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(九)
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(九)
角町の揚羽屋を発った行列はしずしずと進む。先頭に黒紋付の羽織姿の楼主と金棒を持った若い者、その後から振袖新造と禿が二人。それらに導かれた一際艶やかな白無垢姿、その後ろから傘を差し掛ける若い者と荷物を抱えた番頭新造が続く。花魁道中のようにゆっくりとした道行きだったが、行列の主役の履く高下駄は八文字を描いてはいない。
先頭の若い者が一歩行く度に、しゃん、しゃん、と金棒を地に突いて金輪を鳴らせば、その音に合わせて一同も一歩また一歩と足を進める。通りの両脇に居並ぶ妓楼の二階からは、格子越しに女たちの視線が驟雨の如く降り注ぐ。
一目見ようと背伸びをする禿たちが注ぐのは、白無垢の華麗な姿に対する無邪気な羨望の眼差しだったが、女郎たちの投げ掛ける視線は、それとはまた異なる感情を含んでいた。身請けされ苦界を抜け出す者への嫉妬。何れ自分も後を追ってみせるとの決意。そしてあれはあくまで他人事、所詮この身は借財に縛られた籠の鳥との失意、諦念、悲嘆。あらゆる思いを浴びつつ列は大門を目指して進んだ。
お吟は少し離れた所で金輪の鳴る音を聞きながら列の後を歩いていた。美しいな、とお吟は思った。月が変わって来月となれば、八朔が来て郭の中は白無垢姿の女郎たちが行き交うようになる。そのどれもが美しい。しかし今の露菊の白無垢姿はそれらに増して一等美しいに違いない。お吟はそう確信していた。
露菊の胸中に今あるのはどういった思いなのだろう。露菊が郭に入るに至った訳は百年経とうが千年経とうが消えることはない。失われた命は二度とは戻らない。過去の出来事は露菊の心に今でも暗い影を落としている。けれども露菊は郭を出ることを選んだ。生き直すことを選んだ。
罪の意識が薄らいでいてくれるのならば。その胸に曙光のような希望が宿っていてくれるのならば。お吟はそう願った。露菊の後ろ姿を見ながらそう願わざるを得なかった。
角町の木戸を抜け、行列は仲之町を大門目指して進む。通りに並ぶ引手茶屋からぱらぱらと人が出てくる。大半は久々の身請けで郭の外へ出る花魁を一目見ておこうと仕事の手を休めて表に出た奉公人達なのだろう。行列が行き過ぎればまた茶屋の中へとそそくさと引っ込んでいく。何軒かの茶屋では見世の前に人々がずらりと並んで行列を待ち構え、一行が通り過ぎてもその背中をずっと見送っている。露菊と懇意だった茶屋なのだと見受けられる。先頭を行く揚羽屋の主人も行き過ぎる時には列を離れ、茶屋の主人や女将と見える者に挨拶をし頭を下げている。
露菊は終始微かに俯き加減で、ただ前を見ていた。通い慣れた道。見慣れた景色。世話になった人々の姿。己がここを出て行ったとしても消え去ってしまうことはない。けれども今はそれら全てが何やら形も重さも手触りさえも全てなくしてしまったかのような、言い知れぬ感じがして仕方がなかった。
大門を出てしまえば自分はもう郭の女ではなくなる。金に縛られて身を売ることはせずに済む。本当を言えば今この時でさえ既にそうなっている。何もかもが変わってしまった。ただ。自分は本当に変わってしまったのだろうか。変わってしまえるのだろうか。露菊の胸中では疑問ばかりが渦巻いていた。
もう何年もの間ずっと露菊と呼ばれ、自分でも露菊と名乗ってきたが、その名はこの身から剥がされてしまう。露菊であった者が露菊でなくなった時、自分は自分でいられるのだろうか。一体何に拠って立てばいいのだろう。木曽屋の政吾郎はこれからのことは全て任せて何も心配することはないと言う。けれども自分は針の一つも煮炊きも出来はしない。どう生きればいいというのだろう。
