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◇後日譚

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 足元不確かな暗がりを進む。
 
 30センチものさしでも挟んでいたような、あたしと彼の距離。
 
 隔てるものは、なにもない。
 
 ぎこちない不安を駆り立てる葉揺れ。
 
 風がたてる、ざあっとした空気が耳元を切る。
 
 奥へ、奥へと進んでいく。
 
 言葉少なな彼。
 
 誰ひとり見えぬ闇であっても、あたしは繋ぐ手を信じている。
 
 進む足先、木々の隙間から臨む、真っ黒な空。
 
 それに気を取られていたからか、一面開けた世界を望むのは、
 
「着いたぞ」
 
 彼の呼びかけによってであった。
 
 待ち望んでいた景色に、あたしは息を忘れる。
 
 空と水が紡ぐ、漆黒の世界。
 
 色を与えるのは、おぼろげな月。
 
 円を描く、湖とおぼしき黒曜の池。
 
 色を奏でるのは、淡く儚き桜。
 
 よく磨かれた鏡のように、華やいだ刹那をくっきりとあらわす。
 
 こころの奥深くを視ているような、倒錯感。
 
 あたしと彼の叫びが所々貼りついた脳。
 
 この鼓膜は痛いほどに、静寂の海に包まれる。
 
「きれ、い」
 
 溶け込んでいく自分の声。
 
 確かめるように、手にきゅっ、と力が入る。
 
 自分でさえも不確かに感じる。
 
 この温もりを、信じている。
 
「……香枝」
 
 あたしの水面を揺らす、彼の声。
 
 月のあかりをほのかに浴びて、切なげな瞳。
 
 そっと、手が触れる、あたしの頬。
 
 指先は少し、ひんやりとしている。熱が加わるのは、
 
「香枝」
 
 壊れものにでも触れるように、けど丁寧に拭ってくれるからだろう。
 
 遠く、光る月が曇る。
 
 止めようと思うのに、止まらない。
 
 両手で大切に抱えようとしているのに、どんどんこぼれ落ちてしまう。
 
「清司、あたし……」
 
 どう、言葉にしたらいいのだろう。こんな想いを。
 
「好き」
 
 じゃ、足らない。
 
「好きなの、清司」
 
 語彙の少ないあたしは悲しい。
 
 なにが的確な言葉だか、教科書には載っていなかった。
 
 頭のてっぺんに手が添えられると、あたしの涙腺は決壊した。
 
 泣くために来たわけではないのに。
 
 堰止めていたものが一気にあふれてくる。
 
「香枝。俺……」
 
 目線が降りてくる。同じ高さに、
 
「お前の泣く顔見てると、変な気になる」
 
 やわらかく、唇を重ねる。余韻を確かめるように、ゆっくりと、離れて行く。
 
 また一筋が落ちると、彼は頬の頂点に口づける。
 
 まぶた。
 こめかみ。
 まつげ。
 下まぶた。
 頬骨。
 口角。
 顎先。
 
 匂い立つ桜の海の中、花びらのように、唇を落としていく。
 
 耳を甘噛みされた瞬間、崩れそうになるからだを、彼の両手が支える。
 
 そのまま耳の下、えらと下方に口づけて、首筋に、
 
「あ――」こぼした息は、縦を遮るなにかに封じられた。
 
 恍惚としたまま薄目を開けると、立てた人差し指が唇に当たっていて。
 
「俺以外には、聞かせたくない」
 
 誰もいないじゃないの。
 
 瞳で疑問を悟ったのか、彼は顎を右にしゃくり、
 
 ――桜の海。
 
 鼓動おぼつかぬまま、熱混じりの息をこぼした。
 
 花の香りが強まるのは、風が吹いてきたせいか。
 
 落つる花弁がまるで、雪のよう。
 
 優雅に浸るよりもあたしは、欲しかった。
 
 こんな自分は恥ずかしいかもしれない。
 
 けどあたしたちは駆けだしていた。
 
 闇を縫う、足音。
 
 肩を並べて走るこのひと。
 
 桜の雨の中を、なにか急かされるように。
 
 濃緑の街路樹をろくろく見もせず、出口を求めている。
 
 焼きついた色と香り。
 
 あたしはこれからも、桜を見る度に彼を思いだすのだろう。
 
「目が、赤いな」
 
 公園沿いの歩道に出ると急に彼は、足を止めた。
 
 あたしはすっかり泣き虫になってしまった。
 
 足元に落ちたおびただしい花びら。踏みつけて歩くことに、怖くなる。
 
「どうした」
 
 形あるものはいつか消えてなくなる。
 
 命あるものはいつか滅する。
 
 美しさはやがて老いへと変わり、生まれ来た感情もいつしか失われてしまうのかもしれない。
 
 残忍な記憶だけを残して。
 
「不安、か?」
 
