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第六章

42 サラ

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 彼は俺を真っ直ぐに見つめ続けた。
 俺はその黄金の光から目を逸らすことができない。
 唇を薄く開いて固まる俺に、ロイは語りかけた。
「俺は、貴方を……サラを愛している。それを伝えるために待っていた」
「な、に……」
 声が震えてしまう。もう動揺を隠し通すことなどできなかった。
 こんな、ロイが……こんなことを言うなんて。
 目の前が真っ白に染まった。これは人生で経験したことのない、暴力的なまでの喜びと、脱力するほどの絶望による衝撃だった。
 まさか。
「思い出したのか?」
「いいや」
 だが、ロイはすぐにかぶりを振る。
「は……?」
 小さな破裂音みたいな、乾いた声が漏れる。
 きっと情けない顔を晒しているのに、ロイは俺を愛しそうに見つめていた。
「じゃあ、なんで。何を……」
「ただ、サラがリネだったことは知っている」
 呼吸が止まる。一気に吐き、吸い込んでから、訥々と言った。
「な、にをきいたんだ」
「貴方が俺の亡くした妻であること」
 遂には言葉を失ってしまう。
 ロイは優しい口調で滔々と続ける。
「俺が教えてもらったのは、十年前、イクセル様に俺がもつサラに関する記憶を消されたと言うこと。覚えていないが当時の俺は、遠くない未来に岩渓軍に拷問を受けると知っていたらしい。だから俺は、サラの情報を与えないため貴方に関する記憶を消した」
 彼はそう言って、唇を閉じた。
 二人の間に柔らかな風が流れていく。花の海が風に揺らぎ、それらの立てる音が、次第に遠ざかっていく。
 目の前で時が流れていくような響きだった。
 ロイは、どこか幼さの滲む笑い方をした。
「そして今また、サラに一目惚れしたみたいだ」
 犬歯が見える。かつて間近で見ていた、俺の好きな笑顔だ。
 信じるとか、信じないとか、その領域に辿り着いていない。俺は見るからに狼狽えていた。何も言葉が浮かばなくて、懸命に、絞り出した。
「何、言ってるんだ」
「サラ」
「そ、そんなわけがない」
「聞いてくれ」
 ロイは俺に触れない。無理に迫らない。けれど瞳が訴えかけている。その黄金の視線が、世界で俺だけに向けられている。
「俺はサラと恋がしたい」
 息が途端に荒くなった。ロイの言葉が今更脳に浸透して、この体の内側は、燃えるように熱くなる。
「サラがこの地を去ってから五年間、ずっと貴方のことだけを考えていた。サラが帰ってこられるように、ファルンを守り、岩渓軍の全ては俺たちが終わらせた」
「な……」
 『岩渓軍』の名に肌がぶわっと粟立つ。魂に刻まれた恐怖で体が勝手に反応してしまう。
 だがロイは、言った。
 終わらせた、と。
「なに……終わったって……」
「岩渓軍との戦いは一年前に終わったんだ」
 ロイ曰く、彼らの本部は西大陸の果てに存在していたらしい。
 ファルン五軍で敵陣に迫り、本部から支部の全てを割り出した。それら全部を破壊、解体し、幹部たちは裁判にかけられ処刑された。
 幹部以下の全ての者たちも、国際中立機関が所持する罪人の離島に送られて、その生涯を管理されている。
 その島からは、誰も脱獄できない。
「……本当に?」
「あぁ」
 ロイは強く頷き、渾身の力で言い切った。
「貴方の平穏のために俺たちが終わらせた。もう何処にも、サラを脅威に晒すものなんかないんだ」
 岩渓軍の動向は冬の船の村には届いていなかった。名前を聞かなくなったとは思っていたけれど、まさか、彼らが滅ぼされていたなんて。
 遂にロイが、勝利したのだ。
 もう、居ない……。
 脱力し、足の力が抜けてしまう。その場に崩れ落ちる俺を咄嗟にロイが支えてくれたおかげで、ゆっくりと地に膝をつく。
 ロイが俺の腕を握っている。ロイが俺の肩に触れている。
 はっきりと、ロイの力が俺に触れている。
