8 / 12
12月21日(火)20:00 〈朝飛は傷つけたくない。〉
しおりを挟む
一昨日は、少し苦い思いをした。
けれど、よかった。初めて夕梨とちゃんと話せたから。
……そう思ったはずなのに。
夕梨の様子が、ますますおかしいことになるなんて。
毎週火曜日、朝飛と夕梨は同じ時間帯のシフトに入っている。
17時半から、店のクローズまで。
この時間は、店の営業形態がカフェからダイニングレストランに代わる。2人とも基本はホールスタッフなので、オーダーをとったり飲み物を作ったりが中心だ。
当然アルコール類も出るので、そういう面では昼間の時間帯よりも賑やかだし、忙しない。
ゆえに朝飛は、今日が火曜日で良かったと思っていた。ここは平日の夜でもわりと客が入る店だが、週末に比べたらずっと少ない。
もし今日が週末だったらと思うと…朝飛は気が気じゃなかっただろう。
それほどまでに、今日の夕梨はどこか危なっかしかった。
まったく余裕がなくて、どこか“心ここに在らず”だ。どうやら夕梨の意識は、仕事ではないどこか違う方に向いているらしい。時々ぼんやりしている時があるかと思えば、挙動もちょっと怪しい。
声をかけられても、しばらく気づかなかったり。
テーブルや壁に何度もぶつかりそうになったり。
「小エビのサラダ」を、「小指のサラダ」と言い間違えたり。
どれも大きいミスじゃないからまだ良いが、全く普段の夕梨らしくない。
こんな彼女は、今まで見たことがなかった。
(……普通に心配だろ。これは。)
かれこれ2時間以上、朝飛はずっと夕梨が気がかりだった。それでも今まで忙しくてあまり身動きが取れなかったが、やっと客からのオーダーもある程度落ち着いてきた。この機を逃すまいと、朝飛はバーカウンターの方に戻ってきていた夕梨に近寄る。
真顔で、凛とした立ち姿。こうして見ると、いつもの夕梨なのだが。
「なあ、夕梨」
彼女の横に立ち、声をかける。しかし返事はない。
「……夕梨」
もう一度声をかける。今度は肩を軽く叩いた。すると夕梨の体が跳ね、朝飛を見て目を丸くする。どうやら今初めて、朝飛が隣にいたことに気づいたようだ。
「朝飛くん。ごめんね、ぼーっとしてて」
「別にいい。それより大丈夫か。もし調子でも悪いなら…」
「そんな、なんともないよ。いつも通り」
静かに淡々と、夕梨はそう答えた。表情からは、どんな感情もうかがえない。
他の奴なら「いつも通りの夕梨だ」と思うだろう。しかし、いつだって夕梨の些細な表情の変化を、少しでも見逃さないようにしてきた朝飛は気づいてしまった。
――夕梨が焦っていることに。おそらく、何かをごまかそうとしていることしていることに。
それなのに、朝飛は咄嗟に言葉が出てこなかった。
こういう時になんて言うのが正解なのか、わからない。
彼女の気持ちを尊重するなら、気づかない振りをするべきなのだろうか。
それとも……
「私、空いた16番テーブル片付けてくるね」
だが、夕梨は行ってしまった。苦い顔をしたままの朝飛を置いて。
釈然としない気持ちを抱えたまま、朝飛は仕事に戻った。
オーダーを受けて、ドリンクを作りはじめる。しかしどうしても夕梨の方が気になってしまう。
ちらりと目を向けると、夕梨はテーブルを片付けるだけの作業ですら、変に手際が悪かった。トレーに皿やグラスを乗せていくが…そんな風に乗せたら、バランスが悪いんじゃないか。
不意に嫌な予感がして、朝飛は急いでドリンクを作り終えると、客のところに運んだ。そのまますぐにカウンターに戻る。
(今日の夕梨からは、あまり目を離していたくない。)
キッチンに皿を下げるためには、カウンターバーの横を通る必要がある。ちょうどそこには小さな段差があるのだが……
「あっ」
夕梨の微かな声が聞こえた。
普通なら踏み外しようもないくらいの小さな段差だ。それなのに、夕梨は見事にバランスを崩したようで――
声がした瞬間、朝飛は急いで夕梨に駆け寄った。トレーを左手で引き受け、夕梨の体ごと抱きかかえるように支える。
ガシャリ、というガラスのこすれる音に肝が冷える。しかし食器はトレーから落ちることはなく、全て無事だった。
「ごめんなさい…ありがとう」
放心したように夕梨が言う。
大事にならなくて、夕梨のことも守れてよかった。そう思って安心したせいか気が抜けて、朝飛は「はぁ」と息を漏らした。腕の中で、夕梨が微かに震える。
「やっぱり体調、悪いんじゃないのか」
そう言って夕梨からトレーを受け取り、彼女がしっかり立っていることを確認してから朝飛は体を離した。
だが心配が先だって、つい厳しい口調になってしまったせいか…夕梨は少し下を向いたまま、朝飛と目を合わせない。
「そんなことない。ちょっと躓いただけで」
「本当に?」
「本当に…大丈夫」
頑なな夕梨。朝飛の中で釈然としない気持ちが募る。
全然いつも通りには見えないのに……
そう思うと、彼女に突き放されたようにさえ感じてしまう。
「…ホールは俺と他の奴でまわすから、夕梨はカウンターにいてくれ」
別に怒ってるわけじゃない。その方が、あまり動かないで良い分安心だと思ったからだ。
けれどそれは伝えずに、朝飛は夕梨の手から注文伝票の挟まったクリップボードをさっと抜き取った。
必然的に、夕梨の左手に触れる。
「……その手、どうした?」
