碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第一章 ほんとにここで?

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 歳月は人を裏切らない。

「おかえりなさい。真咲ちゃんも遠い所をよう来たね」

 祖父母は私のなかに残る記憶よりも年齢を重ねていた。老けたおじちゃんおばちゃんではなく、呼び名通りのおじいちゃんおばあちゃん。祖父の髪は総白髪で、割烹着を羽織る小柄な祖母の背骨はかなり曲がってしまっている。
「ただいま。電車えらい空いとったんに遅なってもうて。横山さんとすこし喋ってんけどお店、休みにしてんて? 表の看板消えとるしびっくりしたわ。わたしらそんな帰ってくるだけなげし、わざわざ閉めんかて……」
「こんなあっつい日にお客さんなんか来(こ)んわいね」祖母は額の汗を拭い明るく応じる。「歩いて来てんろ? タクシー迎えさせば良かったかねえ。近いさけ、やーがられてもほんに暑くてかなわんのやさけ、気にせんでええんわいね。昼間、三十五度まで上がったんやって、さっきテレビでゆうとったわ。ほんに、あんたおった頃はこんな暑なかったがにねえ」一息に喋ると、祖母は我々に手招きをする。「なーんもそんなとこぼうっと突っ立っとらんと、はよ入りましね。わたしまで日に焼けてまうわ」
「ほんなら、お邪魔します」
 母に続き私も頭を下げる。「お邪魔します」
 三和土に全員の靴が十足足らず、それだけで玄関がほぼいっぱいだ。私が履けばぶかぶかだろうでっかい便所サンダル、高島屋一階で老女が買い求める感じの、小さくて丸いフォルムの靴は、甲をマジックテープで留めるタイプ。どこで履くのか不明な真新しい白のナースシューズなどなど。母がパンプスのかかとに手を添えてやや屈んだので、私が後ろに身を引くと、母の背中越しに祖母と目が合った。「真咲ちゃんな。これからはお邪魔しますやのうてただいまでいいんよ。ここは真咲ちゃんのお家なげし」
 純粋な好意に触れると私が悪いことをした気分になる。
 曖昧なうす笑いで逃れた先の玄関ドア、勝手に閉まらないのは建てつけが悪いのだろう、さっき母が開いた時にギィーイと不吉な音を立てた。鍵をかけない無用心さだけれど泥棒が来たとて即バレそうだ。いやに低いドアノブの位置だがこれでも幼かった私には届かなかった。ジャンプして掴もうとしたら母に、そんなことしたら壊れるやろ、と叱られたのだった。
 初めて握ったドアノブは冷たくて回転が少し鈍い。
 留め具の錆びた音が再度ギィと鳴り響くと、鋭い日光から遮られ、私は外の世界から遮断された。

 ここが、……私の家。

 天井の木目が迫る近さ、玄関の上り口だって気を抜けば足を引っ掛ける低さ。明かり取りの窓から入る光がこの家のぼろっちさを酷薄にも暴きだす。閉めてみたらスライド式のガラスドアががたついたのだって壁面の収納に工具が野ざらしにされてるのだって。平面積が相当広い割に全体に背が低い、こじんまりとした印象を拭えない。外壁も内装も飴色の板で統一されているけれどログハウスという語感はどうにも相応しくなく、……そうだ。ニュースに出てくる崖崩れでぺっしゃんこにされた家、あの雰囲気に近い。建てられたのは曽祖父の代だと聞く。
 祖母経由で母から渡されたのは便所スリッパだった。友達を呼ぶ時もこれなのかと思うとげんなりする。

 呼ぶ友達など今後一切現れないだろうことにももっとげんなりするのだけれど。

 二人並ぶには幅の狭い廊下ゆえ、蟻みたく縦一列になって進んでいく。蟻というより最後尾から見て囚人だ。事実私は囚われの身なのだ、人生を質札にとられて。舵を取る祖父は昔の人にしては長身で、上からぶら下がる傘が頭にくっつきそうな正しい背筋をしている。角刈りの白髪に古い丸い電球独特の色が当てられている。窓をあちこち開け放してあるのだろう、風の通り抜ける田舎の家、汗が少しずつ引いて涼しさを覚え始める。私は幾度も唾液を飲み込みつつ、沈黙する私達がみしみしと立てる床の響きに比べて、自分の素足がビニールスリッパにくっついては離れてを繰り返す音を耳障りだなと感じていた。

