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第三章

24 彼の正体

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 フィリップは苦い顔で続ける。
「海の中か? 鏡面に垂れた水が塩水に変化した。かなりここから遠い場所だ」
「……イクセル様と連絡を取ろう。ファルン王国軍が動くか否かは、彼にうかがう」
「そんな悠長なことを言っていていいのか? 君の魔法使いが一人、敵地に残っているのだろう?」
「いや、サラなら……イクセル様のもとへ戻っている」
 自分たちが圧倒的不利な状況にいると分かっていて、敵に攻撃を仕掛ける人ではない。
 サラは冷静な男だ。
 しかし、戻って、そのまま大樹城に留まっているかどうかは別である。
 ロイは再度、オーラへ問いかけた。
「オーラ、もう一度聞く。サラはイクセル様と共にいるんだな?」
「はい」
「嘘だ」
 オーラが微かに目を細めた。
 俺は彼の眼前に跪き、真正面からその桃色の瞳を見つめる。
「オーラ、今、嘘をついただろ」
 オーラが薄い唇を噛み締めるのが分かった。
 俺は眉を下げて、力無い笑みを浮かべた。
「何年共にいると思っている。君が嘘をついたことくらい分かる」
 それと、オーラとサラに何か関係があることも。
 本当は、薄々勘付いていたのだ。サラへの恐怖心が薄らいで、幾分か俯瞰的に彼らの姿を眺めた時、オーラが俺の目を盗んでサラを見つめていることがあると。
 同じメルス遊郭外出身として、現魔法使いであるサラに対する羨望があるのだと初めは思っていた。しかしそれにしてはより強い……まるで恋情のような熱のこもった視線を、オーラはサラに向けていた。
 対してサラは冷静だった。敢えてオーラの名を口にすることもあるが、その声色に特別な気配がない。
 サラは、何に関しても洗練されすぎている。
「サラは、あの若さでイクセル様に師事している大樹城の魔法使いだ」
 それに、呪いを察知してからのあの迷いない戦い。それはまさに、
「戦場を経験しているかのような御人だった。きっとサラにはただならぬ事情がある。オーラ、教えてくれ。サラは無事で、イクセル様の元に、今もいるんだな?」
「……」
 オーラは答えなかった。
 ……なぜだろう……。
 何か見誤っている気がする。俺は何か見落としている。
 イクセル様と、サラ……。サラはなぜ、俺のもとへやってきたのか。元娼夫として派遣されてきたのだ。それをなぜ、イクセル様は許可したのか。
 イクセル様は、なぜ……。
 もしや……。
 俺は辺りを視線だけで見渡す。当然だが、『彼』の姿がない。
 ……ま、さか。
 そんなわけがない。
 動揺で指先が震えてくる。しかし脳は急速に働き、異様に冴え、その『まさか』の仮説を組み立てていく。
 イクセル様に関して一つの仮説だ。
 あり得ない……こともない。
 立ち上がると眩暈がした。証明は簡単だ。
 一連のやり取りを慎重に見つめていたフィリップに声をかける。
「フィリップ、大樹城の前に繋いで欲しいところがある」
 「……オークランス様?」オーラが不安げにこちらを見上げる。
 「どこだ」フィリップは短く答えてくれた。
「俺の城だ。今すぐに」
「分かった」
 フィリップは水面に手のひらを翳した。すると波が渦巻き、魔法使いの一人が浮かび上がってくる。
 俺の城には、たった今数人の魔法使いたちが到着したはずだ。だから浮かんだ人物は、この場所から遣わされた魔法使いの一人であるはずだった。
 しかし、現れたのは、城にいる使用人だった。
『オークランス様? いかがなされました』
 魔族の末裔であり、今は城で守備を担当している中年の魔法使いが応答する。
 彼は不思議そうに『ご休暇の最中では?』と首を傾げた。
 隣のフィリップが眉間に皺を寄せた。こちらに歩いてきたオーラも怪訝な顔をしている。
 それはそうだろう。
 城にはベルマンと宮廷魔術師たちが向かったはずなのだから。
「城に変わりはないか」
『ええ。いたって平和ですよ』
「ベルマンはどこにいる?」
『閣下とご一緒では?』