しかし、その時に見えてしまった。夕梨の左手の親指と中指には、数か所の絆創膏が巻かれている。日曜日に会った時は、そんなケガ無かったのに。
すると夕梨は、咄嗟に右手で包むようにして左手の指を隠した。まるで、「見られたくなかった」と言わんばかりに。
「これはちょっと、家で細かい作業してて…その時に」
そして夕梨は、両手を体の後ろに隠した。
そんな夕梨のしぐさに、朝飛は傷つきにも似た感覚を覚える。
…ただのケガなら、そんな風に隠す必要はあるだろうか。
「夕梨、俺は――」
「すみませーん、注文お願いしまーす!」
朝飛にとっては最高に間の悪いタイミングで、客から大きな声で呼ばれてしまった。
「はい、おうかがいします」
夕梨がほっとしたように、客の声にいち早く反応する。そして朝飛の手からクリップボードを抜き取ると、そのまま早足でホールに出てしまった。
朝飛は1人、カウンターに残される。
(――俺は、夕梨にとってそんなに頼りないんだろうか。)
自分の思いがうまく伝わらないことが、どんなに虚しいか。
相手に何も言ってもらえないことで、どんなに不安になるか。
初めて、朝飛は分かった気がした。
けれど、よかった。初めて夕梨とちゃんと話せたから。
……そう思ったはずなのに。
夕梨の様子が、ますますおかしいことになるなんて。
毎週火曜日、朝飛と夕梨は同じ時間帯のシフトに入っている。
17時半から、店のクローズまで。
この時間は、店の営業形態がカフェからダイニングレストランに代わる。2人とも基本はホールスタッフなので、オーダーをとったり飲み物を作ったりが中心だ。
当然アルコール類も出るので、そういう面では昼間の時間帯よりも賑やかだし、忙しない。
ゆえに朝飛は、今日が火曜日で良かったと思っていた。ここは平日の夜でもわりと客が入る店だが、週末に比べたらずっと少ない。
もし今日が週末だったらと思うと…朝飛は気が気じゃなかっただろう。
それほどまでに、今日の夕梨はどこか危なっかしかった。
まったく余裕がなくて、どこか“心ここに在らず”だ。どうやら夕梨の意識は、仕事ではないどこか違う方に向いているらしい。時々ぼんやりしている時があるかと思えば、挙動もちょっと怪しい。
声をかけられても、しばらく気づかなかったり。
テーブルや壁に何度もぶつかりそうになったり。
「小エビのサラダ」を、「小指のサラダ」と言い間違えたり。
どれも大きいミスじゃないからまだ良いが、全く普段の夕梨らしくない。
こんな彼女は、今まで見たことがなかった。
(……普通に心配だろ。これは。)
かれこれ2時間以上、朝飛はずっと夕梨が気がかりだった。それでも今まで忙しくてあまり身動きが取れなかったが、やっと客からのオーダーもある程度落ち着いてきた。この機を逃すまいと、朝飛はバーカウンターの方に戻ってきていた夕梨に近寄る。
真顔で、凛とした立ち姿。こうして見ると、いつもの夕梨なのだが。
「なあ、夕梨」
彼女の横に立ち、声をかける。しかし返事はない。
「……夕梨」
もう一度声をかける。今度は肩を軽く叩いた。すると夕梨の体が跳ね、朝飛を見て目を丸くする。どうやら今初めて、朝飛が隣にいたことに気づいたようだ。
「朝飛くん。ごめんね、ぼーっとしてて」
「別にいい。それより大丈夫か。もし調子でも悪いなら…」
「そんな、なんともないよ。いつも通り」
静かに淡々と、夕梨はそう答えた。表情からは、どんな感情もうかがえない。
他の奴なら「いつも通りの夕梨だ」と思うだろう。しかし、いつだって夕梨の些細な表情の変化を、少しでも見逃さないようにしてきた朝飛は気づいてしまった。
――夕梨が焦っていることに。おそらく、何かをごまかそうとしていることしていることに。
それなのに、朝飛は咄嗟に言葉が出てこなかった。
こういう時になんて言うのが正解なのか、わからない。
彼女の気持ちを尊重するなら、気づかない振りをするべきなのだろうか。
それとも……
「私、空いた16番テーブル片付けてくるね」
だが、夕梨は行ってしまった。苦い顔をしたままの朝飛を置いて。
釈然としない気持ちを抱えたまま、朝飛は仕事に戻った。
オーダーを受けて、ドリンクを作りはじめる。しかしどうしても夕梨の方が気になってしまう。
ちらりと目を向けると、夕梨はテーブルを片付けるだけの作業ですら、変に手際が悪かった。トレーに皿やグラスを乗せていくが…そんな風に乗せたら、バランスが悪いんじゃないか。
不意に嫌な予感がして、朝飛は急いでドリンクを作り終えると、客のところに運んだ。そのまますぐにカウンターに戻る。
(今日の夕梨からは、あまり目を離していたくない。)
キッチンに皿を下げるためには、カウンターバーの横を通る必要がある。ちょうどそこには小さな段差があるのだが……
「あっ」
夕梨の微かな声が聞こえた。
普通なら踏み外しようもないくらいの小さな段差だ。それなのに、夕梨は見事にバランスを崩したようで――
声がした瞬間、朝飛は急いで夕梨に駆け寄った。トレーを左手で引き受け、夕梨の体ごと抱きかかえるように支える。
ガシャリ、というガラスのこすれる音に肝が冷える。しかし食器はトレーから落ちることはなく、全て無事だった。
「ごめんなさい…ありがとう」
放心したように夕梨が言う。
