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喫茶────へようこそ
1.キリギリスカレー
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住宅街の狭い路地に、黄ばんだコンクリ外壁を持つ小さなあばら屋が建っている。長いこと売物件だったが、四日前に喫茶店へと変わった。澤口が住んでいるアパートの目の前だ。彼の職は人事営業である。つい二週間前に新卒で入社した二十三歳のその青年は、リクルートスーツに黒髪で少し気難しそうな目をしていた。
営業の一環で、求人がないかを尋ねるために喫茶店に入ることはよくある。しかし今は仕事帰りの夕刻だ。澤口は単に、ここが個人的に気になった。店の戸は飴色のブリキで出来ている。その横に粗末な木札が立てかけられていて、印刷ではなく太いマーカーで書かれた店名らしきものが、悪筆すぎて読めない。その不完全さに苛立ちと興味が混ざり、内装も見たくなったのだ。
澤口は左腕に大きなこうもり傘を提げている。神経質が過ぎる彼は、降水確率がゼロと報道されようと備えてしまう質だった。薄っぺらい戸を開くと、流木のチャイムがくぐもった音を立てた。中はナツメグやガラムマサラ等が入り混じった、奇妙な匂いに満ちていた。ダマスク柄のくすんだ緑の壁紙に、砂のような色の床。
「お、お。ようこそ、ええと、お好きな席へ」
男性の声がした。ひどく緩慢で掠れている。声の主は奥の厨房より、のれんを顔面で押しながら、靴底を引きずる歩行で現れた。二十代後半と思しき顔だが、痩けた頬が老いた印象を与える。
「や、どうも、喫茶エプロンへ、ようこそ」
男がそう言い店名がやっと分かった。独特な雰囲気にしては、素直に喫茶店らしい名なことに違和感を覚える。彼はおどおどと手もみをしながら、好々爺のように微笑んで続けた。
「私、先週ここを開いた、松虫。松虫です。え、え、一人で経営してまして」
妙な口調と苗字だ。白髪混じりで、猫背で低身長なその男は、エスニック調の服に合わせて黄色のバブーシュを履いている。歩き方に癖があると見え、つま先が特に汚れていた。肌は疲れた黄土色で手足も細い。若い目鼻立ちに反したそれらが気味悪く、しかし店の雰囲気には合っている。
「澤口です」
怪訝に思いつつも営業のくせで、青年は気づけば名刺を渡していた。微かな後悔を感じたが、ここで引き返すのは悔しい。入口から一番近い机に傘を引っかけ、音を立てずに腰かける。
ハトロン紙で作られたランプシェードが、天井の少ない豆電球を覆っている。赤茶色の角ばった木製机が五つ、どれも一人掛けで並んでいた。澤口はふと、卓上に小さな紙切れを見つけて妙に思う。青インキの万年筆で、小さい悪筆がびっしりと書かれている。
品書きだ。
「この、キリギリスカレーって何ですか」
読み違いと半ば確信しつつ尋ねる。松虫は品書きを覗き込み、急に子供っぽいえくぼを見せた。
「わ、わ。これは、確かに。キリギリスカレーに見えるかも、ですね。その、私、字が、こんなですけど、パソコンが使えなくて」
「いやだからなんて書いてるんですかって」
澤口は冷たく遮った。一日中の営業を経て、既に気疲れしている。
店主は項垂れて、掠れた声で訥々と解説を始めた。
「キーマ、ですよ。キーマ、かっこ、ヒキニク、かっことじる、カレーって書いてあります、それ。でも実際、キリギリスカレーで合ってた方が、面白かったですよね」
他の品も同様に読めないので、澤口は辟易して投げやりに言う。
「じゃ、キリギリスカレーくださいよ」
松虫は目を丸くして、なぜか満面の笑みで厨房へ戻って行った。
三十分も待った。銀食器のカレー皿が、純金製のクロッシュに中身を隠されて現れた。店の錆びた雰囲気とは対照的だ。
「や、や、お待たせしました、どうぞ」
松虫は足を引きずりながら皿を差し出す。彼は腰を折るのではなく、膝を出してかがむ癖だ。傘に膝が当たり、揺らした。
「いつもこんなにかかるんですか」
気難しい目の青年は、つんとして言う。
「や、え、今回は、ですね。キーマカレーを、その、変える時間がいりましたので」
「まさか、キリギリスカレーにですか」
店主は嬉しげに肩をすくめた。澤口は眉をひそめ、音を立てずにクロッシュを開く。湯気が立ち込め、鮮やかな緑色が目に飛び込む。とても清涼な香りがした。
「ホウレン草と、バジルを加えまして。あと、グリンピースを。え、やっつけですけど。その……、お嫌でしたか?」
澤口は驚いて、松虫の楽しげな笑みを見る。
「別にいいんですけどね。事前に言いましょうよ。すごい待った」
文句を返しつつも、店主があまりに嬉しそうに差し出してくるので、澤口は不機嫌が薄れていた。そして口に運んだ瞬間、店と松虫の不気味さも、待たされた三十分も、営業職の苦難までも全て許せた。顔が綻ぶ。常連客になることを確信した。
「松虫さん。このメニュー表、何なら俺がパソコンで作り直して、今度持ってきましょうか」
つい口にしていた。松虫は目を見開いて声を震わせる。
「え、え、助かります。それね、読めないと不評で。でも、直すと言ってくれたお客さん初めてです。や、でも、直すにしても、読めませんでしょう。私、読み上げますので、え、メモを」
黄色のバブーシュが、嬉しげにかかとから上下している。澤口は黒いレザー張りの小さなメモ帳を取り出した。白髪交じりの若い店主は、これはグラタンと書いてあります、と明るい声色で述べ始める。例の読み違いに行き着いたとき、これはね、と微笑んで十分に間を置いた。
