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エタニティライブ
7.あなたに
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アパートを出て、澤口は愕然とした。喫茶エプロンの前に短い列が出来ていたのだ。大学生と思しき男性グループが二人・二人・三人で雑談している。天気は傘は要らない程度の霧雨。ゆとりがない心持ちで最後尾に立つ。しばらくして松虫が、ブリキ戸を開いた。
「お待たせしました」
澤口はこの時、彼の張る声を初めて聞いた。人が入るたび志鶴空のか細い声が挨拶を紡ぐ。
「こんばんは」
眼前に現れた彼女は、別人に見えるほど女優めいていた。着物とドレスを融合させた群青色の衣装。隣の松虫も、雰囲気を合わせていて煤色の装いだった。いつもなら不気味に思える白髪交じりが、まるで洒落た脱色だ。想像と違う始まり方に足が竦んだ。
店内は立食形式。いつもの机が全部くっつけられて一つの島になっている。先に案内された面々は、既にバイキングを始めていた。澤口は無個性で綺麗系な私服の襟を正し、恐る恐る集団の後に付いた。リンドールタワーという、自分との繋がりを机に見つけて少し安堵した。
メインディッシュは具のある赤い米料理。珍しいものらしく、説明の札がある。
読めない。
松虫が一人一人に飲み物を聞いて回っている。どうなさいますか、と問われて、うみ、と返してしまったのは無自覚な自己主張だ。ついでに聞いた。
「それと松虫さん、これ何ですか。パエリア?」
「ジャンバラヤです。や、でも、そうですね、ほぼパエリア」
人懐こい笑みが返ったが、申し訳なさそうな早口。正装で足を引きずる小さな後ろ姿が、対岸のように遠い。大学生がカシオレと言い、松虫はかしこまりましたと答えた。変じゃない接客が変に映る。澤口は眉間にしわを寄せつつ、ジャンバラヤを口に運んだ。美味しかった。
壁掛け時計が予告の五時を指した。そろそろ、開始のアナウンスがあるだろうか。空間の奥に志鶴空が凛と立っている。いつの間にか白い三味線を抱えていた。胴掛けのデザインが銀河鉄道を連想させる。濃藍の布地に、星座と電車が緻密に銀糸で刺繍されているのだ。視線に気づいた彼女が、無言で彼に笑みを返した。そして、白い銀河を構える。目付きの変貌に澤口は息を飲んだ。神に遭遇した心地だ。冷汗が出る。ジャズロックが三味線の精悍さを纏い、急に轟いた。音とまぐわう感覚が指先まで走る。全員が魔法にかかったように固まって、じっと聴いている。
「驚いたでしょう」
松虫が小声で、背後からうみを差し出した。
「うわ! 死角から来たあんたに驚きましたよ」
背を反らし青年は目をしぱたたかせる。店主はいたずらっぽく肩をすくめ、彼を見上げた。
「志鶴空さん、良い意味で裏切ってくるでしょう」
クールな三味線が、路地裏のあばら家に鳴り響く。
「良い意味でね」
口に出すと、贅沢な時間が身に染みた。うみを、くっと呑む。
仕事がひと段落ついたようで店主はようやく隣に留まった。
弾き終えた志鶴空は長く息を吐き、深々とお辞儀した。客は皆、再生ボタンを押されたように大慌てで皿を置いた。盛大な拍手が起こる。彼女はこのタイミングで名乗った。
「改めまして、ジャズロックバンド・シグの篭橋志鶴空です。普段はギター担当の弟と二人で演奏していますが、今日は個人です。弟は高校のテスト期間で来れないんです」
初耳だらけやぞ、と澤口は脳裏で愚痴をこぼす。一息ついて、志鶴空は全体に尋ねた。
「それにしても、皆さん読めた方? 通りすがりですか?」
後者で「皆さん」が頷き、松虫が苦笑いで肩をすくめ、志鶴空の清らかな笑い声が零れる。澤口は、また孤立を感じて寂しかった。ごまかすように、うみを口に含む。奏者は熱心に聞く人々を見渡して、照れたように目を逸らした。