「さあさ、座って座って。二人とも疲れとるやろ」
 入り口に立つ祖母の身振りで居間に通されて、祖父は右の奥に、母は対面する席に、私は下座である母の左隣にかけた。決断を下すのは祖父で、フォローするのは祖母の役割なのかと何となしに思う。
「すぐ冷たい麦茶持ってくるさけ。あんたら来るからやかんにいぃぱい作っといてんよ」
「ああお母さん、用意するんやったらわたしが……」腰を浮かせた母を、いいんよあんたは、と祖母は制す。制した手の甲で汗の光る額を拭うと、何かを思ったのか、ややそぐわない苦い笑いを浮かべる。「そや。そやった……うち年寄りしかおらんさけハイカラな飲みもんちぃとも置いとらんげわ。若い子は麦茶なんか飲まんやろ? あれやったらお祖母ちゃん、そこのきよかわで炭酸かオレンジジュース買(こ)うてくるさけ」
「いえ……平気、です」きよかわが何だかは知らないが、私はこの炎天下に祖母を使いに出させる非道な人間ではない。それよりもキンキンに冷えた麦茶を一刻も早く飲みたい。
「なーんも遠慮せんかていいげよ? 好きなもん何でも買うたるさけ。お祖母ちゃんな、真咲ちゃんの好き嫌い分からんげし、食べれんもんあったらちゃあんとゆうてくれんけ」総入れ歯ではない、黄ばんだ歯と金歯を覗かせた祖母は朗らかさから一変、母を睨む。「美雪はな。お母さんやのうてわたしんことお祖母ちゃんてちゃーんと呼ばな駄目やろ。さっきからなんべんもお祖母ちゃんゆうとるがにちぃとも気の利かん子なんやからあんたは」
 母が滅多に実家に帰らなかった理由の一つが、この、母方の祖母が孫を溺愛するあまりだ。
 二つ目、娘に対して祖母は厳しい。私が受け答えの一つもロクに返せなかったのに、母なんてお茶を用意しようとした結果、気が利かない認定までされた。
 よく喋る人は部屋を明るくする。
 ムードメーカーの祖母が廊下に消える。
 明るい空気も失われた。
 残されたのは、腕を組み、瞼を閉じた渋面の祖父と――
 生家に戻ってきたにも関わらずどこか所在なさげな、見るにやつれた母。
 異性の親を相手に喋りづらいのは、母だって同じなのだろう。
 二人の気まずい様子に私は気づかないふりを貫き、浅い記憶を辿ってみる。五歳だったろうか、私は父が運転する車に乗せられて来た。オートマの軽のハンドルしか握れず地図も読めない母は、助手席に座ってるだけ。長野らへんの山がきつくって、車のすれ違いも適わない細い山道だったり、アップダウンの激しい泥道を走ったりで、息止めても続かない長いトンネルだらけで息が詰まりそうだった。車酔いする体質の私は東京を出る前に酔い止めを飲んでなるべく目をつぶり、ほとんどを眠るよう務めた。眠るのが嫌いな私は赤ちゃんの頃から寝付きが悪くって母の安眠を妨げていた。だから、後ろで一人で座れるって意地を張った。助手席で母はちょっと寝てた。一日かけてやっと着いた頃には体が重たくてしんどくて、母の腕に抱かれて二階に上がった。この家を歩いた感触をあまり記憶していない。
 ちきのうなってんろ、と初秋の日に奥から扇風機を引っ張り出しながら祖母は言い、母は、私をやわらかいお布団に横たえながら、次は飛行機で来ようね、体が楽やから、と囁いた。
 前よりも体は楽だったけれど、荒っぽい運転をする父はこの場にいない。
 こんな形での帰郷をどう思っているのか――母の横顔をちらと窺えば、テーブルに視線を落とす。きまり悪そうに。床より一段と色の濃い、年季の入った六人がけのダイニングテーブル。白い傷がいくつも走り、シールを剥がした跡も残っている。この家で長年使われ続ける――ひょっとしたら祖父が子どもの頃からの品かもしれない。私もだけれど母にきょうだいはいない。
 冷房はかかってはいない。エアコンがそこの入り口の上にあるけれど、田舎のお年寄りは使いたがらないと聞く。それでも灼熱の屋外に比べれば天国だ。静かだ。うすら明るくて昼を過ぎても照明要らず。遠くで不快でない程度に蝉が鳴く。母の右でそよぐ白いカーテン越しに、緑か土かの匂いの混ざった自然な風が届く。祖父のすこし後方で扇風機の青い羽根がくるくると回る。銭湯でしか見ない旧式のお座敷扇、あの首が短い版をその昔祖母が用意してくれたのだった。二間続きを開け放して縦に十二畳ほどのこの部屋、向こうの和室は絨毯を敷いて、ぶ厚いテレビと革張りのソファーを配置した洋風のアレンジ。町田の家もそういえば居間に炬燵は置かなかった。最奥の砂壁に不自然に小窓があるのは、キッチンに通じる窓だったと思う。祖母と思われる影が動いた。

