霧の晴れた海

美凪ましろ

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第三部 変貌

#03-03.理想

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 息子から事実を打ち明けられたとき、わたしは、普通の親のように取り乱したりなどしなかった。相手が誰なのかを聞いたとき、……これはもう、逃れられない運命なのだと思った。きっとその子は無事に出産する……確信に近いものをわたしは抱いた。
 普通の親であれば十五歳の息子がセックスして同じ年の女の子を孕ませたのであればぶち切れるに違いない。しかし、それをしたところで事態が覆るわけではない。息子の性教育をしてこなかったことへの責任こそあれど、誰が十五歳の息子がセックスに溺れるなどと……思うだろう? わたしの生きてきた世界では、二十代や大学デビューで初体験を済ませるのが普通だった。
 いつ、世界は、変わったのだろう?
 彼女は――正海さんという。あの姉のお嬢さんにしては理性的な女の子で、どんな状況に置かれてきたのか、ゆっくり、時間をかけて話してくれた。わたしはそれを聞くうちにどんどん感情移入をし、昔の自分に彼女を重ねた。親に愛されなかった、膝を抱えてうずくまる幼い自分に水を与えるように、彼女を癒してあげたい……それが、わたしの願いだった。
 息子は、覚悟を決めた。年相応にチャラチャラとした浮ついたところのある少年だが、子どもを育てることがどういう意味を伴うのか。子育てに孤軍奮闘するわたしの姿を見てきたから、分かっているはずだ。父親は、他の男の子どもを産むと決めたわたしに寄り添ってくれる、職場の上司だった。あんないいひとが、何故、死ななければならなかったのか。世の中とは、理不尽だ。不幸中の幸いなのは、雅男も、文香も、父親のことを覚えているということ。毎朝、学校に行く前に、お父さん行ってきます、と遺影に声をかける。帰宅すればただいまと。あの子たちのなかで、父親の死は、どのように昇華されているのだろう。
 正海が来てからすぐに姉から連絡が来た。――あの子を返せ! 犯罪者めが! ……訳の分からないことをわめいていて、ひとまず、電話を切った。それからどう出るのか不気味であったが、気味が悪いほどに姉は静かであった。正海が来て一週間が経った頃、わたしは姉に、電話をした。
「おねえちゃん、いま、話せる……?」
「あなた、どの口が言えるのよ。おねえちゃんなんて……」十年以上会っていないが、姉の強気ぶりは健在であった。「いったいなに考えているの。正気なの。十五歳なら中絶――させるべきでしょう?」
 わたしは息を整えて言った。「中絶出来る期間はもうとっくに過ぎている。――五ヶ月、なのよ。正海ちゃんのお腹のなかでは命が育っている――それを前提として、わたしたちは、親として話を進めていくべきよ。あの子たちを守るために、なにが出来るのか」
「電話で話すべき内容じゃないわね」くっ、といつものように姉は喉で笑い、「いいわよ。じゃあ、次の日曜日、会いましょうよ。うちの夫は来られるか分からないけれど。――で。場所は、どこがいい?」
 わたしはいろいろな可能性を考えた。別に、うちに来て貰っても構わないけど、正海の安全を確保するのが最優先だ。わたしは最寄り駅の名前を伝え、ファミレスで会うことで話はまとまった。

