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(一)
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(一)
菜そうろう。菜そうろう。
遠くから聞こえる鷹揚な声が、微睡みの中からお吟を呼び覚ます。
菜そうろう。菜そうろう。
間を開けて繰り返すのは、近郷から来た百姓の声なのだろう。頭の上に乗せた大籠の中には、今朝畑で採れたばかりの青物が盛られているに違いない。
菜そうろう。菜そうろう。
早く売らねば萎びてしまうな。誰か買わないだろうか。売り声が止まらないところをみると、誰も呼び止める者がいないようだが。誰か買わないだろうか。もう行ってしまうぞ。
目を閉じたままお吟は胸の内で独りごちる。
菜物か。しばらく口にしていないな。売り物は何だろう。のらぼう菜か。それとも小松菜か。もう時期は過ぎるが大根菜ならいいな。亀戸辺りならまだ大根もあるか。さっと湯がいて刻んで胡麻油で炒ると美味いんだが。
とりとめのない考えがお吟の頭の中を行き過ぎる。
年の頃はどの位だろうか。声の様子からしてそう年増には思えない。かといって娘御のようでもない。所帯持ちだろうか。ちゃんと切手は持っているだろうか。郭は男だけでなく女も入って差し支えはないが、ちゃんと会所で切手を貰っておかないと出る時に往生する。流石にその辺りは心得てはいるかな。
それにしても、とお吟は思う。
それにしても全く朝から精の出ることだ。
その言葉が浮かんだ瞬間、お吟は目蓋を開いた。眼前に日に焼けて目などとうに擦れ潰れてしまった白茶けた畳表が迫っている。
「うおっ」
低く一声放ってお吟は慌てて畳から身を引き剥がす。右の頬が痒みとも痛みとも何ともいえない感覚でひりひりしている。四つん這いのままそっと指を這わせると、帯状の凹みが感じ取れた。鏡を覗くまでもない。畳に突っ伏して眠りこけている間に、畳縁の痕がついてしまったのだ。
「ああ。またやった」
苦笑いを浮かべながらお吟が漏らす。体を起こして小袖の裾が開くのも気にせず胡座をかき、袖が捲れて二の腕が露わになるのにも構わず腕を上げて大きく伸びをする。誰に見られるわけでもあるまいし。気兼ねなどする必要はない。何となく口の端に引きつるような感覚がある。指の背で拭ってみれば、かさついた肌触りが乾いた涎の痕跡を伝えてくる。涎を垂らして眠りこけるなどまるで幼子のような有様だ。お吟はまた苦笑いする。
大きく息をついてまた四つん這いになると、お吟は行灯まで躙り寄って火袋を上に滑らせ、ふっ、と息を吹きかけ灯りを消した。
一体いつから眠りこけてしまったのだろう。はっきりとは思い出せない。お吟は夜が更けてもついつい根を詰め過ぎてしまい、吊り紐が切れて畳の上に落ちる蚊帳のようにすとんと気を失って朝を迎えることがままある。どうやら昨夜もそういった具合に倒れ込んでしまったようだ。行灯の油代だって馬鹿にならないのに、我ながら世話が焼けるものだ。お吟は眉根を上げて宙を見た。
徐に頭に手をやって髪の具合を確かめる。左の鬢は形を留めているが、右の鬢は倒れ込んでいる間にすっかり潰れてしまったようで膨らみを失っている。そのまま上の方に指を這わせてみれば、細くて腰のあるものが頭の天辺辺りから飛び出しているのが分かる。鏡を覗き込むと、纏め上げ束ねた前髪を中途半端に縛った元結が切り詰められもせず両端を左右に跳ね飛ばしている。まるで蟋蟀の髭のようじゃないか。そのあまりの間抜けな風体にお吟は耐えきれず声を上げて笑った。
昼間の仕事を終え、夕餉を済ませて一心地ついた後にお吟は鏡の前に座る。元結を切り髪を下ろして丹念に櫛で梳かし、鬢付け油の具合を整えて自分の髪を結っては解き、解いてはまた結うことを繰り返す。初めは鏡に映る左右逆しまの姿がお吟を惑わせものたが、今はもう迷うことはない。手や指の向きや加減を骨の髄まで叩き込むべく繰り返し繰り返し動かし続けて、今はもう結髪の全ての手順を手そのものが覚え込んでいる。