 ……ああ、やはり……。
 左右にいる二人が息を呑むのが分かった。
 俺は頭を強烈に殴られたような衝撃を堪え、淡々とした口調を意識し、「そうだな。ありがとう。気を引き締めて、城を頼んだ」と告げる。
 使用人が頭を下げるのを見届ければ、水面はまた渦巻き、乳白色の透明な姿へ戻った。
「どういう、ことですか……」
 隣のオーラは目を見開き、未だ水面を凝視している。
「オーラはイクセル様の脅威を知らないんだな」
 オーラの横顔は真の驚愕を表している。彼も、知らなかったらしい。
「イクセル様は変化の魔術師でもある」
 そう。イクセル様は世界でも有数の魔法使いだ。
 幾つも極めた魔法があるが、中でも変化に関しては唯一無二だった。
 オーラは呆然と呟いた。
「でも……ベルマンは、ずっと、オークランス様のお城で……六年近くも」
「そうだな。どれが幻想で、どれがイクセル様の変化したお姿だったのか」
 オーラの声は動揺で揺らいでいる。口元を抑える細い指も震えていた。
 確かにベルマンは長く城に仕えていた。六年前……戦時中からだ。
 戦災で家族を失ったベルマンが城にやってきた当時は、まだ少年だった。モデルになった少年が実際に生きているかもしれないし、または亡くなってしまった少年の記憶を読み取り、己の変化に組み入れたのかもしれない。
 俺に助け出された幼いベルマンは、醜悪な爆撃の嵐で心が崩壊し掛けていた。あの少年が実在していたのか、もしくは俺の預かり知らぬ所ですぐに亡くなってしまい、イクセルが引き継いだのか……。
 何にせよあの当時から、ロイ・オークランスへのイクセルの潜入が始まっていたのだ。
「あの方ならできる」
 サラを連れてきたのはベルマンだ。つまりイクセル魔法使いが直々にサラを俺のもとへ寄越した。
 ……一体、何のために。
「大樹城へ向かう」
 想定を超える脅威的な出来事が起きたとしても常に冷静でいなければならない。
 フィリップも、長年ベルマンに接していて彼の正体を見破れなかった。だが、さすがはフィリップで、困惑と驚愕を押し込めている。
「直接、イクセル殿と今後の交渉と防衛について意見を伺いたい」
「了解だ」
「サラが彼の元にいるのか確認しなければならないしな」
 俺は言って、オーラを見下ろした。
 それでも何か隠したいことがあるのだろう。オーラは不安げに呟く。
「オークランス様……」
「オーラ、俺は」
 彼の桃色の瞳に潜む光と、俺の琥珀の光を繋ぐように、真正面から見つめる。
 オーラは唇を噛み締めた。
「君が何か事情があって俺の元へやってきたのだろうと分かっていた」
 ……五年前、オーラは城へやってきた。
 俺が拷問の後の眠りから目覚めて以降だ。
 同い年で、人間のオーラ。しかし俺を恐れない。やがて、時に口喧嘩もするほどの、まるで兄弟のような仲に打ち解けた。
 オーラはそして、何よりも亡き妻を慕っていた。
 妻が住んでいたという屋敷の庭に何度も足を運んでいた。同じ娼館街から来た者同士、会えることは無くても、妻に思いを馳せ、静かな追悼を捧げる。
 その姿はふと、妻と同じように消えてしまいそうなほどで……。
 妻を想うオーラの姿は儚かった。俺は、怖かった。失うことなど慣れているはずなのに、もうこれ以上、俺の城の誰も失いたくない。
 家族のような皆を失いたくない。
 守りたい、と。
 ……覚えていないはずなのに、妻を失った恐怖が心に棲みついて離れない。
 俺が想うのは城の皆だ。
 それなのに、サラに対するこの感情は何だろう。
「オーラ、鏡はサラから受け取ったんだな」
 オーラは睨み上げるように俺を見つめたまま、答えない。
 俺は、フィリップに言った。
「フィリップ。その鏡の時を戻してくれないか」
「……了解だ」 
 フィリップは例の手鏡に呪いをかける。やがてオーラの姿が写り、サラの姿も現れた。
 ――フィリップは、南境戦争時代より前からの戦友でもある。
 サラはきっと戦争に関わっている。ならば彼なら、サラに関しても何か知っているかもしれない。
「その人物の正体を知りたいんだ」
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