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第四章
36 光ある未来へ
しおりを挟む俺が『サラ』の名をもらってから二年の間に、ロイは魔山軍の大将となり、そして俺のための屋敷を建てた。
ピテオ地方より先への岩渓軍の侵攻を食い止めたロイは、魔山軍大将と昇格した。岩渓軍は撤退したが、まだ戦争は終わっていない。
ロイは戦争の合間を縫って俺の元へ帰ってきてくれる。城にも防衛魔法は張られているが、それだけでは足りないと、俺が住むための屋敷をも作った。
城の近くには小川が流れている。その向こうに、俺だけの館がある。
幾重にも防衛魔法を重ねられていて、屋敷自体が他人の目には見えない秘匿の場所となっている。
有能な魔術師の目には暴かれてしまうが、大多数の目からは隠されている。屋敷には馴染みの使用人が働いていて、ここ二年間、城にいる使用人との接触はない。
二年間で、城には大勢が入ってきたらしい。
ピテオへの襲撃で怪我を負った者や、孤児となった少年少女たち。彼らが城で働き始めていて、その大多数が魔族の末裔たちだ。
元々ピテオ地方にはそうした民が多かった。他にも、世界で過激化する魔族排斥傾向の影響により、他国からファルンへ逃げてきた者たちもいる。
世界の中でもファルンは、比較的魔族の血が流れる人々の住み易い有数の国だ。ロイが魔山軍に所属してからは、ロイに希望を見出して、より多くの人々が移住してきた。
彼らは皆、ロイを慕っている。
膨大な数の憧憬を受けるロイは、戦地を駆け巡り、俺の屋敷へ帰ってくる。
「もう水晶の数が足りないな」
と呟く今日のロイは、陽の落ちる前にこの屋敷へと帰ってきた。
この部屋には水晶がいくつも並べられている。俺を膝の上に抱えたロイは、ぎゅーっと俺を抱きしめながら水晶の棚を眺めている。
俺は、「そうなんだよ」と頷いて返した。
「だからもっと持ってきてほしい」
「了解した」
「幾つあっても足りなくなるんだ。閉じ込めたい景色がたくさんあるのに」
俺はロイの胸に背を預けて、彼の長い黒髪をいじっている。
窓際のソファに、俺たちはいた。テラスへの窓が開かれていて、春の、生暖かい夜風が流れ込んできている。開け放した扉の前にあるテーブルの上には、新しい水晶が置かれている。今日は一際夜空が綺麗なので、星空を詰め込んでいる最中だ。
欠伸をすると、ロイが面白がって俺の頬に指を押し当ててくる。「やめろー」と言いながらその背に全体重をかけても、ロイはびくともせずに首を傾げた。
「で、今日は何を記録している?」
彼の温もりに包まれながら、俺は睡魔に犯された夢見心地の気分で呟いた。
「ただの、星と月」
「そうか」
「ここも、星空が見えるからいいよな。山だからかな」
「ああ」
城も屋敷も山の中にある。かつてメルスから眺めていた山々ほど標高は高くないが、それでも充分、テラスから展望できる景色は素晴らしい。
最近は降りていないが、麓には街がある。そこから山を見上げると、聳え立つこの城が美しかった。
しかし今では、屋敷も城の姿も街からは見えないようになっているらしい。
ロイは魔山軍大将だ。有能な魔術師の腕を借りて、城を保護している。
「綺麗だな」
するとロイがふと呟くので、
「うん」
俺も三日月と星空を見上げて頷いた。
暫くぼうっと眺めるが、視線を感じたのでロイを上目遣いで見上げる。やはりロイは俺だけを眺めていて、視線がかちあう。
「何見てんだよ」
「んー」
文句を言ってみると、ロイは俺の腹に回した腕の力を少しだけ強めた。
「いい加減、俺を解放してほしい」
