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第2章 おそらく天下無類の探偵。
第15話 先を望んでもいいんですか
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「それじゃ、雇用契約は本日付けで。うちは守秘義務とか研究倫理の縛りとかいろいろあるから、明日までにこれ全部読み込んでおいてね」
アンティーク調の机、その向こう側にあるシックな革張りの椅子に座る紅亜は、分厚い冊子を引き出しから取りだしてそう言った。
机の前に立った瑞帆は、粛々とそれらを受け取る。
さながら会社の上司と部下みたいだな、なんて思ってしまう。
…まぁ、似たような関係性なのかもしれないけれど。
「すっごく沈んだ顔ね。…もしかして、逃げだしたくなった?」
紅亜が目を細める。
「そういうわけじゃない、です」
「じゃあ何か不安なことでも?」
心配されているのか、それとも呆れられているのか。
紅亜の表情からはわからない。普通に考えたら後者だろうか?
不安なことなんて山ほど…というか、正直不安しかない。引き受けてしまったものの自分にできることとは思えない。けれど、もはや後には引けないこともわかっている。
それに、何度も弱音を吐くような情けない奴だとも思われたくない。もう思われているかもしれないけど、だったら尚更これ以上紅亜からの評価を下げたくない。
ゆえに、瑞帆は何も言えない。
「わかってる、心配なんでしょ。でも安心して。あなたが仕事でボロを出したりヘマをしたりしないように、私が責任をもって徹底的に鍛えてあげるから。楽しみにしてなさい」
ゆるりと、紅亜が机に肘をついた。柔らかい表情。他愛のない世間話でもしているみたいな。
彼女にとっては、その程度のことなのか。
それなら一体、どうして――
「どうして、僕にできる…って思ったんですか。弥刀代さんの仕事」
悶々とした気持ちが、口をついて出てしまう。純粋な疑問と、僅かな期待が。
なゆた以外にスタッフがいないということは、誰にでも声をかけているわけではないだろう。少なくとも、突拍子もない行動をして迷惑をかけ、ここに連れてこられた自分よりも良い条件の人間はいくらでもいるはずだ。
ならば、どうして?
そう思ってしまえば、少なからず期待もしてしまう。
瑞帆は紅亜に見えない位置で、両手を握りこんだ。
目を伏せて、考えこむような素振りを見せる紅亜。
瑞帆はじっと待った。
「そうね…正確には、“できる”とは思ってない。でも、“できそうだ”って思ったの。外見はまあ及第点で、頭もそこまで悪くなさそう。仕事に必要な所作や役作りは、1週間もあれば叩き込めるかなって。でも、あなたをスカウトした一番の理由はね…」
紅亜が椅子から立ち上がった。
そのまま机に両手をついて前のめりになり、ゆっくりと、顔を瑞帆に近づけて――
「あなた、私のこと好きでしょ?」
「えっ?な、なんで…ちが、いや、そうじゃなくて、え?」
「なに今さら慌ててるの。まさか隠してるつもりだった?」
赤面して硬直する瑞帆に、「信じられない」とくすくす笑う紅亜。
隠してる…というつもりはなかった。なんなら駅で自分がとった行動からして、バレているのは当然だとも思う。
けれど、それを好きな相手に真正面から言われるのは、また話が別なわけで。
「あなた、本当に恋愛慣れしてないのね。ところでひとつ訊いていい?あなたは、わたしが作った“ユウ”に一目惚れしたしたんでしょう。清楚でお淑やかで、気品あるお嬢様の“ユウ”に。それなのに、どうしてこの“私”を見ても幻滅しないの?」
小首をかしげる紅亜。
簡単な質問なのかもしれない。「単純に見た目が好き」とか、「今のあなたも素敵だからです」とか、そう答えられたら。
瑞帆の脳裏に、電車の中で佇むユウの…いや、紅亜の姿が浮かぶ。
美しさと切なさが夕陽と濃密に絡み合っていた数秒間。
彼女が一瞬だけ見せた表情。
自分の体に湧き上がった、生まれて初めての感覚…
何もかもが、毒のように甘かった。
そしてあの時見たもの、感じたものの全てが、今も自分を満たしている。
けれど、そんなことを言えるはずもなく。
ゆえに瑞帆は、何て答えればいいのかわからない。気まずそうに黙るしかない。
紅亜がため息をついた。
「まあ言いたくなければ別にいいの。ただ、覚えておいて。そのせいで私はあなたに興味をひかれたし…期待したい、とも思ったの」
「それはあの、どういう…」
「言葉通りの意味。でもね、」
紅亜がさらに顔を近づけて、瑞帆の目をじっとのぞき込む。
艶めいた瞳に、ふわっと漂う彼女の香り。瑞帆の息が止まる。
「よく聞いて。私、優秀な人が好きなの。忠実に仕事をこなせるだけじゃ全然ダメ。当然のことだもの。だから、私の期待なんて軽く超えられるくらいの人じゃないと…ね」
蕩けるような、けれどどこか冷めた紅亜の声が、瑞帆の脳に染みこんでいく。
「けれどそんな人、なかなかいないでしょう?でも今は、もしかしたら…って思ってる。そうだったらとても嬉しいなって。だから、お願い。どうか私をがっかりさせないでね」
「わかりました…頑張ります」
どうして自分はこんな時に、こんな幼稚な言葉しか出てこないんだろう。
でも、もし今回の仕事でうまくやれたらどうだろう。紅亜の期待を超えられたら。紅亜を喜ばせることができたなら。
その先は――?
