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第七章:鬼の棲む山の拒魔の村
第八十五話:その毒でもって
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世界は悪意に満ちている。
それは確かにそうなのかもしれない。
しかし私は、たった一つの奇跡から、この人生が幸せなものだったと言えると胸を張れるのだ。
『聖女の魔法書』の最後は、こう締めくくられている。
今日も南の端、一匹の狐はそれを読んでいた。
「はたして私は、この生に胸を張れるのかしら」
今まで800年以上の生、滅ぼした国の数は両手ではきかない。
それこそ、魔王という存在が生まれる遥か前から、国の元首を誑かしては内乱を引き起こしてきた。
そんな国々は運悪く魔物達の襲撃によって滅び、しかししばらくすれば人はまた増えていく。
そんな様子を、狐は面白おかしく見守ってきていた。
「あはは、今さら人になりたいっていうのはやっぱり、都合が良過ぎるわね」
そんなことを、狐は懺悔の様に言いながら、ようやく手に馴染んできた杖を撫でる。
どこまで行っても、魔物は魔物。
過去の罪が消えることなど決してないのだ。
そして、狐はこれからも罪を重ねていく。
「サニィ、本当にこれで良いのね?」
これに答える声は恐らく、ない。
狐はこの先、ほんの少しだけ救われる為に、ほんの少しだけ、救う為に、罪を重ねる覚悟を決めた。
いつのまにかその狐は、とても弱い人間の様に、何かにすがっていた。
――。
「イリス姉、少し聞きたいことがあるんだけど」
「どうしたの?」
エリーは後ろのオリヴィアに気付かれない様に、その力で自身とイリスからその意識を逸らしつつ尋ねる。
エリーが感知出来る範囲には、動物の気配すら存在しない。
最初から血に染まっていたリシンを見る限りでは、いや、あの走馬灯を見る限りでは、もう狛の村の人は魔物としてすら生きてはいないだろう。
「リシンさんだけど、戻す方法ってなさそうだったんだよね?」
「……うん、ごめんね」
「いや、責めてるわけじゃなくて、単純な疑問。ちょっと違和感があったからさ」
「違和感?」
「うん、それを知りたいから、イリス姉の所見を聞かせて」
エリーの違和感とはつまり、走馬灯だ。
魔物は走馬灯を見ない。死ぬ時にはただ無に帰す様に、とても静かに死んでいく。心の声など、どれだけ苦しめながら殺した所で聞こえては来ない。
それは知性の高いドラゴンですら同じだ。
魔物は後悔をしない。快楽にも依存しない。ただ種の本能として、オーガロードならば人を嬲るし、ドラゴンならプライドを持って自由に生きるし、デーモンロードならば殺戮を繰り返す。
そして、それ以上でも以下でも無い。
かつて、あらゆる手段で魔物を屠ってきたナディアが言っていた言葉がある。
魔物には人が快楽を感じる薬物を投与しても、嫌な顔をするだけ。でも、人に致命傷を与える毒物ならば効く可能性が高い。
つまり、魔物は過去を顧みることも、本能以上の快楽を感じることもない。
根本から、この世界の原住生物とは違うのだ。
その上で、リシンは最後に走馬灯を見ていた。
それは人そのもので、父と母に愛されながらも鍛えられたこと。将来は村長だと皆から言われていたこと。レインがやってきて、その余りの危なっかしさに、つい生き残り方を教えてしまったこと。そして、いとも簡単に抜かれて涙したこと。
それからはしばらく剣を取ることを辞めてしまったこと。
改めて剣を取るのには凄まじく勇気が必要だったこと。
最後には、魔物化する誘惑を、限界を超えて押し留めながら、全員を介錯したこと。
夢の中の様な、既に生き絶えたリンの首を切り取ったこと……。
