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第四章
32 約束の星空
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「リネに二週間も会えなかったんだ。たまったもんじゃない」
「遠征だろ? 部隊長様は大忙しだな」
「昔は週に何度も会っていたくらいなのに」
「それが変だったんだよ」
「そんな人はいない」とくすくす笑う俺を、ロイは無言で見下ろしている。何かと思って見上げれば、ようやく「こっちにきてくれ」と笑顔を見せる。
導かれて、ソファに腰掛ける。ロイはいつも土産を持ってきてくれて、それが俺の楽しみでもあった。
「今日は何を持ってきた?」
「今日は……は?」
言いながら腰を下ろすと、それまで微笑んでいたロイがふっと無表情になった。
「ロイ?」
「なぜ足を引きずってる……」
「え?」
「なんだ、この跡は」
ロイが足首を覗き込んでくるので、咄嗟に隠す。
ロイは顔を上げ、次に手首を凝視してきた。
俺は唾を飲み込んでから、「えっと」と口にする。
「こういう時もあるんだ」
「……」
「悪趣味なお客さんもいるんだよ」
ヘラっと笑うが、ロイは真顔のままだった。
昨日は乱暴な客を相手にしていた。拳銃を俺に突きつけながら犯すのが趣味の変態だ。足や手首を縛ってくるので跡が残りやすい。手首は化粧で誤魔化しているが、足は気付かれないだろうとそのままにしていた。
ジェイ様を相手にしたことで、手首の化粧が薄くなっている。俺は袖で隠しつつ、「俺は男だから」と続けた。
「こんなの、大した傷じゃない」
「でも痛みはあるだろう」
「……あ、うん」
言い淀んだのは、ロイが俺の肩に触れてきたからだ。
ロイはよっぽどのことがないと俺に触れない。よっぽどとは、俺がよろけたり、気分が悪くなった時だ。
肩に触れ、そのまま引き寄せられる。あまりのことに男娼であることも忘れて、硬直してしまう。
すぐに体を離すと思ったのに、ロイはもう片方の腕で俺の手首を取った。
「……ロイ?」
「やっぱり」
「あの」
「この傷はいつ付けられた?」
「大丈夫だよ。たまたま今日は残ってるだけで、すぐに消えるから」
「けれどこんなに体も冷たい。具合が悪いんじゃないか」
手首を掴む力は優しかったが、少しだけ力が増す。
……娼夫のくせに。
手を握られただけで、肩を抱かれただけで、心臓が大きく鼓動を立てる。
体が冷たいのは昨晩の仕事のせいではない。ジェイ様に与えられた情報の恐怖が体温の熱を奪っただけだ。
それなのに今、背中に汗が滲み、顔の中心に熱が集まるのを感じた。この部屋は薄暗いから、きっと顔の赤らみは露呈しないが、ロイが手を離す気配はない。
あんなに冷たかった指先も、ロイのせいで火照る。ロイによって、俺の体の熱はますます上昇していく。
耐えきれなくなり、パッと手首を彼の手から抜いた。
俺は「大したもんじゃない」と軽やかに笑う。
「……」
「それより土産って?」
「……リネに見せたいものがあるんだ」
にこやかに問いかけると、ようやくロイは切り出した。
荷物の中から丸い水晶を取り出す。そっと膝に置かれるので、俺は水晶を見下ろしてから、ロイへ首を傾げた。
「何これ」
「星空を詰め込んだ水晶だ」
「えっ!?」
想定外の答えに声が大きくなる。
ロイはフッと表情を和ませた。
「これが俺の故郷の夜空だよ」
「ロイの……ピテオの?」
「そうだ」
と、ロイが水晶に手のひらを添える。何か呪い(まじない)を告げると同時、水晶が紺色へと変化した。
