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【春と夜】ブラックバカラの哄笑
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「殺さないでくれ!」
宵闇色のコートを羽織った青年は、大きく肩を竦めた。
「殺さないでくれ、頼む、命だけはっ」
地面に這いつくばり、喚き散らす中年男へ、聞き分けのない子供に言い聞かせるようにシーッと言う艶やかな声が被る。
「そんなに騒いだら近所迷惑だろぉ?」
あんまりにもそれが恐怖に引きつっていて、ガタガタ震えていたから。その声の主がついさっき自分に乱暴を働こうとしていた男のものだと判らなかった。裏路地に引きずり込まれたので大声をあげたら、顔を殴ってきたのだ。
アメリカに留学した可愛い従弟が帰省するというダイレクトメールが届いた。大学生になってますます忙しくなった彼に逢いに行こうと決めた夜空は、家を飛び出した。ほとぼりが冷めるまで静かに過ごそうと自粛していたのに、我慢できなくなって。女性ばかりを狙った通り魔が出るという噂を忘却して、買い物に出てしまう程に浮かれていたのだ。
「殺さないでくれ、知らなかったんだあの女が正かアンタの顔見知りだったなんて、本当に、」
ぼきりという脳髄に直接響くような鈍い音。悲鳴。いや、絶叫という方が正しい。ああ、聞いている方が思わず耳を塞ぎたくなるような凄まじい音。もう胸が苦しくて恐ろしい。
「だから、静かにしくれって。こんなに頼んでるのになぁ」
困ったなという他愛のない呟きのわりに、絶対優位にたっているその青年はこの場の全てを支配していた。言葉、存在感、仕草、それから恐怖。自分の記憶に間違いがなければ。おそるおそるうっすらと眼をあけると、殴りつけてきた男が地に転がっているのが見えた。腕が。腕が、本来なら曲がるはずない方向へ曲がっていた。こみあげてきた悲鳴と吐き気を寸でで堪える。転がっていた男の横に見えた汚れ一つない底の厚いブーツ。眼をぎゅっと瞑った。夢だ、きっとこれは悪い夢。
「どこのファミリーなんだ、教えてよぉ」
あくまで穏やかな口調。でも、根底に潜むのは冷ややかな気配。声は艶やかで麗しく、よく響いては脳にある人物を思い出させた。耽美的に整った顔立ちは、それこそあまりにも完璧すぎて、隙が無く近寄り難い。深いパープルの髪は風に触れるとサラサラしている。秀でた額から通った鼻筋に、肌はやや浅黒いが陶器のようになめらかで、垂れ目がちの碧眼は優しげな光と熱のような艶やかな影が交差しては火花を散らし、見つめられるだけで息が止まってしまうのだ。黙っていると威圧感を与える薄い唇も、笑うと屈託ない子供のようになると知っている。
「東のっ、プロンカーだ! 頼む見逃してくれ!」
「プロンカーかぁ。何でぇ、三下のか。チンピラ集団だろ。アタシに何の価値もない」
「しっ、死にたくない! 頼むお願いだ!」
必死で食い下がる男に、青年は駄々をこねる子供にほとほと呆れ果てたというように溜め息を吐いた。
「十六夜」
「はい先生、ここに」
「こいつを連れて行ってやりなぁ。腕と肋骨あげるんだよが折れてる。手厚くもてなしてあげるんだよ」
「手厚くですね、かしこまりました」
「柘榴酒でも振る舞ってやれ」
「嫌だぁぁぁぁぁ!」
何かをひきずる音と比例して男の絶叫が遠ざかる。硬く躰を強張らせていた。ふいに重めの足音が自分の背中で止まった。脇の下に腕を差し入れられ、上半身が起こされる。殴られて腫れているだろう頬を、そっと蒸しタオルが覆った。
「ごめんねぇ、怖かったな」
眼をあけられない。助けてもらったお礼を言わなければならなかったのに、今自分を助け起こしてくれている碧眼の男性は、本当に赤の他人である自分を大学まで通わせてくれた、兄貴肌の青年実業家なのだろうかと疑った。
骨の、あんな音を初めてきいた。思い出すだけでも、躰の奥底から何か得体のしれないおぞましいものがこみあげてくる。どうしてもこの人があんな事をしたのだと認めたくないのだ。でも、せめてお礼を言わないと。頑張って眼を開けようとするのだけど、夢で片付けたい意識はどうしても眼をあけさせてくれない。見てしまったら、もう認めるしかないからだ。何を。そう、彼は。彼は――。
「見なくてもいいよぉ」