 今更になって、心が輪郭をもった。ロイがいる。ロイが俺を見ている。夢なんかじゃない。
 ロイだ。
 俺と同じ視線になるよう膝をついたロイは、また一度「ないんだ」と告げる。
 すると、彼の表情が悲痛そうに歪んだ。
「確かに俺には、サラとの過去の記憶がない」
 ロイは俺の手を握りしめている。
 その大きくて硬い手のひらが、俺の手を覆っていた。
「だが、俺は、五年前にあの海沿いで、サラといっときだけ過ごした日々を忘れられなかった」
 俺たちはユコーンの花々に囲まれている。
「夕陽に染まる海を眺めながら二人過ごした穏やかな時間を思い返しながら、この五年間を過ごしていた」
 夕陽に似た、黄金の光に包み込まれていた。
 ロイが表情を緩めまた暖かな目つきをする。
「ずっと会いたいと。もう一度サラと話したいと願い続けていた。そして今、確信した。俺はサラに恋をしている」
「どうして、そんな……」
 五年前にいっとき過ごしただけだ。俺たちは友人でも、恋人でもない、不思議な時間を過ごしただけ。
 俺と違って、ロイは俺をただの元娼夫の魔法使いとしてしか見ていなかったはずなのに。
 なんで。
「何でだろうな」
 ロイは泣き笑いみたいな顔をした。
「サラは知っているか?」
「……」
「どうしても貴方に、心惹かれしまうワケを」
「……っ」
 もう、限界だった。
 両目に溜まった涙が決壊して頬を伝っていく。涙が零れ出た途端、息が荒くなった。
 しゃくりあげながら「わ、からない」と声を絞り出す。俺の手を握るロイの力が、強くなる。
 ロイは、懇願するように言った。
「サラ、もう一度俺を愛してくれないか?」
「怖い」
 もう、限界だ。心を制御することができない。
 ありのままが溢れ出してしまう。涙も、言葉たちも。
「怖いんだ。ロイの傍にいることが……また忘れられたらと思うと、怖くて仕方ない。仕方なかったんだと理解していたのに、それでも俺はロイがいない悲しみで心がどうにかなるかと思った。また、ロイに愛されるのは、怖いんだ」
 ロイはけれど、力を緩めなかった。
 ロイが掠れた声で言った。
「俺も、怖いよ」
 知らず俯いていた俺は、涙を絶え間なく溢しながらも目を見開く。
「サラを忘れてしまうこと」
 その言葉でハッとした。
 顔を上げると、ロイが今にも泣き出しそうな顔をしている。
 何故なのか、出会ったばかりのロイを思い出した。俺が何者なのか、此処がどこなのか、何も分からず全てを警戒する幼い瞳をしたロイを。
 その片鱗が今のロイに滲んでいた。
 俺は自分のことばかりで、失ってしまったロイの気持ちに触れていなかった。
 誰だって、大切なものを失うことは魂が崩れるほど恐ろしいのに。
「何も覚えていないはずなのに、愛する何かを失ってしまった絶望だけ空っぽの心に残っていた」
 ロイは震える声で告げる。
「それでも」
 それでも。
「サラをこれ以上愛さないことは、もっと恐ろしい」
 ロイはそれでも、微笑んでいる。
 俺は、自分の心が弛緩していくのが分かった。それは言いようのないほど、頼もしい笑顔だった。
 ロイはどこか無邪気に言った。
「魔法みたいだ。こうして見つめ合っていると、ますますサラが愛しくなる」
 俺は唇を噛み締めながら、ロイに見惚れている。
「サラ、愛してる」
 ロイはまた繰り返した。
 一度も俺を離さずに。
「ずっと後悔していた」
 握りしめた手は離れず。
「ずっと、待っていた」
 視線もひたすらに俺を見つめている。
「傷つけて、ごめん。一人にしてごめんな。忘れてしまって、悪かった……五年前に出会った時、酷い態度を取って、苦しめてしまった。ごめん。ごめんなさい。謝りたいことが沢山あるんだ。知りたいことも沢山ある。なぁ、サラ、今までのこと、一つ一つ教えてくれないか? サラの全部を知りたい。そして出来るなら、これからのこと、二人で考えていきたい」
 まるで時を戻すみたいにみるみるとロイの口調が昔に戻っていく。
「だから、どうか」
 ロイは縋るように言った。
「どうか、もう一度俺を愛してください」