「もう少し」
「お前なぁ……」
「サラ、水晶は幾つほしい?」
「えー? じゃあ、百個」
「わかった」
「う、嘘だよ」
慌てて見上げるが、ロイは唇の端をあげて意地の悪い笑みをするだけだった。
四年間の結婚生活では、数々の思い出を水晶に記録していた。とても高価なモノであるはずなのにロイは、俺が欲しがれば幾つでも寄越してくれる。
この分だと本当に百個の水晶を調達しかねない。俺はもう一度、「嘘だからな?」と念を込めるが、
「なぁ、サラ」
不意にロイは、夜空を見上げながら吐息するように呟いた。
「ん?」
「……イージェンの話を覚えているか?」
脈略のない単語が出てくるので、俺は固まる。
数秒後、ぱちっと瞬きすると、ロイは星空から俺へと視線を落とした。柔らかな目つきであったが真剣に感じられたので、俺は素直に首を上下する。
……ロイが言っている夜を、覚えている。
あれは四年前。俺がまだメルスの娼館にいた頃だ。
ロイがプロポーズをしてくれた夜。
イージェンの話を出したのは俺からだった。
当時の俺はまだ何の希望も見出せていなくて、この先の道なんかちっとも見えない。ロイが訪れてくれる夜だけを楽しみに待つ、未来のない俺だった。
だから俺は、呟いたのだ。
——『もしここにイージェンがあったら、俺は迷わずそれを自分に使う』
「もう二度と、イージェンを使いたいなんて言わないでくれ」
ロイはそっと微笑んだ。気弱な笑い方だった。
俺は思わず、唇の裏を噛む。ロイの微笑み方が、胸が苦しくなるほど切なかったからだ。
あの時、ロイは俺に『何を消したいんだ?』と訊ねた。
けれど俺は自分からイージェンの話を持ちかけたくせに、『なんだろうな』と曖昧に濁したのだった。
今から思うと、ロイはきっと、俺の答えを分かっていたのかもしれない。俺はただ、自分の心を黒く染める恐怖を消し去りたかった。生きることにも、死ぬことにも恐怖していて、そんな黒い炎みたいな執着をもう、手放したくて仕方なかった。
でも今の俺は違う。
俺が生きるのは、ロイと暮らしていくため。
ロイの傍で笑い、ロイが生きる姿を見つめるためだ。
「うん、もう言わない」
俺は強く告げた。
どこか弱々しいロイを慰めたくて、振り返る姿勢でその頬を撫ぜる。
ロイは、囁いた。
「あれは感情を消す魔法だ」
「わかってる。もう、自分の感情を消すなんて言わないよ」
……それに、もしも今の俺にイージェンをかけるならきっと、消える感情は恐怖ではない。
俺は心の中で口にしたことを隠して、ロイへニッと笑いかけた。
ロイもようやく、微笑みを明るくした。ここは夜で、強い明かりなんてどこにもないのに、ロイは眩しそうに目を細めて俺を見つめた。
俺はなおもロイの頬の熱を手のひらで確かめながら、フッと吐息をこぼす。
「大丈夫。俺は何も失わない。それよりも、ロイが気をつけろよ」
「俺か?」
「もしもイージェンを誰かに使われたらさ……いや、なんでもない」
「ははっ。貴方への感情が消える想像をしたのか?」
「別に」
図星だ。もしもロイが俺への愛を無くしたらと想像すると血の気が引いて、冗談にもできなかった。
しかしロイは軽やかに笑い飛ばし、俺を更に強く抱きしめた。
「仮に無くしたとしても、俺はまたサラに恋をする」
ロイの低い声が耳に触れた。そのまま体の内側を擦るようにして、響いていく。
「俺はいつだって、サラに惚れているんだ」
ロイはまるで歌のように、囁いた。
「サラは昔、自分を強くないと言ったよな」
「……よく覚えているな、そんなこと」
「俺はそれをずっと、納得できないんだ」
ロイが敬愛の視線を向けてくる。彼は滔々と語った。
