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第3章 あるいは虚堂懸鏡な女神。
第17話 “瑞帆”じゃなくて“ヒロ”でないと
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「ちょっと、客を前にして固まるなんて何事?」
紅亜に目を細められ、我に返った瑞帆はしどろもどろに言い訳を探す。
「すみません、その少し、感極まったと言いますか…」
「なあに、私が来たのがそんなに嬉しかった?でも私に見惚れるのはまた今度にして。仕事はどう、良い感じ?」
紅亜の眼差しが、声が、容赦なく瑞帆の痛い部分に突き刺さる。
自分はまだ、紅亜に喜んでもらえるようなものを何ももっていない。
なんの成果もない。言い訳すらできないほどに。
「……すみません。実はまだ、何も」
瑞帆は顔を伏せた。とても目を見てなんて話せなかった。
少し遠くから、はぁ、と気の抜けたため息が聞こえた。
「あのねぇ。わかってると思うけど、たった3日で何か結果を出せるほど楽な仕事じゃないから。特にあなたは素人だし、功を焦って余計なことをしていなければそれだけで上出来。で、どうなの。初めての居酒屋バイトは」
厳しさの中に、どこか優しさを感じる声。
瑞帆はそっと顔を上げた。
「えっと…店のメニューと席番号を事前に全部覚えていたおかげで、何とか人並みにはやれてるんじゃないかと思います。初日に大量のジョッキを一度に運んだせいか、今日はちょっと筋肉痛ですが…」
「腕力まで鍛えられて良かったじゃない。1週間頑張った甲斐があったわね」
得意げに微笑む紅亜。
そう……瑞帆のバイト未経験とは思えないこの仕事力は、1週間にわたる紅亜のスパルタ指導の賜物だ。ついでに、別人級に仕立てられたこの見た目も。
萌咲の働く店の間取りや仕事内容、提供している全メニューをとことん頭に叩き込まれ。
「オドオドした挙動は言語道断」と、姿勢や歩き方、声の出し方から表情まで、徹底的に矯正された。
紅亜に「明日から毎日会いに来てね」と笑顔で言われたあの日、愚かにも淡い期待をしてしまった自分を恥じるほどに。
その結果、「チャラそうな見た目のくせに、仕事は完璧。さぞ遊んでるかと思いきや意外と寡黙で、どこか近寄りがたい不思議な魅力のある男子高生」という、いかにも少女漫画の当て馬にいそうな人物が誕生した。
紅亜いわく、瑞帆がボロを出さずにギリギリ対応できそうな設定にしたらしい。気恥ずかしさはあまり考慮に入れてもらえなかったようだが。
「おかげで、初日から即戦力扱いになって大忙しです。店長さんからもすごく褒められました。けど何故か、事あるごとに怯えた感じで“弥刀代さんに是非ともよろしく”って念を押されるんですけど…なにかあったんですか」
「別に。あなたを確実に採用してもらうために、ここの経営状況や内部事情を調べた後、ちょっと楽しくお話しただけ」
「ああ、なるほど…」
瑞帆は軽い相槌だけ返した。こういうのは深追いしないに限る。知らない方が良いこともあるのだ。自分のためにも、たぶん店長のためにも。
紅亜が瑞帆から目を離し、店のメニューをパラパラとめくりだす。
「じゃ、第一段階は無事クリアね。そうでなくちゃ困るんだけど。先にここの仕事を完璧にさせたのは、こっちの役割に集中してもらうためだし。萌咲さんとは、常に仲の良い雰囲気を醸し出せてる?2人は幼馴染ってことにしてあるんだから」
「えっと…空いた時間にはできるだけ話すようにしてます。と言っても他愛ない雑談ばかりで、これでいいのかなって不安もあるんですけど…」
「ちょっと、最初に言ったでしょ?喋る内容や回数なんてどうだっていいの。重要なのは、一緒にいる時のちょっとした視線のやりとりや表情。関係性っていうのは、そういったところにこそ表れるんだから。ちゃんと作れてるの?」
「はい、たぶん…」
もちろん、萌咲といるときは常に気を付けている。あれだけ紅亜と散々練習したのだ。