丸髷を結うには生え際からどの辺りで前髪を取ればいいか、島田の鬢はどう張れば一番見栄えがいいか。そういった鏡に映して確かめられる場所ばかりではない。髱はどの程度伸ばせば美しいか、髷を取り根を結う高さはどの辺りが具合がいいかといった、自分の目でそのまま確かめられない場所であっても、手指の曲げ具合や掌に伝わる感覚で様子を確かめ、まるで後ろから自分の頭を見下ろしているがの如く自在に結うことが出来る。
そういった鍛錬の甲斐あって、お吟の結髪はとにかく速い。普通の女髪結いが一人の女髪を結い上げるのにおおまかに四半刻掛かるところをお吟は線香が七割方燃え尽きる間に仕上げてしまう。調子のいい時であれば、半刻で三人は結い上げ四人目に取り掛かれるほどの勢いがある。
「さて」
一声発してお吟は昨夜の修練の始末を始めた。鏡の前に転がっていた手鉤を取り、左手で髪を縛った元結を探って鳥の嘴に似た金具を引っ掛けてついと引く。金具の内側に付けられた刃がぷつりと紙の紐を断つ。お吟の手鉤は古道具屋で見かけた畳屋の使う鉤を野鍛冶に頼んで打ち直し研いで貰ったものだが、自分の頭に使うには普通の鋏よりも勝手が良かった。
こんな物を使っているのは自分位なものだろう。余所の髪結いが使っているなど見たことも聞いたこともない。けれどもこの手鉤を使うようになって随分と手が速くなった。握り鋏では刃の使い方を間違うと元結ばかりでなく髪も切り落としてしまう。引っ掛けて引くだけなので手探りだけで十分に使える。我ながら良いところに目を付けたものだ。お吟は自画自賛しつつ次から次へと元結を切り飛ばした。
縛めから黒髪を解き放つと、櫛を手に丹念に梳る。時折櫛を確かめて埃や芥が付いていないかをよくよく見る。御髪にそんなものが付いていたならそれこそ医者の不養生、髪結師の名折れ。すっかり取り除くまで梳らねばならない。
大方いいだろうと断じてお吟は新しい元結を一本取る。前髪横髪を後ろに撫で付けると頭の後ろで握って一つに纏め、手にした元結を根元に巻き付けしっかりと縛り上げて根を作る。次いでお吟は後ろに垂らした髪を中程から折り上げて、揃えた毛先を先程作った根に沿わせて余っていた元結でまた縛り上げる。瞬く間にお吟の頭の後ろに狸の尻尾のような房がぶら下がった。
自分で島田なり何なりに結うことは容易いのだが、毎夜思い付いては手技を高めるために髪をいじるお吟にとってはこの方が気楽でいい。紺屋の白袴と言えばそれまでだな。お吟は眉根を上げて誰に見せるでもなくひょうきんな顔つきをしてみせる。
「ええと。んと」
足下をきょろきょろと見回して、無造作に放り出されている鳶色の端布を見つけて拾い上げる。両手を上げて後ろに回し、束ねた髪を跳ね上げ襟元に布を掛ける。肩先の布の端を拾って元結が隠れるように結び一回。背に垂れた布の端を持ち上げて下げ髪を包み込んで同じ箇所でまた結び一回。お吟の頭の後ろから生えた狸の尻尾が濃い茶色の布で包まれて更に狸の尻尾らしくなる。
「よし」
尻尾を掌でぽんぽんと包んで具合を確かめると、お吟は満足そうに声を上げた。こうしておけば鬢付け油を引いた髪が小袖の襟元を汚さずに済む。あたしは賢いな。お吟はまた自画自賛をしてにんまりと笑みを浮かべる。
髪の始末が済んだ所で、お吟は小袖の襟元と合わせを整え、一度しゃがんで股割りをした後に脱ぎ散らかしてあった軽杉に足を通す。小袖に巻いた半幅帯の上で前紐を結び、腰板を当てて後ろ紐を前に回してきりりと締める。上から下まで通りの辻で軽業を披露する香具師のような、何とも女っ気の欠片もないような風体だが、とにかく身軽に動きたいお吟にとってはこれが一番心地よい。