僅かな苦笑の気配と共に、両目を冷たい手で塞がれた。
「そのまま、じっとしていてねぇ」
そう言うなり、ふわりといとも簡単に抱き上げられて焦る。
「通りに車を待たせてあるから、ちゃんと手当てしないとねぇ」
言われて、また余計に焦る。フェイスブックで日本食が恋しいと嘆いていた従弟の為に、自分は買い物に行きたかっただけなのに。
「大丈夫だよぉ、何も心配はいらない」
なぜか機嫌が良さそうな青年は、歌うように囁いた。あまりにも声が近くから聞こえてきて、違和感に思い切って目をあけて、初めて知る。唇が触れんばかりの距離で見下ろす嬉し気な、とても綺麗な笑顔。彼は笑っていた。ああ、認めたくなかった。だって、だって。
「三ヶ月久しぶりだな、夜ちゃん」
あまりにも整った端正な美貌に思わず見惚れかけて、はッと頭を横にぶるぶる振った。
「あの、ワタシ、」
「昔っから無防備だよな、あんた」
抱きかかえられた腕の力は恐ろしく強く、シャツから伝わる体温は妙に熱い。
「夜ちゃん」
「やっと捕まえた」
「可愛い、可愛い、アタシの夜ちゃん」
ウットリするような魔法の呪文めいた言の葉が上から降り注ぐ。もう顔を上げられない。眼がかち合ってしまえば、何を言ってしまうか判らない。
「逢いたかったよ、つれない子だなぁ、アタシが贈ったアンクレットも置いていって、こんなになるまで逃げ回るなんて手練れだね」
「でも、もうどうでもいいよねぇ。捕まえたから」
そう呟く合間に、熱烈な愛の詩と共に広い胸に囚われて逞しい腕の拘束が強くなる。
「アンタの為に花を用意した。もちろん他のプレゼントもある。欲しいものがあれば何でも用意してあげるからねぇ」
三ヶ月ぶりに会う予定だった可愛い従弟と過ごしたいがために、避けまくっていた本人に捕まってしまうとは、何という悲喜劇デスマッチ。彼は情熱的で行動的で、とことん奥手な夜空はどう接していいのか判らない。毎回おろおろして言葉に詰まって、とりあえず一定の距離を置きたくなるのだ。
――そんな、なかなか人馴れしない猫のようなところがいいのだ。そう、彼は笑うけれど。抱きしめられてこのまま窒息しそうな抱擁からどうやって逃げ出そうかと硬い胸板から何とか顔を出し、まず目に入ったのは、ブラックバカラの花束だった。
宵闇色のコートを羽織った青年は、大きく肩を竦めた。
「殺さないでくれ、頼む、命だけはっ」
地面に這いつくばり、喚き散らす中年男へ、聞き分けのない子供に言い聞かせるようにシーッと言う艶やかな声が被る。
「そんなに騒いだら近所迷惑だろぉ?」
あんまりにもそれが恐怖に引きつっていて、ガタガタ震えていたから。その声の主がついさっき自分に乱暴を働こうとしていた男のものだと判らなかった。裏路地に引きずり込まれたので大声をあげたら、顔を殴ってきたのだ。
アメリカに留学した可愛い従弟が帰省するというダイレクトメールが届いた。大学生になってますます忙しくなった彼に逢いに行こうと決めた夜空は、家を飛び出した。ほとぼりが冷めるまで静かに過ごそうと自粛していたのに、我慢できなくなって。女性ばかりを狙った通り魔が出るという噂を忘却して、買い物に出てしまう程に浮かれていたのだ。
「殺さないでくれ、知らなかったんだあの女が正かアンタの顔見知りだったなんて、本当に、」
ぼきりという脳髄に直接響くような鈍い音。悲鳴。いや、絶叫という方が正しい。ああ、聞いている方が思わず耳を塞ぎたくなるような凄まじい音。もう胸が苦しくて恐ろしい。
「だから、静かにしくれって。こんなに頼んでるのになぁ」
困ったなという他愛のない呟きのわりに、絶対優位にたっているその青年はこの場の全てを支配していた。言葉、存在感、仕草、それから恐怖。自分の記憶に間違いがなければ。おそるおそるうっすらと眼をあけると、殴りつけてきた男が地に転がっているのが見えた。腕が。腕が、本来なら曲がるはずない方向へ曲がっていた。こみあげてきた悲鳴と吐き気を寸でで堪える。転がっていた男の横に見えた汚れ一つない底の厚いブーツ。眼をぎゅっと瞑った。夢だ、きっとこれは悪い夢。
「どこのファミリーなんだ、教えてよぉ」
