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#Job03.伴侶
#J03-01.美女と一生
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自分の息子となると格別だと美山耕平は思う。こんなにも愛おしくかよわき存在。それまで友人知人の赤子を見たことはあれど、自分の子どもとなるとこんなにも胸を苦しくさせるものだとは。懸命に泣く我が子を腕に抱く耕平は、「……お腹空いてんのかな?」
「うんそろそろおっぱいの時間だと思う。……太賀(たいが)。おいでー。おっぱいの時間だよー」
渋々ながらも息子を明海に手渡せば、「んな恨めしい顔しないの。母親って大変なんだよぉ? なんなら耕平が代わってよぉー」
「……ぼくに出来ることがあればなんだって」
敷きっぱなしの敷き布団に座り、授乳クッションをセットすると明海が、「……耕平が女に生まれて来ればよかったのにね。そんなに可愛いんだったら……」
耕平の脳では明海が何故そんなに大変そうにするのか意味が分からない。母親なら、尽くすのが当然だろう、と耕平は思う。しかし彼は知らない。いったい赤子の子育てがどれほどの労苦を伴うのか。なるだけ残業はせず、八時には帰宅し、一緒の部屋で眠る耕平ですらそれである。世のなかがもっと、孤独に戦う母親に共感する仕組みになっていればいいのに、と明海はぶちぶちこぼす。……明海は恵まれているほうである。妊娠が判明してすぐに、明海は入籍し、大学は休学。出産までの期間を美山家で過ごし、また、産後もさおりや耕平の世話になっている。幸助も協力的だ。お陰で明海は新婚したばかりの大抵の妻が味わうような、過度な夫からの要求を迫られずに済んでいる。
授乳を終え、胸元を開いたまま明海が寝ている。そっとしておいてやろう……耕平は慣れた手つきで赤子を先ず寝かせ……モロー反射が起きないよう、しっかりと手足を押さえ、落ち着いてから手を放す……それから妻のからだを横たえた。欲情しないまではいかなかったが、いまの明海はそれどころではない。耕平は欲情を胸にしまい込んだ。――さて。
階下に行き、テレビを見ているしおりに声をかける。「母さん、ご飯あるの食べちゃうね」
「ええお願い」鼻をすするしおりは完全画面のなかのひとだ。なるだけ母の邪魔をせぬよう静かに耕平は電子レンジでご飯をあたため、そして食す。――面倒くさくない? と彼は聞いたのだが、明海が譲らなかった。あなたの実家であなたの家族と一緒に暮らしたい――と。明海には父親がいないから、耕平のように両親の揃った家庭が羨ましかったのかもしれない。追及するとある意味恋奈に失礼になってしまうから耕平は問い返さなかったが。
耕平の父親である幸助は部屋で休んでいる。日中は孫の世話に追われ、疲れているのだと思う。大人四人揃えてこれだもの、たったひとり育児に向き合う女性は偉いとこころから耕平は思う。韓流ドラマに見入る母親を見つめながら、耕平はひとり、夕食を食べ終えた。
週末には、美山と恋奈夫婦がやってきた。慣れた手つきで孫を抱っこする恋奈が、「可愛いねえ。パパとママにそっくり」
にこにこするその恋奈のお腹が大きいことに耕平は気づいていた。「恋奈さん、つわりは、その……」
すこし痩せたか。頬がやや削げたように見える恋奈は、赤子を胸に抱きながら、「二回目といってもやっぱり二十年ぶりだからねえ。勝手は違うわ……なかなかしんどい」
ぎゃあぎゃあ泣く赤子をあやす恋奈は、「あらあら元気がいいわねえ」と話しかける。明海は部屋で休んでいる。細切れ睡眠に頻回授乳でまだ、疲れの取れない時期だ。きっと母娘で話したいこともあるだろう……そう思い、耕平は我が子を恋奈から受け取り、恋奈母娘に部屋で話す時間を与えた。その一連の流れを見届けてからといったふうに、ポケットに手を入れていた美山が耕平に話しかける。「耕平……その、調子はどうだい?」
