校内怪奇談(11/10更新)

狂言巡

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落とし物

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 金曜日の事だった。

「やァれやれ、やっと終わった」

 そう独りごちて、源光太郎みなもとこうたろうは学級日誌を閉じた。今日は自分より前の出席番号のクラスメイトが休んでいたので、一日早い日直だったのだ。

(さて、これを職員室に持っていって晩飯食いにいくかな)
(今日の定食はボルシチだったっけか?)

 軽く凝った躰を伸ばしてから、夕暮れで真っ赤に染まった教室を出るために光太郎は立ち上がった。
 ――こつん。

「あ?」

 ドアの少し前で、彼は足を止めた。不意に何か硬いものを蹴飛ばした感触を感じたのだ。視線を下に向ける。足元から少し離れたところに、一本のリップクリームが落ちていた。

「なんだァ?」

 ひょいと拾い上げて見ると、桃色のイラストが目に入る。ピーチの香りがするタイプらしい。

(落としたんだな。誰のだ?)

 名前もイニシャルも書かれていない。そもそも、書こうとしてもリップクリームに書くのは難しいかもしれない。当然、誰もが使っているから見当なんて付くはずがない。
 だからと言ってそのままというのも何だか躊躇われたので、とりあえず教卓の上に立てておいた。がたりと音を立てて年季の入った戸が閉まり、教室の中には赤い陽射しと静寂だけが満ちた。少なくとも、その時は。


 


 そして今は夜である。
 光太郎は一人、部屋で寛いでいた。既にシャワーを済ませ寝間着専用のジャージ姿。すっかり後は眠るだけの状態であるのだが、未だに彼に眠りの天使が訪れる事は無く、仕方なしに彼は机を前に座って本へと視線を走らせていたのだ。
 本の内容はけして頭の中を通り過ぎていくだけのつまらないものではないが、そうであったからといって頭の中に残り、書かれていた事に関して思考を発展させる程でも無かった。要するに暇潰しのための読書である。本の内容と周囲の静寂(時計の音は除く)。それだけが彼の頭の中を緩く満たしていた。
 ふと、彼の体勢がだらりと崩れる。元よりだらけていたが。どうやらこの暇潰しにも飽きたらしい。ふぅと息を一つ吐いて、彼は少し躰をずらして腕を伸ばし、本棚に本をしまう。

(寝るか……横になってたら眠くなンだろ)

 彼は何気なしにベランダの方へ振り向いた時、ぎょっと目を見開いた。

(はァ!?)

 月の灯かりが満ちたカーテンの向こう――ベランダのちょうど中心に、真っ黒い影が映っていたからだ。
 僅かに楕円を描く細長いその影……一瞬何の影だか判らなかったが、下の方を見ると足首らしいものが見えたので、どうやら人間の輪郭シルエットらしいという事を認識する。

(それしてもずいぶん髪が長いのな)

 たぶん女だろうなと推測したが、それにしたらこの影は異様に背が高過ぎる。というか、そのラインがどうも人としては変だ。

アヤカシか、質の悪ぃ悪戯か……)

 そのどちらかであろうという予想はついたのだが、光太郎がそれを確かめる前に、今まで無かった微かな音が耳に入ってきた。

「……ど……」
(はい?)

 蚊の鳴くような、か細い声だ。光太郎がぴたりと動きを止めて耳をそばだてると、声はまた響いてきた。

「わ、たしの、りぷ、くり、む、どこ?」
(りぷくりむ? リップクリーム? オイオイまさか……)

 その単語で私は教室で見つけたピーチが描かれた筒を思い出した。

(アレの持ち主か)

 よりによって妖かよ……内心で舌打ちしつつ、光太郎が影をめ付ければ、見えたのか感じたのか。それに反応したかのように窓が僅かに開かれた。
 光太郎はゲッと大事な事を思い出す。……そういえばつい先ほど風取りのため、鍵は外してあった。
 咄嗟に躰を動かして開けられかけた戸を両手で閉じ、押さえつければ、摺りガラスの向こうの人影は不思議そうに頭を傾かせる。
 がたがたがたがた……。
 窓を開けようとしているのか、尚も戸を動かそうとしている。
 ぷうんと、光太郎は僅かに開かれてしまった戸の隙間の先から漂ってきた腐臭に、思わず手で鼻を覆ってしまわないよう耐えながらも、戸を閉じる両手に力を込めた。