ロイは魔法使いと呼べるほどではないが、少しの魔法なら使えるらしい。俺は目を見開いて、光がぶわりと生まれていく水晶を凝視した。
「これは景色や風景を込めることのできる水晶なんだ」
「すごい……」
きっととても高価なものだ。こんなもの、お客さんから頂いたこともない。
あっという間に水晶には星空が蘇った。少しだけ薄いグレーの雲がかかっている。しかしそれよりも、眩い星の光が強い。
あまりの美しさにぼうっと見惚れてしまう。慌てて声を出すが、視線は星空に引き寄せられたままだった。
「これが、ピテオの星空?」
「うん。昔、リネに俺の故郷の星空を見せてやるって言っただろ」
「覚えてたのか」
パッと顔を上げる。
ロイは水晶ではなく、じっと俺を見つめていた。
「当然だろ」
誇らしげに言い切るロイを、俺は見惚れるように眺めた。
いつの間にか体つきも、俺より一回り以上大きくなり、軍隊の影響か口調も硬くなった。
それでも、表情にはどこか幼い笑みが滲んでいる。
俺はロイを眺めて、星空へ目を落とした。
「すごく、綺麗」
心から漏れた声だった。
呟き、ふぅ、と吐息する。それからロイへまた笑顔を向ける。
「ロイは凄いな。こんなに綺麗な星空を掴むこともできるんだ」
「ちょうどこの水晶を手にしたから」
「へぇ、頂き物?」
「魔法軍の友人がくれた」
「もしかして前に話していた、フィリップさん?」
ロイが頷く。俺は「やっぱり」と明るく言った。
「ロイは凄いな。軍を超えて交流があるなんて。それに、魔山軍の軍隊長にもなってしまうし」
ロイは目を細めて、俺を見つめている。彼は星空に視線を向けないのに、その琥珀色の瞳は光が充溢していた。
「まだ二十歳で軍隊長だなんて、他にいないんじゃないか?」
「……魔狼族だからな」
ロイは呟いた。微笑みを浮かべたままで。
けれど声の響きはもの寂しい。じっと見つめていると、ロイは鼻で息をつき、ソファの背もたれに体を預けた。
「俺たち、魔狼の血が流れる者は生まれながら凶暴だ。軍隊長にもなれるだろう」
「誰かに何か言われたのか?」
俺はすぐさま問いかけた。
ロイは優しげな目で俺を見下ろしている。
ロイの少し伸びた黒い前髪が目にかかっている。どこか力の抜けた雰囲気を醸していた。
俺は少しだけ声を低くした。
「凶暴だなんて……ロイの昇格を嫉妬した奴の妄言だろ」
「しかし実際、無理もない。俺たちの本当の姿は恐ろしい狼の魔獣なのだから。リネだって俺の姿を見たことがあるだろ?」
「恐ろしくなんてなかった」
「……だが他の人間にとって俺は恐怖の存在だ。魔狼族が、かつては人間に歯向かった歴史もある」
「……それは、奴隷化の歴史も兼ねてるから」
「人間を襲ったことは確かだ」
ロイは寂しげに微笑む。やはり、誰かから余計なことを言われたのだ。
まだ二十歳のロイ。異例の昇格で、人の目を集めることは避けられないし、それによりロイを噂する者も増えていく。
自分のことでも精一杯なのに、ロイはこうして水晶を用意して俺に会いにきてくれる。次々と変化していく過酷な環境で心は荒んでいるはずなのに、ロイからは微笑みが消えない。
俺は水晶を手のひらで撫でて、ロイだけに伝わる小さな声で呟いた。
「……魔狼族が凶暴だなんて、そんなわけない」
ピテオを覆う星空は美しい。平和な夜だった。
「ロイも、ロイの先祖の人たちだって、何も悪くない」
俺は星空から、ロイへと視線を移した。
「凶暴なんかじゃない。ただ平和に暮らしていたところをいきなり殴りかかられて、争いに引き摺り込まれただけだ。自分たちを守るために致し方なく応戦しただけなのに、それを見て戦闘的だって解釈するのは歪んでる。ロイがその歴史に自分を重ねる必要なんかないんだよ」