こういうときに言葉を選べない兄が兄らしいと改めて耕平は思った。ふっ、と彼は笑い、「……幸せだよ。思っていたよりもずっとね。……自分がこんなに平凡な幸せを求めるありきたりな男だなんて知らなかったよ……魔法をなくしたありきたりな女ってのはぼくにこそふさわしい表現、だろうね……」
「そっか」耕平に続いてダイニングチェアに座る美山に、耕平は、「兄さん、ホットコーヒーでいいよね?」
「あ。サンキュ。……寝れてる?」
宙を仰ぐ耕平は、「うぅーん。まあ、夜中は一緒に起きてるよ……。明海は、ぼくに配慮して、自分たちは一階で寝ようかって言ってんだけど、そしたら母さんたちが辛いじゃない? たぶん丸聞こえだろうから……。それに、いましかないじゃんこういうときって……。太賀はいずれ大きくなって親に思いっきし反抗してこの家を出ていく……そう思ったらさ。泣き声なんてなんだよって話。むしろ耳に焼きつけるのが親の務めだと、ぼくはそう思うんだよね」
「……おまえにしては模範的回答じゃないか。随分と殊勝なもんだな。正直、ぼくは、……おまえも育児ノイローゼになっちまってんじゃないかと、心配で、な……」
「――明海はそこそこ参っちゃいるけど。あの子まだ若いから。ぼくはそうでもないかな?」
「なら……よかった。最低限どっちかが元気ならまあ、やっていけんなぁ……」耕平からコーヒーを受け取る美山は、「ぼくたちで出来ることがあるなら、なんだって力になるから。せっかく近距離に住んでんだから頼れよ? な」
美山と恋奈夫婦は実家から徒歩十分程度の分譲マンションに住んでいる。カレーも冷めない距離だ。なので、ときどきさおりが料理持参で向かうこともある。恋奈にとって迷惑でなければ、と耕平は思うのだが、いまのところ彼女たちの関係は良好だ。それに、明海たちと両親も……。長男である美山夫婦が別の場所に住み、次男である耕平夫婦が実家に住むというのは、他者から見れば不自然に思える話かもしれないが、耕平たちにとってはそれが自然だった。明海は明海でいきなり耕平とふたりっきりで過ごし、育児に孤軍奮闘することを不安視していたようであるし、耕平としてはお試しで住んでみれば、……という心境であったのだが、彼女たちの様子を見る限りでは、明海がここを離れる選択肢はなさそうだ。兄と差し向かいで座り、コーヒーに口をつけると耕平は、
「いろいろとしがらみもあるけれど、してみると存外楽しいね……結婚生活ってものは」
弟の弁に耳を傾ける美山の視線を受けつつ、耕平は、
「する前は正直、不安もあったんだ……ま、覚悟はしてたんだけどね……女性を抱くってのはそういうことだから。あとはま、うちの両親と明海が仲良くやっていけるか……そこも心配だったけれど。割りと明海は母さんのやり方に合わせられるっていうか、フレキシブルな子なんだよね。柔軟性があるというか。母さんは母さんで新しく娘と孫がいっぺんに出来たみたいでまあ、楽しそうだよ。つかず離れずっていうか、互いにある程度の距離を置いて、好きなときに好きなことをするってスタンスでやってるからま、……大丈夫かな、と」
「それは……よかった」なかなかふたりっきりでこうやって話せる機会などないから、こういったチャンスは貴重であった。さおりと幸助夫婦は外で買い物に出ている。兄の相変わらず大きい手が組み合わされるのを見つめる耕平に、「ぼくは……ぼくの場合は、正直抵抗あったからさぁ。うまくやってけるのかって。申し訳ないけど実家に住むことは最初から頭になかったんだよ……耕平。おまえにばっか負荷をかけていたらすまないな……」
「いや全然」と耕平は顔の前で手を振り、「ぼくは嫌いなことはやらない主義だから。するべきこと……自分にしか出来ないことをしているつもりだ。必要とされることって幸せだと思うから。求められるうちが華だと思うよ?」
「にしても変わったよなあおまえ……。サッカー観戦も全然行ってないんだろう? よく我慢してるよなあ? あんなにサッカー馬鹿だったおまえが」
「とはいえ、いっぺんひとりで行ったことはあるんだけど、なんかね。明海や太賀のことがぐるぐる頭んなか回ってさぁ。明海が大変なときに自分だけかまけてるってのもね。……罪悪のほうが勝るんだ。ハーフタイムで帰ったよ結局」