露菊の脳裏にお吟の顔が浮かぶ。笑っていた。泣いていた。はにかんでいた。困惑していた。そして何よりも強く思い出されるのは怒った顔だった。幸せになれと、ならねばならないんだと心底腹を立てていた顔だった。
そうね、と露菊は胸の中で独りごちる。あなたがわたしに本気で怒ってくれたのだもの。その真摯な思いには応えなければならない。今行くこの道は産道で、この先に待つ大門は会陰となるのだ。この身から名を引き剥がされて真っ新になったわたしは、長く自分を包んでいたこの吉原という子袋から娑婆へと生まれ落ちるのだ。もう一度生まれ直す。それならばいいでしょう? 露菊はお吟の怒り顔にそっと語り掛けた。
大門口へと至った行列が足を止める。門のあちら側には黒紋付きを羽織った老人と若い男が二人、並んで一行を出迎える。羽織姿の政吾郎の表情は固く、睨み付けるように門の内側を見据えている。端から見れば何かを腹に据えかねているようにも、不機嫌極まりないようにも見て取れるが、常日頃の政吾郎をよく知る者はみな晴れの門出を祝っていない訳ではないことは承知出来た。
大門の内と外の境目ぎりぎりの所に露菊が進み行く。政吾郎に従っていた付き人が境目のすぐ外側に錦の鼻緒も赤い草履を揃えて置く。揚羽屋の楼主が露菊の手を取る。その手を支えにして露菊は高下駄から足を外して、す、と草履の上に片足を落とす。しゃがみ込んでいる政吾郎の付き人が草履を支え露菊が履く介添えをする。高下駄を脱いで草履に履き替え終えた露菊は、すっかりと大門の外へと進み出ていた。
お吟は露菊の目に入らない所から、その一部始終を見ていた。女郎が郭を出る際に、特にこうしなければならないといった決まり事はない。着の身着のままただ一目散に駆け出すように去る者もいれば、見送りに来てくれた人々一人一人と言葉を交わし惜しむように行く者もいる。わざわざ政吾郎がこういったことを露菊にさせるのは、一つのけじめを付けさせるためなのだろう。そう思いなおもお吟は露菊の後ろ姿を見つめ続ける。
露菊は境を超えた。こちら側からあちら側へと渡っていった。郭は黒板塀で囲まれている。大門では四郎兵衛会所の者が目を光らせていて、夜四ツの刻限が来れば門扉は閉ざされる。形ある物が郭の内と外とを厳然と隔ててはいるが、今お吟と露菊との間には塀も垣根もなく、ただ面一に地続きな道があるだけである。近寄り手を伸ばして触れようと思えば触れられる。けれども二人の間には、目には見えない一線が引かれてしまい、手応えも不確かな薄い膜で互いが隔てられてしまったような、そんな気がする。お吟は一抹の寂しさを覚えた。
門の外で露菊は振り返る。その足下へ禿達が縋り付く。
「ねえさんねえさんねえさん」
「いってしまうん? もういってしまうん?」
目を赤く腫らしてぽろぽろと涙を零す禿達の姿に露菊の胸が痛む。もうこの子達を褒めることも叱ることも出来ない。傍で見守ってやることも教え諭すことも出来ない。
しゃがみ込んで二人を両腕で抱きしめなた露菊は、それまでのように、こなさんたち、と呼びかけようとして口を噤んだ。
「あなたたち。聞いておくれ」
露菊はそれまでの花魁としての口調を捨て、郭の外の人として言葉を掛けた。
「なつめ。かつら。元気で。どうか元気でいておくれ。お腹を壊したりしないように。熱を出したりしないように。いっぱいご飯が食べられるように。撲たれることのないように。願っていますよ」
優しく語りかけれて禿達は一時不思議そうな顔をするが、いやいやと頭を振って露菊の胸にむしゃぶりつく。
「いやだ。いやだ。いっちゃいやだ」
「おいていかないでおくれよぅ。ずっといておくれよぅ」
「聞き分けておくれ。ね? いい子だから」
露菊が禿達の肩に手を掛けて自分の胸から離し、二人の目を見つめながら言う。その小さな背中を屈み込んだ新造がそっと包み込む。