「あの、緊張してしまうので、食べながら聞き流してください」
それで各々つられて照れ笑いをし、再び箸を動かし始めた。彼女の優しい声が続いている。
「えっと、そんなわけで今回は、弟がいないイレギュラーなライブです。本来は、二人揃わないのに開催なんてしないんですけど、どうしても今日この場所で、あたしひとりでもやりたい理由があって。先程演奏した曲ですが、実はある有名な曲のアレンジでした」
突然違う話題になったようで、片手間に聞いていた人々は、聞き飛ばしたかもしれない途中を探すように斜め上を見た。松虫が、くすくす笑い澤口に言う。
「いつもこうなんです、志鶴空さんのトーク」
「え、唐突に話変わるのが? まずくないですか」
しかめっ面をする澤口。店主は、白い三味線を見つめ呟いた。
「それがね、変わったと見せかけて、変わってないんですよ」
続きを聞けと言わんばかりに、かかとが楽し気に一度上下した。
ついさっきの曲のさわりを、彼女はテンポを落として弾き始めた。少しずつアレンジが控え目になり、原曲に近づいていく。客から感嘆が漏れた。元が子供っぽい曲なのが意外だった。
ハッピーバースデートゥーユー。
そして声が乗る。柔らかく暖かい歌い方だ。ディア幸太郎さん、と彼女は歌った。澤口は驚いて松虫を見る。目尻を下げて彼は、そうなんです、と頷く。澤口はつい幼児のようにむくれた。うみを何気に四杯も飲んでいて、顔こそ赤くないが実は酔っている。
「おめでとうございます。あーあ、さっきから初耳だらけやんけ。何やねん二人してほんまに。拗ねますよ。うみって頼めたの俺だけですかンね」
松虫は「澤口さん、さては関西出身ですね」と目を丸くした。
歌い終えて志鶴空は、とても幸福そうに三味線をなぜる。
「これが今日この場所じゃないとだめな理由です。幸太郎さん。ここの店主さんです」
祝福の拍手が店内を包む。松虫は申し訳なさそうに微笑んで、おろおろと頭を下げた。
次に彼女は、イングリッシュマン・イン・ニューヨークを淡々と軽快に弾いた。その音は初めから流れていた生活音のように、この場所に馴染んでいる。喫茶エプロンは普段からBGMを流さない。シグの生演奏のために、いつだって空けているのだ。
「お待たせしました」
澤口はこの時、彼の張る声を初めて聞いた。人が入るたび志鶴空のか細い声が挨拶を紡ぐ。
「こんばんは」
眼前に現れた彼女は、別人に見えるほど女優めいていた。着物とドレスを融合させた群青色の衣装。隣の松虫も、雰囲気を合わせていて煤色の装いだった。いつもなら不気味に思える白髪交じりが、まるで洒落た脱色だ。想像と違う始まり方に足が竦んだ。
店内は立食形式。いつもの机が全部くっつけられて一つの島になっている。先に案内された面々は、既にバイキングを始めていた。澤口は無個性で綺麗系な私服の襟を正し、恐る恐る集団の後に付いた。リンドールタワーという、自分との繋がりを机に見つけて少し安堵した。
メインディッシュは具のある赤い米料理。珍しいものらしく、説明の札がある。
読めない。
松虫が一人一人に飲み物を聞いて回っている。どうなさいますか、と問われて、うみ、と返してしまったのは無自覚な自己主張だ。ついでに聞いた。
「それと松虫さん、これ何ですか。パエリア?」
「ジャンバラヤです。や、でも、そうですね、ほぼパエリア」
人懐こい笑みが返ったが、申し訳なさそうな早口。正装で足を引きずる小さな後ろ姿が、対岸のように遠い。大学生がカシオレと言い、松虫はかしこまりましたと答えた。変じゃない接客が変に映る。澤口は眉間にしわを寄せつつ、ジャンバラヤを口に運んだ。美味しかった。
壁掛け時計が予告の五時を指した。そろそろ、開始のアナウンスがあるだろうか。空間の奥に志鶴空が凛と立っている。いつの間にか白い三味線を抱えていた。胴掛けのデザインが銀河鉄道を連想させる。濃藍の布地に、星座と電車が緻密に銀糸で刺繍されているのだ。視線に気づいた彼女が、無言で彼に笑みを返した。そして、白い銀河を構える。目付きの変貌に澤口は息を飲んだ。神に遭遇した心地だ。冷汗が出る。ジャズロックが三味線の精悍さを纏い、急に轟いた。音とまぐわう感覚が指先まで走る。全員が魔法にかかったように固まって、じっと聴いている。