けれど“仲の良い演技”だけで言うなら、どういうわけか萌咲の方が圧倒的に上手い。女の子は皆こういう事に長けているのか、それとも萌咲がたまたま得意だったのか…
考えれば考えるほど、自分が「ちゃんとできているのか」と訊かれると自信がなくなっていく。
結局のところ、自分が人からどう見えているかなんて、わからないのだから。
すると紅亜は、持っていたメニュー表でこつんと瑞帆の頭を叩いた。
「自信のなさは表に出さないの。何を言われても、何が起きてもね。“水川ヒロ”は、絶対にそんな顔しない」
「すみません…」
「だめ、顔を上げてやり直し」
優しく微笑む紅亜。
それが合図だということを、この1週間、瑞帆は肌で学んできた。
切り替えろ。
少しだけ口角を上げて、余裕たっぷりに、まっすぐ紅亜の目を見つめる。
「すみませんでした。次からは気を付けます」
「よろしい。それでこそ、私の“ヒロ”くんね」
それだけ言って、紅亜はまたメニューに視線を戻した。
無事及第点はもらえたらしい。だがそれよりも、紅亜が言った、“私の”というのは……
…いや、きっと意味なんてない。ないに決まってる。
だから考えるな。せっかくの“ヒロ”の顔が崩れてしまう。
瑞帆は拳を強く握った。
「じゃあ、今後のことだけど。とりあえず1週間以内には、梨沙子さんと悟さんに接触するように。当初の予定通り、頑張ってたくさん好かれて、たくさん嫌われてね?もちろん、全員の観察も怠らずに」
「わかりました、任せてください」
「頼りにしてるから。そしたら…桜海老と豆腐のサラダに、ワカサギのから揚げ。あとかつおの塩レモンたたきと…特製きのこ雑炊もお願い。雑炊は最後にもってきてね。飲み物はホットジャスミンティーで」
「は?…いえ、かしこまりました!」
不意打ちの注文に一瞬たじろぐも、聞いたことを忘れないうちに、急いで注文を端末に打ち込む。マニュアル通りに復唱すると、紅亜が微笑んだ。
「じゃあ、よろしくね。良い報告を期待してるから」
「ご注文ありがとうございます。失礼します」
瑞帆は貼り付けた笑顔のまま端末をポケットにしまうと、一礼してゆっくりと個室の戸を閉めた。
誰にも聞こえないよう、こっそり息をつく。
――次は、一週間後。
そんなに耐えられるだろうか。
紅亜に目を細められ、我に返った瑞帆はしどろもどろに言い訳を探す。
「すみません、その少し、感極まったと言いますか…」
「なあに、私が来たのがそんなに嬉しかった?でも私に見惚れるのはまた今度にして。仕事はどう、良い感じ?」
紅亜の眼差しが、声が、容赦なく瑞帆の痛い部分に突き刺さる。
自分はまだ、紅亜に喜んでもらえるようなものを何ももっていない。
なんの成果もない。言い訳すらできないほどに。
「……すみません。実はまだ、何も」
瑞帆は顔を伏せた。とても目を見てなんて話せなかった。
少し遠くから、はぁ、と気の抜けたため息が聞こえた。
「あのねぇ。わかってると思うけど、たった3日で何か結果を出せるほど楽な仕事じゃないから。特にあなたは素人だし、功を焦って余計なことをしていなければそれだけで上出来。で、どうなの。初めての居酒屋バイトは」
厳しさの中に、どこか優しさを感じる声。
瑞帆はそっと顔を上げた。
「えっと…店のメニューと席番号を事前に全部覚えていたおかげで、何とか人並みにはやれてるんじゃないかと思います。初日に大量のジョッキを一度に運んだせいか、今日はちょっと筋肉痛ですが…」
「腕力まで鍛えられて良かったじゃない。1週間頑張った甲斐があったわね」
得意げに微笑む紅亜。
そう……瑞帆のバイト未経験とは思えないこの仕事力は、1週間にわたる紅亜のスパルタ指導の賜物だ。ついでに、別人級に仕立てられたこの見た目も。
萌咲の働く店の間取りや仕事内容、提供している全メニューをとことん頭に叩き込まれ。
「オドオドした挙動は言語道断」と、姿勢や歩き方、声の出し方から表情まで、徹底的に矯正された。
紅亜に「明日から毎日会いに来てね」と笑顔で言われたあの日、愚かにも淡い期待をしてしまった自分を恥じるほどに。