「どういうつもりなの、正海」十五年ぶりに会う姉には、正直、病みやつれていることを期待したのだが、その期待とは裏腹に、相変わらず美しかった。「お母さん、そんな子にあなたを育てた覚えはないわ。十五歳でセックスするだなんて。お母さん、本当に、信じられない。学校に、なんて言えばいいの。照海は照海でめちゃくちゃだし、どうして、お母さんを、あなたたちはそんなに、困らせるの。お母さんどうしたらいいか――分からなくなったじゃない」
「なにも、しなくていい」毅然と答える正海。「お母さんは、ずっと理想の型を、わたしたちに押し付けてきた……その、ツケが、出たのよ。
 もう、限界なの。わたしはこれ以上、お母さんの求める娘を、演じることが出来ない……。
 雅男や文香ちゃん、それに、詩文さんと接することで分かったわ……家族なら、ありのままの姿を認めてやるものじゃないかって。わたしと詩文さんたちは、血のつながりはないけれど、本当のこころの交流がどういうものなのかが、……分かった」
「馬鹿ねあなた」娘の主張に動ずることなく、姉は、「あなた……そんなのは一時のものよ。詩文は、ただ、あなたの状況に共感と同情をして、一時的にやさしくしてやっているだけなの。そのうちボロが出るわ。赤子とあなたたちの世話に追われ、自分をなくしてしまうに……違いないわ。
 そうなる前に、あなたを、止めたい。
 出産することには反対しないわ。でも、その子は……赤ちゃんは、誰か別のひとに育ててもらうほうが、賢明じゃないかしら?」
 ――やっぱりね。
 わたしは、これ見よがしに大きく息を吐いた。姉は、昔からこうなのだ。相手を、自分の思い通りに動かし、それを重ねることが人との交流だと思い込んでいる。自分の思うがままにいかないとすぐ切れるところなんか……父親そっくりだ。
 わたしは口を挟まず、正海に任せることにした。すると正海は、
「……お母さん、なにも分かっていない」
 と声を震わせる。「お母さんは、わたしがなにに悩んできたのか、考えようとしていないでしょう? そこが、わたしは、嫌い、なの」一語一句、力をこめて発音する正海は、「すこし、離れて、考えたほうがいいと思う。お母さんとわたしにとって……それがベストだと思う」
 娘の一大事だというのに、父親は来なかった。その境遇に、わたしは同情する。……がこの同情は、姉の指摘するような薄っぺらいものではない。
「考えるったってお母さん一週間、考えに考えたわ」娘の主張を聞き入れぬ体の姉。「子どもが迷い苦しんでいるなら、正しい道を指し示してやるのが、親としての務めじゃないかしら。
 子どもは、子どもなのよ。子どもに、子育ては、――出来ない」
「そうかしら」たまらず、わたしは口を、挟んだ。「子どもが決めたことなら、親として、見守ってやることが、大切なのじゃないかしら。
 正海は、確固たる意志を持った、ひとりの、人間よ。
 あなたの玩具でも所有物でもない……」
「申し訳ありませんでした」このタイミングで雅男が詫びた。「謝って済む問題ではありませんが、ぼくのしたことは、取り返しのつかないことだと、思っています……。
 責任を取って、しっかり、赤ちゃんを育てる正海をサポートして、いきたいと……思っています」
「中学生なのに?」小馬鹿にしたように鼻で笑う姉に対し、雅男は、「あと半年で中学卒業なんで、そしたら、働きます」
「あなた――覚悟はあるの?」姉の矛先は雅男に向けられた。「子どもを育てるというのは、あなたが考えるよりもずっとずっと大変よ……父親がいないなら、そのことは分かっているでしょうけれど……」わたしの死んだ夫とは面識はないが、母から聞いたのだろう、姉は。「自分の時間をすべて奪われる。まともな青春なんか送れないわ。まだ十五歳でしょう? いろいろなひとと出会って、違う価値観に触れて、自分という人間を肥やす……大切な時期だというのに。
 これは、あなたのためにも、言っているのよ。雅男くん。
 ……あなたたちは、間違っているわ。
 自分を犠牲にしてまで……そこまでして、赤ちゃんが、欲しいの?