「こなさんたち。姉さまを困らせるものじゃおざんせん。目出度い門出でおざんす。笑って送りなんし」
二人を抱える綾菊の腕に力が入る。露菊は思う。わたしはもしかすると、姉女郎というだけではなく、この子達の母親代わりであったのかもしれない。別れ難い。郭から連れだし共に行ってしまいたい。けれどもそれは叶わない。露菊の目尻が些か濡れた。
禿達を窘める綾菊の口調は穏やかだったが、一本通った筋を感じさせた。この娘も成長したのだ。後は。この子に託すしかない。露菊は綾菊を見つめて、頼みましたよ、と目で語る。綾菊も頷きながら目で、心得ました、と露菊に告げる。
政吾郎は出立の催促をするでもなく、揚羽屋の主人と言葉少なに話しをしていたが、ようやく立ち上がり郭に背を向けた露菊の姿を認めると傍へ歩み寄った。
「行くぞ」
それだけ低く告げて政吾郎は五十間道を日本堤に向けて歩き出した。露菊は一つ頷くと、政吾郎の後をを三歩ほど遅れて付き従った。
五十間道の見返り柳が立ち、道がくの字に折れ曲がる辺りに辻駕籠が四挺待っていた。道端に腰を下ろして煙管をふかしていた駕籠舁たちは、政吾郎一行が近づいて来るのを認めると、雁首を駕籠の枠に打ち付け灰を落とすと煙管を収めた。筵の垂れが捲り上げられる。政吾郎は先頭の駕籠へと乗り込み、露菊も次の駕籠に腰を下ろそうかとした、その時。
「ヤーぁぁぁぁぁぁエデャーぁぁぁぁぁぁ」
朗々たる声が辺りに響き渡った。露菊の肩が呼応するようにぴくりと動く。聞き覚えのある声。これはお吟の声に間違いない。でも。この言葉は。この囃子詞は。す、と血の気が引いたように白くなった露菊の顔が瞬く間に紅潮し、体中が熱を帯びていく。。
〽十五 十五七が 沢を登りに
独活 独活の芽かいた
独活のしろめを 食い 食いそめた
唄だ。これはわたしの故郷の山唄だ。津軽の祝い唄だ。どうして。どうしてお吟さんが。露菊の目が泳いだ。
お吟は歌い続けた。
〽目出度い 目出度いな
今宵目出度く 縁 縁結び
嫁は三国 一の 一の嫁
後を思わず 先 先急げ
馬の鈴音 高 高らかに
お吟が八方手を尽くして奥州の人伝に教わった唄だった。郭を出ても露菊が故郷の土をもう一度踏むことは恐らくあるまい。ならばせめて故郷の祝い唄で郭から送り出してやりたい。お吟が短い間に必死に覚えた唄だった。文句も節回しも喉に覚えさせるために何度も何度も修練を重ねた唄だった。
露菊は大きく息を吸い込む。ほんの少しの間止め、天を仰ぐ。辺り一帯に響き渡りながらも、ただ自分一人だけに向けられたお吟の声を全身で受け止める。内に留めていた息を一気に吐き出す。息と共に吐き出し流し去ろうとした思いは消えず、後から後から湧いてくる。
意を決して露菊は踵を返し、居並ぶ駕籠を背に小走りに駆け出した。
馬鹿。何してるんだ。花嫁が後戻りするやつがあるか。お吟は胸の内で叱り付けながら一層声に力を込める。しかし喉から力強く発せられる唄は露菊を押し止めることも向こうへ押し遣ることも出来ず、白無垢はこちらへと近づいて来る。転ぶな。ならばせめて転んでくれるな。その衣装に土を付けるようなことはしてくれるな。願いを込めてお吟は唄う。
〽けやぐ けやぐけやぐ殿ぁ
来たなごじゃったな 珍 珍しや
何を喰へようか 呑ませ 呑ませよか
鯛か鱸か あぶ あぶらみか
鯛も鱸も 何も 何も要らない
長く言葉を 交わし 交わしたい
駆け寄る露菊の手が頭から平打ちの簪を引き抜く。腕を伸ばして簪を挿し出したまま露菊が、ただひたすらにお吟の元へと駆ける。お吟が大門の際まで進み出て、身を郭の内に留めながら腕を伸ばす。唄い続けるお吟のその手には、日々結髪で使い込んでいる鋏が握られていた。
門の内と外から延べられた手が互いの持ち物を近づける。
――会いに来て下さい。