「驚いたでしょう」
松虫が小声で、背後からうみを差し出した。
「うわ! 死角から来たあんたに驚きましたよ」
背を反らし青年は目をしぱたたかせる。店主はいたずらっぽく肩をすくめ、彼を見上げた。
「志鶴空さん、良い意味で裏切ってくるでしょう」
クールな三味線が、路地裏のあばら家に鳴り響く。
「良い意味でね」
口に出すと、贅沢な時間が身に染みた。うみを、くっと呑む。
仕事がひと段落ついたようで店主はようやく隣に留まった。
弾き終えた志鶴空は長く息を吐き、深々とお辞儀した。客は皆、再生ボタンを押されたように大慌てで皿を置いた。盛大な拍手が起こる。彼女はこのタイミングで名乗った。
「改めまして、ジャズロックバンド・シグの篭橋志鶴空です。普段はギター担当の弟と二人で演奏していますが、今日は個人です。弟は高校のテスト期間で来れないんです」
初耳だらけやぞ、と澤口は脳裏で愚痴をこぼす。一息ついて、志鶴空は全体に尋ねた。
「それにしても、皆さん読めた方? 通りすがりですか?」
後者で「皆さん」が頷き、松虫が苦笑いで肩をすくめ、志鶴空の清らかな笑い声が零れる。澤口は、また孤立を感じて寂しかった。ごまかすように、うみを口に含む。奏者は熱心に聞く人々を見渡して、照れたように目を逸らした。
「あの、緊張してしまうので、食べながら聞き流してください」
それで各々つられて照れ笑いをし、再び箸を動かし始めた。彼女の優しい声が続いている。
「えっと、そんなわけで今回は、弟がいないイレギュラーなライブです。本来は、二人揃わないのに開催なんてしないんですけど、どうしても今日この場所で、あたしひとりでもやりたい理由があって。先程演奏した曲ですが、実はある有名な曲のアレンジでした」
突然違う話題になったようで、片手間に聞いていた人々は、聞き飛ばしたかもしれない途中を探すように斜め上を見た。松虫が、くすくす笑い澤口に言う。
「いつもこうなんです、志鶴空さんのトーク」
「え、唐突に話変わるのが? まずくないですか」
しかめっ面をする澤口。店主は、白い三味線を見つめ呟いた。
「それがね、変わったと見せかけて、変わってないんですよ」
続きを聞けと言わんばかりに、かかとが楽し気に一度上下した。
ついさっきの曲のさわりを、彼女はテンポを落として弾き始めた。少しずつアレンジが控え目になり、原曲に近づいていく。客から感嘆が漏れた。元が子供っぽい曲なのが意外だった。
ハッピーバースデートゥーユー。
そして声が乗る。柔らかく暖かい歌い方だ。ディア幸太郎さん、と彼女は歌った。澤口は驚いて松虫を見る。目尻を下げて彼は、そうなんです、と頷く。澤口はつい幼児のようにむくれた。うみを何気に四杯も飲んでいて、顔こそ赤くないが実は酔っている。
「おめでとうございます。あーあ、さっきから初耳だらけやんけ。何やねん二人してほんまに。拗ねますよ。うみって頼めたの俺だけですかンね」
松虫は「澤口さん、さては関西出身ですね」と目を丸くした。
歌い終えて志鶴空は、とても幸福そうに三味線をなぜる。
「これが今日この場所じゃないとだめな理由です。幸太郎さん。ここの店主さんです」
祝福の拍手が店内を包む。松虫は申し訳なさそうに微笑んで、おろおろと頭を下げた。
次に彼女は、イングリッシュマン・イン・ニューヨークを淡々と軽快に弾いた。その音は初めから流れていた生活音のように、この場所に馴染んでいる。喫茶エプロンは普段からBGMを流さない。シグの生演奏のために、いつだって空けているのだ。
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