婚活百人目のロマンス

美凪ましろ

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#Job01.婚活潰し

#J01-12.美女と古傷

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 ――今頃、お涙頂戴のストーリーが繰り広げられてるってか?
 かつて恋奈と語り合ったあの円形のベンチにて、ひとり、美山はコーヒーをすする。あのぬくもりはもうない。何故ならば、それが自分の選んだ道だからだ。
 あのとき、部屋を叩き割るように出ると、耕平が廊下へと飛び出した。「どしたの。なに考えてんだよ! 兄さん!」
「――うるさい。ぼくたちのことはぼくたちでなんとかする――放っておいてくれ!」
「兄さん!」
 何事かと階段の下から覗き込む両親を無視して、美山はこの場所に辿り着いた。誰の顔も――見たくなかった。
 痛くはないはずの、腹の傷に触れる。それは……生きている限り、未来永劫、彼のなかから消えうせることはない。
 忌々しい父親の顔が蘇る。舌打ちをするあの表情。未来という貴重な財産を食い潰すあの男……あの男と血が繋がっているという事実を認識するたびに、彼のなかで不安と怒りが爆ぜる。一言ではとても言い表せないくらいの感情を抱いている。
 過去の、女の反応は様々だった。傷を舐める女の姿に、美山は辟易した。これがあるから、女は同情する。分かりもしない自分のことを分かったような気になり、うえから目線のアドバイスを下す。――『可哀想』という言葉が美山は大嫌いだ。言う側と言われる側、明確で残酷な線引きを下し、勝手に被害者を自分たちとは別種の向こう側へと追いやってしまう。そして幸せという高みから嘲笑うのだ。――あなたはわたしとは違う。所詮、なんの抵抗も出来なかった、無力な子どもなのよと。
 美山のなかで、いつまでも五歳の少年が膝を抱えて泣きじゃくっている。分かっている――あの子も、自分のなかの大切な一部なのだから。