簪に露菊の思いが宿る。
――必ず会いに行く。
握り鋏にお吟の思いが込められる。
簪の足と握り鋏の刃が打ち合わさり、かちり、と小さな音を立てる。二人の間に言葉は交わされなかったが、互いの思いは通じ合っていた。
――約束です。
――約束するよ。
自分の大切にしている金物を打ち合わせて固く契る金打の音は、二人の耳にしか届かぬ微かな微かな音だったが、互いの胸の奥に力強くはっきりと刻まれた。
しばらくの間向かい合う二人だったが、露菊は手にした簪をまた頭に収めてお吟に軽く黙礼すると白無垢の裾を翻した。お吟も軽く肯いてこれまでより張りのある声で祝い唄を唄った。
お吟の声が露菊の背中を推す。露菊は今度は一度も振り返ることも立ち止まることもなく見返り柳まで歩き続け、待たせたままの駕籠に乗り込んだ。
〽十五 十五七が 十五になるから
山 山登り
奥のお山に 木を 木を伐るに
腹も空いたし 日も 日も暮れる
これを見せたい 我が 我が親に
駕籠舁が順に繰り出す掛け声と共に揺られ揺られて四挺の駕籠が緩やかな坂を上り行く。それらはやがて日本堤に行き当たると、折れて川沿いに土手を進んでいく。
三々五々に人々が散っていく中、お吟は遠ざかり小さくなり行く駕籠を見えなくなるまで目で追っていた。
「今生の別れなどではないさ」
誰にともなくお吟が呟く。その頬を川縁から吹いてきた風がそっと撫でる。しばらくされるが儘にしていたお吟だったが、やがてくるりと向きを変えると、しっかりとした足取りで揚屋町の方へと歩み去った。
どこかで小鳥が鳴いていた。りとりとりとり。ちたちたちたち。誰一人としてその姿を見る者はいなかった。やがて短く鳴く声は、ちちちりちりちりりり、と長鳴きへと変わり、空に尾を引いて消えていった。
うっすらと夏の気配が変わり行く、そんな日の朝のことだった。
〈参考文献〉
『日本随筆大成 第二期 兎園小説・草廬漫筆』吉川弘文堂,一九七三年。
『江戸吉原誌』興津要,作品社,一九八四年。
『粧いの文化史 江戸女たちの流行通信』ポーラ文化研究所,一九九一年。
『江戸吉原図聚』三谷一馬,中公文庫,一九九二年。
『江戸結髪史』金沢康隆,青蛙房,一九九八年。
『図説 浮世絵に見る江戸吉原』佐藤要人・監修/藤原千恵子・編,河出書房新社,一九九九年。
『結うこころ 日本髪の美しさとその型』ポーラ文化研究所,二〇〇〇年。
『図説 吉原事典』永井義男,朝日文庫,二〇一五年。
『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』安藤優一郞・監修,カンゼン,二〇一六年。
『日本髪大全』田中圭子,誠文堂新光社,二〇一六年。
『大人の教養図鑑 江戸入門 くらしとしくみの基礎知識』山本博文,河出書房新社,二〇一九年。
〈参考サイト〉
1 純邦楽詞章集 http://garando.sakura.tv/junhogaku/index.php?%E5%85%A5%E5%8F%A3
2 TEAM TETSUKURO
http://www.tetsukuro.net/index.php
3 線翔庵 民謡コレクションの間
http://senshoan.main.jp/minyou/minyou-top.htm
※本文中の長唄「傾城」の歌詞は参考サイト1,長唄「供奴」「二人椀久」の歌詞については参考サイト2,津軽民謡「津軽山唄」の歌詞については参考サイト3よりそれぞれ抜粋引用した。
※本文中の妓楼における朝の神棚参拝の章句は,滝沢馬琴『兎園小説』中の「新吉原京壱丁目娼家若松屋の掟」の項(『日本随筆大成 第二期』)より抜粋引用した。
※本作の執筆において川越市の日本髪結い師・関場明子氏(和の手仕事屋)には実際の結髪の様子を見せて頂いたほか貴重な話を伺うことができ多くの示唆を頂戴した。ここに記して御礼申し上げます。