大事にならなくて、夕梨のことも守れてよかった。そう思って安心したせいか気が抜けて、朝飛は「はぁ」と息を漏らした。腕の中で、夕梨が微かに震える。
「やっぱり体調、悪いんじゃないのか」
そう言って夕梨からトレーを受け取り、彼女がしっかり立っていることを確認してから朝飛は体を離した。
だが心配が先だって、つい厳しい口調になってしまったせいか…夕梨は少し下を向いたまま、朝飛と目を合わせない。
「そんなことない。ちょっと躓いただけで」
「本当に?」
「本当に…大丈夫」
頑なな夕梨。朝飛の中で釈然としない気持ちが募る。
全然いつも通りには見えないのに……
そう思うと、彼女に突き放されたようにさえ感じてしまう。
「…ホールは俺と他の奴でまわすから、夕梨はカウンターにいてくれ」
別に怒ってるわけじゃない。その方が、あまり動かないで良い分安心だと思ったからだ。
けれどそれは伝えずに、朝飛は夕梨の手から注文伝票の挟まったクリップボードをさっと抜き取った。
必然的に、夕梨の左手に触れる。
「……その手、どうした?」
しかし、その時に見えてしまった。夕梨の左手の親指と中指には、数か所の絆創膏が巻かれている。日曜日に会った時は、そんなケガ無かったのに。
すると夕梨は、咄嗟に右手で包むようにして左手の指を隠した。まるで、「見られたくなかった」と言わんばかりに。
「これはちょっと、家で細かい作業してて…その時に」
そして夕梨は、両手を体の後ろに隠した。
そんな夕梨のしぐさに、朝飛は傷つきにも似た感覚を覚える。
…ただのケガなら、そんな風に隠す必要はあるだろうか。
「夕梨、俺は――」
「すみませーん、注文お願いしまーす!」
朝飛にとっては最高に間の悪いタイミングで、客から大きな声で呼ばれてしまった。
「はい、おうかがいします」
夕梨がほっとしたように、客の声にいち早く反応する。そして朝飛の手からクリップボードを抜き取ると、そのまま早足でホールに出てしまった。
朝飛は1人、カウンターに残される。
(――俺は、夕梨にとってそんなに頼りないんだろうか。)
自分の思いがうまく伝わらないことが、どんなに虚しいか。
相手に何も言ってもらえないことで、どんなに不安になるか。
初めて、朝飛は分かった気がした。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
人違いラブレターに慣れていたので今回の手紙もスルーしたら、片思いしていた男の子に告白されました。この手紙が、間違いじゃないって本当ですか?
石河 翠
恋愛
クラス内に「ワタナベ」がふたりいるため、「可愛いほうのワタナベさん」宛のラブレターをしょっちゅう受け取ってしまう「そうじゃないほうのワタナベさん」こと主人公の「わたし」。
ある日「わたし」は下駄箱で、万年筆で丁寧に宛名を書いたラブレターを見つける。またかとがっかりした「わたし」は、その手紙をもうひとりの「ワタナベ」の下駄箱へ入れる。
ところが、その話を聞いた隣のクラスのサイトウくんは、「わたし」が驚くほど動揺してしまう。 実はその手紙は本当に彼女宛だったことが判明する。そしてその手紙を書いた「地味なほうのサイトウくん」にも大きな秘密があって……。
「真面目」以外にとりえがないと思っている「わたし」と、そんな彼女を見守るサイトウくんの少女マンガのような恋のおはなし。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しています。
扉絵は汐の音さまに描いていただきました。
隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される
永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】
「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。
しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――?
肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!
粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる
春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。
幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……?
幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。
2024.03.06
イラスト:雪緒さま
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
年下の彼氏には同い年の女性の方がお似合いなので、別れ話をしようと思います!
ほったげな
恋愛
私には年下の彼氏がいる。その彼氏が同い年くらいの女性と街を歩いていた。同じくらいの年の女性の方が彼には似合う。だから、私は彼に別れ話をしようと思う。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる