タダで済むと思うな

美凪ましろ

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第二部 恋愛編

#02-03.相対

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 指定されたカフェに到着し、『彼』の姿を探すと、相手の姿は、すぐに見つかった。
「――きみが、西河智樹くんだね?」
 テーブル席で本を読んでいたかに見えた男の子が顔をあげた。――なるほど確かに分かりやすい。
『入り口近くに座る、やたらと地毛の明るい、黒縁眼鏡をかけた男がおれです。目印になるよう、村上春樹の本を立てておきます』
 ノルウェイの森。
 確かに素晴らしい小説なのだが、それにしても、息子さんは中学生と聞いている。あの世界観を理解するのは幼すぎやしないか――という、石田の不安は吹き飛んだ。
 石田は、仕事柄数多くの人間を見てきている。
 一目見ただけで、石田は、彼が、他人とは違う、非凡なる才能の持ち主であることを見抜いた。
 気取って石田はお辞儀をする。
「初めまして。石田清太郎です。……手を、洗ってくるね」
 コートを脱ぎ、椅子に引っ掛け、バッグに置く。一連の行為が終わるのを待ってから、といったふうに、間を置いて、虹子の息子であり、本日石田を呼び出した、智樹が立ち上がる。
「西河智樹です。お忙しいところ、お越しくださり、ありがとうございます」
 深く頭を下げる辺り、誠実な性格が読み取れる。――会社で電話を受けたときは、なにを思って石田を呼び出したのか。電話口では、ある程度の情報は読み取れるものの、やはり、会ってみないと、分からないことはある。電話対応のスペシャリストである石田でさえそうなのだから、いったいこの息子はどれほど不安だったろう――と石田は思う。
 下げたままの智樹の頭をぽんと撫で、「――すぐ戻るね」

 * * *

「石田課長。石田課長の甥と名乗る方からお電話です」
 ――甥。
 いるにはいるが、学校のあるこの時間に、石田の甥が、電話をかけてくるとは――考えられないが。急用かもしれないと思い、電話に出た。
「お電話替わりました。石田ですが」
「……あなたが石田さんですね」
 初めて聞く彼の声は、やや緊張味を帯びている。声音だけで石田は判断を下す。変声期を迎えたばかりだろうか、ややかすれた、甲高い、少年の声。――少なくとも甥でも、無論義姉の声でもない。
 知らない人間が、こう告げる。
「職場にまでお電話をして申し訳ありません。ぼくは、そちらに勤務する、西河虹子の息子です。……週末の件は、伺っております。姉と、母だけ、行かせるつもりです。
 ぼくは昨日、母からその話を聞いたばかりです。
 もし、ご迷惑でなければ、その前に、どこかで、あなたと、二人きりでお話をさせて頂きたいと思っております」
「……分かった」職場にまで電話をするとは、よっぽどのことなのだろう。虹子に告白したという事実は、それだけのインパクトを子どもたちに与える行為なのだ。
 それから、石田は、虹子の自宅近くの喫茶店を指定され、定時で会社をあがり、待ち合わせ場所へと向かった。

 * * *

「――智樹くんは、ハルキストなの?」
 石田が手洗いから戻り、智樹の正面の席に座ると、既にあの赤い本は仕舞われていた。
「でも、ないですけど。数冊読んだ程度です。目立つから目印にはいいと思って。因みに図書館で借りました」
「そっか。……ここ、なにが美味しいんだっけ? やっぱコーヒー?」
 既に黒縁眼鏡を外した智樹が目をあげる。「……ご実家ノクチなのに、来たことないんですか。ここ」
「確かに近いんだけど、意外とここで降りる機会がなくってさぁ……ぼくの小さい頃はコスギもそんな栄えていなかったし」最寄り駅は武蔵中原駅。現在東急田園都市線の高津駅近くに一人暮らしをし、以前は溝の口近辺に居住していた石田が、電車乗り換えを含めて三駅離れたこの駅に降り立つことは滅多にない。「こういう店が自宅近くにあればな、って思うよ。素敵だね、ここ」
 カフェといえば、利便性を追求したもの、集客を狙ったもの、インテリアを重視したものと、さまざまであるが、石田が呼び出されたカフェは、どっしりとした一戸建てであり、駐車場も広く、南武線に乗るときに必ず目が行く。いつも満杯の駐車場に。電車内から見えることもおそらく計算づくなのだろう。長年気になっていた喫茶店に、ようやく入ることが出来、石田としては感無量である。
 室内の座席の作りはとてもゆったりとしており、せせこましさなど、微塵も感じられない。
 テーブルは大きめで、椅子が大きく、また、智樹を見つけるまで、店内をざっと見て回った限りでは、家族連れや友達同士、会社員同士以外に、カウンター席で勉強や、読書をする、おひとりさまの姿も目立つ。なかには、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴きながら、ノートパソコンを打ち込む強者の姿も。どんな客でも受け入れ、かつ、居心地のよさを客である皆が感じているというさまが窺える。客商売をする石田の目から見ても、この店のスタンスと雰囲気は、興味深いものがあった。
 智樹は、コーヒーを飲んでいるようだった。既に半分空になっている。
 石田はメニューを手に取り、「ここはなにがお勧め?」と尋ねる。間髪入れず智樹が、「シロノワールですね。いまだと季節限定のシロノワールが食べられます」と答える。「甘いものがお好きであれば」
「実家が『葉桜』のくせして甘いものが嫌いだったらぼくはとんだモグリだよ」
 メニューを見て、石田は、ミニ小倉ノワールとブレンドコーヒーを注文した。

