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第四章
29 よろしくな、ロイ
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青年の目元がわずかに歪んだ。なぜか向こうが傷ついたような顔をするのを、不思議に眺めながら、単調に呟く。
「ファルンの地形には詳しくないんだ。詳しくないっていうか、知ってはならない」
「な、なぜ」
「さぁ? 逃げ出さないためじゃないかな。それより君は、どうやって門を越えようか」
あまり深く考えずに話してみたが、彼はまだ子供だ。
大人には普通でも、子供にはそうでないかも。彼にとって気持ちのいい話題ではなかったなと反省し、すぐに話を変える。
門へ送ったところですんなりと通してくれるかが気になる。「親御さんは?」と聞いてみると、青年はその黒い髪を揺らす。かぶりを振ったのだ。
やはり不法侵入か。そもそも、どうやってここへ来たのだろう。
と、青年が膝を抱えるので「怪我でもしたか?」と不安になり、声をかける。
青年はまたしても首を振って、足首にかけた装飾品を取り出した。
「そんなのあったのか?」
「ヒモに自在に収縮する魔法をかけられています。大切なものなので、足首にもってるんです」
「へぇ……魔法ね。何その石?」
「印章です。オークランス家の」
ただの石にも見えるが、確かに印章が刻まれている。目立たない仕様なだけで、よく見ると石というより黒い光の渦巻く宝石みたいだった。
「オークランス……」
と、言うのか。聞いたことがない。
誰もオークランス家について話せないほどに高尚な存在ということ?
「おそらくこれがあれば門を通してくれるはずです」
「え、何で」
「オークランス家が入れない国はありません」
「……ふぅん。それがあれば此処から出れるんだ」
「多分」
「そっか……」
あの門から逃げ出そうとした同業は俺が此処に来てからも幾人もいた。だがその誰もが館へ連れ戻されて折檻を受けるか、病気持ちだったり妊婦なら射殺されるだけだった。
街を覆う壁の向こうには、堀になっていて橋や船がなければ渡れない。堀の水には肉食の水獣が泳いでいると客が嬉しそうに話していた。それは本来遊女たちの逃亡を妨げる用途で放ったのではなく、水獣の見目が単純に美しいから放ったらしい。
観賞用で泳がせているものだが、世話をしている感じもないのに悠々と泳ぎ続けているのは、もしかしたら壁を這い登って落ちた者が食われているからかもしれない。
ここを出るには、死ぬか餌になるか、買われるしかない。
「……あの、リネはどうするんですか?」
「え?」
ぼうっとしていたので反応が若干遅れる。遅れて質問を頭に入れるも『どうする』の意味が分からない。
「どうするって……君を門まで送り届けるよ。朝までは、此処にいな。君の街がどうかは分からないが、メルスはあんまり治安がよろしくない」
「リネはその後、どうするんですか」
「はい?」
「俺が帰った後」
「あぁ。こっそり帰るかな」
「……」
「こっそり、だよ。こんなところまで許可なく来たのは初めてだから、不審に思われて撃たれるかもしれない」
「は?」
「脱走してると思われるんだ。俺の娼館の敷地を超えてしまったから」
俺は親指で後ろを指差した。ヘラ、と笑ってみるが青年は真顔だった。
「街を出歩くこともできないんですか」
「え……それは、そうだろ」
「……」
「えーっと。ピテオって場所がどうかは知らないが、此処はそういうものなんだよ」
この青年だって、体つきは良いが綺麗な見目をしているから、下手をしたら娼夫に間違われて連れて行かれるかもしれない。
門にまで送り届けられればいいのだ。きっと門番たちがお偉いさんを呼んで、印章を認識したら、青年を故郷へ帰してくれるだろう。
考えていると、いつの間にか青年が酷く顔を曇らせている。俺は「あっ」と慌てて付け足した。
「大丈夫、怖くないから。朝までここにいよう」
「……」