「あの、弥刀代さん。もし――」
「待って。その“弥刀代さん”っていうのはやめてくれる?名字で呼ばれるの好きじゃないの」
「じゃあ何て呼べば」
「紅亜でいいわ。それと、あなたの名前は?」
そう尋ねられて愕然とする。そうだ。自分はまだ、紅亜に名前すら伝えられていなかった。
「比呂川瑞帆、です」
少し緊張しながら名乗ると、紅亜は顎に指をあてながら、「ひろかわみずほ、ね」と繰り返した。
「仕事は偽名でやってもらう予定なんだけど、あなた今までそういう経験ある?」
「普通に全くありません…」
「じゃあ、ある程度本名に近いものがいいわね。名前を呼ばれても咄嗟に反応できない、なんてことがあると困るから。だから……ヒロ?」
「えっ!?あ、はい」
「決まりね、あなたの名前。本名が“比呂川瑞帆”だから、ひっくり返して“水川ヒロ”。笑っちゃうほど単純だけど、案外悪くないでしょ。ねえ、ヒロ?」
紅亜が楽しそうに首をかしげる。
そんな些細な仕草が可愛い。紅亜から愛称で呼んでもらっているみたいで嬉しい。
瑞帆はすぐさま頷いた。
そうして、瑞帆はこの日から“水川ヒロ”になった。
アンティーク調の机、その向こう側にあるシックな革張りの椅子に座る紅亜は、分厚い冊子を引き出しから取りだしてそう言った。
机の前に立った瑞帆は、粛々とそれらを受け取る。
さながら会社の上司と部下みたいだな、なんて思ってしまう。
…まぁ、似たような関係性なのかもしれないけれど。
「すっごく沈んだ顔ね。…もしかして、逃げだしたくなった?」
紅亜が目を細める。
「そういうわけじゃない、です」
「じゃあ何か不安なことでも?」
心配されているのか、それとも呆れられているのか。
紅亜の表情からはわからない。普通に考えたら後者だろうか?
不安なことなんて山ほど…というか、正直不安しかない。引き受けてしまったものの自分にできることとは思えない。けれど、もはや後には引けないこともわかっている。
それに、何度も弱音を吐くような情けない奴だとも思われたくない。もう思われているかもしれないけど、だったら尚更これ以上紅亜からの評価を下げたくない。
ゆえに、瑞帆は何も言えない。
「わかってる、心配なんでしょ。でも安心して。あなたが仕事でボロを出したりヘマをしたりしないように、私が責任をもって徹底的に鍛えてあげるから。楽しみにしてなさい」
ゆるりと、紅亜が机に肘をついた。柔らかい表情。他愛のない世間話でもしているみたいな。
彼女にとっては、その程度のことなのか。
それなら一体、どうして――
「どうして、僕にできる…って思ったんですか。弥刀代さんの仕事」
悶々とした気持ちが、口をついて出てしまう。純粋な疑問と、僅かな期待が。
なゆた以外にスタッフがいないということは、誰にでも声をかけているわけではないだろう。少なくとも、突拍子もない行動をして迷惑をかけ、ここに連れてこられた自分よりも良い条件の人間はいくらでもいるはずだ。
ならば、どうして?
