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第四章

31 背骨

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「まさかここまで化けるとはな……」
「化ける? 何のこと?」
 ロイは不思議そうに片眉を上げた。砕けた表情が可愛くて、俺は自然と笑ってしまう。
「ロイだよ。みんな、噂してる。リネに気前の良いお客様がついたってな」
「……俺はただの客じゃない」
「確かに。なーんにもしてないもんな」
「友達だっ」
「ははっ、そうだね」
 こうして俺を買うくせに、ロイは俺に指一本触れない。
 こんなお客様はロイの他に一人だっていない。ただ友人のように話をするだけの夜を、この街で過ごすなんて思わなかった。
 すると、ロイが呟いた。
「リネは嫌なのか?」
「え?」
「ただ、俺と遊ぶだけなのが……」
 さっきまで溌剌としていたロイが一気に不安気に顔を暗くする。
 俺は慌てて首を横に振った。
「そんなわけないだろ。俺はロイとオセロをして遊ぶのが楽しいよ」
「本当に?」
「当たり前だろ。ロイとの時間を楽しみにしてるんだ……ちょっと揶揄っただけ。お客様なんてわざと言って悪かった。不貞腐れるなよ」
 みるみるうちに成長していくロイだが、話していると幼い顔を見せるので目が離せない。
 ロイ相手に商売みたいな口調を使いたくなくて、本心で話しせば、まるでロイを子供扱いするみたいな口ぶりになってしまう。ロイもそれを目敏く拾い、今度はムッと唇を尖らせた。
「リネは俺を弟扱いするきらいがある」
「え? あっ、そうかな」
「否定しないんだな」
「だって君は年下だから」
「……確かに俺はリネと違って、自分で食い扶持も稼いでいないけれど、でも子供じゃないし弟でもない」
「うん。そうだね。ごめんごめん」
「ごめんって言うくせに笑ってる」
 ロイは怒ったように指摘しながらも、破顔していた。
 俺は「ごめーん」と笑いながら顔を空へ向ける。茶髪が夜風を含んでふんわりと揺れ、頬を掠める。
 ここは娼館の中でもトップクラスのお部屋で、テラスからは夜空とメルス街の夜景を展望できる。
 空には星なんか一つもなくて、代わりに三日月が浮かんでいた。
 ぼうっと眺めていると、ロイが、
「不思議だ。ここの空には月しかない」
 と、俺と同じように天を仰ぎ見ながら言った。
 俺は顔をロイへ向ける。喉仏が光を受けている。
 今や、出会った頃の汚れた姿は消え失せている。身なりもきちんとして、黒髪もさらりと夜風に揺らいでいた。
 何度見ても綺麗な男だと思う。何にも穢れていない、凛とした姿。
 何だか誇らしい気持ちになりながら、俺は答えた。
「ここは街の明かりが強すぎて星が見えないんだ」
「そっか……」
「ロイは満天の星空ってやつを見たことがある?」
「あるよ」
 ロイはふんわりと微笑んで、俺へ笑顔を寄越した。
「ピテオはとても星が綺麗なんだ」
「へぇ、素敵だな」
「それと……リネは、イクセル様の大樹城を知ってる?」
 俺は笑顔のまま、一瞬だけ固まった。
 『イクセル』……その名前が耳に入った瞬間、思考が一気に凍って、口元すらも強張った。
 ロイは俺のことに関して異様に勘がいい。気取られないよう呼吸をすぐに再開し、ニコッと問いかけた。
「さぁ。どういったところなんだ?」
「俺も一度父に連れられて向かったことがあって、その場所の夜空がとても美しい星空だった」
 そう語るロイは、記憶のイクセル城に魅せられている。
 ロイがこちらの反応に気付かれなかったことに安心しつつ、俺は続けた。
「神聖な地なんだな」
「うん。いつかリネにも見せたい」