「そっか」笑うと綺麗な歯並びが見える。「すっかり、パパの顔になっちまったな……例えばの話だけれど、もし明海ちゃんが他の男を好きになったらおまえ……どうする?」
「自分棚上げでゆーけど。許さない。てか別れない。……ぼくのところに戻ってくるのをただ、待つね……。こんなこと明海や恋奈さんの前じゃあ言えないけど、やっぱね、パパとママが揃ってるのがいいと、ぼくは思うんだ……それも仲良しのね」
ここで太賀が目を覚ます。おぎゃあおぎゃあおぎゃあ……新生児に特有の声で力いっぱい泣く。あーあ、と耕平は笑う。「寝たと思ったらすぅーぐ起きちゃうのねおまえは。おむつ? それともおっぱい? ……ママはせっかくばぁばとおしゃべりしてるんだから、すこしね、ゆっくりさせたげなね……」
「代わろうか?」と腰を浮かす美山に、「いい。平気」と耕平は言う。
「土日しか一緒いらんないからたまにはね。こーして太賀の世話をしてやんないと、明海がむくれるんだ。『男の人ばっかずるい!』……て」
ぎゃあぎゃあ泣く赤子を懸命に耕平はあやす。まだおっぱいの時間ではないが……と思っていたら明海が降りてきた。「んもー。さっさと呼んでくれればいーのに」
「……ゆっくりさせたげたかったんだけど」
「だってこんなに泣いてたらお喋りどころじゃないよぉ」耕平の腕のなかから太賀を受け取る明海は、「さーさ。ママでちゅよー。たいちゃん、おっぱい飲もうねぇー」
父親の無力さを感じる瞬間である。おっぱい最強。最強の武器を持つ者に叶うはずがないのである……。
二階へと消えていく明海母子を見送る耕平に、
「んじゃ、ぼくたちもうすこししたら帰るから……」
「え。もう帰るの? 父さんと母さん、張り切ってんのに……」
「新生児がいる家に長居するほうが毒だよ。それに、恋奈もちょっとしんどそうでな……」
「痩せたもんね恋奈さん。大丈夫?」
「あんまりしんどいようなら休職しなって言ってんだけどな。担任なもんでな……」
「仕事してるといろいろ大変だね」
間もなく、恋奈が一階に降りてきた。耕平に挨拶をし、さおりたちによろしくと伝え、帰っていった。――大騒ぎしたのがさおりである。
「あらやだ! 恋奈さんったらもう……! どうしてご飯食べてかなかったのかしら!」
つわりなど遠い昔の出来事だから忘れ去っているのか。そういえば明海は食べ悪阻などなく、むしろよく食べた。横でぐびぐびビールを飲む耕平を恨みがましい目で見ていた。……たまにはガス抜きさせて貰わないととてもじゃないけれどやっていけない。同居生活とはそういうものだ。
しゃぶしゃぶの肉をどんどん茹でながらどんどん皆の皿に肉を入れるさおりに幸助が、
「母さんこんなに食べられないよ」
「だまらっしゃい!」と言い分をはねのける。「せっかく……悠作と恋奈さんが来てくれるって言うからお母さん張り切ったのに……んもう。悠作だけでも食べていけばよかったのに……」
「悪阻で辛いんだから仕方がないよ」こういうときに、父がいてよかったと耕平は思う。「悪阻は、ひとそれぞれだからな。いくら出産歴があるとはいえ、辛いものは辛いんだ。そっとしておいてやろう……」
「お義母さん。あの」箸を止めた明海が、「ごめんなさい、すっごく眠いんで……ちょっと太賀のことお願いしてもいいですか? 授乳は起きてからしますんで……」
「ああそうね、ゆっくり休んで明海ちゃん……。子育てはまだまだこれからなんだから、休めるうちにたっぷり休むのよ……ねえあなた」
「おやすみなさい」
「ありがとうございました」
「明海、ぼくが」
「ううんあたしが抱っこして連れていく……」
二階へと消える明海を見届け、ぽつり、耕平は言う。「世の中のお母さんはみぃんなあの孤独と戦っているんだな……母親に向ける目が変わったよ。ぼくのなかで……」
「そうそ。だから親孝行なさい。人生なんてあっという間なんだから。気が付けば還暦よ? 出来る限り明海ちゃんを助けてやって、親孝行してちょうだい。それがわたしたちにとっての、一番の、幸せよ」