「俺はただ、道を歩んできた。母や父、一族の皆や先祖が作った道だ。けれどサラは違う。貴方は枝を折り、岩壁を進み、道とは言えない鬱蒼とした山を掻き分けて、闇を進んできたんだ。そんなサラが強くなくて、誰を強いと言えるのだろう。サラは強くて、優しくて、美しい男だ」
これ以上ないほど愛に溢れたセリフを、ロイは恥ずかしげもなく告げてしまう。
だから俺も今はもう、微笑みながら聴いていられる。
「いつも、貴方に恋をしている」
ロイはそんな俺を、頼もしげに見つめた。
「愛してるよ、サラ」
「俺もだよ」
「ロイ」黒い長髪を引っ張ってみると、ロイが少し屈んでくれる。顔を寄せてくれるので、俺からキスをした。
掬うような口付けだ。触れるだけの優しいキス。それでもロイは、嬉しそうに目を細める。水晶からはこのロイの表情が見えない。だから記憶として閉じ込めておくことができない。
密かに後悔する。だが、ロイの微笑みは棚に並べられた水晶に幾らでも残っているので、大丈夫。
ロイがその優しい目で俺の顔を覗き込んだ。
「もう、寝るか?」
「あぁ、そうする」
「眠いならこのまま寝てしまえばいい。俺が運ぶよ」
「うん……」
「サラ」
……平気だ。
「おやすみ」
俺はもう、大丈夫。
大丈夫。
俺が今生きているのは、恐怖からの支配を起因としないのだから。
今はロイの言う『強いサラ』に見合うよう、俺は自分の道を見つめ直していた。
俺には何の力もない。だから立ち向かうことはできない。だがいざとなった時、自分で逃げられる力が必要だ。
二年前、身の上を明らかにした俺は、ロイの手を借りてイクセル大樹城へ向かった。
イクセル魔法使いとは実際に会ったことはなかったが、俺をエストゥナの娼館から逃げしてくれた方やジェイ様と交流の深い魔法使いでもある。
イクセルは、俺を迎え入れた。そして幾つかの魔法を教えてくれる師となった。
俺が最も身につけるべき魔法は、転移魔法だ。
その習得には二年の月日を要した。
『サラ』の名をもらって、俺が俺の道を見つめなおしてからの二年間。
——つまりは。
今だ。
「今、何と……」
ロイがさらわれた。
教えてくれたのは、師匠であるイクセルだった。
俺は声を震わせて、
「ロイに何が、起きたんですか」
と愕然とする。
結婚生活も六年目。俺がメルスを出てから六年が経っている。
イクセルは、ロイを救出するための手筈を整えながら告げた。
ロイが岩渓軍に攫われ、俺の屋敷も襲撃を受けている。俺は襲撃を受ける直前に、師であるイクセルに鏡越しに語りかけられて、何の疑いもなく彼の元へ転移魔法で向かった。
その数秒後に奴らがやって来たのだ。
咄嗟に情報を掴んだイクセルの呼びかけにより俺が大樹城を来訪した直後だった。同時にイクセルは、自分の魔法使いたちを俺の屋敷へ派遣させた。
俺は保護され、戦闘に入ったのは魔法使いの軍人たち。
だからその襲撃から逃れることができた。
ロイは……、拷問のため岩渓軍の数十人の魔法使いに拘束され、拉致されたらしい。
それから数時間後、俺はイクセルと共にロイの攫われた敵地へ向かう。
ご。
拷問。
死ぬかも、しれない。
ロイは、不死身じゃない。
頭が真っ白になって、脳は燃えるように熱くなる。時間の流れが分からなかった。ロイが攫われた報せを聞いてから時が止まったようで、気付けば俺たちは山の中にいた。
岩渓軍は国境付近の山にアジトを作っていた。既に大樹城の魔法使いたちが突入しており、敵地にいた者は皆、拘束されている。
その廃屋みたいな城は血生臭くて、踏み入れただけで悲鳴が聞こえてくるようだった。