 俺は微笑んだままでいる。ロイは煌めきをその黄金の瞳に詰め込んで、目を細めている。
 ……度々、ロイが外の世界へ俺を連れていくような口ぶりをするのには気付いていた。それが意図的なのか無意識なのかは判別できないが、確かであるのは、ロイがメルス街の男娼を理解し切れていないということ。
「まぁ俺は」
 だから、俺も変な夢を持たせないために告げなければならない。
「ここを出ることはないから」
 ロイは解っていないのだ。
 此処を出るには、死ぬか奴隷になるしかない。
「ロイの話だけで充分だ」
 しかし、この笑顔は本心だった。
 ロイの話を聞いているだけで俺は嬉しくなるし、心地がいい。ロイと語らい過ごすこの時間は、この半年間で、俺にとって最も幸福な時間であるのは嘘ではない。
 ロイもまた俺の笑顔を偽りと見なかったようで、黙り込んだ。しかしその表情は、俺の言葉を解せないでいるようだった。
 俺はわざと、月を見ないで言った。
「ロイはどうなんだ?」
「え?」
「君の未来の話」
 オセロは進まない。いつもこうだった。
 互いの話に夢中になって、二人向かい合っているだけで時間が過ぎていく。
 ロイは唇を引き締めて、やがて語り出した。
「俺は十八になったら、ファルンの魔山軍に入る」
 魔山軍。少し驚いたが、俺は「そうなのか」と返した。
 ロイが軍隊に入るだろうことは想像がついていた。まだ徴兵制は開始されていないが、ロイは度々、軍隊へ入隊する意思を見せていたから。
 ファルンには魔法軍、自衛軍、近衛軍、陸軍、水軍、そして魔山(まざん)軍が存在する。
 魔法軍は魔法に特化した軍隊で、自衛軍は情報本部を管理している。近衛軍は王都に構えており、陸軍は各地方に拠点がある。水軍は内陸に位置するファルンが海上戦を想定し作られた軍隊だ。
 魔山軍は、その名の通り山を目的とした軍隊だった。ファルン王国には幾つも山脈が渡っていて、そこには魔物たちが潜む。山から国民を守り、山を管理するのが魔山軍である。
 そして魔山軍は、隣国との国境も守る。
 ロイはつぶやいた。
「ピテオは、トゥーヤに近いから」
 トゥーヤ王国。ファルンの隣国で、内政が不安定な国だ。
「トゥーヤとの国境には山がある。俺は魔山軍に入って、故郷を守りたい」
 俺は密かに深呼吸し、ロイの目をまっすぐに見つめた。
「ロイはピテオを愛しているもんな」
「うん」
「故郷を守ろうとするロイは立派だよ」
 ロイは眉を下げて、「ありがとう」と頷いた。
 ファルンの国境付近の街は、トゥーヤを恐れている。それはピテオも例外でなく、その地方で育ったロイが魔山軍への入隊を希望するのも当然のことだ。
 ロイが故郷を愛しているのは、会話の節々で伝わってくる。
 生まれ育った故郷を守るために、ロイは戦うのだ。
 ロイは強く言い切った。
「俺は、ピテオを守るためなら何だってする」
 俺はただ、見惚れるみたいにロイを見つめている。
 誓いを口にする十七歳のロイは、この煌びやかなメルスの光や夜空に唯一浮かぶ月よりも、一際輝いて見えた。
 ……この男の人生を眺めていたい。
 自分以外の人生について想ったのは、ロイが初めてだった。
















 そうして翌年、宣言通りロイは魔山軍に入隊した。
 魔狼の血を継ぐロイは普通の人間と違って格段に体格も良く、身体能力も高い。生まれながら魔力を持つので、魔法にも耐性がある。
 俺もまた魔力を持っているらしく魔法を前にしてもある程度耐性があるが、両親の姿を知らないのでこれが生まれながらの素質であるかは分からない。
 魔物の多い場所で育ったり、魔族の末裔を客として相手にしていたことで与えられた外因的な影響が強いのだろう。何にせよ、誰かに魔法を教えられる機会もないので、俺が魔法使いになることはない。