お吟は長屋の猫の額ほどもない三和土に降りて、竈の横にぶら下げてある手拭いを引く。井戸で顔を洗っておこう。涎の跡など付いていたら流石にみっともない。手拭いを振ってひょいと肩に掛けると、戸を引いて表へと一歩踏み出す。
「おっと」
軒先に下げた「かもじととのへ をんなかみゆいます」と墨書きされた木札に、お吟は危うく額をぶつけそうになる。鴨居の辺りに高く掲げた木札だが、女にしては上背のあるお吟の隙をうかがうように、しばしば頭を狙いすましてくる。
木札との対決に辛くも勝利して、所々鳴る溝板を踏んで進むお吟を聞き慣れた声が呼ぶ。
「あらお吟ちゃん。おはよう」
声の方に顔を向ければ、井戸端でしゃがみ込んで水を使っていた手拭い頭が振り返ってこちらを見上げていた。
お吟はじっと耳を見た。この転がった空豆がからからと笑っているような耳。ああ。お吟の斜向かいに住むおかつさんだ。お吟は目を擦りながら挨拶を返す。
「おはよう。おかつさん」
「なんだい。また昨夜も遅かったのかい?」
「ああ。いつもの調子さ」
お吟は苦笑いしながら畳の跡のついた頬を指先でぽりぽりと掻いた。
「あらいやだよう。それじゃ折角の別嬪さんが台無しじゃないか。ほら。これで少し冷やしなよ。直に赤みも引くだろうよ」
おかつは頭に被った手拭いとは別に腰に提げていた手拭いを水桶の中で濡らし、きゅっと絞ってお吟に差し出した。
「ありがとう。おかつさん」
お吟は手拭いを有り難く受け取って頬に充てた。じんわりと頬に広がる冷たさが心地よかった。
「ああ、そうだお吟ちゃん。ちょっと待ってておくれよ」
おかつはやおら立ち上がり自分の住まいに入ると、お櫃を抱えて戻ってきた。
「はいお吟ちゃん。今日の分だよ。炊いてからしっかりと冷ましてあるからね」
蓋を開けると艶やかな飯が光っている。飯の上に手の甲をかざしてみれば、じんわりとした温もりすら感じられない。おかつの言葉に違わず、しっかりと冷ましてあるようだ。
「済まないね、おかつさん。いつも手間を掛けさせちまって」
「やだよお吟ちゃん」
からからと笑う空豆のような耳が、招くように一つ手を振って快活に言う。
「一軒分炊くのも二軒分纏めて炊くのも手間は一緒さ。冷ますのだってお櫃に入れてそのまま放っときゃ勝手に冷めるんだし。それはお吟ちゃんの米なんだし、ちゃんと薪代は貰ってるからね」
お吟は頭を下げる。
「いや。本当に助かるよ。あたしは火が使えないから……」
申し訳なさそうに眉根を上げるお吟に、おかつは少し声を落とす。歩み寄ってきたおかつが優しくお吟の肩を抱く。
「仕方ないさ……あんな目に遭ったんだもの」
「うん」
されるがままのお吟は努めて明るい笑みを浮かべてみせた。
「まだ熱いものはのどを通らないかい? もうめっきり暖かくなったけどさ。冬でも冷たいもの続きだと体冷やして具合悪くなりゃしないかって心配だよ」
「ありがとう、おかつさん。ぬるいものなら時々はいけるようにはなってきたんだ。熱い湯気は吸えないけどね」
「そうかい。そうかい」
おかつは子供をあやすように抱えたお吟の肩をぽんぽんと軽く叩き、ゆっくりと摩った。お吟はその手に自分の手を重ねてなお一層顔をほころばせて明るく言い放つ。
「いやいやいや。おかつさん。あたしはもういい年してるだからさ。あの頃の小娘とは違うよ。大丈夫。大丈夫だから」
おかつが少し身を離す。軽く曲げられた人差し指が目尻を拭う。これは右目だな。お吟は確かめる。
「そうだね。もう行き遅れな歳だもんね」
「ちょっとおかつさん。それは言い過ぎだよ」
申し合わせたように二人の喉から笑い声が迸る。ああ。笑い飛ばしとくれ。笑い飛ばすさ。何たってあたしはこうして生きているんだから。
二人の声に何事かと長屋のそこここの戸が開く。戸口から覗く人々を余所に、お吟とおかつの笑い声はしばらくの間、狭い路地に谺し続けていた。
