霧の晴れた海

美凪ましろ

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第三部 変貌

#03-04.連携

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「……お母さん、いつまで寝てるの……」
 娘の声で目を覚ます。こもりっきりだったこの子が部屋から出るようになったのはわたしのせいだ――と彼女は思う。
 目覚めたばかりなのに、息が酒臭い。浴びるように飲んだからだ。毎日飲んで飲んで限界まで飲んで……そうでもしないと、自分がなくなってしまいそうだった。いや、既に見失ったのかもしれない。
 床に座り込み、ベッドに上体を預けた状態で眠っていた彼女の周りに、空き缶が転がっている。これが、いつのものなのか、彼女自身、よく分からなくなっている。
「お腹空いた。ご飯食べたい」……のろのろと居間へ向かえば、そこにも空き缶が散在する。この有り様に彼女は、眩暈を覚えた。
 食べるのは、カップラーメン。彼女は、日常生活もままならない。二三日に一度、家を出て、カップ麺やパンを買いこむのでやっとだ。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう、と彼女は思う。愛らしい正海の笑顔が思いだされる。あの子は、あんなにも、可愛かったのに……! まさかよりによって天敵の息子の毒牙にかかるとは。馬鹿だったのだ結局。期待外れの行動ばかりとって。わたしを悩ませてばかりで……こんなにもなるまで、わたしを、追い込んで。
「あのひとたち……許さない」彼女は麺をすすりながら、「わたしがこんなになったのは全部全部……あのひとたちのせいよ。酷いわ。絶対に、許さない……」
「お母さん気持ちは分からなくもないけど」と娘は言う。「でもさー、おねえちゃんさー、ずっとずっと期待されて、きっと……辛かったんだよ。期待ってのは本来喜ばしい感情だけれど、プレッシャーっていう刃になりうるもんなんだよね……おねえちゃんの好きにさせてあげたら? とにかく――お母さん。しっかりして……あの強気なお母さんはどこに行ったの? お母さんがそんなだと、おねえちゃん、安心して出産、出来ないよ……」
 その娘の言葉で目が覚めた気がした。――わたしはいったい、なにをしているのだ!? と。
 食べ終えると、娘と一緒に部屋を片付けた。転がっている空き缶はごみ袋に突っ込む。これだけの空き缶を放置していたことに彼女自身、げんなりした。
 掃除機をかけた。トイレにブラシをかけた。放置された便座は可哀想に、真っ黄色で真っ黒だった。部屋が生まれ変わると――自分も、生まれ変われる気もしていた。

 電話をしたとき、ちょうど妹は出産する姪っ子を見守るため病院に来ているという。そんなにも長い間――大切な愛娘を放置していたことに気づき、彼女自身嫌気がさした。然れども、いま、大切なのは娘の出産だ。娘を寝かせて、ひとり、夜分に彼女は病院に駆け込んだ。
 彼女が来たことに、妹は、驚いているようだった。同時に――酒臭さに気づいたようだ。「おねえちゃん、ちょっと、匂うね……」誰に対しても誠実であろうとする妹は、素直に意見を表明した。「大丈夫? あと一時間くらいかかるって……お医者さんが、言っていたけど……」
「大丈夫よ」平静を取り繕って彼女は答えた。「大丈夫。初めての孫だもの。自分の目で、ちゃんと、見届けるわ……」

 生まれた子どもは2650kgだったという。――女の子だ。
 よく泣く。元気な証拠だ。せっかくなのでと、スマホに動画を撮影しまくる雅男に釣られ、仲良く写真に収まった――彼女である。
 帰り際、妹に声をかけた。「ふみちゃん、あなたには世話をかけるわね――」この妹が、ひとり、大黒柱としてフルタイムで働いているのを彼女は知っている。「わたしも、出来る限りのことは、するつもりでいるから……」
「最初から飛ばすと後が辛いよ」と妹は屈託なく笑う。「おねえちゃん。無理しないで。その様子を見る限りでは、無理に無理を重ねてきたんでしょう……? 正海ちゃんのことはちゃんとわたしたちでなんとかするから。おねえちゃんは、先ず、自分が立ち直るためにどうするべきかを考えて……? それが、一番、正海ちゃんにとっての幸せよ……」

 帰宅してから妹の言葉を彼女は咀嚼した。――確かに。いまの状態の自分は『異常』だ。生活することもままならず、母親としての職務を放棄し、投げやりに、酒浸りになって生きている……この状況を脱せねば、正海が孫がどうとか言っている場合ではない。
 立ち直らなくては。
 正海のために。自分のために。生まれてきた――赤ちゃんのために。
 そう決意した彼女は、医者の手も誰の手も借りずに、この状況から脱する道を探った。夫に、経済的に依存している状況も一因のひとつだと思い、職を探すことにした。いきなりフルタイムではつらいので、パートタイムで。電話をして面接をするとすぐ採用となった。この点、女性は、有利だ。特に子を持つ女性というのは、場合によっては不利になることもあるのだが、他方、接客に対する理解が進んでいるという理解を得られる点において、有利である。
 店で接客してみると、世の中にはいろんな人種がいることに――驚いた。家庭という檻のなかでは見えない世界がそこにはあった。――腰の曲がったお年寄り。年を経ても仲良く過ごす夫婦。子を叱り飛ばす母親。スマホをいじり倒す若者。友達にからかわれながら避妊具を買う――男子高校生。
 いままで見て信じてきたものはなんだったのかというくらいのインパクトを彼女に、もたらした。彼女が立ち上がったのを理解してか、仕事が休みの日は、夫は洗濯物の処理を一緒に行うようになった。そんな両親の姿を、これまた手伝いをしながら、娘は嬉しそうに見ていた。それを見て、思った。――なんだったのだろう、と。
 娘たちには娘たちなりの個性があり、親であってもそれを押し殺してはならない――。
 これまで訴え続けた正海の主張が、急に、すとんと、彼女の胃の底に納得という感情を伴って降りてきたのだった。
 歩み寄らねば、と彼女は思った。確かに、妹のしでかした行為は、許されざる行為だ。けれど、それと娘とは関係がない。彼女が自暴自棄になり、酒におぼれていた間、唯一無二の娘をケアしてくれていたのは、あの妹なのだ……正海が出会ってすぐに信頼を置くくらいに、献身的に。状況を詳しく聞いたわけではないが、その献身のほどは、正海の信頼ぶりを見れば分かるというもの。
 そのとき、初めて、妹のことが許せる――と彼女は思った。
 帰宅すると目を覚ました娘に、彼女はやさしく声をかけた。「お母さん、変わるから……信じて」
「――うん。分かった。お母さん、ありがとう……」泣きぬれる娘とひしと抱き合い、体温を味わうそのときこそ、彼女にとっての幸せであった。

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