 荒ぶっていた感情の波が、一際高く昇って、次第に和らいでいくのが分かった。ロイから注がれたときめきに満ちた感情だけ残っている。
 まるで凪のような心地だった。心の中に、夕陽に染まった静かな波が揺らいでいる。暖かくて、とろりとした、不思議な海が。
「……ロイ、お前は知っているんだろう?」
 ロイが目を瞠った。
 俺が微笑んだからだ。
 涙を流しているのは俺の方なのに、俺は、まるで泣いている子供に語りかけるように囁いた。
「イージェンの効果は、ユコーンの花の液の量で決まる。俺は一滴を使った。だから効果の継続期間は、四年だ」
 ロイの瞳に宿る光が揺らぐ。
 綺麗だった。
「効力が切れて、またその感情が戻ってくるかは本人次第だ」
 なぁ、ロイ。
「俺は戻ってきたよ」
 頭上を穏やかな風が流れていった。二人の手は繋がれている。
「分かるだろ?」
 悪戯っぽく笑いかけてみる。ロイは、血が滲み出そうなほどに唇を噛み締めていた。
 俺は空いた片方の手で、ロイの頬に触れた。その肌は、手のひらが焼けるほどに熱く感じる。
 ロイの唇がそっと解けた。
 俺は、ロイがこれ以上傷つかないことに安心しながら、告げた。
「ロイ、愛してる」
 その瞳に溢れる光の煌めきが強くなっていく。
「もう一度ロイと恋がしたい」
 俺はでも、また不安になって、声が揺れてしまった。
「もう一度……ロイと、夢みたいな日々を過ごしていいのか?」
「あぁ。一緒にいよう」
 すると子供みたいに泣きそうだったロイが力強く言い切った。俺の心の震えを僅かでも感じ取って、俺の手を強く握ってくれる。
「もう此処には、サラを傷つけるものなんか何もないから」
 あぁ……。
 俺は瞼を閉じた。
 ゆっくりと、息を吐く。吐息は燃えるように熱い。その炎は、これまで魂に巣食っていた全ての恐怖を燃やし尽くしていく。俺の心には琥珀色の海が広がっている。波を荒らしていた風は頭上の高いところで、別の空へと流れていった。
「サラ、愛してる」
 熱くなった瞼に、ロイの愛の言葉が触れる。
 だから俺は、迷いなく目を開けた。
 俺たちは、互いに瞬きもせずに見つめ合う。
 交わり合う琥珀色の視線の中に、二人きりでいる。それからどちらかが、微笑んだ。それから、どちらともなく顔を寄せ合い、唇を重ねた。
 初めてみたいなキスだった。
 見つめ合って、熱を確かめる、優しい優しいキスを、繰り返す。
 俺の中の海が、煌めきを増していく。ただ穏やかなままで、光だけが散りばめられていく。絶え間ないかすかな波の揺らぎの一つ一つに輝く光は、まるで水晶に閉じ込めた満天の星空のようだ。
 不意に想像した。俺たちが小舟に乗って、二人向かい合いながら、道などない無限大の世界を自由に渡っていく姿を。
 海が干涸びることはない。ロイの傍にいる限り、いつまでもずっと、満たされている。
 最期の瞬間まで、必ず。
 同じ船に乗って、星空みたいな黄金の海を渡っていくのだ。
「サラ」
 ロイがキスの合間に囁いた。俺も「ロイ」と返しながら、ロイが昔教えてくれた話を思い出す。
 『サラ』は『愛』を意味する。
 だから彼が俺の名を呼ぶことは、愛していると告げることと同義だ。
 平和な花畑の中で、俺はロイの声を聴いている。夢のような光景だけれど、ロイの唇の熱が現実だと教えてくれる。俺の名前を呼ぶ愛おしい声に、どうしても涙が溢れて止められなかった。その度ロイが……十年前のように、指で拭ってくれる。俺の世界は涙で揺らいで、ユコーンの花畑が輪郭を無くし、ほんものの黄金の海みたいだった。けれど、何でだろうな。ロイの姿だけは確かなのだ。ロイが俺に笑ってくれる。俺は彼の手を握り返している。もう二度と離さない。もう二度と離さない。失ったものは多いけれど、きっとまた満たせるから。祈るようにロイの手を握りしめる。
 するとロイが嬉しそうに、また、告げる。
 ――サラ。
「サラ」

 








(了)
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