それら全ては、紛れもなく人しか見ることのない走馬灯だった。
その違和感について、エリーは本質を見ることに長けているイリスに尋ねた。
「リシンさんは、確実に魔物だった。リシン・イーヴルハート。その名前は、悪意で傷付ける者、つまり、魔物。少し前までは、そうじゃなかったんだけど……」
「少し前まではどうだったの?」
「その毒でもって、魔物を屠る者、とかそんな感じかな」
「その毒ってのは、体内の陰のマナのこと?」
「うん」
陰のマナ、魔物の元となっているそれは、人にとっては確実な毒だ。
かつて聖女がそれで苦しみ、師匠の時折見せた死を感じさせる側面を作っていた原因。
……。
しかし、そこまでイリスに聞いても、エリーの中で答えは出ない。
リシンの見た走馬灯の理由が、まだ分かりはしない。彼は自分とイリスが思い違いをしているだけで、実は魔物ではなかったのではないか。
もしかしたら、自分達は治せた相手を殺してしまったのではないか。
そんな風に、考えてしまう。
「エリーさん」
ふと、後ろから声がかかる。
振り返ると、オリヴィアが優しげな笑みを向けている。
自分達の会話には気付かない様に意識を操作していた筈が、いつのまにかその微かな違和感に気付いた様だ。
「リシンさんの命を奪ったのはわたくしですわ。どんな責任もわたくしが負います。エリーさんは、今は、この事件の真相にだけ目を向けて下さいな」
そんな風に、まるでエリーの心を読んだ様に言う。
その心は不安で埋め尽くしながら、体面だけは、まるで聖女のように。
「ん、分かった。ありがとう」
結局、オリヴィアを不安にさせない様にと行った意識操作は意味をなさなかったが、今は一人ではなく三人。
エリーだけが見ている、魔物化を抑えきれない程に踏ん張っていたリシン夫妻の為にも、まずは狛の村の問題そのものを早く紐解かねばと、意識を新たにする。
一つ、走馬灯とイリスの言葉を併せて分かったことと言えば、やはり彼らすら、一度魔物となれば二度と人には戻れないと理解していたことだろう。
それは確かにそうなのかもしれない。
しかし私は、たった一つの奇跡から、この人生が幸せなものだったと言えると胸を張れるのだ。
『聖女の魔法書』の最後は、こう締めくくられている。
今日も南の端、一匹の狐はそれを読んでいた。
「はたして私は、この生に胸を張れるのかしら」
今まで800年以上の生、滅ぼした国の数は両手ではきかない。
それこそ、魔王という存在が生まれる遥か前から、国の元首を誑かしては内乱を引き起こしてきた。
そんな国々は運悪く魔物達の襲撃によって滅び、しかししばらくすれば人はまた増えていく。
そんな様子を、狐は面白おかしく見守ってきていた。
「あはは、今さら人になりたいっていうのはやっぱり、都合が良過ぎるわね」
そんなことを、狐は懺悔の様に言いながら、ようやく手に馴染んできた杖を撫でる。
どこまで行っても、魔物は魔物。
過去の罪が消えることなど決してないのだ。
そして、狐はこれからも罪を重ねていく。
「サニィ、本当にこれで良いのね?」
これに答える声は恐らく、ない。
狐はこの先、ほんの少しだけ救われる為に、ほんの少しだけ、救う為に、罪を重ねる覚悟を決めた。
いつのまにかその狐は、とても弱い人間の様に、何かにすがっていた。
――。
「イリス姉、少し聞きたいことがあるんだけど」
「どうしたの?」
エリーは後ろのオリヴィアに気付かれない様に、その力で自身とイリスからその意識を逸らしつつ尋ねる。
エリーが感知出来る範囲には、動物の気配すら存在しない。
最初から血に染まっていたリシンを見る限りでは、いや、あの走馬灯を見る限りでは、もう狛の村の人は魔物としてすら生きてはいないだろう。
「リシンさんだけど、戻す方法ってなさそうだったんだよね?」
「……うん、ごめんね」
