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#EX.華麗なあなたと恋愛結婚

#EX-11.若見理佐の憂鬱と覚悟

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『若見さん、退職されるんですね。お疲れさまでした。新しい職場に行ってもどうかお元気で……』
 ――最初から、気にくわなかった。あの女のことは。
 どこにでもいるのだ。ああいう偽善者が。誰に対しても敵意を抱かず、自分をこころから憎む人間がいることなどとは想像もしない、おめでたい人種が。
 顔はやたら綺麗でメイクも服も趣味がいい。ふわふわとした善意を身にまとい、周囲の人間をその善意で巻き込む……迷惑な人種。事件が起これば『なんてひどいことを……』と嘆き、被害者にシンパシーを寄せる。人間誰しも他者を傷つけたいという本音を有することを考えもしない人種。ヤフコメで正義感を振りかざすのはあの手のタイプだと思う。
 若見理佐は、そのような女をヘイトした。先ず、関わることをせず、出来るだけ距離を置く。そうすれば、あのおめでたい台風に振り回されることなどない……と思っていた。
 略奪したのに、特に理由などなかった。同じ営業部の、山崎という男は、浮気をすることで有名で、夏妃はそれを容認する寛容な女……という図式が出来上がっていた。それに、風穴を開けたくなったのだ。
 山崎はあっさり、誘いに乗った。馬鹿な男だと思った。尻軽女という言葉はあるけれど尻軽男という表現がないのはどうしてだろう……性差別はこんなところにまで生きわたっている。言葉は、思想を世相を反映する。その時代に生きる人間がなにを見ているのかを露骨なまでに反映する。
 ともあれ、理佐は山崎を誘った。誰にでも男に抱かれたい夜がある……自分という穴を満たして欲しい欲望がある。それを満たすに、山崎はうってつけの男であった。脂っこくなくさっぱりしており、後腐れがない。『本命』にした途端、男は変わる。あれやこれやと彼女らしさだの女房らしさだのを要求するのだ……それが、理佐には、煩わしかった。
 五度ほど夜を共にした頃であったか。理佐は、山崎を泥酔させ、膣内射精をさせた。あの朝目覚めたときの山崎の様子といったら……コントみたいで笑えた。ベッドから転げ落ち、慌ててパンツを履いて出て行ったのだ。
 直後、理佐は自分を雇う派遣会社に辞意を伝えた。引き留められはしたが、妊娠したので、と打ち明けると辞めさせざるを得なかったようだ。
 あのとき、避妊をしなかったのは、別に、誰のでもいい、子どもが、欲しかったからだ。理佐は秋に三十路を迎える。そろそろ結婚も出産も、本格的に考える時期に来ていた。
 嘘をついたのは、別に、そのとき懐妊せずとも、入籍してそれから何度も行為を重ねていれば、自然、妊娠するものと理佐が信じ切っていたからだ。理由は後付けでいい。結果さえついてくれば……と思って、山崎に打ちあけたところ。
『なんっで、こんなことに……』
 避妊なしのセックスをして以来、理佐を避け続けていた山崎に告げたところ、このような反応が返ってきた。喜ぶどころか、これでは、不倫相手に妊娠をされたことを迷惑がる夫……という表現がぴったりであった。
 山崎には期待出来ない。理佐としては、山崎と結ばれようが別にどうでもよかったのだが……彼女は実家暮らしをしている。最悪、親に育ててもらうというパターンもありだ。
 だから、理佐は、自分が退職する際、爆弾を仕掛けることにした。周囲のみんなを驚かせる超ド級の。この際、自分が略奪女扱いされようが、別にどうでもよかった。どうせ明日から顔も合わせぬ人間だ。悪意を抱かれようが、どうでもいい。