ロイの顔から笑みが消えた。
俺は構わず続けた。
「ロイは、ファルンや故郷を守るために闘う、強くて、優しい男だ。優しいに決まってる。でなければどうして、此処に星空があるんだ」
その黄金の瞳の煌めきが増す。
俺は、渾身の思いで言い切った。
「ロイは世界一強くて、優しいよ。昔からずっとそうなんだ」
ロイは数秒間、何も言わずに俺を見下ろしていた。
それからほんのりと、微笑みを浮かべていく。
「そうか」
脱力したように呟くので、俺は少し強めに返した。
「そうです。はぁ、なんてことを言う奴らがいるんだろ」
俺は「やっかみを受けてるんだよ。卑屈な奴らだ」と毒を吐く。ロイはそれを聞いて、尖った歯を見せて笑った。
「卑屈、か」
「卑屈だよ。ロイは若くして昇格したから、僻んでるんだ」
「……」
「何が凶暴だ。ただ強いだけなのに。優しさに目も向けないなんて、哀れな連中だな」
「でもリネだって優しいだろ」
「俺ぇ?」
首を振って、「別に優しくはないよ」と否定するが、彼は「いいや」と勝気な顔をした。
「リネは俺を拾ってくれたんだから」
「だって落ちてたから」
「見過ごしてもよかったのに」
「……」
もう三年前になる光景がパッと脳裏を過ぎる。
ロイを拾ったあの夜。俺がロイを見過ごしたら、俺は、この夜の街から逃げていたのだろうか。
考えていると、ロイがさらに言った。
「それに俺が出会った時から、強い人だ」
「強い、ね……」
俺は微かに俯く。
その言葉だけはどうしても受け入れ難かった。
吐息と共に微笑んで、呟く。
「どうだろうな」
俺は自分が強いなど思ったことがない。
——『トゥーヤが動きを見せた』
ジェイ様の声がぼうっと頭に蘇る。指先がまた冷たくなり、ゾッと鳥肌が立つ。俺の手の中にはこんなにも美しい星空があるのに、また視界が曇っていく。
九年前、メルスにやってきた時の恐怖があっという間に心を侵食していった。
俺はため息をついて、語りかけた。
「ロイは、『イージェン』を知ってる?」
「どうしてそれを……」
ロイが目を丸くする。俺はまた一つ、柔らかな笑みを描く。
やはりロイは知っているのか。それはそうだろう。ロイは部隊長をも任される人間だ。
俺は確かめるように呟いた。
「感情を消す魔法。それがイージェンだろ?」
「あ、あぁ」
一瞬だがロイが口ごもる。ロイはイージェンの真の役割を把握しているらしい。
俺はそれに触れようとせず、「イージェンは」と続ける。
「此処では、恋愛感情抹消魔法と呼ばれているんだ」
「……確かに。そういった感情も消すことはできるんだろうな」
「夢みたいな魔法だよな」
「……」
ロイは数秒後、慎重に囁いた。
「リネは、その……恋愛感情を消したいのか?」
「え? そうじゃないよ」
「なら……」
ロイが怪訝な顔をする。俺はそれを眺めて、抑揚なく答えた。
「ただ……ロイ。お前は俺を強いといったけれど、俺はそうは思わない。もしここにイージェンがあったら、俺は迷わずそれを自分に使う」
「……何を消したいんだ?」
「……なんだろう」
自分から口にしたくせに、回答は曖昧に濁した。
だけれど心の中では、はっきりと答えられる。
……恐怖だ。
全てに対しての。
未来なんかないこの人生を生きていくのはとても怖い。この恐怖さえなければ、生きることにも死ぬことにも執着しないで済む。
ロイに対するこの想いだって……俺にとってはとても恐ろしい。
どうしようもない時にロイの名を呼び、孤独の海に溺れかけた時、必死にロイを思い浮かべる。けれどどうなのだろう。彼を呼ぶ俺の声に、ロイが返事をする未来についてだ。