 わたしが言う通り、誰か別の人間に育ててもらうほうが――賢明だと思うわ」
「賢明になれば、お母さんのようになれるの?」ここで切り込むのは正海。「そんなこと言ったって、うちの家庭なんか、がらんどうじゃないの。お母さんは娘にあるべき姿を強要する毒親と化したし、お父さんはお父さんで家庭を顧みない不倫野郎に成り下がった。それが、……家族としてのあるべき姿? 懸命なる選択だと――言えるの?」
「お母さんの話をしているんじゃないわ。あなたの話をしているのよ」
「違わない。お母さんは……だったらお母さんは、なんで二人も産んだの。育てたの。愛のない家庭になんか、ふたりも、子どもは、要らない――でしょう?」
「それ、は……」ここに来て初めて姉が戸惑いを見せた。「どうしても、……欲しかったの。子どもが。赤ちゃんが。生まれてくるまで、赤ちゃんがこんなに愛おしい存在だなんて知らなかったから……」
 妹を散々ないがしろにした両親に無関心を貫いた姉はかく語る。とそんな姉に、
「――自分の都合のいいように動いてくれるモルモットが欲しかっただけなんだよね。お母さんは……」ずばり、正海が指摘する。「だってお母さん、いつもマイナス方式だったじゃないの。家の手伝いや勉強をするときだけは喜んでくれたけど、でもそれ以外のことをすると露骨に嫌がった。……わたしの、基本的人権というものは、どこにあるの。お母さんのなかで、『わたし』は『わたし』として存在するの……?」
「勿論よ」
「嘘。だったら……」正海はコップの水を含み、「これからわたしのすることを認めて。母親なんだったら――娘が自分で考えて決断したことを、やさしく見守るべき――だとわたしは思う」
「分かった。もういい」バッグから財布から出して姉は立ち上がった。「もういい。あなたは本当に――最低よ。二度と、会いたくない。あなたは最低で最悪の――子どもよ。
 いつか、あなたは自分の決断を後悔するわ。必ずね。そのときになって泣きついたって遅いんだからね」
 財布から取り出したのは、何枚あるのだろう、万札が何枚も。その多さに目を見張った。が姉はクールな表情を貫き、
「養育費というには少ないかもしれないけれど、使って。あなたに借りなんかつくりたくないから――ふみちゃん」
 言って姉はわたしに目を向け、
「不思議ね」と真顔で言う。「あなたが犯した罪を……その罪が巡り巡ってまさか自分の娘に降りかかってくるなんてね。この世は――不思議ね。もし、神がいるとしたら、わたしにこんな運命を与えた彼を――呪うわ。
 こんなことをしたって、あなたの罪が消え去るわけでもなんでも――ないんだからね。
 わたしは、あなたたちを、絶対に――許さない」
 わたしはなにも答えなかった。かける言葉が見つからなかった。確かに、姉は正しい。けど……
「正論を振りかざすところがしんどいんだよね……おねえちゃんは」つい、最後だからと、本音が出た。「そんなに正しいことばっか言ってて、息苦しくない? 息が詰まらない? ……正義は確かに大切だけれど、誰かに強要するものでも振りかざすものでもないわ。そのことが理解出来ない限り、あなたは一生、理解者を得られず、孤独に……生きていくのよ」
「ご大層な弁舌をどうも」姉は気取ってお辞儀をし、「じゃあ、さよなら。あなたたち、これ以上馬鹿馬鹿しい論議に、わたしを巻き込まないで頂戴。……二度と、あなたたちの顔なんか、見たくないわ。さよなら」
「……必ず、正海さんを、幸せにします」
 懸命なる雅男の訴えに、姉は耳を貸さなかったようだ。なにも言わずに店を出た。ちりん、とドアのベルが鳴った。ばっちり化粧を整え、スーツ姿で武装して来た姉の後ろ姿をわたしは、目に焼き付けた。
 見れば、正海が泣いていた。……彼女は、捨てられたのだ。あまりにも悲しい……。もらい泣きをしながらわたしはしっかりと正海を抱き寄せた。姉が出来なかったぶん、わたしが、母親代わりとして、正海を――正海の赤ちゃんを、幸せにしてやらなければと、胸に誓った。

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