角町の揚羽屋を発った行列はしずしずと進む。先頭に黒紋付の羽織姿の楼主と金棒を持った若い者、その後から振袖新造と禿が二人。それらに導かれた一際艶やかな白無垢姿、その後ろから傘を差し掛ける若い者と荷物を抱えた番頭新造が続く。花魁道中のようにゆっくりとした道行きだったが、行列の主役の履く高下駄は八文字を描いてはいない。
先頭の若い者が一歩行く度に、しゃん、しゃん、と金棒を地に突いて金輪を鳴らせば、その音に合わせて一同も一歩また一歩と足を進める。通りの両脇に居並ぶ妓楼の二階からは、格子越しに女たちの視線が驟雨の如く降り注ぐ。
一目見ようと背伸びをする禿たちが注ぐのは、白無垢の華麗な姿に対する無邪気な羨望の眼差しだったが、女郎たちの投げ掛ける視線は、それとはまた異なる感情を含んでいた。身請けされ苦界を抜け出す者への嫉妬。何れ自分も後を追ってみせるとの決意。そしてあれはあくまで他人事、所詮この身は借財に縛られた籠の鳥との失意、諦念、悲嘆。あらゆる思いを浴びつつ列は大門を目指して進んだ。
お吟は少し離れた所で金輪の鳴る音を聞きながら列の後を歩いていた。美しいな、とお吟は思った。月が変わって来月となれば、八朔が来て郭の中は白無垢姿の女郎たちが行き交うようになる。そのどれもが美しい。しかし今の露菊の白無垢姿はそれらに増して一等美しいに違いない。お吟はそう確信していた。
露菊の胸中に今あるのはどういった思いなのだろう。露菊が郭に入るに至った訳は百年経とうが千年経とうが消えることはない。失われた命は二度とは戻らない。過去の出来事は露菊の心に今でも暗い影を落としている。けれども露菊は郭を出ることを選んだ。生き直すことを選んだ。
罪の意識が薄らいでいてくれるのならば。その胸に曙光のような希望が宿っていてくれるのならば。お吟はそう願った。露菊の後ろ姿を見ながらそう願わざるを得なかった。
角町の木戸を抜け、行列は仲之町を大門目指して進む。通りに並ぶ引手茶屋からぱらぱらと人が出てくる。大半は久々の身請けで郭の外へ出る花魁を一目見ておこうと仕事の手を休めて表に出た奉公人達なのだろう。行列が行き過ぎればまた茶屋の中へとそそくさと引っ込んでいく。何軒かの茶屋では見世の前に人々がずらりと並んで行列を待ち構え、一行が通り過ぎてもその背中をずっと見送っている。露菊と懇意だった茶屋なのだと見受けられる。先頭を行く揚羽屋の主人も行き過ぎる時には列を離れ、茶屋の主人や女将と見える者に挨拶をし頭を下げている。
露菊は終始微かに俯き加減で、ただ前を見ていた。通い慣れた道。見慣れた景色。世話になった人々の姿。己がここを出て行ったとしても消え去ってしまうことはない。けれども今はそれら全てが何やら形も重さも手触りさえも全てなくしてしまったかのような、言い知れぬ感じがして仕方がなかった。
大門を出てしまえば自分はもう郭の女ではなくなる。金に縛られて身を売ることはせずに済む。本当を言えば今この時でさえ既にそうなっている。何もかもが変わってしまった。ただ。自分は本当に変わってしまったのだろうか。変わってしまえるのだろうか。露菊の胸中では疑問ばかりが渦巻いていた。
もう何年もの間ずっと露菊と呼ばれ、自分でも露菊と名乗ってきたが、その名はこの身から剥がされてしまう。露菊であった者が露菊でなくなった時、自分は自分でいられるのだろうか。一体何に拠って立てばいいのだろう。木曽屋の政吾郎はこれからのことは全て任せて何も心配することはないと言う。けれども自分は針の一つも煮炊きも出来はしない。どう生きればいいというのだろう。
露菊の脳裏にお吟の顔が浮かぶ。笑っていた。泣いていた。はにかんでいた。困惑していた。そして何よりも強く思い出されるのは怒った顔だった。幸せになれと、ならねばならないんだと心底腹を立てていた顔だった。
