行く……観光気分。紗優の歌声をBGMに。
この道、緑川のよりちょっと細いし、車通りも少ないけど、青い看板が立ってた。国道256号線。緑川の海近くを走る国道がここに繋がっている。
私の知らないところで世界は繋がっている。
旅館のなかでも特に老舗っぽい、でっかくて松の木が両脇から囲う、明治に建てられたと言われても納得の一軒で立ち止まると、脇道を突っ切り、裏手に回る。……うちと同じ作りだ。でも規模が違う。表から裏玄関に回るのに五分は掛かりそうだ。和風庭園が囲う老舗旅館の雰囲気に内心で気圧される。
先導するのは黒ずくめの男。
まさか。
まさかとは思ったんだけど。
マキは、飛び石の庭をずんずん入り、木製の扉を一息に開く。
「ただいま」
またびっくりして声も出なかった。
半纏着た人懐っこそうなおじいさんがおぉー坊っちゃんお帰りなさいませ。私たち見てさーさー裏口でなんですがお入りください。女将さん呼んで来ますねえって言ってる。
女将さん。
呼ばれる前に、正面の廊下からやってきた。
私そのかたを見てようやく飲み込めた。
表の看板に『うみのの宿 なみのはな』って書いてあったけど……
「遠いところをようお越しくださいました。自分のおうちやと思って、くつろいでってくださいね」
マキの、お母さんだ。
切れ長の目がおんなじ。舞妓さんみたいにお綺麗で藤色の着物がパーフェクトに似合う。紗優のお母さんは洋風美人だったけどマキのお母さんは和風で、涼やかな眼差しに惹きこまれる。あ、笑顔がほんとすてき。
マキが、笑ってるみたい……。
「お邪魔します。急なことですみませんが、お世話になります。あのですね、こちらが都倉真咲さんで、あたし、宮沢紗優って言います」
出遅れた私に比べて紗優はそういうところがしっかりしてる。
「……息子のほうこそお世話になっております。常々みなさんのお話は伺っております」
嘘でしょ。
女の子の話をお母さんにするなんてキャラに思えない。前に回ってマキを確かめられないのがつくづく惜しく思う。
女将さーん源造さんちょっと来てくださーい、と大きな声が奥からする。やんわり微笑んで、「ごめんなさいね、お部屋がまだ空いとりませんで。二階のお部屋にお通ししてくださる?」
最後は半纏のおじいさんに向けたようだったが、
「いや、いい。俺が連れてく」
「……そう。ほんなら失礼のないようにね」
二度呼ばれたおじいさん、さーさどーぞどーぞって言いつつ急いで。女将さんは慌てず騒がず悠然と、おそらく旅館と宅を隔てる扉に消えていった。
涼やかな風をそこに残して。
旅館の、裏手……ここから通学してるんだろう、マキは。
毎日を過ごしてる。
マキの居住空間なんだ。
踏み込むのに緊張する。
うちと違う、においがする。
幅が広い。うちより狭い玄関なんてそうそうないもん。扉付きの天井まで続く下駄箱に収まりきらないのか、おっきなおじさんぽいサンダル、使い古したスニーカーが二三足。黒ばっかだ。……マキの学校に履いてくる革靴発見、女物の靴は見当たらない。
チェストのうえに目が留まる。
彼の、活躍っぷりが、分かる。
すごいな……。
賞状。トロフィー。写真立て。めいっぱい乗ってる、地震が来たらえらいことになりそう。私、東京から賞状やトロフィー持ってきたけどこれらに比べると断然少ない。ここには、小中学校時代のも、もっと前のも置かれてるのだろう。ユニフォーム姿での全体写真や、試合中なのかな。ボールを蹴り出す瞬間を捉えたものも。
集合写真でもすぐ彼を見つけられる。
目許が、まったく変わらない。きりっとした眼差しの色白な少年は、後列ではなく意外にも最前列で中腰姿勢をとる。
いつ、あんなに背丈が伸びたのかな。
ミニチュアなマキが微笑ましい。……こんなちっちゃな頃があったんだマキにも。
「ねえこれ、全部マキ?」
ああ、とそっけない返事を予測していた。
階段を足をかけたマキは、そんな私を一瞥し、
「全部、兄貴だ」
捨てるように言い、段をのぼる。
サンダルを脱いだ紗優はスリッパに履き替えてる。
私は、動けなかった。
全部、お兄さんって?
お兄さんもサッカーをしてるの。
――マキの。
マキのぶんは。
「早くしろ」
急かされ、様々な疑問を残したまま私は、初めての。
気になるひとの領域に踏み込んだ。
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