それすらも恐ろしいことだった。名前を呼び返すということは、俺の本当の恐怖をロイが知ること。俺は決してロイのように、人々に誇れる生き方なんてしていない。ただ死にたくないと、死の恐怖に巣食われながら、身を切り売りして此処までやってきた。
俺はロイと違って穢れている。
ロイを思うたびに、息もできないほどに心が苦しくなる。
……もう、ずっと昔から気づいている。
ロイは今、心配そうに俺を見つめていた。彼の目を見つめれば、俺は甘やかな気持ちになったり、どうしようもなく切なくなったりもする。
そう……。
俺はロイに恋をしているんだ。
目の前で俺を見据えるこの男のことが、ずっとずっと、好きだった。
恋なんか、自由なんか、俺の人生ではそれらさえ苦痛だ。
何もかも失ってしまえばどれほど楽だろうか。
「リネ、何を消すと言うんだ」
ロイは強い口調をした。何かに気付いたように顔を曇らせるロイが、まるで俺の胸の内を覗いたみたいで、少しだけ狼狽える。
あぁ、だめだ。心が弱っている。こんなこと言うつもりなかったのに。
「……ごめん、取り留めないことを言ってしまった」
俺はすぐに笑顔を作って、「ロイ。水晶を眺めよう」と甘えた。
「……あぁ」
ロイは頷いてくれる。生意気な面もあるけど、ロイはいつだって優しい。
俺は星空を愛でつつ、たった今し方の空気を払拭するように声を明るくした。
「やっぱり綺麗だな。こんな夜空があるだなんて考えられない」
「……」
「この星の一つ一つに名前があるのかな……そうだ、ロイ。そうしたら、この水晶の中に、あの山から見た景色を封じることもできるのか?」
「山?」
「そう。此処から見えるあの山々だよ。よく晴れた日だとすごく近く見えるんだけど、俺には遠くて」
「……いいや」
「やっぱり、無理だよな」
「……」
「山に登るのは簡単じゃないよね」
「簡単だ」
「え?」
「俺はもう水晶に俺だけの見た景色を封じない。けれどリネに見せてやることはできる」
「どうやって——……」
「リネ、結婚しよう」
「遠征だろ? 部隊長様は大忙しだな」
「昔は週に何度も会っていたくらいなのに」
「それが変だったんだよ」
「そんな人はいない」とくすくす笑う俺を、ロイは無言で見下ろしている。何かと思って見上げれば、ようやく「こっちにきてくれ」と笑顔を見せる。
導かれて、ソファに腰掛ける。ロイはいつも土産を持ってきてくれて、それが俺の楽しみでもあった。
「今日は何を持ってきた?」
「今日は……は?」
言いながら腰を下ろすと、それまで微笑んでいたロイがふっと無表情になった。
「ロイ?」
「なぜ足を引きずってる……」
「え?」
「なんだ、この跡は」
ロイが足首を覗き込んでくるので、咄嗟に隠す。
ロイは顔を上げ、次に手首を凝視してきた。
俺は唾を飲み込んでから、「えっと」と口にする。
「こういう時もあるんだ」
「……」
「悪趣味なお客さんもいるんだよ」
ヘラっと笑うが、ロイは真顔のままだった。
昨日は乱暴な客を相手にしていた。拳銃を俺に突きつけながら犯すのが趣味の変態だ。足や手首を縛ってくるので跡が残りやすい。手首は化粧で誤魔化しているが、足は気付かれないだろうとそのままにしていた。
ジェイ様を相手にしたことで、手首の化粧が薄くなっている。俺は袖で隠しつつ、「俺は男だから」と続けた。
「こんなの、大した傷じゃない」
「でも痛みはあるだろう」
「……あ、うん」
言い淀んだのは、ロイが俺の肩に触れてきたからだ。
ロイはよっぽどのことがないと俺に触れない。よっぽどとは、俺がよろけたり、気分が悪くなった時だ。
肩に触れ、そのまま引き寄せられる。あまりのことに男娼であることも忘れて、硬直してしまう。
すぐに体を離すと思ったのに、ロイはもう片方の腕で俺の手首を取った。