「……おれがその事実を知ったのは、おれが五歳の頃だった。確かに、あの傷は目立つから……しかもうち、保育園育ちだろう? プールに入ればみんなに見られる。怪我したんだよ、って誤魔化してたみたいだけど、流石に隠し通すには無理な年齢になって……ね」
 恋奈のためにあたたかいお茶を持ってきた耕平は、どうぞ、と目の前に置く。恋奈が口づけるのを見届けたうえで、
「ショック……だったよ。おれはずっと、兄貴とは本当の兄弟だと思っていたから……兄貴はいつまでもおれにとってヒーローなんだ。例え婚活では負け組であってもね? 兄貴は頭がいいし、すごく優秀で……実はスポーツ万能で。センスがいいんだよ。おれ実は本気でサッカー選手目指そうと思ってたんだけど……でも、兄貴を見て『おれには無理だ』と思った。……兄貴、センスが卓越しているんだよ……難しいことをいとも簡単にやってのける。正直、そんな兄貴が疎ましく感じられる時期もあったよ……絶対に越えられない壁ってやつ? なぁーんでも兄貴にかかれば魔法のように簡単に調理され、簡単なレシピと化す。でもそれを食べる人間は知らないんだ……それがどれほどの労力と貴重な才能を伴うのかを。
 兄貴は、おれからすると厳然たる神のような存在として君臨する一方で、兄貴本人としては、自分の生い立ちに悩んでいたようだった。当然だよね? 実の親が息子を刺し殺そうとする輩だなんて……一度ね。兄貴がおれに、『そのとき』のことを教えてくれたことがあったんだ……痛みも、刺す瞬間の父親の表情もはっきり覚えている……と。当時携帯電話なんかなかったからね、しかも兄貴はたったの五歳。五歳の子どもが腹部を刺され、防衛本能が働いたんだろうね、命からがらアパートの外に出て、近所のひとに助けを求めた……そこで兄貴の意識は途切れ、次に目覚めたときは病院のベッドのうえだった。それを聞いたときにおれはほっとしたよ……そこから覚えているときっと地獄だろう? すこしでもあの事件の記憶が兄貴のなかで薄れることをおれは願っている。
 ……事情を話すとね。うちのおふくろは、初婚で、兄貴の父親となる男と結婚した。そいつは飲食業を営んでいてね、店がうまく行っていた頃はよかった。でも経営が傾いた頃から様子がおかしくなってね……んで、店の管理一切を従業員に任せて、自宅で酒を飲むようになった。おふくろは外で働いて、一家の経済を支えた。……やがて酒浸りの男は息子に暴力を振るうようになる。当時まだ週休五日制は導入されていなかったから、土曜日は兄貴を残しておふくろは仕事に行った。そこで起きた……惨劇だった」
 恋奈は、あふれるものを止められやしない。そんなに重いものを美山が背負っていただなんて、想像だにしなかった。「美山は……それから」
「入院して。おふくろは毎日見舞いに行って……そこで、たまたま盲腸で入院していたうちの父と知り合った。事情を知った父は母に同情した。いや、同情だけじゃない。ある感情の力だね……ぼくにはなんなのかがまだ分からない、その感情の」
 ……ひょっとしたら耕平は浮ついた気持ちで明海に近づいているのかもしれない。だが恋奈はそこに言及せず、続きを目で促した。
「おふくろは……勿論迷ったんだ。前の夫と、あんなことになってしまったのだから……最初はあの男だって、暴力を振るうような輩じゃなかった。酒飲むとひとが変わっちゃうひとっているじゃない? そういうタイプの人間だったみたい……だからといって、最愛の我が子を刺すことが正当化されることなんて、あっちゃならないと思うけれど。……親父は、言葉少なだけれど、とってもやさしいひとで、一緒にいると波のようにおだやかな感情に包まれるそうだ……おふくろと親父は何年経っても仲がいいよ……おしどり夫婦ってあーいう夫婦のことを言うんだろうね。
 兄貴が長年結婚に積極的でなかったのは、勿論その辺の事情も関係している。自分があの男の血を引く男だという煩悶、それに……迷い。そんな自分が果たして子どもを作ってもいいのだろうか? という迷いだね……そこのところについて彼自身答えが出たかどうかについては聞いていないけれど……でも恋奈さん。あんなにも愛を表現する兄を見たのは、初めてだったんだ。どうか兄貴と一緒になって欲しい……」
「……うん」涙を拭う恋奈は、「本当に……本当に、やさしいひとだから。悠作さんは。自分のことを後回しにしてばっかりで、わたしのこと……ばっかり。強くてやさしい、美山がわたしは……大好きなの」
「その正直な気持ちを兄貴にぶつけて欲しいな」腰を浮かす耕平。「さぁて。ここはこれ以上あなたのいる場所じゃ……ないよ? あなたならもう分かるよね? 兄貴がどこに……いるのかを」
「――分かってる。ありがとう、耕平さん」ドアに向かった恋奈だが足を止め、「……明海のこと、本気?」
「どうだろう」背後で耕平が笑う気配。「ぼく自身、明海ちゃんに対する感情がなんなのかを、整理しきれていない……母親であるあなたにこれを言うのはどうかと思うけれど」
「好きになるのなら、身辺を整理してからにしてね……あの子の母親としてのお願い」
「分かりました」
 一階に降りると、さおりが近づいてくる。「……恋奈さん、そのね……」
「――分かってます」自信を持って恋奈は答える。「悠作さんにどんな過去があろうとも……わたしは、悠作さんのことを、愛しています……」
「ああ、恋奈さん……!」涙ながらに抱き締められる。随分と華奢だ。その細いからだにいったいどれほどのものを背負ってきたのだろう、と恋奈は思う。「ごめんなさい。ありがとう。でも恋奈さん。あなたは、あなたのことを第一に考えるのよ……? これは他の誰でもない、あなたのための、あなたの人生なのだから……」
「だからこそわたしは悠作さんを選ぶんです」力強く言い切る恋奈。「血がなんです。過去がなんです。そんなもの――本物の愛の前では塵芥と化す。わたしは、そのことを証明してみせます……」

