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第四章

26 十九歳

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【第四章】









 仕事を終えた兄さん姐さん達が帰ってくる前に、廊下の雑巾掛けを終わらせなければならない。桶に張った凍てついた水に何度も腕を突っ込んだせいで、肘から下は氷のように冷たくなってしまった。
 珍しく早くに仕事が終わったからと、少々呑気になっていたのだ。もうすぐで、皆が帰ってくる。
 俺と同い年である、十九歳の娼婦が奥の方で忙しなく窓拭きをしていた。向こうのほうが仕事量も多いので、廊下の雑巾掛けは早くに終わらせなければ。
「——リネ」
 雑巾を絞りすぎて、うまく手に力が入らない。必死に雑巾を絞ろうとするが、どうしても十分に力を発揮できない。
「リネっ!」
「はい、姐様!」
 あまりにも集中していて、姐さんの存在に気付くのが遅れた。
 慌てて振り返り勢いよく返事をする。廊下へ上がってきた先輩は、はぁ、とため息をついた。
「何度も呼んだのよ。喉が枯れちゃうわ」」
「ごめんなさい。雑巾に集中していて……」
「まぁ! アタシが雑巾以下だって?」
「いえ」
「冗談よ。リネ、オーラを見てない?」
 俺は雑巾を桶にかける。先輩は、窓の外をしどけない目つきで眺めた。
「いえ、見てませんけど」
「そう……」
「何かあったんですか?」
「オーラが、またルック様に虐められたようなの」
「……」
 立ち上がった俺を横目にして、先輩娼婦はフッと言葉なく笑った。彼女の表情で、俺が自然と顔を顰めたのだと遅れて自覚する。
「……あの人また来たんですか」
「そうよ。リネと同じように、私もあの人は、口が悪くて嫌だわ」
「俺は別に……」
「オーラの姿が見えないの。きっとルック様に意地悪をされたのよ。それに落ち込むオーラもオーラだけどね」
「すみません」
「やだ、どうしてリネが謝るの」
 姐さんはカラッと笑って、「もうオーラは一人前なのに」とオーラの教育係を勤めた俺を気遣ってくれる。
 けれど俺が謝ったのは、不甲斐ない弟郎のせいで先輩に心配をかけさせていることだけでない。元々、ルック様は俺のお客さまだったのだ。それをオーラが、最近は相手している。
 彼女は仕事終わりだというのに疲れを見せない華やかな笑顔を見せた。
「オーラがどこにいるか、リネなら分かるでしょ? 見てきてくれる?」
「はい」
「雑巾掛けはこの程度でいいわよ。リリー、あなたもここまででいいわ!」
 先輩は窓拭きの彼女にも声をかけた。「お疲れ様でございます」と向こうから返ってくるのを、俺はつむじの辺りで聞いている。
 雑巾を桶に放り込み、「オーラを探してきます」と頭を下げる。先輩はにっこりとして、音のしない歩き方で去っていった。
 部屋へと帰っていくその背中を見届け、俺は膝までたくしあげた作業着をおろす。桶を両手にして階段を下り、履物を引っ掛けて、まだ真っ暗な夜明け前へと踏み出した。
 だが、街自体はそこかしこに灯る明かりで満ち満ちていた。このメルス遊郭街は、太陽が沈んでから息を吹き返すのだ。
 ここで働き始めて、もう六年近くとなる。
 数え年では十九歳になったがまだ十三歳の頃、俺は此処、ファルン王国のメルス遊郭街へやってきたのだ。
 水を溝に捨て、桶と雑巾を干す。それから、オーラが彷徨いていそうな場所へと、夜風を受けながら歩いていく。
 一つ一つの娼館やお店は、塀で覆われている。それほど高い壁ではないので、隣のどんちゃん騒ぎや光なんかは、庭に幾らでも降ってきていた。
 女性の高い笑い声と、野太く上機嫌な男の声がどこからか届く。辺りにはいろんなお店があって、毎日が騒がしい。
 と、歩いていると、頭の上に、
「兄様っ! リネ兄様っ!」
 と声が落ちてきた。
「オーラ?」
「こっちです、兄様」
 見ると、隣の旅館との狭間にある、今はもう使われていない監視塔からオーラが手を振っていた。