そうね、と露菊は胸の中で独りごちる。あなたがわたしに本気で怒ってくれたのだもの。その真摯な思いには応えなければならない。今行くこの道は産道で、この先に待つ大門は会陰となるのだ。この身から名を引き剥がされて真っ新になったわたしは、長く自分を包んでいたこの吉原という子袋から娑婆へと生まれ落ちるのだ。もう一度生まれ直す。それならばいいでしょう? 露菊はお吟の怒り顔にそっと語り掛けた。
大門口へと至った行列が足を止める。門のあちら側には黒紋付きを羽織った老人と若い男が二人、並んで一行を出迎える。羽織姿の政吾郎の表情は固く、睨み付けるように門の内側を見据えている。端から見れば何かを腹に据えかねているようにも、不機嫌極まりないようにも見て取れるが、常日頃の政吾郎をよく知る者はみな晴れの門出を祝っていない訳ではないことは承知出来た。
大門の内と外の境目ぎりぎりの所に露菊が進み行く。政吾郎に従っていた付き人が境目のすぐ外側に錦の鼻緒も赤い草履を揃えて置く。揚羽屋の楼主が露菊の手を取る。その手を支えにして露菊は高下駄から足を外して、す、と草履の上に片足を落とす。しゃがみ込んでいる政吾郎の付き人が草履を支え露菊が履く介添えをする。高下駄を脱いで草履に履き替え終えた露菊は、すっかりと大門の外へと進み出ていた。
お吟は露菊の目に入らない所から、その一部始終を見ていた。女郎が郭を出る際に、特にこうしなければならないといった決まり事はない。着の身着のままただ一目散に駆け出すように去る者もいれば、見送りに来てくれた人々一人一人と言葉を交わし惜しむように行く者もいる。わざわざ政吾郎がこういったことを露菊にさせるのは、一つのけじめを付けさせるためなのだろう。そう思いなおもお吟は露菊の後ろ姿を見つめ続ける。
露菊は境を超えた。こちら側からあちら側へと渡っていった。郭は黒板塀で囲まれている。大門では四郎兵衛会所の者が目を光らせていて、夜四ツの刻限が来れば門扉は閉ざされる。形ある物が郭の内と外とを厳然と隔ててはいるが、今お吟と露菊との間には塀も垣根もなく、ただ面一に地続きな道があるだけである。近寄り手を伸ばして触れようと思えば触れられる。けれども二人の間には、目には見えない一線が引かれてしまい、手応えも不確かな薄い膜で互いが隔てられてしまったような、そんな気がする。お吟は一抹の寂しさを覚えた。
門の外で露菊は振り返る。その足下へ禿達が縋り付く。
「ねえさんねえさんねえさん」
「いってしまうん? もういってしまうん?」
目を赤く腫らしてぽろぽろと涙を零す禿達の姿に露菊の胸が痛む。もうこの子達を褒めることも叱ることも出来ない。傍で見守ってやることも教え諭すことも出来ない。
しゃがみ込んで二人を両腕で抱きしめなた露菊は、それまでのように、こなさんたち、と呼びかけようとして口を噤んだ。
「あなたたち。聞いておくれ」
露菊はそれまでの花魁としての口調を捨て、郭の外の人として言葉を掛けた。
「なつめ。かつら。元気で。どうか元気でいておくれ。お腹を壊したりしないように。熱を出したりしないように。いっぱいご飯が食べられるように。撲たれることのないように。願っていますよ」
優しく語りかけれて禿達は一時不思議そうな顔をするが、いやいやと頭を振って露菊の胸にむしゃぶりつく。
「いやだ。いやだ。いっちゃいやだ」
「おいていかないでおくれよぅ。ずっといておくれよぅ」
「聞き分けておくれ。ね? いい子だから」
露菊が禿達の肩に手を掛けて自分の胸から離し、二人の目を見つめながら言う。その小さな背中を屈み込んだ新造がそっと包み込む。
「こなさんたち。姉さまを困らせるものじゃおざんせん。目出度い門出でおざんす。笑って送りなんし」