 夏妃の反応は傑作であった。あの青ざめた表情……ショックを受けて、その行きどころのない苦しみにひとり耐えるさまを見られただけでも、仕掛けた甲斐があったというものだ。
 ところが、予想外の事態が起きた。一課の課長の広坂が夏妃と結婚する……というのだ。馬鹿な、と理佐は思った。あの表情。あの動揺。……からするに、山崎を奪われたことに落胆しているのは瞭然……だというのに、なにを考えているのだあの課長は。信じられない。
 夏妃を姫抱きにした広坂は堂々と職場を出て行った。そんな二人に、羨望の眼差し、そしてあたたかい拍手が送られた。理佐の策略は塵芥と化した。――結局勝ち組で終わったのだ、あの女は。悔しい悔しい。
 山崎は、理佐の仕掛けた爆弾でようやく覚悟を固めたのか、『ならおれのアパートに来る?』と渋々ながらも提案した。理佐は、必要最低限の荷物だけ持って、ひとまず、山崎宅へと向かった。
 ワンルームのマンションだった。二人で住むには狭かった。が文句など言っていられない。
 理佐は、料理がまったく出来なかった。いままで一度も弁当など作ったことがない。しかし、山崎といったら、『おれの金で生活すんだから飯くらい作れよ』……典型的なる亭主関白の男と化した。それに対し、『あたしが仕掛けたんだから仕方ないわよね』と黙認する自分と、『この二十一世紀になんて勝手な男なの!』と怒りを覚える、両価的な自分を認めた。
 山崎の欲求といったらエスカレートする一方で、帰ってきて部屋が片付いていないと怒る。洗濯物を毎日済ませないと怒る。料理がまずいといって怒る。……なにさまだと彼女は思った。お金を稼ぐことがそんなにも偉いのかと。
 それでも、理佐は、耐えた。これはいままでしてきたことへの報いなのだ。贖罪なのだ。だから耐えよと……自分に言い聞かせた。
 つわりが辛いからと言うと、山崎は理佐を抱くことを諦めた。それでも、トイレに猥本がある辺り、そこで自己処理を済ませているのだろう……ひとがこんなに苦しんでいるというのに。理佐は山崎の顔を見ることでさえいやになった。
 互いの両親に顔合わせをし、入籍を済ませ、十月の三連休の中日に結婚式を挙げることに決め、共同生活が二ヶ月に差し掛かったある夜のことであった。山崎が、理佐の腹を撫でて言った。
『おまえ……六ヶ月にもなんのに。なぁんでお腹が出てないんだ……?』
 そろそろ、理佐のついた嘘も限界に来ていた。否、理佐の精神も限界だった。実家だと、買いたいものも買えるし、好きなことも好きに出来る。実家で謳歌していた自由も尊厳も、ここではあったものではない。
『なんでって――妊娠してないから』
 山崎は出て行った。どこへ行くのか、興味も湧かなかった。それよりも、職が見つかるのか……山崎と別れるのなら仕事を探さなくては。派遣会社も変えて。理佐の頭のなかにあるのは、そのことだけだった。

「まったくもー、とんだ出戻りねー。ほら、掃除するんだからさっさとどきなさいよ」
 実家の居間のソファで煎餅をかじりながらジャンプを読んでいると母親に邪険にされる。短い結婚生活が幕を下ろしてから一週間が経過していた。山崎からの連絡は――ない。マンションに戻ってこない。会社も退職している。以上のことから、近距離にある実家に帰ったものと推測される……もう、どうでもよかった。
 出戻り女パラサイトシングルイタいアラサーなんとでもいえ。半ばやけくそで煎餅をかじり、母親の小言を聞き流す。「本当にねえ、あなた、……中山さんになんて言われたか知ってる? お嬢さんの結婚式楽しみですねって……あなた本当に考えてんの? お友達になんていうつもりなの。まったくお母さん……恥ずかしくて近所も出歩けないのよ。いったいどうしてくれるの」