 ブロンドの髪は、近くの料亭の煌びやかな光を受けて、細やかに光っている。ファルンの多くは、オーラのようなブロンドが多く、俺みたいなブラウンの髪は珍しいと、仕事仲間にもお客にも重宝されている。
 監視塔は、百年以上も前にこの地が軍部の要塞としても使われていた際の名残だ。石造りの階段はボロボロで、あれを登ったなど女の姐さん方が知ったら卒倒する。
 はぁ、呆れた。ため息を吐くが、俺だって男だ。こんな塔、登るのなんて造作ない。
「兄様、お手を」
「うん」
 階段を上っていき最後は、オーラの手を借りて露台へと上がる。オーラは「お怪我がなくてよかった」と無邪気な笑顔を見せた。
「オーラ、こんなところいつも登ってるのか?」
「いえ。ついこの間、登れることに気付いただけです」
「姐さん達に言うなよ。雷を落とされるぞ」
 軽く頭を小突くと、なぜかオーラは嬉しそうに「はいっ」と笑顔を見せた。
「僕と兄様だけの秘密ですね」
「またガキみたいなことを言って……お前ももう十七なんだからな」
「はい」
「それで、大丈夫か?」
 光り輝く街並みが眼下に広がっている。もうすぐ夜が終わることも知らずに、大騒ぎする夜景を眺めながら、オーラへ言った。
 しかし当のオーラはきょとんとした顔をする。「え?」と首を捻って、
「何がですか?」
「……ルック様がいらっしゃったんだろ。姐様が心配してたぜ」
「僕を?」
 俺は頷き、オーラに向き直った。
「俺の代わりに相手をしてもらってごめんな。あの人も悪い人じゃないんだけど」
「あはは、大丈夫ですよ」
 けれどオーラは、心から何でもないみたいな顔をする。
「もうルック様なんか軽くあしらえます」
「……」
「それに、兄様がこうしてここまで来てくれて、慰めてくれるから、全然平気です」
 俺は唇を閉ざした。
 オーラの笑顔が頼もしかったからだ。
「僕は大丈夫です。兄様がいてくれるなら」
 そう。もうこの子も、昔のような子供ではないのだ。
 黙り込む俺を気にせずに、オーラは神妙な顔つきで「そっか」と頷いた。それからパッと明るい笑みを見せて、首をちょこっと傾ける。
「姐様たちを心配させてしまったんですね。僕、先に降りて会いに行ってきます」
「うん」
「兄様はせっかく登ったんだから、もう少し堪能してから降りてきてください」
 「それじゃあ」軽く言って、オーラはたたっと階段を降りていってしまった。あっという間に地上へ降り立ち、庭を軽やかに駆けていく。
 やがてその姿が見えなくなった。俺はふぅ、と息を吐き、心配などする必要なかったな、と微笑みを滲ませる。
 弟郎のオーラも立派に独り立ちしている。今では「兄様もお嫁に行くんでしょうね」と俺が離れることも考えているのだ。
 お嫁……だが俺は、水揚げは理解できても、それが家族になることなのか、いまいちよく分からない。
 家族など、縁のない遠い存在だからだ。
 物心ついた時から俺は一人だった。物心ついた時の俺は、ファルン王国にはいなかった。
 正直に言えば、どの国で生まれたか分からない。このブラウンの髪からして、ファルン近辺ではないのは確かだ。
 確かな情報としては、七歳の時、エストゥナという国の娼館に売られたこと。それから十三歳で、ファルン王国に輝くこのメルス遊郭街へやってきたのだ。
 遊郭街からは、身を売るか死ぬかでしか抜けられない。外との出入りの門には、銃を持った門番が立っている。
 メルス遊郭街には国の重要人物や政界の人間も訪れる。ファルン王国に留まらず、世界からも人が入ってきている。
 ここは隠密な会話の行き交う場でもあるので、遊女や娼夫たちの外界との自由な出入りは認められていないのだ。
 それでも、エストゥナにいた頃よりはマシだった。
 それでも……俺は視線を彼方へ向ける。
 青黒い夜の中に、漆黒が潜んでいる。山脈が走っているのだ。連なる山々に囲まれた、このメルス遊郭。空気の澄んだ晴れた日には、くっきりとその姿が顕になって、荘厳な佇まいでこちらを見下ろしている。
 それでも、あの山へ行ってみたい。
 山頂からは、どんな景色が見えるのだろう。
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