 顔をあげた。
 
 強く風が吹き抜け、また儚さを散らしていく。
 
 どうしようもない熱は、少しずつ冷えて行く。
 
 取り戻したものも、いつかは無に還る。
 
 つかの間のひとときを永遠に変えたいのは、人間の傲慢なのか。
 
「こんな風にいつか消えるのが……怖くて」
 
 うつむいて不安を口にしているというのに、ふっ、と笑う種の息を聞いた。
 
 なによ、とちょっと苛立てば、
 
「いや。変わったと思ってな」
 
 例えば父親がするように、頭をわしゃわしゃと撫でる。
 
「全然表情固かったのが、泣いたり、笑ったり、素直にだすようになった。俺は、それが見られてマジう……」
 
 最後まで言ってよ。そっぽ向いたりしないで。
 
「清司は、女って面倒臭い生き物だと思ってる?」
 
「ちげえ。……いや、」
 
 戻り来た彼は首を振り、
 
「そのとおりだ」
 
 二週間前と同じ、覚悟があたしを見据える。
 
「めんどくさくさせろ。いくらでもおぼれてやる。だから俺に、曝せ」
 
 今度はこちらが気恥ずかしくなる。
 
「味噌汁が飲みたい、腹減った、俺が欲しい。思ったまんまをだしてみろよ。なんだって、叶えてやる」
 
「……味噌汁は確かに恋しかったけど」
 
「そこを拾うのか」微苦笑までも愛しい。あたしはこの場から動けない。
 
「ねえ。その、重かったりしない? さめざめ泣く女って、なんだか」
 
「忘れてたものを取り戻す。なにを恥じることがある」
 
 遮るのも、堂々と。
 
 このひとはあたしに本音を言わせたいのだ。
 
 足元に落とすのではなく、あたしは瞳の奥を見つめる。
 
「考えていたの。清司と出会う前から」
 
 ずっと、ずっと思っていたこと。
 
「前のあたしはそういうのいいから、幸せになって欲しいと思ってた。彩夏とか。でも、なんであたしだけ、って気持ちになったとき……」
 
 木々を見あげると、葉は揺れる。
 
「代わりに、してくれてる、って思うようになったの」
 
 黒い瞳はあたしという影を映す。
 
「彩夏はあたしの分まで彼氏と上手く行く。テレビの芸能人はあたしの分も笑ってくれてる。雨はあたしの代わりに泣いてくれてる。
 
 そう思えば、乗り越えられる気がした。でもそれじゃ、頼ってるだけで。
 
 清司にもどんどん甘えて、寄りかかってる気がして」
 
「お前をいくらでもスポイルする自信はある」
 
 そうでしょ、やっぱり。
 
「思いを乗せるなんてのは、独りよがりの行為だ。例えば雨が……桜が」
 
 上向く彼の手のひら。
 
 夜露が落ちてきた。
 
「代わりに泣いてくれてる、なんてエゴ、率直に言えば大嫌いだが」
 
 ぐさり、胸に刺さるが、
 
「逆もある」
 
 小首をかしげると、
 
「人が、……物でもいい。香枝に与えてくれるもんもあるんだぞ。
 
 お前みたいに、やり方忘れちまった人間に教えて『くれてる』。
 
 ――そう思ったりも、出来ねえか」
 
 自称馬鹿の音楽馬鹿なのに、たまに真髄を突く。

 それまで自信をのぞかせていた彼が、ふと頭上の緑を見あげ、

「お前はそう言うが、俺は貰ってばかりだ」

 自嘲的にこぼす。
 
「そんなこと……わっ」
 
 背中からくい、と彼の高さに引っ張られて。
 
「お前の、初めて」
 
 鼓膜を満たす、甘さとからかいの囁き。

 みるみる頬に熱が走る。「もうっ」
 
 軽く胸板を叩こうとしたのに、腕ごと抱きしめられる。
 
「清司。これじゃあバカップルだよ」
 
「誰もいない。月と桜だけが俺たちを見ている。なあ、香枝」
 
「なぁに」
 
 あたしの前髪を掻き分け、
 
「好きだ」
 
 髪を耳にかけ、
 
「とにかく、好きだ」
 
 耳たぶに触れる。 
 
「それだけじゃ、駄目か。
 
 今までひとりで頑張ってきた分、少しは甘えてもバチはあたらねえだろ。お前が立ちあがろうとするなら見守るだけだ。
 
 ……ちげえ。離す意味じゃねえ。逃がさねえ。
 
 っと、引くなよ。
 
 とにかく、俺は意志を尊重する。あ、あ……」
 
 鼻の横から耳に向かって親指を滑らせる。
 
「また泣かせちまった」
 
 頬を挟み込み、
 
「欲しいか?」
 
 あたしは首を振ったのに、
 
 
「目を見てると言っただろ、香枝」
 
 
 降り注ぐキスの雨。ほのかな新緑とたおやかな花の香りに包まれながら、むせぶほどの情熱に身を注いだ。
 
 
 
 ―完―
 
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