その結果、「チャラそうな見た目のくせに、仕事は完璧。さぞ遊んでるかと思いきや意外と寡黙で、どこか近寄りがたい不思議な魅力のある男子高生」という、いかにも少女漫画の当て馬にいそうな人物が誕生した。
紅亜いわく、瑞帆がボロを出さずにギリギリ対応できそうな設定にしたらしい。気恥ずかしさはあまり考慮に入れてもらえなかったようだが。
「おかげで、初日から即戦力扱いになって大忙しです。店長さんからもすごく褒められました。けど何故か、事あるごとに怯えた感じで“弥刀代さんに是非ともよろしく”って念を押されるんですけど…なにかあったんですか」
「別に。あなたを確実に採用してもらうために、ここの経営状況や内部事情を調べた後、ちょっと楽しくお話しただけ」
「ああ、なるほど…」
瑞帆は軽い相槌だけ返した。こういうのは深追いしないに限る。知らない方が良いこともあるのだ。自分のためにも、たぶん店長のためにも。
紅亜が瑞帆から目を離し、店のメニューをパラパラとめくりだす。
「じゃ、第一段階は無事クリアね。そうでなくちゃ困るんだけど。先にここの仕事を完璧にさせたのは、こっちの役割に集中してもらうためだし。萌咲さんとは、常に仲の良い雰囲気を醸し出せてる?2人は幼馴染ってことにしてあるんだから」
「えっと…空いた時間にはできるだけ話すようにしてます。と言っても他愛ない雑談ばかりで、これでいいのかなって不安もあるんですけど…」
「ちょっと、最初に言ったでしょ?喋る内容や回数なんてどうだっていいの。重要なのは、一緒にいる時のちょっとした視線のやりとりや表情。関係性っていうのは、そういったところにこそ表れるんだから。ちゃんと作れてるの?」
「はい、たぶん…」
もちろん、萌咲といるときは常に気を付けている。あれだけ紅亜と散々練習したのだ。
けれど“仲の良い演技”だけで言うなら、どういうわけか萌咲の方が圧倒的に上手い。女の子は皆こういう事に長けているのか、それとも萌咲がたまたま得意だったのか…
考えれば考えるほど、自分が「ちゃんとできているのか」と訊かれると自信がなくなっていく。
結局のところ、自分が人からどう見えているかなんて、わからないのだから。
すると紅亜は、持っていたメニュー表でこつんと瑞帆の頭を叩いた。
「自信のなさは表に出さないの。何を言われても、何が起きてもね。“水川ヒロ”は、絶対にそんな顔しない」
「すみません…」
「だめ、顔を上げてやり直し」
優しく微笑む紅亜。
それが合図だということを、この1週間、瑞帆は肌で学んできた。
切り替えろ。
少しだけ口角を上げて、余裕たっぷりに、まっすぐ紅亜の目を見つめる。
「すみませんでした。次からは気を付けます」
「よろしい。それでこそ、私の“ヒロ”くんね」
それだけ言って、紅亜はまたメニューに視線を戻した。
無事及第点はもらえたらしい。だがそれよりも、紅亜が言った、“私の”というのは……
…いや、きっと意味なんてない。ないに決まってる。
だから考えるな。せっかくの“ヒロ”の顔が崩れてしまう。
瑞帆は拳を強く握った。
「じゃあ、今後のことだけど。とりあえず1週間以内には、梨沙子さんと悟さんに接触するように。当初の予定通り、頑張ってたくさん好かれて、たくさん嫌われてね?もちろん、全員の観察も怠らずに」
「わかりました、任せてください」
「頼りにしてるから。そしたら…桜海老と豆腐のサラダに、ワカサギのから揚げ。あとかつおの塩レモンたたきと…特製きのこ雑炊もお願い。雑炊は最後にもってきてね。飲み物はホットジャスミンティーで」
「は?…いえ、かしこまりました!」
不意打ちの注文に一瞬たじろぐも、聞いたことを忘れないうちに、急いで注文を端末に打ち込む。マニュアル通りに復唱すると、紅亜が微笑んだ。
「じゃあ、よろしくね。良い報告を期待してるから」
「ご注文ありがとうございます。失礼します」
瑞帆は貼り付けた笑顔のまま端末をポケットにしまうと、一礼してゆっくりと個室の戸を閉めた。
誰にも聞こえないよう、こっそり息をつく。
――次は、一週間後。
そんなに耐えられるだろうか。
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