「これから、どうするつもりや。生活は。仕事は、どうする」

 びくっと私の体が揺れる。静寂を破る、父より低い、お腹に響く声。自分が話しかけられたのではないと分かっていても、私は背筋を正して座り直す。
「ここで、働きながら暮らしていきます」
 祖父が目を開く。鷹の射すくめる眼差しを未だ視線を落とす母に注ぐ。
「ばあさんから大体は聞いとるが。真咲のことはどうする」
「緑川高校に通わせます」
「真咲はそれでいいんか」
 唐突に話を振られても。
 ――そもそも私に選択の余地はない。
 凄みのある目が押し黙る私に向けられ、それはまた母に戻った。「ちぃさい頃から向こうに馴染んだもんに緑川はしんどいやろう。美雪、お前は生まれ育ったもんやから分からんかもしらんが、お前かてそれで出てったんやから考えてみい。緑川はなんもない、わしらのような年寄りしか根付かん町や」
「真咲は私と暮らしたいって」
「そう言うしかなかったんやろが」

 ――意外にも。

 十二年ぶりに再会する祖父と祖母が、私を理解してくれていて。
 十七年間育ててくれた母が、今、私を理解しないでくれている。
 皮肉で複雑過ぎる現実に、胸の内が狭まる思いがする。
「親のエゴや」と祖父は小さく吐き捨てた。「いっぱしに親やったら、自分の都合で子どもを振り回しとることを自覚しい」
「なしてお父さんは、真咲のおるとこでそんな話するん。場所考えてま」
「またお前は。真咲の前やからするんやぞっ」
 祖父が声を荒げる。たちまち険悪な空気が流れかけた所を、
「おじいさんったらもう、そんくらいにしたって? 美雪かて疲れとるげし」
 驚くほどのんきな声が割って入った。麦茶入りのグラスが人数分、それとやかんが乗ったお盆を手にした祖母だった。
「乗りもん乗っとると体しんどなるやろ? 知らんうちに喉からっからに渇くもんなげよ」美雪は昔っから飲みもん飲みたがらん子やったから、と言い足して手渡していく。渡されると全員が口をつけた。ごと、ごと、ごと、とグラスを置く音が順に続く。飲み終えて見れば全部、空だった。
 私が気づいたのに気づいた祖母は微笑すると、やかんに続いてお盆を置き、祖父のグラスから注ぎに入る。「気ぃ立っとる時にああしようこうしようゆうたってうまくゆくはずないがね。喧嘩なるだけやわ。お茶でも飲んでゆーっくり疲れとってからみぃんなで考えけばいいがやよ。ほんに、おじいさんも最初っからがみがみゆわんといてくださいね。歳なげさけ大きい声出すと血圧あがってまうわ」
 また目をつぶり腕を組む祖父。……こんなに強面のビジュアルだったろうか。幼い頃はお祖父ちゃーんと私だって飛びついた気がするのだが。やけに眼光の鋭い、任侠映画に出演しても馴染む風貌。いまはポロシャツにチノパン姿だけれどスーツにグラサンかければ完全にヤのつく人だ。頬に傷なんかなくて良かった。緋村剣心みたく長髪で美形ならば話は別だけれど。
「……お父さん、お世話になります」
「うむ。来たからにゃあしっかり働け」
 親分に対して母は関西人の語尾の上げ方で礼を言う。「ありがとう」
「真咲ちゃんな、お祖母ちゃんうちんなか案内したげるわ。二階の奥が空いとるさけそこ使って。美雪は昔、あんたが使うとった部屋でいいやろ。そのままにしとるさけ」
「あたしはどこやって構わんのよ」
 方言だと母は『あたし』呼称になるようだ。
「ほんなら行こかね」と茶を熱茶でも飲むみたく音をすする祖母。言い出しといてまるきり急ぐ気配がない。「なんやら荷物いぃぱい届いとったがね。足の踏み場もなかったさけおじいさんみぃんなうえ運んだげよ? 真咲ちゃんなぁ、お祖父ちゃんこんな顔しとってもほんに怖い人やないんよ。運ぶが向かいの吉野さんに手伝うてもろうたらってわたしがゆうても『一人で出来るわいっ』て意地になってもうて。そんで腰痛めてん。まだ痛いがやて。きんのの夜やってあんたらが来るさけよーう眠れんでねえ。このひと口に出してゆわんけど本音では楽しみにしとるんよ。どうしたんか首、寝違えてしもうて。やから顔あんま動かせんの」
 私に『目だけ向ける』理由が解せた。
 素直に母は机に手をついて頭を下げる。「お父さん、……申し訳ないわ。苦労かけます」
「ばあさんは喋り過ぎや、はよ上いったれ」
 怒ったような調子はいつものことなのだろう。腕組みを崩さない強面の祖父を、はいはい、といなすとようやく祖母は腰を上げた。
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