そう思ってしまえば、少なからず期待もしてしまう。
瑞帆は紅亜に見えない位置で、両手を握りこんだ。
目を伏せて、考えこむような素振りを見せる紅亜。
瑞帆はじっと待った。
「そうね…正確には、“できる”とは思ってない。でも、“できそうだ”って思ったの。外見はまあ及第点で、頭もそこまで悪くなさそう。仕事に必要な所作や役作りは、1週間もあれば叩き込めるかなって。でも、あなたをスカウトした一番の理由はね…」
紅亜が椅子から立ち上がった。
そのまま机に両手をついて前のめりになり、ゆっくりと、顔を瑞帆に近づけて――
「あなた、私のこと好きでしょ?」
「えっ?な、なんで…ちが、いや、そうじゃなくて、え?」
「なに今さら慌ててるの。まさか隠してるつもりだった?」
赤面して硬直する瑞帆に、「信じられない」とくすくす笑う紅亜。
隠してる…というつもりはなかった。なんなら駅で自分がとった行動からして、バレているのは当然だとも思う。
けれど、それを好きな相手に真正面から言われるのは、また話が別なわけで。
「あなた、本当に恋愛慣れしてないのね。ところでひとつ訊いていい?あなたは、わたしが作った“ユウ”に一目惚れしたしたんでしょう。清楚でお淑やかで、気品あるお嬢様の“ユウ”に。それなのに、どうしてこの“私”を見ても幻滅しないの?」
小首をかしげる紅亜。
簡単な質問なのかもしれない。「単純に見た目が好き」とか、「今のあなたも素敵だからです」とか、そう答えられたら。
瑞帆の脳裏に、電車の中で佇むユウの…いや、紅亜の姿が浮かぶ。
美しさと切なさが夕陽と濃密に絡み合っていた数秒間。
彼女が一瞬だけ見せた表情。
自分の体に湧き上がった、生まれて初めての感覚…
何もかもが、毒のように甘かった。
そしてあの時見たもの、感じたものの全てが、今も自分を満たしている。
けれど、そんなことを言えるはずもなく。
ゆえに瑞帆は、何て答えればいいのかわからない。気まずそうに黙るしかない。
紅亜がため息をついた。
「まあ言いたくなければ別にいいの。ただ、覚えておいて。そのせいで私はあなたに興味をひかれたし…期待したい、とも思ったの」
「それはあの、どういう…」
「言葉通りの意味。でもね、」
紅亜がさらに顔を近づけて、瑞帆の目をじっとのぞき込む。
艶めいた瞳に、ふわっと漂う彼女の香り。瑞帆の息が止まる。
「よく聞いて。私、優秀な人が好きなの。忠実に仕事をこなせるだけじゃ全然ダメ。当然のことだもの。だから、私の期待なんて軽く超えられるくらいの人じゃないと…ね」
蕩けるような、けれどどこか冷めた紅亜の声が、瑞帆の脳に染みこんでいく。
「けれどそんな人、なかなかいないでしょう?でも今は、もしかしたら…って思ってる。そうだったらとても嬉しいなって。だから、お願い。どうか私をがっかりさせないでね」
「わかりました…頑張ります」
どうして自分はこんな時に、こんな幼稚な言葉しか出てこないんだろう。
でも、もし今回の仕事でうまくやれたらどうだろう。紅亜の期待を超えられたら。紅亜を喜ばせることができたなら。
その先は――?
「あの、弥刀代さん。もし――」
「待って。その“弥刀代さん”っていうのはやめてくれる?名字で呼ばれるの好きじゃないの」
「じゃあ何て呼べば」
「紅亜でいいわ。それと、あなたの名前は?」
そう尋ねられて愕然とする。そうだ。自分はまだ、紅亜に名前すら伝えられていなかった。
「比呂川瑞帆、です」
少し緊張しながら名乗ると、紅亜は顎に指をあてながら、「ひろかわみずほ、ね」と繰り返した。
「仕事は偽名でやってもらう予定なんだけど、あなた今までそういう経験ある?」
「普通に全くありません…」
「じゃあ、ある程度本名に近いものがいいわね。名前を呼ばれても咄嗟に反応できない、なんてことがあると困るから。だから……ヒロ?」
「えっ!?あ、はい」
「決まりね、あなたの名前。本名が“比呂川瑞帆”だから、ひっくり返して“水川ヒロ”。笑っちゃうほど単純だけど、案外悪くないでしょ。ねえ、ヒロ?」
紅亜が楽しそうに首をかしげる。
そんな些細な仕草が可愛い。紅亜から愛称で呼んでもらっているみたいで嬉しい。
瑞帆はすぐさま頷いた。
そうして、瑞帆はこの日から“水川ヒロ”になった。
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