「……ロイ?」
「やっぱり」
「あの」
「この傷はいつ付けられた?」
「大丈夫だよ。たまたま今日は残ってるだけで、すぐに消えるから」
「けれどこんなに体も冷たい。具合が悪いんじゃないか」
手首を掴む力は優しかったが、少しだけ力が増す。
……娼夫のくせに。
手を握られただけで、肩を抱かれただけで、心臓が大きく鼓動を立てる。
体が冷たいのは昨晩の仕事のせいではない。ジェイ様に与えられた情報の恐怖が体温の熱を奪っただけだ。
それなのに今、背中に汗が滲み、顔の中心に熱が集まるのを感じた。この部屋は薄暗いから、きっと顔の赤らみは露呈しないが、ロイが手を離す気配はない。
あんなに冷たかった指先も、ロイのせいで火照る。ロイによって、俺の体の熱はますます上昇していく。
耐えきれなくなり、パッと手首を彼の手から抜いた。
俺は「大したもんじゃない」と軽やかに笑う。
「……」
「それより土産って?」
「……リネに見せたいものがあるんだ」
にこやかに問いかけると、ようやくロイは切り出した。
荷物の中から丸い水晶を取り出す。そっと膝に置かれるので、俺は水晶を見下ろしてから、ロイへ首を傾げた。
「何これ」
「星空を詰め込んだ水晶だ」
「えっ!?」
想定外の答えに声が大きくなる。
ロイはフッと表情を和ませた。
「これが俺の故郷の夜空だよ」
「ロイの……ピテオの?」
「そうだ」
と、ロイが水晶に手のひらを添える。何か呪い(まじない)を告げると同時、水晶が紺色へと変化した。
ロイは魔法使いと呼べるほどではないが、少しの魔法なら使えるらしい。俺は目を見開いて、光がぶわりと生まれていく水晶を凝視した。
「これは景色や風景を込めることのできる水晶なんだ」
「すごい……」
きっととても高価なものだ。こんなもの、お客さんから頂いたこともない。
あっという間に水晶には星空が蘇った。少しだけ薄いグレーの雲がかかっている。しかしそれよりも、眩い星の光が強い。
あまりの美しさにぼうっと見惚れてしまう。慌てて声を出すが、視線は星空に引き寄せられたままだった。
「これが、ピテオの星空?」
「うん。昔、リネに俺の故郷の星空を見せてやるって言っただろ」
「覚えてたのか」
パッと顔を上げる。
ロイは水晶ではなく、じっと俺を見つめていた。
「当然だろ」
誇らしげに言い切るロイを、俺は見惚れるように眺めた。
いつの間にか体つきも、俺より一回り以上大きくなり、軍隊の影響か口調も硬くなった。
それでも、表情にはどこか幼い笑みが滲んでいる。
俺はロイを眺めて、星空へ目を落とした。
「すごく、綺麗」
心から漏れた声だった。
呟き、ふぅ、と吐息する。それからロイへまた笑顔を向ける。
「ロイは凄いな。こんなに綺麗な星空を掴むこともできるんだ」
「ちょうどこの水晶を手にしたから」
「へぇ、頂き物?」
「魔法軍の友人がくれた」
「もしかして前に話していた、フィリップさん?」
ロイが頷く。俺は「やっぱり」と明るく言った。
「ロイは凄いな。軍を超えて交流があるなんて。それに、魔山軍の軍隊長にもなってしまうし」
ロイは目を細めて、俺を見つめている。彼は星空に視線を向けないのに、その琥珀色の瞳は光が充溢していた。
「まだ二十歳で軍隊長だなんて、他にいないんじゃないか?」
「……魔狼族だからな」
ロイは呟いた。微笑みを浮かべたままで。
けれど声の響きはもの寂しい。じっと見つめていると、ロイは鼻で息をつき、ソファの背もたれに体を預けた。
「俺たち、魔狼の血が流れる者は生まれながら凶暴だ。軍隊長にもなれるだろう」
「誰かに何か言われたのか?」
俺はすぐさま問いかけた。
ロイは優しげな目で俺を見下ろしている。
