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#03.さお

#03-08.急転

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 レビューが続くと脳味噌が煮詰まる。煮詰まり、煮詰まった極限状態のなかでなんとか必死に解決方法を考え出そうとしている。なにがいったいベストなのか。自分に出来る最善の行為はなんなのかと。
 今夜も、帰宅が十九時を過ぎる。黒神さんにメッセを打ち、コーヒーを飲もうと、いつも通り自動販売機の休憩エリアに立ち寄ったときに、
「お疲れ。さおちゃん……」
 雪解けのような笑顔が目に眩しい。延々と試験項目表に向き合ったこちらの脳には毒だ。いや、癒しだ。救われたような気持ちになり、自然と笑みがこぼれるのが分かった。背後から自動販売機の光を受けてコーヒーを飲む真鍋さんは、スポットライトの中心に立つ舞台俳優のように、白く、繊細で、はかなげで、美しい。
 わたしは黒神さん以外の男にときめきを覚えるこころを抑え込み、無難な言葉を探す。「真鍋さん……も、残業で?」
「んー」と真鍋さんはカップを傾け、「毎回毎回そうなんだけど。なっかなか慣れないよねえ。いったいいつ終わんのかってつい、投げ出したくなっちゃうよ」
 滅多に聞けない真鍋さんの泣き言を聞き、わたしは笑ってしまった。「……珍しいですね。真鍋さんの弱気発言」
「ぼくだっていつもゲームに勝ち続けているわけではないよ。例えば――」
 じっと見つめられ、つい、誤解をしてしまう。――いやいや! この期に及んで真鍋さんがわたしに気があるとか、ありえないから! 
「……誰かのものだと思っていてもつい、気が行ってしまう……とか」
「真鍋さん。その……」
「きみの気持ちは分かっているよ。ただ、どうしようもないことだけは分かるだろう? なにがあっても、例えば初恋の相手を嫌いになることは難しいじゃない? ぼくにとってきみとのことは同じなんだ。ただ、好きであることは自由にさせて欲しい。なにもするつもりはないから……」
「真鍋さん……」
「先行っているね」
 真鍋さんはカップをごみ箱に捨て、買い出しに行くのか、UATの入り口とは反対方向に出て行った。見送るわたしの胸中は複雑そのものだ。真鍋さんのような素敵なひとであれば、なにも、恋人のいる女を想い続けるなどという、不毛な恋に身を燃やす必要などないのに。けれど、それをわたしが指摘すれば、きっと彼はこう言うだろう。――いやいやぼくは幸せなんだよ、と。
 重たい息を吐き、丸テーブルに突っ伏した。テーブルの冷たさが現実を取り戻させてくれる。真鍋さんの気持ちは、わたしにはどうすることも出来ない。両想いとは、時として、なんという刃になりうるのか。わたしは真鍋さんを苦しませていることに良心の呵責を感じている。
 からん、となにか落ちる物音がした。
 振り返った。呆然と――驚愕の表情を浮かべる早馬さんの姿がそこにはあった。
「い、いまの……嘘だろ鬼島さん。あんた……あんた、黒神さんという相手がいながら、真鍋さんと二股かよ……まじかよ!」
 落ちたカップを踏みつける早馬さんは、フロアが汚れるのも気にならないらしい、わたしのほうへと猛然と突進し、
「……っ」
 ――乳房を掴まれていた。いったい自分になにが起こっているのか。理解――出来ない。したくもない。だが、普段よりも饒舌な早馬さんは、野太い声でせせら笑い、
「あんた、いいからだしてるよなあ? 最初から、気になっていたんだ。胸、でけえなあと……なあ鬼島さんあんた、いったいこの豊満な乳房に何人もの男の顔を埋めさせてきたんだ。この、売女が」
 目の前にいる早馬さんの顔が普段見せる早馬さんのそれではなかった。かたかたと歯の奥が鳴り、声も出せない。――どこから、聞いていたのか。なにを、誤解しているのか。わたしの脳内には様々な疑問が渦巻くのだが、うまく、言葉に出来ない。
 するとわたしの乳房を掴んだまま、興奮しているのか。早馬さんは、呼吸を荒くし、
「真鍋とも黒神ともヤれてんなら、おれともヤれるだろう? 鬼島さん……いや、沙織。
 なあ。見せてくれよそのでかいパイオツを。どうせいろんな男たちにしゃぶらせてんだろう? おれにもしゃぶらせてくれよ沙織。スーツで固めてんのもさあ、男受けを狙ってるんだろ? 淫乱おまんこが」
(やめ、て……)
 喉の奥が引き絞られ声が出ない。たちまち視界が滲んでいるのに、乳房に強い痛みが走り、残っている勇気もろとも絞り尽くされたようで、力が出ない。――抵抗すべき。抵抗すべきだとからだじゅうの全細胞が警報を鳴らしているというのに、なにも出来ず。とうとう、スカートの下に早馬さんの手が滑り込んでくる。――いやだ。
 こんなのは、いやだ。
 黒神さんの姿が目に浮かぶ。――もし、黒神さんがわたしだったら、どうするだろう、と。
 ――こんなことをしている場合じゃない! 黒神さんを悲しませることなんか、絶対にされちゃいけないんだ!
 からだじゅうに残されたエネルギーを両手に集結させ、わたしは、思い切り、早馬さんを、突き飛ばした。
「――なにをしている!」
 そこに、現れた彼の姿を認めると、どっと涙があふれた。説明しなきゃ。説明しなきゃ、と思うのに、わたしは自分のからだを守り、ついさきほどまで自分を襲っていた強烈な悪意から自己を防衛するのが精いっぱいで。
 黒神さんは、見ただけで察したらしい。わたしを強く抱き締めると、尻もちをついたままであろう早馬さんに向かって、
「――貴様がなにをしでかしたかについては、即、会社に報告が行く。……二度と、おれたちの前に、姿を現すな」