 ロイはロイで、魔法使いになる素質はあるけれど、彼はそれ以上に魔狼族の末裔としての戦闘力に優れていた。
 何よりも、人々に与えるカリスマ性が異常なほど強い。
「兄様、今晩はオークランス様がいらっしゃるようですね」
「そうだな」
 もうすぐ日が暮れる。
 身支度を整えていると、同室のオーラが嬉しそうに笑いかけてきた。
「聞きましたよ。オークランス様、既に魔山軍の第一部隊長となったらしいじゃないですか」
 どこから聞いたのか。特定は最早できない。娼館ではすっかり、ロイの存在は有名だし、今では外の世界でも『ロイ・オークランス』の名が轟き始めているのだ。
 オーラは誇らしげに言った。
「まだ入隊して二年ほどしか経っていないのでしょう? 素晴らしいですね。そんな御方も、兄様に夢中になるんですから」
「……」
「オークランス様はリネ兄様を身請けするのでしょうか? はぁ……兄様がお嫁にいくのは、寂しいな。そうしたら僕はオークランス様を恨んでしまうかも」
 オーラは無邪気な笑顔で「でもそうなったら素敵ですね」と満足気にする。
 俺は小さく微笑して、「オーラ、支度を進めなさい」と促した。
 ロイと出会って、もう三年近くになる。
 俺は二十二になり、ロイも二十歳になっていた。
 ロイはこの度、魔山軍部隊長となった。昇格した身でありながら尚も此処へ通い続けている。
 十七歳の時はまだ幼さが滲んでいたのに、今のロイは、すっかり筋骨隆々とした体つきになっている。出会った時から綺麗な少年だと思っていたが、三年もすればその美しさに磨きがかかり、眉目秀麗な魔狼の軍人として巷では畏敬を払われているらしい。
 そんなロイは、三年経っても俺の元へ通っていて、同じようにただ会話をするだけだ。
 ロイは俺に性行為を迫らない。触れることすらしない。ロイは……魔狼の血を継ぐ者たちには、ある特性が存在する。
 彼らと繋がった人間は、他の者と性行為をすると死に至るのだ。
 だから魔狼の血の者と番った人間は、彼以外の誰かと体を重ねることができない。
 しかしそれを抜きにしたって、ロイは俺と関係を結びたいとは思っていないのだろう。初めて出会った魔族を恐れない人間に好意を抱き、友情を築いただけだ。
 ロイは男娼として俺を見ているのではない。ロイが俺に欲情を抱くことはないし、この先も触れあうことはない。
 ……そうやって考えないと、頭がおかしくなりそうになる。
 恋なんてない。情熱なんてない。牧歌的な友情が存在しているだけで、ロイは俺を友人として考えている。
 そうでないと、俺は、耐えられない。
 出会った頃に語った通り、ロイは故郷を守るために軍人となって、その道を突き進んでいる。愛は信念となり、それはロイの背骨に剣のように一本通り、どれだけ過酷であろうと姿勢を崩さず未来を見ている。
 そんなロイが誇らしくて、俺には眩しすぎた。
 俺には信念なんてものは一つもないし、ただ漠然と生きるために此処にいる。此処にいれば死期は早まるが、そのいずれ来る無慈悲な死にすら逃れようとせず降伏している。
 ロイとはあまりに違い過ぎる。友人としてロイと交流を続けることすら烏滸がましい気持ちになるのに、これ以上ロイに触れることなどできない。
 このままの関係が一番、良い。
 オーラや他の遊女たちは「オークランス様はリネに惚れているんだ」というが、そんなわけがない。
 そんなことはあってはならない。ありえないことではあるが、もしここに愛があったら、それが一番残酷だ。
 俺はどうしたって体を売って生きていくことしかできないのだから。
「——お体お拭きします」
「ああ」
 今晩はロイがやってくる。だが、夕刻に他の客が入っていた。