二人を抱える綾菊の腕に力が入る。露菊は思う。わたしはもしかすると、姉女郎というだけではなく、この子達の母親代わりであったのかもしれない。別れ難い。郭から連れだし共に行ってしまいたい。けれどもそれは叶わない。露菊の目尻が些か濡れた。
禿達を窘める綾菊の口調は穏やかだったが、一本通った筋を感じさせた。この娘も成長したのだ。後は。この子に託すしかない。露菊は綾菊を見つめて、頼みましたよ、と目で語る。綾菊も頷きながら目で、心得ました、と露菊に告げる。
政吾郎は出立の催促をするでもなく、揚羽屋の主人と言葉少なに話しをしていたが、ようやく立ち上がり郭に背を向けた露菊の姿を認めると傍へ歩み寄った。
「行くぞ」
それだけ低く告げて政吾郎は五十間道を日本堤に向けて歩き出した。露菊は一つ頷くと、政吾郎の後をを三歩ほど遅れて付き従った。
五十間道の見返り柳が立ち、道がくの字に折れ曲がる辺りに辻駕籠が四挺待っていた。道端に腰を下ろして煙管をふかしていた駕籠舁たちは、政吾郎一行が近づいて来るのを認めると、雁首を駕籠の枠に打ち付け灰を落とすと煙管を収めた。筵の垂れが捲り上げられる。政吾郎は先頭の駕籠へと乗り込み、露菊も次の駕籠に腰を下ろそうかとした、その時。
「ヤーぁぁぁぁぁぁエデャーぁぁぁぁぁぁ」
朗々たる声が辺りに響き渡った。露菊の肩が呼応するようにぴくりと動く。聞き覚えのある声。これはお吟の声に間違いない。でも。この言葉は。この囃子詞は。す、と血の気が引いたように白くなった露菊の顔が瞬く間に紅潮し、体中が熱を帯びていく。。
〽十五 十五七が 沢を登りに
独活 独活の芽かいた
独活のしろめを 食い 食いそめた
唄だ。これはわたしの故郷の山唄だ。津軽の祝い唄だ。どうして。どうしてお吟さんが。露菊の目が泳いだ。
お吟は歌い続けた。
〽目出度い 目出度いな
今宵目出度く 縁 縁結び
嫁は三国 一の 一の嫁
後を思わず 先 先急げ
馬の鈴音 高 高らかに
お吟が八方手を尽くして奥州の人伝に教わった唄だった。郭を出ても露菊が故郷の土をもう一度踏むことは恐らくあるまい。ならばせめて故郷の祝い唄で郭から送り出してやりたい。お吟が短い間に必死に覚えた唄だった。文句も節回しも喉に覚えさせるために何度も何度も修練を重ねた唄だった。
露菊は大きく息を吸い込む。ほんの少しの間止め、天を仰ぐ。辺り一帯に響き渡りながらも、ただ自分一人だけに向けられたお吟の声を全身で受け止める。内に留めていた息を一気に吐き出す。息と共に吐き出し流し去ろうとした思いは消えず、後から後から湧いてくる。
意を決して露菊は踵を返し、居並ぶ駕籠を背に小走りに駆け出した。
馬鹿。何してるんだ。花嫁が後戻りするやつがあるか。お吟は胸の内で叱り付けながら一層声に力を込める。しかし喉から力強く発せられる唄は露菊を押し止めることも向こうへ押し遣ることも出来ず、白無垢はこちらへと近づいて来る。転ぶな。ならばせめて転んでくれるな。その衣装に土を付けるようなことはしてくれるな。願いを込めてお吟は唄う。
〽けやぐ けやぐけやぐ殿ぁ
来たなごじゃったな 珍 珍しや
何を喰へようか 呑ませ 呑ませよか
鯛か鱸か あぶ あぶらみか
鯛も鱸も 何も 何も要らない
長く言葉を 交わし 交わしたい
駆け寄る露菊の手が頭から平打ちの簪を引き抜く。腕を伸ばして簪を挿し出したまま露菊が、ただひたすらにお吟の元へと駆ける。お吟が大門の際まで進み出て、身を郭の内に留めながら腕を伸ばす。唄い続けるお吟のその手には、日々結髪で使い込んでいる鋏が握られていた。
門の内と外から延べられた手が互いの持ち物を近づける。
――会いに来て下さい。
簪に露菊の思いが宿る。
――必ず会いに行く。
握り鋏にお吟の思いが込められる。
簪の足と握り鋏の刃が打ち合わさり、かちり、と小さな音を立てる。二人の間に言葉は交わされなかったが、互いの思いは通じ合っていた。
