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#02.アフターフォローは入念に

#02-02.局地的に非常に強い嫉妬が降ることでしょう

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「――あ」
 エレベーターを待つ集団のなかに、山崎を見つけた。よりによって地球史上最も会いたくない人物に、週明け早々に出くわさなくたっていいのに、……と彼女は苦い思いを噛みしめる。広坂はスタバに寄っており、二人は別々に出社した。
「おはようございます」と彼女は淡々と告げる。「住所の件、出来るだけ早く連絡頂けると助かるのですが。社内メールで」社内、という単語を強調した。あれから何度も山崎から電話がかかってきており、LINEはブロック。電話は着信拒否をしている。
 なにか顔を歪めた山崎ではあるが、他の社員もいるゆえ、本音を口に出せないらしい。そうしているうちに、エレベーターが目的の階に到着する。たちまちひとが吐き出され、社員皆がフロアへと向かう、そのなかで、
「――待てよ」背後から山崎に腕を掴まれる。「なっちゃん……考え直してくれよ。おれのこと、捨てないでくれよ……」
「どの口が言っているのよ」彼女は、山崎の手を振り払った。これからは、広坂なしでも苦境を乗り越えられる強さを持たねば。「あなたの反論も弁明も、一切、聞くつもりはないわ。あなたは、わたしを、裏切った。裏切り続けた……その罪は、わたしと愛人関係を構築することではなく、是非、奥様を幸せにすることで報いて欲しいものだわ。
 さよなら。
 今後仕事以外で話しかけることがあったら――」

「夏妃ちゃぁん。会議、第一ってメール来てたけど、第一って確か一課が使ってるわよね?」
 仕事中、金原に指摘され、彼女は自分の犯したミスに愕然とした。「……申し訳ありません。全員に再送します」
「いいのよいいのよ」笑って彼女の背中をさする金原は、「珍しいわね夏妃ちゃんがそんなミスするなんて。大丈夫? 困ったことがあったら、なんだって相談に乗るわよ?」
 母のように接してくれる金原の善意がありがたい。しかし――それは、出来ない相談だった。苦渋に苛まれながらも彼女は笑顔で取り繕い、礼を言った。

 昼は、自席でひとりで摂る。同期は既に皆転職するか退職するかしており、同じ部署の人間は年齢性別もばらばらで、よって気軽に会話の出来る友達もいない。普段は弁当を手作りする彼女であるが、昨日は広坂の実家に行ったり、帰りに自宅アパートに荷物を取りに行ったりと、慌ただしかったので、コンビニでお昼を調達した。こういうときは無性に麺類が食べたくなる。温泉卵の乗った冷やしうどんをすする彼女に、
『件名:住所です』
 山崎からメールだ。すぐ開く。と、住所が書かれた最後に、
『おまえなんか勘違いしてる。はめられたんだよおれは。ちゃんと会って話したい』
 最後まで未練たらたらの山崎に彼女は呆れ、三秒で返信した。
『分かりました。申し訳ありませんが、発送は土曜日になります。少しお待ちください』
 住所を付箋に書き写すと、彼女はメールを削除し、ごみ箱を空にした。あんな男からメールが届いたという証拠すら、一ミリだに残したくなかった。