ロイの少し伸びた黒い前髪が目にかかっている。どこか力の抜けた雰囲気を醸していた。
俺は少しだけ声を低くした。
「凶暴だなんて……ロイの昇格を嫉妬した奴の妄言だろ」
「しかし実際、無理もない。俺たちの本当の姿は恐ろしい狼の魔獣なのだから。リネだって俺の姿を見たことがあるだろ?」
「恐ろしくなんてなかった」
「……だが他の人間にとって俺は恐怖の存在だ。魔狼族が、かつては人間に歯向かった歴史もある」
「……それは、奴隷化の歴史も兼ねてるから」
「人間を襲ったことは確かだ」
ロイは寂しげに微笑む。やはり、誰かから余計なことを言われたのだ。
まだ二十歳のロイ。異例の昇格で、人の目を集めることは避けられないし、それによりロイを噂する者も増えていく。
自分のことでも精一杯なのに、ロイはこうして水晶を用意して俺に会いにきてくれる。次々と変化していく過酷な環境で心は荒んでいるはずなのに、ロイからは微笑みが消えない。
俺は水晶を手のひらで撫でて、ロイだけに伝わる小さな声で呟いた。
「……魔狼族が凶暴だなんて、そんなわけない」
ピテオを覆う星空は美しい。平和な夜だった。
「ロイも、ロイの先祖の人たちだって、何も悪くない」
俺は星空から、ロイへと視線を移した。
「凶暴なんかじゃない。ただ平和に暮らしていたところをいきなり殴りかかられて、争いに引き摺り込まれただけだ。自分たちを守るために致し方なく応戦しただけなのに、それを見て戦闘的だって解釈するのは歪んでる。ロイがその歴史に自分を重ねる必要なんかないんだよ」
ロイの顔から笑みが消えた。
俺は構わず続けた。
「ロイは、ファルンや故郷を守るために闘う、強くて、優しい男だ。優しいに決まってる。でなければどうして、此処に星空があるんだ」
その黄金の瞳の煌めきが増す。
俺は、渾身の思いで言い切った。
「ロイは世界一強くて、優しいよ。昔からずっとそうなんだ」
ロイは数秒間、何も言わずに俺を見下ろしていた。
それからほんのりと、微笑みを浮かべていく。
「そうか」
脱力したように呟くので、俺は少し強めに返した。
「そうです。はぁ、なんてことを言う奴らがいるんだろ」
俺は「やっかみを受けてるんだよ。卑屈な奴らだ」と毒を吐く。ロイはそれを聞いて、尖った歯を見せて笑った。
「卑屈、か」
「卑屈だよ。ロイは若くして昇格したから、僻んでるんだ」
「……」
「何が凶暴だ。ただ強いだけなのに。優しさに目も向けないなんて、哀れな連中だな」
「でもリネだって優しいだろ」
「俺ぇ?」
首を振って、「別に優しくはないよ」と否定するが、彼は「いいや」と勝気な顔をした。
「リネは俺を拾ってくれたんだから」
「だって落ちてたから」
「見過ごしてもよかったのに」
「……」
もう三年前になる光景がパッと脳裏を過ぎる。
ロイを拾ったあの夜。俺がロイを見過ごしたら、俺は、この夜の街から逃げていたのだろうか。
考えていると、ロイがさらに言った。
「それに俺が出会った時から、強い人だ」
「強い、ね……」
俺は微かに俯く。
その言葉だけはどうしても受け入れ難かった。
吐息と共に微笑んで、呟く。
「どうだろうな」
俺は自分が強いなど思ったことがない。
——『トゥーヤが動きを見せた』
ジェイ様の声がぼうっと頭に蘇る。指先がまた冷たくなり、ゾッと鳥肌が立つ。俺の手の中にはこんなにも美しい星空があるのに、また視界が曇っていく。
九年前、メルスにやってきた時の恐怖があっという間に心を侵食していった。
俺はため息をついて、語りかけた。
「ロイは、『イージェン』を知ってる?」
「どうしてそれを……」
ロイが目を丸くする。俺はまた一つ、柔らかな笑みを描く。