菜そうろう。菜そうろう。
遠くから聞こえる鷹揚な声が、微睡みの中からお吟を呼び覚ます。
菜そうろう。菜そうろう。
間を開けて繰り返すのは、近郷から来た百姓の声なのだろう。頭の上に乗せた大籠の中には、今朝畑で採れたばかりの青物が盛られているに違いない。
菜そうろう。菜そうろう。
早く売らねば萎びてしまうな。誰か買わないだろうか。売り声が止まらないところをみると、誰も呼び止める者がいないようだが。誰か買わないだろうか。もう行ってしまうぞ。
目を閉じたままお吟は胸の内で独りごちる。
菜物か。しばらく口にしていないな。売り物は何だろう。のらぼう菜か。それとも小松菜か。もう時期は過ぎるが大根菜ならいいな。亀戸辺りならまだ大根もあるか。さっと湯がいて刻んで胡麻油で炒ると美味いんだが。
とりとめのない考えがお吟の頭の中を行き過ぎる。
年の頃はどの位だろうか。声の様子からしてそう年増には思えない。かといって娘御のようでもない。所帯持ちだろうか。ちゃんと切手は持っているだろうか。郭は男だけでなく女も入って差し支えはないが、ちゃんと会所で切手を貰っておかないと出る時に往生する。流石にその辺りは心得てはいるかな。
それにしても、とお吟は思う。
それにしても全く朝から精の出ることだ。
その言葉が浮かんだ瞬間、お吟は目蓋を開いた。眼前に日に焼けて目などとうに擦れ潰れてしまった白茶けた畳表が迫っている。
「うおっ」
低く一声放ってお吟は慌てて畳から身を引き剥がす。右の頬が痒みとも痛みとも何ともいえない感覚でひりひりしている。四つん這いのままそっと指を這わせると、帯状の凹みが感じ取れた。鏡を覗くまでもない。畳に突っ伏して眠りこけている間に、畳縁の痕がついてしまったのだ。
「ああ。またやった」
苦笑いを浮かべながらお吟が漏らす。体を起こして小袖の裾が開くのも気にせず胡座をかき、袖が捲れて二の腕が露わになるのにも構わず腕を上げて大きく伸びをする。誰に見られるわけでもあるまいし。気兼ねなどする必要はない。何となく口の端に引きつるような感覚がある。指の背で拭ってみれば、かさついた肌触りが乾いた涎の痕跡を伝えてくる。涎を垂らして眠りこけるなどまるで幼子のような有様だ。お吟はまた苦笑いする。
大きく息をついてまた四つん這いになると、お吟は行灯まで躙り寄って火袋を上に滑らせ、ふっ、と息を吹きかけ灯りを消した。
一体いつから眠りこけてしまったのだろう。はっきりとは思い出せない。お吟は夜が更けてもついつい根を詰め過ぎてしまい、吊り紐が切れて畳の上に落ちる蚊帳のようにすとんと気を失って朝を迎えることがままある。どうやら昨夜もそういった具合に倒れ込んでしまったようだ。行灯の油代だって馬鹿にならないのに、我ながら世話が焼けるものだ。お吟は眉根を上げて宙を見た。
徐に頭に手をやって髪の具合を確かめる。左の鬢は形を留めているが、右の鬢は倒れ込んでいる間にすっかり潰れてしまったようで膨らみを失っている。そのまま上の方に指を這わせてみれば、細くて腰のあるものが頭の天辺辺りから飛び出しているのが分かる。鏡を覗き込むと、纏め上げ束ねた前髪を中途半端に縛った元結が切り詰められもせず両端を左右に跳ね飛ばしている。まるで蟋蟀の髭のようじゃないか。そのあまりの間抜けな風体にお吟は耐えきれず声を上げて笑った。
昼間の仕事を終え、夕餉を済ませて一心地ついた後にお吟は鏡の前に座る。元結を切り髪を下ろして丹念に櫛で梳かし、鬢付け油の具合を整えて自分の髪を結っては解き、解いてはまた結うことを繰り返す。初めは鏡に映る左右逆しまの姿がお吟を惑わせものたが、今はもう迷うことはない。手や指の向きや加減を骨の髄まで叩き込むべく繰り返し繰り返し動かし続けて、今はもう結髪の全ての手順を手そのものが覚え込んでいる。