「……分かってる」母の茹でた豚肉を咀嚼し、耕平は思う。――罪を犯した自分にこんな未来が約束されているだなんて想像だにしなかった。なのに、幸せが手を広げて待ってくれている。知らないうちに。幸せは誰が定義するものでもない、自分たちが決めるものだと。仮に、明海が妊娠しなかったとて、こうして明海と一緒の未来を選んだであろう……そのことは彼のなかで確かだった。
寝る前にそっと赤子に触れた。肌がつきたてのお餅みたいにもっちもちで、頭は藁ぶき屋根のような香りがした。――愛おしい。それが偽らざる耕平の本心だった。
幸せを胸に抱きながら眠る。こうして親子揃って……ましてや自分の両親と同居して生きていけるとは、なんという幸せなのだと彼は思った。誰もが簡単に手にできるものでもない、けれども明確に自身を定義づける幸せを。
眠る我が子を、妻を見ながら眠りに入る。胸の奥に降りてくるのは、朝焼けのように豊かな幸せであった。
*
「うんそろそろおっぱいの時間だと思う。……太賀(たいが)。おいでー。おっぱいの時間だよー」
渋々ながらも息子を明海に手渡せば、「んな恨めしい顔しないの。母親って大変なんだよぉ? なんなら耕平が代わってよぉー」
「……ぼくに出来ることがあればなんだって」
敷きっぱなしの敷き布団に座り、授乳クッションをセットすると明海が、「……耕平が女に生まれて来ればよかったのにね。そんなに可愛いんだったら……」
耕平の脳では明海が何故そんなに大変そうにするのか意味が分からない。母親なら、尽くすのが当然だろう、と耕平は思う。しかし彼は知らない。いったい赤子の子育てがどれほどの労苦を伴うのか。なるだけ残業はせず、八時には帰宅し、一緒の部屋で眠る耕平ですらそれである。世のなかがもっと、孤独に戦う母親に共感する仕組みになっていればいいのに、と明海はぶちぶちこぼす。……明海は恵まれているほうである。妊娠が判明してすぐに、明海は入籍し、大学は休学。出産までの期間を美山家で過ごし、また、産後もさおりや耕平の世話になっている。幸助も協力的だ。お陰で明海は新婚したばかりの大抵の妻が味わうような、過度な夫からの要求を迫られずに済んでいる。
授乳を終え、胸元を開いたまま明海が寝ている。そっとしておいてやろう……耕平は慣れた手つきで赤子を先ず寝かせ……モロー反射が起きないよう、しっかりと手足を押さえ、落ち着いてから手を放す……それから妻のからだを横たえた。欲情しないまではいかなかったが、いまの明海はそれどころではない。耕平は欲情を胸にしまい込んだ。――さて。
階下に行き、テレビを見ているしおりに声をかける。「母さん、ご飯あるの食べちゃうね」
「ええお願い」鼻をすするしおりは完全画面のなかのひとだ。なるだけ母の邪魔をせぬよう静かに耕平は電子レンジでご飯をあたため、そして食す。――面倒くさくない? と彼は聞いたのだが、明海が譲らなかった。あなたの実家であなたの家族と一緒に暮らしたい――と。明海には父親がいないから、耕平のように両親の揃った家庭が羨ましかったのかもしれない。追及するとある意味恋奈に失礼になってしまうから耕平は問い返さなかったが。
耕平の父親である幸助は部屋で休んでいる。日中は孫の世話に追われ、疲れているのだと思う。大人四人揃えてこれだもの、たったひとり育児に向き合う女性は偉いとこころから耕平は思う。韓流ドラマに見入る母親を見つめながら、耕平はひとり、夕食を食べ終えた。
週末には、美山と恋奈夫婦がやってきた。慣れた手つきで孫を抱っこする恋奈が、「可愛いねえ。パパとママにそっくり」
にこにこするその恋奈のお腹が大きいことに耕平は気づいていた。「恋奈さん、つわりは、その……」
すこし痩せたか。頬がやや削げたように見える恋奈は、赤子を胸に抱きながら、「二回目といってもやっぱり二十年ぶりだからねえ。勝手は違うわ……なかなかしんどい」
ぎゃあぎゃあ泣く赤子をあやす恋奈は、「あらあら元気がいいわねえ」と話しかける。明海は部屋で休んでいる。細切れ睡眠に頻回授乳でまだ、疲れの取れない時期だ。きっと母娘で話したいこともあるだろう……そう思い、耕平は我が子を恋奈から受け取り、恋奈母娘に部屋で話す時間を与えた。その一連の流れを見届けてからといったふうに、ポケットに手を入れていた美山が耕平に話しかける。「耕平……その、調子はどうだい?」