「ねぇねぇねぇ……どこにやったの? どうして、触ったの?」

 囁くような声が聞こえてくる。硝子が揺れて立てる嫌な音にところどころ遮られながらも、しっかり聞こえるその声の音程は喋りなれていないように高低がおかしい。

(ちッ……厄介なモンに触っちまった)

 数時間前の自分の行動を後悔しつつ戸を押さえていれば、ふと、ある事に思い至った。

(置いた場所を教えてやれば帰るんじゃね?)

 光太郎は素早くうつむき気味であった顔を上げる。やや右に傾いだ頭部は、戸を開けようと揺れるたびにどんどん角度を広げていく。それにともなって鬱蒼と生えている髪の毛が、まるで潮のように影の左側から引いて、凹凸を露にしていく。

「おい! アンタのリップクリームは……」

 光太郎が口を開いたいのと、影の上部に首らしい曲線を見出だしたのは同時であった。
 しかし。

「っ!」

 ばさりと、不意に一気に右側の影の量が増して上部の丸みが消失してしまう。

(頭が落ちたのか?)

 直ぐに察した光太郎であったが、それでも変わらず戸をこじ開けようとする行為は止まらず、ついでに囁くようなか細い声もまだ聞こえてくる。『彼女』はセーラー服を着ているようだった。

「どこ……ねぇ……どこ……わたしの……りっぷ、くりーむはどこ? ねぇ、ねぇねぇねぇっ!?」

 幾ばくか音量を増したとしても、ようやく普通に聞こえる音量よりも少しばかり大きいと聞こえる程である。

(首と頭が離れてンのにどうやって声出してんの!?)

 光太郎は反射的にそう言い放ってやりたくなった。しかしそれよりも気味悪さと嫌悪感が勝り、ただただこのおぞましいモノを追い払いたくて、負けじと声を張り上げる。

「アンタが探してるのは、二級生(高等部二年生)赤薔薇組の、教卓の上に、置いてあるッ!」
「ねぇっ、どこにやったの! どこにっ、どこ、どこ、どこ、どこどこどこどこどこ、どこぉっ!?」
「通じないのかよ!」

 こっちの話を全く聞いていない。もしくは聞こえていないらしい女の様子に、光太郎は内心で悪態をつく。
 がたがたがたがたがた!
 女は相変わらず戸を開けようと、むしろ壊さんばかりに揺さぶり続ける。これが一晩、下手すれば毎晩続いたら堪らない。光太郎はちらと、自らの後方にある押入れにしまってある金属バッドの存在を思い出した。

(こうなったら、部屋に入り込まれるのを覚悟でバッド取りに行って仕留めるか……)
(ずっと付きまとわれるのはごめんだしな)

 覚悟を決めて目をすぅっと細めた時、不意に手の先の振動が止んだ。

(何だ?)

 急な静寂に、けして力を緩める事の無いまま、光太郎が再び窓の方を見れば、そこには何の影も無かった。数分前のただ外の半月と夜風で揺れているカーテンがあるだけだ。

(消えたのか? いや、隙を狙ってンのか……)

 そうして戸を押さえたまま、暫らく戸の向こうの気配を探っていた光太郎が次に耳にしたのは、よく聞き覚えのある悲鳴だった。





 ある日。体育の時間、光太郎がジャージに着替えて更衣室を出ようとした。彼が一番最後だった。
 ――こつん。

「あ?」

 いつぞや体験したような感触に光太郎が下を向けば、そこには真っ赤なリップクリームくらいの筒が落ちている。

(今度は林檎かァ?)

 いやいや、よくよく見れば……赤い液体に染まって赤く見えるだけだった。

「…………」

 光太郎はその筒を拾い上げず、更衣室から出て行った。
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