 昔から贔屓にしてくださるお客様だ。『ジェイ』様は、俺が此処へ来た時から俺を買っている。
 仕事を終えて、ジェイ様の汗ばんだ肌を拭く。年齢を聞いたことはないが四十代後半だろうか。ジェイ様の体は筋肉に覆われていて、ところどころ傷があった。
 俺はその傷の過去を問いかけたことはない。
 ジェイ様に何か訊ねることはなく、ただ業務的に仕事をして、彼から齎される情報を耳に入れるだけだ。
「トゥーヤが動きを見せた」
「……何です?」
 裸のジェイ様は、煙草を咥えた。
 俺はマッチを擦って火を灯す。ジェイ様は鋭い目つきで俺を見て、またランプへと目を向ける。
「リネ、聞け」
 俺は唾を飲み込み、少しだけ開いた部屋の扉を閉めた。うっすら漏れてきていた何処かの部屋の喘ぎ声が消え失せる。ジェイ様はいつも、俺を抱くときは扉を少しだけ開いている。
 まるで行為の音を外へわざと流すように。
「岩渓軍がトゥーヤ王国軍に攻撃を始めた。王国軍は初めから奴らに服従している。岩渓軍は国を乗っ取るぞ」
「……戦争が始まるのでしょうか」
「そうだな」
 ジェイ様の衣服も装飾も高価なものばかりで、彼は俺にも金を惜しまない。しかし煙草だけは、かつての西大陸で起きた戦争で流行っていた安い煙草のままだった。
「王国軍は早々に降伏するだろう。岩渓軍は力をつけ過ぎている」
「……はい」
「この三、四年のうちにでも我がファルンにも攻め入ってくる。メルスも戦火に備えねばならんが、此処はお偉いさんが守るはずだ」
「恐ろしいですね」
「まことに」
 しばらく無言の時間が流れた。
 やがて煙草も尽きる頃、ジェイ様は腰を上げた。
「もしもメルスが攻め入られたら、お前はリネとして死ぬといい」
「はい」
「それが最も苦痛も少ない。自死する娼婦たちがいれば、お前もそこに加われ。岩渓軍に見つかる前に死んだ方がマシだ」
「そうします」
「移転魔法を使える魔術師を探す。もし見つけたら、わしがお前を優先的に逃してやる」
「……ありがとうございます」
 呟くと同時、ジェイ様は身支度を整え終えた。
「わしは上がる」
「メルスの門までお送りしますか?」
「いや、いい。いい」
 ジェイ様はまた煙草を咥え、一服すると、咥え煙草のまま俺の肩をわざとらしく抱いて歩き出す。
 娼館の出入り口までお送りする。ジェイ様を裕福な資産家だと思い込んでいる館長も、深々とお辞儀をして、彼を送り出した。
 ジェイ様の馬車が見えなくなってから、俺は部屋まで戻る。
 オーラは仕事中だ。俺の次のお客様は……、ロイ。
 一人の部屋でくたりと座り込む。指先が氷のように冷たかった。恐怖が体を支配しているのだ。
「……ロイ」
 一人だからこそ呟いた。あまりの孤独で、自分が分からなくなるとき、俺は彼の名を囁く。
 ……皆はロイが俺を求めていると思っているが、そうではない。
 求めているのは、俺の方だ。
 どうしようもない孤独で足元が崩れそうな時、不安で言いようのない闇に陥りそうな時。
 俺はロイの名を呼んでしまう。
「ロイ」
 返事がなくても構わない。
 その名の響きだけで、俺の心に小さな灯火が生まれるから。
「ロイ……」
 俺は膝を抱えて、何度もつぶやいた。胸を押し潰す恐怖から耐えるために声を絞り出す。
 ロイ。ロイ。
 ——ロイ。
「——リネ」
 「久しぶりだな」一時間後、軍服姿のロイは、部屋を訪ねた俺を見て嬉しそうに腰を上げた。
 俺は脱力したみたいに頬を緩めた。
「久しぶりって、たった二週間じゃないか」
「二週間も、だ」
「変なやつ」
 ロイの顔を見ただけで心が安らぐ。自分が微笑んでいることに、後になって気づいた。
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