こういうときに言葉を選べない兄が兄らしいと改めて耕平は思った。ふっ、と彼は笑い、「……幸せだよ。思っていたよりもずっとね。……自分がこんなに平凡な幸せを求めるありきたりな男だなんて知らなかったよ……魔法をなくしたありきたりな女ってのはぼくにこそふさわしい表現、だろうね……」
「そっか」耕平に続いてダイニングチェアに座る美山に、耕平は、「兄さん、ホットコーヒーでいいよね?」
「あ。サンキュ。……寝れてる?」
宙を仰ぐ耕平は、「うぅーん。まあ、夜中は一緒に起きてるよ……。明海は、ぼくに配慮して、自分たちは一階で寝ようかって言ってんだけど、そしたら母さんたちが辛いじゃない? たぶん丸聞こえだろうから……。それに、いましかないじゃんこういうときって……。太賀はいずれ大きくなって親に思いっきし反抗してこの家を出ていく……そう思ったらさ。泣き声なんてなんだよって話。むしろ耳に焼きつけるのが親の務めだと、ぼくはそう思うんだよね」
「……おまえにしては模範的回答じゃないか。随分と殊勝なもんだな。正直、ぼくは、……おまえも育児ノイローゼになっちまってんじゃないかと、心配で、な……」
「――明海はそこそこ参っちゃいるけど。あの子まだ若いから。ぼくはそうでもないかな?」
「なら……よかった。最低限どっちかが元気ならまあ、やっていけんなぁ……」耕平からコーヒーを受け取る美山は、「ぼくたちで出来ることがあるなら、なんだって力になるから。せっかく近距離に住んでんだから頼れよ? な」
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「いろいろとしがらみもあるけれど、してみると存外楽しいね……結婚生活ってものは」
弟の弁に耳を傾ける美山の視線を受けつつ、耕平は、
「する前は正直、不安もあったんだ……ま、覚悟はしてたんだけどね……女性を抱くってのはそういうことだから。あとはま、うちの両親と明海が仲良くやっていけるか……そこも心配だったけれど。割りと明海は母さんのやり方に合わせられるっていうか、フレキシブルな子なんだよね。柔軟性があるというか。母さんは母さんで新しく娘と孫がいっぺんに出来たみたいでまあ、楽しそうだよ。つかず離れずっていうか、互いにある程度の距離を置いて、好きなときに好きなことをするってスタンスでやってるからま、……大丈夫かな、と」
「それは……よかった」なかなかふたりっきりでこうやって話せる機会などないから、こういったチャンスは貴重であった。さおりと幸助夫婦は外で買い物に出ている。兄の相変わらず大きい手が組み合わされるのを見つめる耕平に、「ぼくは……ぼくの場合は、正直抵抗あったからさぁ。うまくやってけるのかって。申し訳ないけど実家に住むことは最初から頭になかったんだよ……耕平。おまえにばっか負荷をかけていたらすまないな……」
「いや全然」と耕平は顔の前で手を振り、「ぼくは嫌いなことはやらない主義だから。するべきこと……自分にしか出来ないことをしているつもりだ。必要とされることって幸せだと思うから。求められるうちが華だと思うよ?」
「にしても変わったよなあおまえ……。サッカー観戦も全然行ってないんだろう? よく我慢してるよなあ? あんなにサッカー馬鹿だったおまえが」
「とはいえ、いっぺんひとりで行ったことはあるんだけど、なんかね。明海や太賀のことがぐるぐる頭んなか回ってさぁ。明海が大変なときに自分だけかまけてるってのもね。……罪悪のほうが勝るんだ。ハーフタイムで帰ったよ結局」
「そっか」笑うと綺麗な歯並びが見える。「すっかり、パパの顔になっちまったな……例えばの話だけれど、もし明海ちゃんが他の男を好きになったらおまえ……どうする?」
「自分棚上げでゆーけど。許さない。てか別れない。……ぼくのところに戻ってくるのをただ、待つね……。こんなこと明海や恋奈さんの前じゃあ言えないけど、やっぱね、パパとママが揃ってるのがいいと、ぼくは思うんだ……それも仲良しのね」