丸髷を結うには生え際からどの辺りで前髪を取ればいいか、島田の鬢はどう張れば一番見栄えがいいか。そういった鏡に映して確かめられる場所ばかりではない。髱はどの程度伸ばせば美しいか、髷を取り根を結う高さはどの辺りが具合がいいかといった、自分の目でそのまま確かめられない場所であっても、手指の曲げ具合や掌に伝わる感覚で様子を確かめ、まるで後ろから自分の頭を見下ろしているがの如く自在に結うことが出来る。
そういった鍛錬の甲斐あって、お吟の結髪はとにかく速い。普通の女髪結いが一人の女髪を結い上げるのにおおまかに四半刻掛かるところをお吟は線香が七割方燃え尽きる間に仕上げてしまう。調子のいい時であれば、半刻で三人は結い上げ四人目に取り掛かれるほどの勢いがある。
「さて」
一声発してお吟は昨夜の修練の始末を始めた。鏡の前に転がっていた手鉤を取り、左手で髪を縛った元結を探って鳥の嘴に似た金具を引っ掛けてついと引く。金具の内側に付けられた刃がぷつりと紙の紐を断つ。お吟の手鉤は古道具屋で見かけた畳屋の使う鉤を野鍛冶に頼んで打ち直し研いで貰ったものだが、自分の頭に使うには普通の鋏よりも勝手が良かった。
こんな物を使っているのは自分位なものだろう。余所の髪結いが使っているなど見たことも聞いたこともない。けれどもこの手鉤を使うようになって随分と手が速くなった。握り鋏では刃の使い方を間違うと元結ばかりでなく髪も切り落としてしまう。引っ掛けて引くだけなので手探りだけで十分に使える。我ながら良いところに目を付けたものだ。お吟は自画自賛しつつ次から次へと元結を切り飛ばした。
縛めから黒髪を解き放つと、櫛を手に丹念に梳る。時折櫛を確かめて埃や芥が付いていないかをよくよく見る。御髪にそんなものが付いていたならそれこそ医者の不養生、髪結師の名折れ。すっかり取り除くまで梳らねばならない。
大方いいだろうと断じてお吟は新しい元結を一本取る。前髪横髪を後ろに撫で付けると頭の後ろで握って一つに纏め、手にした元結を根元に巻き付けしっかりと縛り上げて根を作る。次いでお吟は後ろに垂らした髪を中程から折り上げて、揃えた毛先を先程作った根に沿わせて余っていた元結でまた縛り上げる。瞬く間にお吟の頭の後ろに狸の尻尾のような房がぶら下がった。
自分で島田なり何なりに結うことは容易いのだが、毎夜思い付いては手技を高めるために髪をいじるお吟にとってはこの方が気楽でいい。紺屋の白袴と言えばそれまでだな。お吟は眉根を上げて誰に見せるでもなくひょうきんな顔つきをしてみせる。
「ええと。んと」
足下をきょろきょろと見回して、無造作に放り出されている鳶色の端布を見つけて拾い上げる。両手を上げて後ろに回し、束ねた髪を跳ね上げ襟元に布を掛ける。肩先の布の端を拾って元結が隠れるように結び一回。背に垂れた布の端を持ち上げて下げ髪を包み込んで同じ箇所でまた結び一回。お吟の頭の後ろから生えた狸の尻尾が濃い茶色の布で包まれて更に狸の尻尾らしくなる。
「よし」
尻尾を掌でぽんぽんと包んで具合を確かめると、お吟は満足そうに声を上げた。こうしておけば鬢付け油を引いた髪が小袖の襟元を汚さずに済む。あたしは賢いな。お吟はまた自画自賛をしてにんまりと笑みを浮かべる。
髪の始末が済んだ所で、お吟は小袖の襟元と合わせを整え、一度しゃがんで股割りをした後に脱ぎ散らかしてあった軽杉に足を通す。小袖に巻いた半幅帯の上で前紐を結び、腰板を当てて後ろ紐を前に回してきりりと締める。上から下まで通りの辻で軽業を披露する香具師のような、何とも女っ気の欠片もないような風体だが、とにかく身軽に動きたいお吟にとってはこれが一番心地よい。
お吟は長屋の猫の額ほどもない三和土に降りて、竈の横にぶら下げてある手拭いを引く。井戸で顔を洗っておこう。涎の跡など付いていたら流石にみっともない。手拭いを振ってひょいと肩に掛けると、戸を引いて表へと一歩踏み出す。