――約束です。
――約束するよ。
自分の大切にしている金物を打ち合わせて固く契る金打の音は、二人の耳にしか届かぬ微かな微かな音だったが、互いの胸の奥に力強くはっきりと刻まれた。
しばらくの間向かい合う二人だったが、露菊は手にした簪をまた頭に収めてお吟に軽く黙礼すると白無垢の裾を翻した。お吟も軽く肯いてこれまでより張りのある声で祝い唄を唄った。
お吟の声が露菊の背中を推す。露菊は今度は一度も振り返ることも立ち止まることもなく見返り柳まで歩き続け、待たせたままの駕籠に乗り込んだ。
〽十五 十五七が 十五になるから
山 山登り
奥のお山に 木を 木を伐るに
腹も空いたし 日も 日も暮れる
これを見せたい 我が 我が親に
駕籠舁が順に繰り出す掛け声と共に揺られ揺られて四挺の駕籠が緩やかな坂を上り行く。それらはやがて日本堤に行き当たると、折れて川沿いに土手を進んでいく。
三々五々に人々が散っていく中、お吟は遠ざかり小さくなり行く駕籠を見えなくなるまで目で追っていた。
「今生の別れなどではないさ」
誰にともなくお吟が呟く。その頬を川縁から吹いてきた風がそっと撫でる。しばらくされるが儘にしていたお吟だったが、やがてくるりと向きを変えると、しっかりとした足取りで揚屋町の方へと歩み去った。
どこかで小鳥が鳴いていた。りとりとりとり。ちたちたちたち。誰一人としてその姿を見る者はいなかった。やがて短く鳴く声は、ちちちりちりちりりり、と長鳴きへと変わり、空に尾を引いて消えていった。
うっすらと夏の気配が変わり行く、そんな日の朝のことだった。
〈参考文献〉
『日本随筆大成 第二期 兎園小説・草廬漫筆』吉川弘文堂,一九七三年。
『江戸吉原誌』興津要,作品社,一九八四年。
『粧いの文化史 江戸女たちの流行通信』ポーラ文化研究所,一九九一年。
『江戸吉原図聚』三谷一馬,中公文庫,一九九二年。
『江戸結髪史』金沢康隆,青蛙房,一九九八年。
『図説 浮世絵に見る江戸吉原』佐藤要人・監修/藤原千恵子・編,河出書房新社,一九九九年。
『結うこころ 日本髪の美しさとその型』ポーラ文化研究所,二〇〇〇年。
『図説 吉原事典』永井義男,朝日文庫,二〇一五年。
『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』安藤優一郞・監修,カンゼン,二〇一六年。
『日本髪大全』田中圭子,誠文堂新光社,二〇一六年。
『大人の教養図鑑 江戸入門 くらしとしくみの基礎知識』山本博文,河出書房新社,二〇一九年。
〈参考サイト〉
1 純邦楽詞章集 http://garando.sakura.tv/junhogaku/index.php?%E5%85%A5%E5%8F%A3
2 TEAM TETSUKURO
http://www.tetsukuro.net/index.php
3 線翔庵 民謡コレクションの間
http://senshoan.main.jp/minyou/minyou-top.htm
※本文中の長唄「傾城」の歌詞は参考サイト1,長唄「供奴」「二人椀久」の歌詞については参考サイト2,津軽民謡「津軽山唄」の歌詞については参考サイト3よりそれぞれ抜粋引用した。
※本文中の妓楼における朝の神棚参拝の章句は,滝沢馬琴『兎園小説』中の「新吉原京壱丁目娼家若松屋の掟」の項(『日本随筆大成 第二期』)より抜粋引用した。
※本作の執筆において川越市の日本髪結い師・関場明子氏(和の手仕事屋)には実際の結髪の様子を見せて頂いたほか貴重な話を伺うことができ多くの示唆を頂戴した。ここに記して御礼申し上げます。
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