「門まで行けば君は安全だ。朝になればもう少し、この街も静まるから。そうしたらこっそり、門まで送ってやる。俺は裏道に詳しいんだぜ。お客さんに連れられてる時くらいは、何度か敷地外に出たことがあるんだ! えっと、五回くらいは! この小屋もな、一週間だけ先輩の出産で手伝いに来てたこともあるし。だから、平気だよ」
「……はい」
「大丈夫。俺がなんとかしてやる……えーっと、それにしても何で君は、こんな厄介な街に来ちまったのかな」
メルスの危険性を把握しておくのはとても大事なことだが、出来る限り彼には不安になって欲しくない。
「あの壁を越えられるなんてさすがだな」
ランプを床に置き、隣に腰かける。
彼の琥珀色の瞳にランプの光が綺麗に透き通っていくのを眺めていると、こちらの心まで暖かくなる。俺はだから、心からの笑顔で語りかけた。
「狼の姿はとても立派だった。黒い狼って、かっこいいね。壁の向こうには川だか堀だかがあるんだろ? あれも乗り越えてきたのか?」
「ああ……あったような……すみません。記憶が不明瞭で」
「ふぅん。もう無理に飛び越えるなよ。その川には人を食らう獣が棲んでるんだ」
「……獣」
「うん。とても綺麗なんだってさ。いいな、俺もみてみたい」
ニッと歯を見せて笑いかける。
すると、青年はこちらを見つめ、どこか放心したような顔をした。
なんだろう。首を傾げると、青年は小さくハッとして目を逸らす。それから、静かに囁いた。
「ここの人たちは皆……リネのように、俺のような魔族にも恐れないんですか」
「え? あー、どうだろう。俺は別に、平気だけど。それより君は魔族じゃないだろ」
俯いていた青年が顔を上げる。
交わされた視線の根源にある琥珀色の瞳はとても綺麗だ。俺も同じ色の瞳を持つが、こんなに煌めいていない。
魔狼の血族、だからこそだろう。誰も勝てない輝きがそこにある。
「魔狼の血を引いた、特別な存在だ」
綺麗だな。純粋に、羨望の気持ちが心に生まれた。綺麗で、ずっと、見つめていたい気もする。そうした想いは微笑みとなって、俺の表情に溢れる。
青年が数秒黙り込んだ。しかし今度は目を逸らさない。
琥珀色の沈黙の後、口を開いたのは彼だった。
「ロイ」
「……ん?」
「ロイです。俺の名はロイ・オークランス」
「へぇ。いい名前だな」
ロイ。ロイか。呼びやすくて、カッコいい名前だ。
名前を教えてもらえるのはここではとても特別なことだった。誰も彼もが偽名を使っている。俺に至っては、本当の名すらない。
俺は嬉しくなって、子供みたいに笑いかけた。
「よろしくな、ロイ」
「……はい」
「リネ」そう言って、ロイは目を細めた。それは初めて見る微笑みで、思わず声を失ってしまうほどに美しい。
「ファルンの地形には詳しくないんだ。詳しくないっていうか、知ってはならない」
「な、なぜ」
「さぁ? 逃げ出さないためじゃないかな。それより君は、どうやって門を越えようか」
あまり深く考えずに話してみたが、彼はまだ子供だ。
大人には普通でも、子供にはそうでないかも。彼にとって気持ちのいい話題ではなかったなと反省し、すぐに話を変える。
門へ送ったところですんなりと通してくれるかが気になる。「親御さんは?」と聞いてみると、青年はその黒い髪を揺らす。かぶりを振ったのだ。
やはり不法侵入か。そもそも、どうやってここへ来たのだろう。
と、青年が膝を抱えるので「怪我でもしたか?」と不安になり、声をかける。
青年はまたしても首を振って、足首にかけた装飾品を取り出した。
「そんなのあったのか?」
「ヒモに自在に収縮する魔法をかけられています。大切なものなので、足首にもってるんです」
「へぇ……魔法ね。何その石?」
「印章です。オークランス家の」
ただの石にも見えるが、確かに印章が刻まれている。目立たない仕様なだけで、よく見ると石というより黒い光の渦巻く宝石みたいだった。
「オークランス……」
と、言うのか。聞いたことがない。
誰もオークランス家について話せないほどに高尚な存在ということ?