 いつも通り、彼女は定時で退社する。違うのは、帰る場所が変わったという点。うっかり、電車を間違えそうになり、そんな自分が可笑しかった。笑える余裕があるのだけ、いいのだと、彼女は、思った。
 広坂の案内したお気に入りのスーパーで買い物を済ませ、Suicaをタッチするときに広坂が思いだされた。ああこれからわたしは、きっとSuicaをタッチするたび、彼のことで胸が苦しくなってしまう……あまく切ない恋の予感に、ふるわされていた。
 夕食は、赤身魚の干物に、ほうれん草のおひたし、それとにんじんのお味噌汁。にんじんは、煮込むと甘味が増し、擦ったごまなんかを振りかけると最高だ。すりごまを手際よく作られるスリッキーは自宅から持ってきた。料理の途中で、広坂からメッセがあった。七時になるとのこと。ならばと、昨日のぶんとまとめて洗濯物を干し、クイックルワイパーでフローリングを掃除していると、広坂が帰ってきた。
「ただいまー」
「……おかえり、なさい」途端、彼女のからだに如実なる変化が起きる。自分の声がふるえているのに気づいた。――おかしい。いったい、自分は、どうしたのだろう……彼の声を聞くだけで切なくて苦しくて。その感情はあまりにも強く、発生源である胸元を掴んだくらいだ。
 玄関からやってきた広坂が、彼女の様子に気づき、「どうしたの……具合でも」
「……苦しいんです、わたし……。どうしたんだろう。あなたの声を聞くとなんだか、胸がどきどきどきって、変になって、……おかしくなっちゃいそう……」
「――夏妃」
 気がつけば彼の腕のなかにいた。愛しくて愛しくて、たまらないひとの腕のなかに。
 頬に手を添えた広坂は、そっと彼女の顔を持ち上げ、
「それは、……恋だよ」
「……恋」彼女は戸惑った。「でも、いったい、どうして……。わたし、料理しながら考えてたんです……。山崎とのことを。……彼に対する愛情っていうのは、愛情っていうもんじゃなくて……六年も付き合っていると、ときめきとかプレシャス感――希少性っていうのかなあ、そういうの、失われちゃうじゃないですか……だから、だから。
 好きになって――嫌いになるのが怖い。
 いつか、あんなふうに、破綻するなら。だったら最初から、近づかないほうが、いいんじゃ、ないかって……。
 わたし、今日、山崎に、本当に、酷いことを言いました」
『――殺すわ』
「それを聞いた山崎は本当に青ざめていて、ああわたしなんてひどいこと言ったんだって思いました……でも、わたし、謝りませんでした。振り返るとなんてひどいことしたんだろうって……傷つけられたからって相手傷つけてたらきりがないじゃないですか。誰かが歯止めにならないと……。
 そもそも、わたし、なにしに山崎と付き合っていたのかとか。なんか、浮気を許すことでわたし自分に酔っていたのかなって……本当は、山崎のこと、全然好きじゃなかったのかなって思うのに、思おうとするのに、でも不思議ですよね。そんなときに限って、山崎がやさしくしてくれたときのことが、思いだされるんです。完全に、ストックホルム症候群だと思うんですが……ひどいことをしてくる相手の、ほんのちょっとやさしくされてくれる部分が拡大解釈されるあの現象です……。
 なんか、ひどく、混乱していて……ごめんなさい譲さん。
 わたし、あなたに、……『譲らせ』たくないのに」
 小さな彼女の冗談に、ふ、と広坂が息をこぼした。「そうかそうか。いっぺんに来ちゃったか。いろんなことが……あったからね。混乱するのも当然だ。ぼくにも、責任がある」
 短く広坂は彼女に口づける。それだけで、彼女の魂が熱を帯びる。……欲しい。
「そっかそっか」彼女の頭を撫でて広坂は微笑む。「ほんとは、ごはん食べてから考えよ、って言おうと思ったんだけど、路線変更。
 ――夏妃を、食べさせて」

 生理は、まだ、終わっていない。残念なことに。呪わしいほどだ。一度広坂に抱かれれば、この胸のもやもやも解消されるだろうに。思いだされるのは、山崎が彼女に提供した贖罪のセックス。この三日間で広坂が彼女に与えてくれたものの比にはならないが、それでも、浮気という罪悪に走ったことに対する謝罪の意味を込めたセックスは、ある程度、彼女を満足させてくれた。逆に、浮気してくれればあんなにしてくれるのねと、実をいうと、山崎の浮気を心待ちにしていた自分を認める。
『許す』というのは、上下関係の発生する行為だ。許す側と許される側に分断された瞬間、きれいに上下に別れる。普段は、突然宅にやってきて食事や奉仕を要求する山崎に隷属する自分が、払拭される気がするのだ。
 だから、彼女は、山崎を許した。
 考える余白を与えてか。すぐには、広坂は彼女には触れなかった。彼女を横たえ、じっと隣で見守っていた。
「……あいつのこと、考えてる?」
 広坂の声はふるえていた。見たことのない、広坂がそこにはいた。いつもおだやかでやさしくてジョークを言う、明るい楽しいだけの仮面を脱ぎ捨てた、猛々しい雄がそこには存在した。その目を見た瞬間、彼女のこころに火が点いた。
「考えてたけど――もう、あなたのことしか、考えたくないの」