ここで太賀が目を覚ます。おぎゃあおぎゃあおぎゃあ……新生児に特有の声で力いっぱい泣く。あーあ、と耕平は笑う。「寝たと思ったらすぅーぐ起きちゃうのねおまえは。おむつ? それともおっぱい? ……ママはせっかくばぁばとおしゃべりしてるんだから、すこしね、ゆっくりさせたげなね……」
「代わろうか?」と腰を浮かす美山に、「いい。平気」と耕平は言う。
「土日しか一緒いらんないからたまにはね。こーして太賀の世話をしてやんないと、明海がむくれるんだ。『男の人ばっかずるい!』……て」
ぎゃあぎゃあ泣く赤子を懸命に耕平はあやす。まだおっぱいの時間ではないが……と思っていたら明海が降りてきた。「んもー。さっさと呼んでくれればいーのに」
「……ゆっくりさせたげたかったんだけど」
「だってこんなに泣いてたらお喋りどころじゃないよぉ」耕平の腕のなかから太賀を受け取る明海は、「さーさ。ママでちゅよー。たいちゃん、おっぱい飲もうねぇー」
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二階へと消えていく明海母子を見送る耕平に、
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「あんまりしんどいようなら休職しなって言ってんだけどな。担任なもんでな……」
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間もなく、恋奈が一階に降りてきた。耕平に挨拶をし、さおりたちによろしくと伝え、帰っていった。――大騒ぎしたのがさおりである。
「あらやだ! 恋奈さんったらもう……! どうしてご飯食べてかなかったのかしら!」
つわりなど遠い昔の出来事だから忘れ去っているのか。そういえば明海は食べ悪阻などなく、むしろよく食べた。横でぐびぐびビールを飲む耕平を恨みがましい目で見ていた。……たまにはガス抜きさせて貰わないととてもじゃないけれどやっていけない。同居生活とはそういうものだ。
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「お義母さん。あの」箸を止めた明海が、「ごめんなさい、すっごく眠いんで……ちょっと太賀のことお願いしてもいいですか? 授乳は起きてからしますんで……」
「ああそうね、ゆっくり休んで明海ちゃん……。子育てはまだまだこれからなんだから、休めるうちにたっぷり休むのよ……ねえあなた」
「おやすみなさい」
「ありがとうございました」
「明海、ぼくが」
「ううんあたしが抱っこして連れていく……」
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「そうそ。だから親孝行なさい。人生なんてあっという間なんだから。気が付けば還暦よ? 出来る限り明海ちゃんを助けてやって、親孝行してちょうだい。それがわたしたちにとっての、一番の、幸せよ」
「……分かってる」母の茹でた豚肉を咀嚼し、耕平は思う。――罪を犯した自分にこんな未来が約束されているだなんて想像だにしなかった。なのに、幸せが手を広げて待ってくれている。知らないうちに。幸せは誰が定義するものでもない、自分たちが決めるものだと。仮に、明海が妊娠しなかったとて、こうして明海と一緒の未来を選んだであろう……そのことは彼のなかで確かだった。
寝る前にそっと赤子に触れた。肌がつきたてのお餅みたいにもっちもちで、頭は藁ぶき屋根のような香りがした。――愛おしい。それが偽らざる耕平の本心だった。
幸せを胸に抱きながら眠る。こうして親子揃って……ましてや自分の両親と同居して生きていけるとは、なんという幸せなのだと彼は思った。誰もが簡単に手にできるものでもない、けれども明確に自身を定義づける幸せを。
眠る我が子を、妻を見ながら眠りに入る。胸の奥に降りてくるのは、朝焼けのように豊かな幸せであった。
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