「おっと」
軒先に下げた「かもじととのへ をんなかみゆいます」と墨書きされた木札に、お吟は危うく額をぶつけそうになる。鴨居の辺りに高く掲げた木札だが、女にしては上背のあるお吟の隙をうかがうように、しばしば頭を狙いすましてくる。
木札との対決に辛くも勝利して、所々鳴る溝板を踏んで進むお吟を聞き慣れた声が呼ぶ。
「あらお吟ちゃん。おはよう」
声の方に顔を向ければ、井戸端でしゃがみ込んで水を使っていた手拭い頭が振り返ってこちらを見上げていた。
お吟はじっと耳を見た。この転がった空豆がからからと笑っているような耳。ああ。お吟の斜向かいに住むおかつさんだ。お吟は目を擦りながら挨拶を返す。
「おはよう。おかつさん」
「なんだい。また昨夜も遅かったのかい?」
「ああ。いつもの調子さ」
お吟は苦笑いしながら畳の跡のついた頬を指先でぽりぽりと掻いた。
「あらいやだよう。それじゃ折角の別嬪さんが台無しじゃないか。ほら。これで少し冷やしなよ。直に赤みも引くだろうよ」
おかつは頭に被った手拭いとは別に腰に提げていた手拭いを水桶の中で濡らし、きゅっと絞ってお吟に差し出した。
「ありがとう。おかつさん」
お吟は手拭いを有り難く受け取って頬に充てた。じんわりと頬に広がる冷たさが心地よかった。
「ああ、そうだお吟ちゃん。ちょっと待ってておくれよ」
おかつはやおら立ち上がり自分の住まいに入ると、お櫃を抱えて戻ってきた。
「はいお吟ちゃん。今日の分だよ。炊いてからしっかりと冷ましてあるからね」
蓋を開けると艶やかな飯が光っている。飯の上に手の甲をかざしてみれば、じんわりとした温もりすら感じられない。おかつの言葉に違わず、しっかりと冷ましてあるようだ。
「済まないね、おかつさん。いつも手間を掛けさせちまって」
「やだよお吟ちゃん」
からからと笑う空豆のような耳が、招くように一つ手を振って快活に言う。
「一軒分炊くのも二軒分纏めて炊くのも手間は一緒さ。冷ますのだってお櫃に入れてそのまま放っときゃ勝手に冷めるんだし。それはお吟ちゃんの米なんだし、ちゃんと薪代は貰ってるからね」
お吟は頭を下げる。
「いや。本当に助かるよ。あたしは火が使えないから……」
申し訳なさそうに眉根を上げるお吟に、おかつは少し声を落とす。歩み寄ってきたおかつが優しくお吟の肩を抱く。
「仕方ないさ……あんな目に遭ったんだもの」
「うん」
されるがままのお吟は努めて明るい笑みを浮かべてみせた。
「まだ熱いものはのどを通らないかい? もうめっきり暖かくなったけどさ。冬でも冷たいもの続きだと体冷やして具合悪くなりゃしないかって心配だよ」
「ありがとう、おかつさん。ぬるいものなら時々はいけるようにはなってきたんだ。熱い湯気は吸えないけどね」
「そうかい。そうかい」
おかつは子供をあやすように抱えたお吟の肩をぽんぽんと軽く叩き、ゆっくりと摩った。お吟はその手に自分の手を重ねてなお一層顔をほころばせて明るく言い放つ。
「いやいやいや。おかつさん。あたしはもういい年してるだからさ。あの頃の小娘とは違うよ。大丈夫。大丈夫だから」
おかつが少し身を離す。軽く曲げられた人差し指が目尻を拭う。これは右目だな。お吟は確かめる。
「そうだね。もう行き遅れな歳だもんね」
「ちょっとおかつさん。それは言い過ぎだよ」
申し合わせたように二人の喉から笑い声が迸る。ああ。笑い飛ばしとくれ。笑い飛ばすさ。何たってあたしはこうして生きているんだから。
二人の声に何事かと長屋のそこここの戸が開く。戸口から覗く人々を余所に、お吟とおかつの笑い声はしばらくの間、狭い路地に谺し続けていた。
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