ロイは地下の一室にいた。
……俺はその瞬間を、未来永劫忘れないことになる。
横たえられたロイの片腕を、俺は両腕で抱えた。
眠るロイに、俺は、
「ロイ」
と囁く。
ロイは一度だけ、目を覚ました。
「……リネ?」
——彼は『サラ』の名を口にしなかった。
同じ琥珀色の瞳をもつはずなのに、ロイの目は暗い空洞が二つ空いているみたいだった。
悪寒が走るほどの冷たい目。俺はそんな目を向けられたことなど、一度もない。
ロイはすぐに瞼を閉じた。
それ以降、あたたかな眼差しが俺に向けられることはなかった。
イージェンがこの数々の戦争で使われていることは、イクセルも、俺も、そしてロイも知っている。イージェンの効果の一つには、感情消去がある。ファルンは敵の幹部にこれを使っている。敵が執着する……戦争への感情を消しているのだ。確かに一時的なものではあるが、一過性の効果でも抜群だ。ファルンはそうやって、平和的な戦争終結を進めていた。
平和な世界を……。
みんな、待っている。
「さぁ、行こう」
心が軽くなると、身も軽くなる。
イクセル師匠は俺に魔法をかけてくれた。一滴のユコーンを使って、イージェンを。身も滅ぼすほどの恋を忘れた俺の目に映る、青空は涙が滲み出るほどに美しい。
四年ぶりに会ったロイは、やっぱり酷かったな。二十九歳になったロイは色気も増して、綺麗だった。うん、予想通りだ。けれど、予想に反して、ロイが途中から優しくなった。
海沿いの別荘のテラスで、夕暮れの中波を立てる海をロイと共に眺めた。ロイは俺を、
『サラ』
と目を細めて呼んでくれた。
あの黄金の瞳で……。
俺はもう、この記憶があれば生きていける。
ルロオに関する報告と師匠の施術を終え、大樹城を出れば、足元には花が広がっていた。
戦争の終わったファルンは花の天園と呼ばれている。ここでは人間も、魔族の末裔も、皆が笑い合って暮らしている。
けれど、俺にとってはこの地だって安全ではない。どこで足を取られて、心臓を打ち破られるか分からない。
それでも今の俺は、死の恐怖から逃れるため生きているのではなかった。
確かに怖い。震えるほど怖い。
でも……ロイが生きている。
怖いけれど、俺はその事実を知るために生きていく。
五年前ロイが岩渓軍に攫われたと知った夜、俺は多分一度死んだのだ。
大切な人の命が脅かされること。それはまさに俺にとっての本当の死で、心臓を抉られる思いになった。
しかしロイは生きていた。ロイが生きてくれるなら、俺はもうどうだっていい。ロイが生きてくれるなら、俺を忘れてしまってもいい。大丈夫。俺も生きているから。ごめんな。約束を破ってイージェンを使ってしまうけれど。
こんなもの一過性だ。どうせまた、ロイを好きになる。
会えなくても、声が聞けなくても。
俺の存在を忘れてしまっていても。
俺はロイをまた、好きになる。
——『仮に無くしたとしても、俺はまたサラに恋をする』
「……また、恋するって言ったくせに」
嘘つき。
俺は独り、くすっと微笑みをこぼした。
まぁ、いいよ。
俺だってお前との約束を破って、イージェンを使っているんだ。
「……よし」
まっすぐに前を見つめると、何もかもが目を細めてしまうほどに眩しい。
広大な大地が広がっている。白い花々と、青い草木の、生命の匂い。肺いっぱいに吸い込んで、歩き出した。
「行けるとこまで、行ってみるか」
生きるために。
足元には花が咲いている。
光照らされた道を数歩進み、俺は転移魔法でフッと消え去った。
(五章へ)
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