「――災難だったね。さおちゃん……」
 柏谷部長に声をかけられ、わたしは頭を下げる。「いえ。ご心配おかけしました」
 翌朝、わたしは新橋にある本社に行った。早馬さんの行為については、その日のうちに各社トップが知ることとなり、わたしは本社に呼び出され、事情を説明するとともに、早馬さんを雇う会社の社長から、謝罪を受けた。
 早馬さんは、クビ。当然だ。
 周囲には、早馬さんが情報漏洩事故を起こしたゆえ、解雇されたということにしている。――知るのはごく一部の人間。システムアイの社長、事業部の部長である柏谷さん、早馬さんを雇う会社の社長、それから――。
 早馬さんを警察に突き出す手もあるのだろうが、わたしは――
『――早馬さん。あなたが、最初からわたしに性的な目を向けていたことには気づいていました』
 黒神さんがわたしの窮地に駆け付けた直後、わたしはふるえを振り払い、早馬さんに告げた。『いま思えば、その時点でなにかしらの手を打つべきだったのかもしれません。
 誤解しないでください。真鍋さんとわたしの間には、なにもありません。
 それに。仮に、わたしが真鍋さんをたぶらかしていたとしても、それは、なんら、あなたがわたしを強姦することが許されるという理由にはなりません。
 あなたの犯したことは、犯罪です。もし、同じことをまた誰かにしでかしたら。わたしは――世界のどこからでも駆け付けてこうしてやります』
 言ってわたしはずかずかと早馬さんに近づき、思い切り股間を蹴り上げた。振り返ると黒神さんに告げた。『――行きましょう。ここはこれ以上、わたしたちのいる場所ではありません』
 後ろで呻く早馬さんを無視して、わたしは黒神さんと一緒に仕事場へと戻った。――それが、あの騒動の顛末である。
 言いたいことは言ったしやりたいことはやった。早馬さんの罪状は、暴行未遂罪にしてもやや弱く、強制わいせつ罪辺りが適用されるだろうか。だいたい、警察沙汰になるとJ社の顔に傷がつく。よりによって大切な顧客であるJ社の信頼を失墜させることなど、考えられなかった。よってわたしは、早馬さんに触られたことは伏せて、性的な暴言を吐かれたと報告し、事態の収拾に努めた。――つまり、柏谷さんは、本当のことを知らないはず、なのだが。
 わたしは謝罪を受けた後、柏谷さんに会議室に連れられている。正直、昨日の今日だもの、男性とふたりきりになるシチュエーションは避けたいところだが、なにか、柏谷さんは勘付いているようで。
「さおちゃん。……本当は、もっとひどいことをされているのではないかい? J社を庇っているのなら、それは――」
「本当に、なにも、ありません。第一わたし、やられたらやり返す主義なんです。早馬さんの金玉、蹴りあげてやったんですもの」
 そこまでは知らなかったらしい。柏谷さんは目を丸くする。「……本当に?」
「本当に」
「強いなあ……さおちゃんは」屈託のない笑みを見せる柏谷さん。ひとのいい上司だ。「きみを強くしているのは他の誰でもない、彼への愛、なのだろうね。愛されるために自分を守る必要があるわけだ。
 けども、さおちゃん。
 もし、きみが決めたのなら、上司としてはなにも言わない。ただ、お節介屋の既婚者としては、もし、今後そういうことがあったなら、誰かに頼ることも考えておいて欲しい。きみのからだはきみひとりのものではない。黒神くんのものでもあり、また、我々システムアイが守るべきものなのだから」
「……ご忠告、感謝します」――でも、やっぱり、わたしは。
 勘違いしているのかもしれない。従順な姿を見せられ、早馬さんのことを誤解しているのかもしれない。きっと生い立ちが凄惨だったり、学校でなにかひどい差別にあったのかもしれない。女という性別を誤解しうる過酷ななにかがあったのではないかとつい、望んでしまう。根っこから悪いひとなど誰もいないのだと。
 わたしの思考回路など筒抜けなのだろう。柏谷さんは困ったように眉根を寄せ、
「まったくきみって本当、頑固なんだから」

 J社に戻り、女子トイレを出たところに真鍋さんが立っていた。
「さおちゃん。早馬さんのことって、なにか……きみ、危ない目に遭ったのかい。ぼくのせいで……」
「いえ。真鍋さんは関係ありません」
 関係ない、という発言は冷たかっただろうか。けども、昨日の今日でわたしも気持ちの整理がついていない。
 真鍋さんが悪いだなんて思っていない。けども、これからはわたしは、自分の言動にもっと、気をつけなければならない。こうして、仕事以外の場で、ふたりきりで男性と話すことが与えるインパクトを。誰に、どんな印象を与えうるのかを。
「さおちゃん。お願いだ。本当のことを言ってくれないか……」
「仕事があるので。戻ります」
 真鍋さんはなにも悪くないのに。わたしがするのは八つ当たりだ。捨てられた子犬のような表情の真鍋さんを取り残し、わたしは仕事場へと戻った。
 ――その日、黒神さんとはセックス出来なかった。する気が起こらなかった。

 *
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