 石田は、改めて、智樹という少年を観察する。
 くせっ毛なのか、パーマをかけているのか、前髪にややウェーブがかかっており、サイドの髪が短めだ。木村拓哉がシェフ役を務め始めた辺りから、この手の髪型は流行りだしたように思える。グラメカットというんだったか。
 母親に似て、髪のいろが明るい。かつ、目元がまるで同じだ。
 親子連れを見ていると必ず石田は思う。どうして、親子というものは、揃いに揃って目元が同じなのだろう。
 母親に似て切れ長の目、けれど瞳は大きく、見る側に、クール、されど愛くるしい、といった、矛盾した印象を植え付ける。この男に魅了される女の子は多いだろう、と石田は予測する。
「智樹くん。モテるでしょう。女子が放っておかないビジュアルだね」
「まあ、でも、おれ、年上しか興味ありませんから」
「そっか。ぼくを呼び出した目的は概ね想像がつくけれど……」
「お待たせ致しました。ミニ小倉ノワールと、ブレンドコーヒーです」
 ――おお。
 丸いデニッシュ生地のうえにたっぷりと生クリーム? ソフトクリームと思われる白い渦を巻いたものが乗っている。ソフトクリームのうえにはいちごジャムといちごがかけられており、見るからに美味しそうだ。コーヒーのカップは白磁で青字でロゴが入っており、なんだかあたたかみを与える。
 店員が去ったあとに、石田は智樹に、話しかける。
「話ぶった切ってごめんね。……これでミニサイズなんだよね。すごいね。普通サイズってどんだけなんだろうね」
「だからおれはいつもミニサイズを頼むんです。……食べ方とか知ってますか」
「いや知らない」
「冷え冷えのソフトクリームをある程度食べて。んで、食べながら、デニッシュを切り分けるんです。四分割されてはいますが、でっかいんで、ナイフで一口サイズに切り分けます。んでソフトクリームも同時に食べます。デニッシュを片づけながらソフトクリームを食べる。切り分ける。その、繰り返しです」
 石田が頼んだのは季節限定メニュー。ふっくらとしたいちごジャムやソースがかかっており、なかには小倉あんが入っているはずだ。一口含むと石田の脳髄に衝撃が走った。――美味い!
 美味い。美味い美味い美味い……なんなのだこれは!
 ひんやりとしたソフトクリームのなめらかさ。ふっくらやわらかなデニッシュの食感。挙句、甘酸っぱいいちごの酸味と、小倉あんのあまさが、暴力的なまでに石田の味覚を刺激する。
「なんじゃこりゃあ」咀嚼しながら涙すら湧いてくるのを感じる。「美味すぎでしょ。なんだこれ……ぼくは、こんな美味しいものを知らずに三十五年も生きてきたのか。信じらんないね……」
「定期的に限定物が出るんでファンとしてはたまらないですよ」
「――きみも、食べる?」
「いやおれは、実はさっきあなたが来る前に平らげました」
「――そうか。話があるのなら聞くけど」
「いえ」少年は首を振り、「美味しいものを食べるときは美味しい話をしたいじゃないですか。時間は、あります。じっくり、味わってください……」
 石田はナイフとフォークを動かしながら、「じゃあ、きみの好きなものの話をしようか。食べ物だと、なにが好き?」
「……選べませんね」長いまつげを伏せて、彼は、「甘いものも辛いものもしょっぱいものも辛いものも好きです。この近くに、揚げ春巻きの乗っかったフォーを食べさせる店があるんですけど。超絶的に美味いです。パクチーが効いてて。川崎タンタンメンも大好きです」
「ふぅーん」
「石田さん。……外堀から埋めようとしても無駄ですよ?」カップに手を添える彼が、「ぼくが、今日、あなたをここに呼び出したのは、あなたとの親睦を深めるためではないんですよ」
「勿論それは分かっているさ。ぼくがきみなら、ぼくのことをヘイトするさ」
「じゃあ、……美味しいシロノワールを食べながら考えるんですね。いかに、息子のおれという城壁を崩すのか……」
 生意気な中学生め。手強い。これは……厳しい戦いになりそうだ。
 石田は、笑った。ピンチのときこそチャンスだと語った歌手がいた。逆境に置かれたときこそ、自分の新たな一面を切り開くチャンスなのだ。
 石田は、黙って咀嚼した。智樹のほうは、近頃の学生のように、スマホをいじったりもせず、ぼうっと店内を見回している。
 智樹は智樹で戦略を組み立てているのだろう。――いいだろう。乗ろう。
 果たしてどのように智樹を攻略するのか。必然、食す時間は戦略を組み立てる時間となるはず――が、石田は、智樹の観察を続けた。抜けるような白い素肌、それは、母親から与えられた財産だ。好きな人との共通点をこんなところにも見出してしまう。――まるで、本来素直なはずの虹子が、少年に生まれ変わり、石田を攻撃しているかのようだった。
「……なに笑ってるんです? あなたは、おれの、敵ですよ……」
 目ざとくそんな石田に智樹が気づく。ふんと一点を見据え、それから――黙った。
 二人の間には友達ともライバルとも形容し難い、不思議な空気が流れていた。

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