やはりロイは知っているのか。それはそうだろう。ロイは部隊長をも任される人間だ。
俺は確かめるように呟いた。
「感情を消す魔法。それがイージェンだろ?」
「あ、あぁ」
一瞬だがロイが口ごもる。ロイはイージェンの真の役割を把握しているらしい。
俺はそれに触れようとせず、「イージェンは」と続ける。
「此処では、恋愛感情抹消魔法と呼ばれているんだ」
「……確かに。そういった感情も消すことはできるんだろうな」
「夢みたいな魔法だよな」
「……」
ロイは数秒後、慎重に囁いた。
「リネは、その……恋愛感情を消したいのか?」
「え? そうじゃないよ」
「なら……」
ロイが怪訝な顔をする。俺はそれを眺めて、抑揚なく答えた。
「ただ……ロイ。お前は俺を強いといったけれど、俺はそうは思わない。もしここにイージェンがあったら、俺は迷わずそれを自分に使う」
「……何を消したいんだ?」
「……なんだろう」
自分から口にしたくせに、回答は曖昧に濁した。
だけれど心の中では、はっきりと答えられる。
……恐怖だ。
全てに対しての。
未来なんかないこの人生を生きていくのはとても怖い。この恐怖さえなければ、生きることにも死ぬことにも執着しないで済む。
ロイに対するこの想いだって……俺にとってはとても恐ろしい。
どうしようもない時にロイの名を呼び、孤独の海に溺れかけた時、必死にロイを思い浮かべる。けれどどうなのだろう。彼を呼ぶ俺の声に、ロイが返事をする未来についてだ。
それすらも恐ろしいことだった。名前を呼び返すということは、俺の本当の恐怖をロイが知ること。俺は決してロイのように、人々に誇れる生き方なんてしていない。ただ死にたくないと、死の恐怖に巣食われながら、身を切り売りして此処までやってきた。
俺はロイと違って穢れている。
ロイを思うたびに、息もできないほどに心が苦しくなる。
……もう、ずっと昔から気づいている。
ロイは今、心配そうに俺を見つめていた。彼の目を見つめれば、俺は甘やかな気持ちになったり、どうしようもなく切なくなったりもする。
そう……。
俺はロイに恋をしているんだ。
目の前で俺を見据えるこの男のことが、ずっとずっと、好きだった。
恋なんか、自由なんか、俺の人生ではそれらさえ苦痛だ。
何もかも失ってしまえばどれほど楽だろうか。
「リネ、何を消すと言うんだ」
ロイは強い口調をした。何かに気付いたように顔を曇らせるロイが、まるで俺の胸の内を覗いたみたいで、少しだけ狼狽える。
あぁ、だめだ。心が弱っている。こんなこと言うつもりなかったのに。
「……ごめん、取り留めないことを言ってしまった」
俺はすぐに笑顔を作って、「ロイ。水晶を眺めよう」と甘えた。
「……あぁ」
ロイは頷いてくれる。生意気な面もあるけど、ロイはいつだって優しい。
俺は星空を愛でつつ、たった今し方の空気を払拭するように声を明るくした。
「やっぱり綺麗だな。こんな夜空があるだなんて考えられない」
「……」
「この星の一つ一つに名前があるのかな……そうだ、ロイ。そうしたら、この水晶の中に、あの山から見た景色を封じることもできるのか?」
「山?」
「そう。此処から見えるあの山々だよ。よく晴れた日だとすごく近く見えるんだけど、俺には遠くて」
「……いいや」
「やっぱり、無理だよな」
「……」
「山に登るのは簡単じゃないよね」
「簡単だ」
「え?」
「俺はもう水晶に俺だけの見た景色を封じない。けれどリネに見せてやることはできる」
「どうやって——……」
「リネ、結婚しよう」
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