「いや、責めてるわけじゃなくて、単純な疑問。ちょっと違和感があったからさ」
「違和感?」
「うん、それを知りたいから、イリス姉の所見を聞かせて」
エリーの違和感とはつまり、走馬灯だ。
魔物は走馬灯を見ない。死ぬ時にはただ無に帰す様に、とても静かに死んでいく。心の声など、どれだけ苦しめながら殺した所で聞こえては来ない。
それは知性の高いドラゴンですら同じだ。
魔物は後悔をしない。快楽にも依存しない。ただ種の本能として、オーガロードならば人を嬲るし、ドラゴンならプライドを持って自由に生きるし、デーモンロードならば殺戮を繰り返す。
そして、それ以上でも以下でも無い。
かつて、あらゆる手段で魔物を屠ってきたナディアが言っていた言葉がある。
魔物には人が快楽を感じる薬物を投与しても、嫌な顔をするだけ。でも、人に致命傷を与える毒物ならば効く可能性が高い。
つまり、魔物は過去を顧みることも、本能以上の快楽を感じることもない。
根本から、この世界の原住生物とは違うのだ。
その上で、リシンは最後に走馬灯を見ていた。
それは人そのもので、父と母に愛されながらも鍛えられたこと。将来は村長だと皆から言われていたこと。レインがやってきて、その余りの危なっかしさに、つい生き残り方を教えてしまったこと。そして、いとも簡単に抜かれて涙したこと。
それからはしばらく剣を取ることを辞めてしまったこと。
改めて剣を取るのには凄まじく勇気が必要だったこと。
最後には、魔物化する誘惑を、限界を超えて押し留めながら、全員を介錯したこと。
夢の中の様な、既に生き絶えたリンの首を切り取ったこと……。
それら全ては、紛れもなく人しか見ることのない走馬灯だった。
その違和感について、エリーは本質を見ることに長けているイリスに尋ねた。
「リシンさんは、確実に魔物だった。リシン・イーヴルハート。その名前は、悪意で傷付ける者、つまり、魔物。少し前までは、そうじゃなかったんだけど……」
「少し前まではどうだったの?」
「その毒でもって、魔物を屠る者、とかそんな感じかな」
「その毒ってのは、体内の陰のマナのこと?」
「うん」
陰のマナ、魔物の元となっているそれは、人にとっては確実な毒だ。
かつて聖女がそれで苦しみ、師匠の時折見せた死を感じさせる側面を作っていた原因。
……。
しかし、そこまでイリスに聞いても、エリーの中で答えは出ない。
リシンの見た走馬灯の理由が、まだ分かりはしない。彼は自分とイリスが思い違いをしているだけで、実は魔物ではなかったのではないか。
もしかしたら、自分達は治せた相手を殺してしまったのではないか。
そんな風に、考えてしまう。
「エリーさん」
ふと、後ろから声がかかる。
振り返ると、オリヴィアが優しげな笑みを向けている。
自分達の会話には気付かない様に意識を操作していた筈が、いつのまにかその微かな違和感に気付いた様だ。
「リシンさんの命を奪ったのはわたくしですわ。どんな責任もわたくしが負います。エリーさんは、今は、この事件の真相にだけ目を向けて下さいな」
そんな風に、まるでエリーの心を読んだ様に言う。
その心は不安で埋め尽くしながら、体面だけは、まるで聖女のように。
「ん、分かった。ありがとう」
結局、オリヴィアを不安にさせない様にと行った意識操作は意味をなさなかったが、今は一人ではなく三人。
エリーだけが見ている、魔物化を抑えきれない程に踏ん張っていたリシン夫妻の為にも、まずは狛の村の問題そのものを早く紐解かねばと、意識を新たにする。
一つ、走馬灯とイリスの言葉を併せて分かったことと言えば、やはり彼らすら、一度魔物となれば二度と人には戻れないと理解していたことだろう。
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