あくまで穏やかな口調。でも、根底に潜むのは冷ややかな気配。声は艶やかで麗しく、よく響いては脳にある人物を思い出させた。耽美的に整った顔立ちは、それこそあまりにも完璧すぎて、隙が無く近寄り難い。深いパープルの髪は風に触れるとサラサラしている。秀でた額から通った鼻筋に、肌はやや浅黒いが陶器のようになめらかで、垂れ目がちの碧眼は優しげな光と熱のような艶やかな影が交差しては火花を散らし、見つめられるだけで息が止まってしまうのだ。黙っていると威圧感を与える薄い唇も、笑うと屈託ない子供のようになると知っている。
「東のっ、プロンカーだ! 頼む見逃してくれ!」
「プロンカーかぁ。何でぇ、三下のか。チンピラ集団だろ。アタシに何の価値もない」
「しっ、死にたくない! 頼むお願いだ!」
必死で食い下がる男に、青年は駄々をこねる子供にほとほと呆れ果てたというように溜め息を吐いた。
「十六夜」
「はい先生、ここに」
「こいつを連れて行ってやりなぁ。腕と肋骨あげるんだよが折れてる。手厚くもてなしてあげるんだよ」
「手厚くですね、かしこまりました」
「柘榴酒でも振る舞ってやれ」
「嫌だぁぁぁぁぁ!」
何かをひきずる音と比例して男の絶叫が遠ざかる。硬く躰を強張らせていた。ふいに重めの足音が自分の背中で止まった。脇の下に腕を差し入れられ、上半身が起こされる。殴られて腫れているだろう頬を、そっと蒸しタオルが覆った。
「ごめんねぇ、怖かったな」
眼をあけられない。助けてもらったお礼を言わなければならなかったのに、今自分を助け起こしてくれている碧眼の男性は、本当に赤の他人である自分を大学まで通わせてくれた、兄貴肌の青年実業家なのだろうかと疑った。
骨の、あんな音を初めてきいた。思い出すだけでも、躰の奥底から何か得体のしれないおぞましいものがこみあげてくる。どうしてもこの人があんな事をしたのだと認めたくないのだ。でも、せめてお礼を言わないと。頑張って眼を開けようとするのだけど、夢で片付けたい意識はどうしても眼をあけさせてくれない。見てしまったら、もう認めるしかないからだ。何を。そう、彼は。彼は――。
「見なくてもいいよぉ」
僅かな苦笑の気配と共に、両目を冷たい手で塞がれた。
「そのまま、じっとしていてねぇ」
そう言うなり、ふわりといとも簡単に抱き上げられて焦る。
「通りに車を待たせてあるから、ちゃんと手当てしないとねぇ」
言われて、また余計に焦る。フェイスブックで日本食が恋しいと嘆いていた従弟の為に、自分は買い物に行きたかっただけなのに。
「大丈夫だよぉ、何も心配はいらない」
なぜか機嫌が良さそうな青年は、歌うように囁いた。あまりにも声が近くから聞こえてきて、違和感に思い切って目をあけて、初めて知る。唇が触れんばかりの距離で見下ろす嬉し気な、とても綺麗な笑顔。彼は笑っていた。ああ、認めたくなかった。だって、だって。
「三ヶ月久しぶりだな、夜ちゃん」
あまりにも整った端正な美貌に思わず見惚れかけて、はッと頭を横にぶるぶる振った。
「あの、ワタシ、」
「昔っから無防備だよな、あんた」
抱きかかえられた腕の力は恐ろしく強く、シャツから伝わる体温は妙に熱い。
「夜ちゃん」
「やっと捕まえた」
「可愛い、可愛い、アタシの夜ちゃん」
ウットリするような魔法の呪文めいた言の葉が上から降り注ぐ。もう顔を上げられない。眼がかち合ってしまえば、何を言ってしまうか判らない。
「逢いたかったよ、つれない子だなぁ、アタシが贈ったアンクレットも置いていって、こんなになるまで逃げ回るなんて手練れだね」
「でも、もうどうでもいいよねぇ。捕まえたから」
そう呟く合間に、熱烈な愛の詩と共に広い胸に囚われて逞しい腕の拘束が強くなる。
「アンタの為に花を用意した。もちろん他のプレゼントもある。欲しいものがあれば何でも用意してあげるからねぇ」
三ヶ月ぶりに会う予定だった可愛い従弟と過ごしたいがために、避けまくっていた本人に捕まってしまうとは、何という悲喜劇デスマッチ。彼は情熱的で行動的で、とことん奥手な夜空はどう接していいのか判らない。毎回おろおろして言葉に詰まって、とりあえず一定の距離を置きたくなるのだ。
――そんな、なかなか人馴れしない猫のようなところがいいのだ。そう、彼は笑うけれど。抱きしめられてこのまま窒息しそうな抱擁からどうやって逃げ出そうかと硬い胸板から何とか顔を出し、まず目に入ったのは、ブラックバカラの花束だった。
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