「おそらくこれがあれば門を通してくれるはずです」
「え、何で」
「オークランス家が入れない国はありません」
「……ふぅん。それがあれば此処から出れるんだ」
「多分」
「そっか……」
あの門から逃げ出そうとした同業は俺が此処に来てからも幾人もいた。だがその誰もが館へ連れ戻されて折檻を受けるか、病気持ちだったり妊婦なら射殺されるだけだった。
街を覆う壁の向こうには、堀になっていて橋や船がなければ渡れない。堀の水には肉食の水獣が泳いでいると客が嬉しそうに話していた。それは本来遊女たちの逃亡を妨げる用途で放ったのではなく、水獣の見目が単純に美しいから放ったらしい。
観賞用で泳がせているものだが、世話をしている感じもないのに悠々と泳ぎ続けているのは、もしかしたら壁を這い登って落ちた者が食われているからかもしれない。
ここを出るには、死ぬか餌になるか、買われるしかない。
「……あの、リネはどうするんですか?」
「え?」
ぼうっとしていたので反応が若干遅れる。遅れて質問を頭に入れるも『どうする』の意味が分からない。
「どうするって……君を門まで送り届けるよ。朝までは、此処にいな。君の街がどうかは分からないが、メルスはあんまり治安がよろしくない」
「リネはその後、どうするんですか」
「はい?」
「俺が帰った後」
「あぁ。こっそり帰るかな」
「……」
「こっそり、だよ。こんなところまで許可なく来たのは初めてだから、不審に思われて撃たれるかもしれない」
「は?」
「脱走してると思われるんだ。俺の娼館の敷地を超えてしまったから」
俺は親指で後ろを指差した。ヘラ、と笑ってみるが青年は真顔だった。
「街を出歩くこともできないんですか」
「え……それは、そうだろ」
「……」
「えーっと。ピテオって場所がどうかは知らないが、此処はそういうものなんだよ」
この青年だって、体つきは良いが綺麗な見目をしているから、下手をしたら娼夫に間違われて連れて行かれるかもしれない。
門にまで送り届けられればいいのだ。きっと門番たちがお偉いさんを呼んで、印章を認識したら、青年を故郷へ帰してくれるだろう。
考えていると、いつの間にか青年が酷く顔を曇らせている。俺は「あっ」と慌てて付け足した。
「大丈夫、怖くないから。朝までここにいよう」
「……」
「門まで行けば君は安全だ。朝になればもう少し、この街も静まるから。そうしたらこっそり、門まで送ってやる。俺は裏道に詳しいんだぜ。お客さんに連れられてる時くらいは、何度か敷地外に出たことがあるんだ! えっと、五回くらいは! この小屋もな、一週間だけ先輩の出産で手伝いに来てたこともあるし。だから、平気だよ」
「……はい」
「大丈夫。俺がなんとかしてやる……えーっと、それにしても何で君は、こんな厄介な街に来ちまったのかな」
メルスの危険性を把握しておくのはとても大事なことだが、出来る限り彼には不安になって欲しくない。
「あの壁を越えられるなんてさすがだな」
ランプを床に置き、隣に腰かける。
彼の琥珀色の瞳にランプの光が綺麗に透き通っていくのを眺めていると、こちらの心まで暖かくなる。俺はだから、心からの笑顔で語りかけた。
「狼の姿はとても立派だった。黒い狼って、かっこいいね。壁の向こうには川だか堀だかがあるんだろ? あれも乗り越えてきたのか?」
「ああ……あったような……すみません。記憶が不明瞭で」
「ふぅん。もう無理に飛び越えるなよ。その川には人を食らう獣が棲んでるんだ」
「……獣」
「うん。とても綺麗なんだってさ。いいな、俺もみてみたい」
ニッと歯を見せて笑いかける。
すると、青年はこちらを見つめ、どこか放心したような顔をした。
なんだろう。首を傾げると、青年は小さくハッとして目を逸らす。それから、静かに囁いた。
「ここの人たちは皆……リネのように、俺のような魔族にも恐れないんですか」
「え? あー、どうだろう。俺は別に、平気だけど。それより君は魔族じゃないだろ」
俯いていた青年が顔を上げる。
交わされた視線の根源にある琥珀色の瞳はとても綺麗だ。俺も同じ色の瞳を持つが、こんなに煌めいていない。
魔狼の血族、だからこそだろう。誰も勝てない輝きがそこにある。
「魔狼の血を引いた、特別な存在だ」
綺麗だな。純粋に、羨望の気持ちが心に生まれた。綺麗で、ずっと、見つめていたい気もする。そうした想いは微笑みとなって、俺の表情に溢れる。
青年が数秒黙り込んだ。しかし今度は目を逸らさない。
琥珀色の沈黙の後、口を開いたのは彼だった。
「ロイ」
「……ん?」
「ロイです。俺の名はロイ・オークランス」
「へぇ。いい名前だな」
ロイ。ロイか。呼びやすくて、カッコいい名前だ。
名前を教えてもらえるのはここではとても特別なことだった。誰も彼もが偽名を使っている。俺に至っては、本当の名すらない。
俺は嬉しくなって、子供みたいに笑いかけた。
「よろしくな、ロイ」
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