 ……どうもこうも、出る必要があれば出ればいいし、いやなら引きこもればいいだけだ。なにを悩んでいるのだろう馬鹿馬鹿しい。いまは生協もAmazonも楽天もネットスーパーもよりどりみどりで家から一歩も出ずに生活をすることなど可能だというのに。母親といえば、理佐の姿を見るたびにぶちぶち不満をこぼすし、これなら、あの山崎のところにいたほうがまだマシだったかもしれない。
 実家は決して居心地がいいとはいえないが、テレビがあるのは居間だけなので、理佐はひたすら居間でごろごろする日々だ。まるで酷使され続けた二ヶ月間を取り戻すように。
 どうしてだろう、こうして空白にさらされていると思いだされるのは――
『まったくおまえさぁ。フライパンの洗い方も知んねえのかよ。ほらこうやんだぜ』――金属たわしを使うと剥げるからと、スポンジで丁寧に洗ってくれた。
『洗濯物はさぁ、こうやんだぜ。干す前にぱんぱんぱーん、て叩くの。したら皺なんか入んねえからさぁ』――分かっているのなら自分でやればいいのに。
『掃除はうえから順番に。掃除機かけるまえにはたきで埃を落とすこと。こんなふうにな』――一人暮らしの独身男のくせしてやたら部屋を綺麗にしていた。料理は一切出来ないくせに。なんでも、学生時代に清掃の仕事をしていたことがあり、掃除方面だけはやたら強かった。無駄に。――と吐き捨てる自分も存在するのだが。
『――厚志』
 ストックホルム症候群かもしれない。誘拐犯がいっときでもやさしい感情を見せれば被害者がそれを拡大解釈してしまうあの現象。されど、理佐のこころのなかに去来するのは、文句を言いつつも結局、理佐に丁寧に教えてくれる、あの山崎の姿だった。
 仕事をする気も起きなかった。探さなくては……と思うのだが、ちょっとした貯金もあり、いますぐ働かなければならないというほど、困窮はしていない。それが、彼女の迷いを深めていった。――このままでいいのかなあたし。こんなふうに、毎日だらだらして――母親にがみがみ叱られて。
 泣き濡れる娘に気づかず母親が掃除機をかけまくっていると、インターホンが鳴った。「理佐。出てー」自分で出る気はないらしく、掃除機を止めない。「お母さん、いま手が離せないから」
 ――仕方がないなあ。
 濡れた頬を拭い、応対する――と、そこに映るのはスーツを着た山崎の姿だった。
「……なに。何の用……」
 来てくれて嬉しいと思うのに、こころとは裏腹に、つっけんどんな態度を取ってしまう。そんな理佐に、
「おれが――悪かった。あれこれおまえに押し付けて、おまえの気持ちちっとも、考えちゃいなかった。
 ――理佐。やり直そうおれたち……。いまならきっと、やり直せる気がするんだ……おまえと」
「――勝手なこと言わないで!」理佐が絶叫するので何事かと母親が見た。「ひとが……必死に、あなたのことを忘れようと……努力してるのに。馬鹿……」
「……理佐」
 門を開けたときに、山崎が手を広げていた。この暑いのに黒のスーツ姿で。おまけに薔薇の花束を用意なんかして……。馬鹿。馬鹿……。
 久方ぶりに山崎の腕のなかで泣いた。自分がなにをしたのかとか、……なにをあんなに妬ましがっていたのか。急に馬鹿らしくなった。なにをあんなに……突っ張っていたのか。
 周囲の人間を散々巻き込んでおいて、理佐は、結局、山崎の元へと戻ることを選んだ。予定通り結婚式は行う。友達も呼ぶ。姉には、三連休の中日に大迷惑な、と言われたが――知ったことか。
 間もなく、理佐は妊娠し、一部は思い通りにならないものの、それなりに思い通りになる日常を迎えることとなった。そのときの山崎の行為の裏にあの女性の献身が働いていることなど、理佐は知る由もない。

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