 愛しいひとの姿は、やはり『あそこ』にあった。こげ茶色のテーブルつきのベンチで。……なんと。この事態にも関わらず美山は、眠っているではないか……あれほどたくさんのひとを巻き込んでおいて、まあ呑気なこと。
 恋奈は近づいて美山の顔をじっくりと眺めた。……目は、大きい。すっきりとした切れ長の印象の強い、奥二重。肌なんかびっくりするほど白くて……スノーホワイト、そんな表現が彼にはふさわしい……きちんと毎日髭を剃っているのか、無精髭とは無縁。似合わない。
 おでこのうえで前髪が揺れている。彼女はそれに触れた。「……好き。美山……」
 一筋、彼の目から涙が流れた。「好きよ。大好き……美山」
 もう一筋流れる涙を彼女は拭った。「……悲しまないで。あなたの過去も未来も、すべて受け止めるつもりでわたしはここに――来たんだから。愛してる……」
「――八つ当たりしてごめん」ぱっちりと、美山の目が開いた。ガラスのように透き通ったその瞳が。「ぼくの過去のことも傷のことも、あなたにはなんの罪もないのに……ごめん。行き所のない思いをそのままあなたにぶつけて……傷つけてしまって、ごめんなさい」
 からだを起こし、頭を下げる美山のからだを彼女は抱き止めた。「ううん。いいの……わたしが美山でも同じ反応をしていたと、思う……。どう言ったらいいのか分からないけれど、美山に、罪は、ない。被害者だからっていちいち誰にでも被害を言わなきゃならないってそれ……残酷だよね。傷つけた側はそれも含めて『罪』なんだよ……大切な相手の尊厳を、未来を奪い去ったという点でも、罪の意識に苛まれなきゃならない……本来は」
「あの親父の血を受け継ぐぼくがひとを愛していいのか……迷っていた」と美山。「ぼく、我を忘れることはないんだけれど……ひょっとしたらあいつのように狂ってしまうんじゃないか。大切な誰かを傷つけてしまうんじゃないか……それも怖くって。だから酒も怖いんだ……深酔いは、しない」
「美山ぁ……」泣いてはいけないと思いつつも勝手に涙があふれてくる。「ねえ、もう、ひとりで抱え込まないで? わたしたち、もう、ひとりじゃないんだよ? あなたがわたしで、わたしがあなたなの。あなたの痛みはわたしの痛みだから……ねえ、もう、ひとりで苦しまないで……?」
 すん、と鼻をすする美山が涙声で、「……はりはと恋奈さん」
「ティッシュティッシュ」
 ポケットから取り出したティッシュで、美山の涙と鼻水を拭ってやった。子どものようにされるがままの美山がなんだか――可愛い。そんな彼の鼻をかるく摘まんでやり、
「――過去編はこれで終了?」ちょっと笑うと恋奈は、「……もう。思ってることはなんだって言ってって……言わなかったっけ? ――言ってない!」
 と青ざめた恋奈が、
「ごめんごめんわたし確かに言ってないや。ごめん。やだなんで……」美山の頬をぴったりと包み、「ああもう……ほんと美山ね。思ってることなんだって言って? もうこれ以上我慢なんかしないで? わたし、タフだから……毎日きゃんきゃん年長さんのお世話をしているタフなれなせんせいですから、ねえ、なんでも――頼って?」
「……お願いがあるんだけど」
「なぁに?」
「……ぼくのここら辺の傷を、うえからそっと押さえながら……抱き締めてくれない?」
「いいよ」そっと手を伸ばすと恋奈は囁いた。「……ケアル」
 恋奈の背に手を添える美山は、恋奈とぴったり重なり、恋奈の肩に顎を乗せた。「ああすごい……効いてる」
「……よかった」
「恋奈先生の魔法は最高級だよ。……出会えて、よかった」
「まだちょっと……こうしていたい」
「うん……」
 あのときよりも空気は湿度を増した。日々、季節は変化している。知らない間に。感情を置き去りにして。時間は、宝だ。けれどそのことを忘れないままに、ずっとずっと、胸の中心に居座るこの感情を見据えていたいと思う――いつかこの心臓が止まるときまで。
 恋奈に触れる美山は癒されていた。それはいままでに感じたことのない愛情だった。すべてを話し、すべてを受け入れてもらうことで彼自身救われていた。恋奈という存在が、美山にとってはひかりそのものであった。愛の象徴。癒し。……仮に、どんな罪を犯そうとも、彼女ならば許してくれるのではないか――と思えるほどの、慈愛。それに包まれながら、美山は、まだ始まったばかりの初々しい恋の味を、噛み締めていた。

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