 どうして、このひとの舌はこんなにも気持ちがいいのだろう。
 ねっとりと彼女の敏感な蕾を転がす広坂のなまあたたかい舌先。何度もキスを交わし、彼の感触、温度を、この身に取り込んだ。仮に、目隠しで十人の男にキスをされたとて、広坂のものだけは見抜ける自信がある――それくらいの密度と情熱を本来伴うものだ。接吻というものは。
 唇と唇を重ねるだけの行為が、どうしてこんなにも尊いのか。考えようとしながらも、彼女は、広坂に、乱されていく。
「また、いっちゃった……?」肩で息をする彼女の髪を広坂が撫でる。「おっぱいだけで、いけるからだになっちゃったんだね……えっちな夏妃が、ぼくは、大好きだよ? あそこなんかもう……どろどろでしょう? はやく、夏妃のあまい蜜を、吸いたいよ……」
 そして顔を埋める。彼女の肉体史上、二番目に敏感なその箇所に。彼女にそれを知らしめたのは、他の誰でもない、広坂だ。彼以外に、ない。そのくらい、彼に没頭――してしまっている。
 広坂が、彼女の乳房を揉みしだく。激しく。加えてそこを愛しこむ彼の舌使い……官能的なキスを思いだしながらまたも彼女は絶頂を迎えた。全身が揺れるほどにそれは激しいものであった。
「あぁ、……やっ、やっ、……ああっ……」薄闇のなかで、涙の筋を流しながら彼女はエクスタシーを表明する。その姿がどれほど男をそそるのかを知らずに。「やぁっ……だめ。だめっ……お願――」
 い、と叫んだところでまたも貪られる。彼女は激しく叫んだ。激しく泣いた。赤子のように――愛を欲する、生まれたての赤ん坊のように。
 おそろしいマグマの塊のようなものが彼女の内部を走り抜け、そして、過ぎ去っていった。広坂は、そんな彼女の感性を引き出すがごとく、激しく――また、やさしかった。辛抱強く最後まで付き合った。
 終わったときは、彼らはへとへとだった。「もう、動けないよ夏妃……。ぼくんなかの水分、全部きみのおっぱいに持ってかれちゃった……」
 嵐のあとのような静けさを、二人は抱き合うことで確かめる。――喉、乾いた。その思いは共通のようで、広坂が台所からお水を持ってきてくれた。例によって、THAMOSの水滴のつかないタンブラーに注いだ無糖炭酸水。水は近所に破格の値段で買えるところがあり、広坂のお気に入りらしい。手渡されるままに、彼女は喉を鳴らして飲んだ。そしてまた、広坂と抱き合う。目を閉じ、彼のやさしさに浸りながら彼女は思う。こんなふうに、ゆりかごのなかに揺られたような時間は、山崎とのあいだに、存在したろうか……? ならば、あれは、なんだったのだろう。なんのための、交際だったのだろう。人生を無駄に浪費するため? 親から与えられた大切なからだを使って――あんなにも、懸命に養育してくれた両親のために?
 愚問だ、と彼女は吐き捨てる。何故ならわたしは――
「……山崎のこと、考えてるだろう?」ずばり、広坂に指摘される。目を開いた彼女に広坂が、「なんかね。雰囲気で分かるんだ。そういうときのあなたは、苦しんでるような、悲しいような顔してる。黙っていようかと思ったんだけど、ぼくは、あなたのなかからあいつを消し去りたいくらいに、あいつに、嫉妬している……。
 狂ってるかな? ぼく……」
「いえ、狂っているのはむしろ、わたしのほうかと」
「そうかな?」
「そうです」と彼女。「あんなに、……挿入もされてないのに、乱れちゃうなんて、生まれて初めてのことで……例えはあれですが、クスリや酒に依存する人間の気持ちが、分かる気がしました……あとセックス依存症も」
「『中毒』って言い方、いつから言わんなくなったんだっけか? 例えば精神分裂症が統合失調症って呼ばれるようになった、登校拒否が不登校って呼ばれるようになったみたいな、前向きな改版だったらぼくはもろ手を挙げて賛成すんだけど……『本質』を見ていないような気がするんだよね。
 ところで夏妃」
 すっぽりと彼女の乳房を包むと広坂は、

「わけわかんなくなっちゃう可愛いきみを、もう一度見せて」

 彼らが夕食にありつくのは夜の十時を過ぎた。

 *
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