共通言語を耳打ちするように、人懐こく目を細め、松虫は澤口に言う。
「キリギリスカレーと書いてあります」
営業の一環で、求人がないかを尋ねるために喫茶店に入ることはよくある。しかし今は仕事帰りの夕刻だ。澤口は単に、ここが個人的に気になった。店の戸は飴色のブリキで出来ている。その横に粗末な木札が立てかけられていて、印刷ではなく太いマーカーで書かれた店名らしきものが、悪筆すぎて読めない。その不完全さに苛立ちと興味が混ざり、内装も見たくなったのだ。
澤口は左腕に大きなこうもり傘を提げている。神経質が過ぎる彼は、降水確率がゼロと報道されようと備えてしまう質だった。薄っぺらい戸を開くと、流木のチャイムがくぐもった音を立てた。中はナツメグやガラムマサラ等が入り混じった、奇妙な匂いに満ちていた。ダマスク柄のくすんだ緑の壁紙に、砂のような色の床。
「お、お。ようこそ、ええと、お好きな席へ」
男性の声がした。ひどく緩慢で掠れている。声の主は奥の厨房より、のれんを顔面で押しながら、靴底を引きずる歩行で現れた。二十代後半と思しき顔だが、痩けた頬が老いた印象を与える。
「や、どうも、喫茶エプロンへ、ようこそ」
男がそう言い店名がやっと分かった。独特な雰囲気にしては、素直に喫茶店らしい名なことに違和感を覚える。彼はおどおどと手もみをしながら、好々爺のように微笑んで続けた。
「私、先週ここを開いた、松虫。松虫です。え、え、一人で経営してまして」
妙な口調と苗字だ。白髪混じりで、猫背で低身長なその男は、エスニック調の服に合わせて黄色のバブーシュを履いている。歩き方に癖があると見え、つま先が特に汚れていた。肌は疲れた黄土色で手足も細い。若い目鼻立ちに反したそれらが気味悪く、しかし店の雰囲気には合っている。
「澤口です」
怪訝に思いつつも営業のくせで、青年は気づけば名刺を渡していた。微かな後悔を感じたが、ここで引き返すのは悔しい。入口から一番近い机に傘を引っかけ、音を立てずに腰かける。
ハトロン紙で作られたランプシェードが、天井の少ない豆電球を覆っている。赤茶色の角ばった木製机が五つ、どれも一人掛けで並んでいた。澤口はふと、卓上に小さな紙切れを見つけて妙に思う。青インキの万年筆で、小さい悪筆がびっしりと書かれている。
品書きだ。
「この、キリギリスカレーって何ですか」
読み違いと半ば確信しつつ尋ねる。松虫は品書きを覗き込み、急に子供っぽいえくぼを見せた。
「わ、わ。これは、確かに。キリギリスカレーに見えるかも、ですね。その、私、字が、こんなですけど、パソコンが使えなくて」
「いやだからなんて書いてるんですかって」
澤口は冷たく遮った。一日中の営業を経て、既に気疲れしている。
店主は項垂れて、掠れた声で訥々と解説を始めた。
「キーマ、ですよ。キーマ、かっこ、ヒキニク、かっことじる、カレーって書いてあります、それ。でも実際、キリギリスカレーで合ってた方が、面白かったですよね」
他の品も同様に読めないので、澤口は辟易して投げやりに言う。
「じゃ、キリギリスカレーくださいよ」
松虫は目を丸くして、なぜか満面の笑みで厨房へ戻って行った。
三十分も待った。銀食器のカレー皿が、純金製のクロッシュに中身を隠されて現れた。店の錆びた雰囲気とは対照的だ。
「や、や、お待たせしました、どうぞ」
松虫は足を引きずりながら皿を差し出す。彼は腰を折るのではなく、膝を出してかがむ癖だ。傘に膝が当たり、揺らした。
「いつもこんなにかかるんですか」
気難しい目の青年は、つんとして言う。
「や、え、今回は、ですね。キーマカレーを、その、変える時間がいりましたので」
「まさか、キリギリスカレーにですか」
店主は嬉しげに肩をすくめた。澤口は眉をひそめ、音を立てずにクロッシュを開く。湯気が立ち込め、鮮やかな緑色が目に飛び込む。とても清涼な香りがした。
「ホウレン草と、バジルを加えまして。あと、グリンピースを。え、やっつけですけど。その……、お嫌でしたか?」
澤口は驚いて、松虫の楽しげな笑みを見る。
「別にいいんですけどね。事前に言いましょうよ。すごい待った」
文句を返しつつも、店主があまりに嬉しそうに差し出してくるので、澤口は不機嫌が薄れていた。そして口に運んだ瞬間、店と松虫の不気味さも、待たされた三十分も、営業職の苦難までも全て許せた。顔が綻ぶ。常連客になることを確信した。
「松虫さん。このメニュー表、何なら俺がパソコンで作り直して、今度持ってきましょうか」
つい口にしていた。松虫は目を見開いて声を震わせる。
「え、え、助かります。それね、読めないと不評で。でも、直すと言ってくれたお客さん初めてです。や、でも、直すにしても、読めませんでしょう。私、読み上げますので、え、メモを」
黄色のバブーシュが、嬉しげにかかとから上下している。澤口は黒いレザー張りの小さなメモ帳を取り出した。白髪交じりの若い店主は、これはグラタンと書いてあります、と明るい声色で述べ始める。例の読み違いに行き着いたとき、これはね、と微笑んで十分に間を置いた。
共通言語を耳打ちするように、人懐こく目を細め、松虫は澤口に言う。
「キリギリスカレーと書いてあります」
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