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第三章

22 片思いとは

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 心が怒鳴っている。この男を俺に近寄らせるな。頭の中が、彼を排除しろと叫ぶ声だけで埋まっている。
 夜に、ベルマンが彼と酒を酌み交わす姿を見て血の気が引いた。同時に、血が上る。テラスにいる二人を窓の向こうに見ただけなので、カッとなって詰め寄ることはしないで済んだ。冷静でない自分の心を、冷静に見つめることができた。
 なぜこうも、自分やオーラ、ベルマンに彼が接することが許せないのか……。
 どう考えても、『純粋な人間』だけが理由でない。
 しかし、彼を目の前にすると、その理由が解明できない。
 恐怖や怒り、困惑など負の感情で煮詰めた邪悪な黒い何かに心も頭も骨すらも、全身が侵されて、追求できないのだ。
 しかしその一方で、不思議と、あれほど重かった体が徐々に軽くなっていることにも気付いていた。
 オーラの作ってくれた食事のせいだと思っていたが、それよりも気になるのは彼の存在だ。あの人の視線、気配、全てに俺は敏感で、いつだって気にしてしまう。
 奇妙で、不思議な人だった。俺にとって異物である彼を、気になって仕方がない。
 理由をつけて追い出そうとするも、彼に自分からここを去る意思がないと知ると心のどこかで、安堵している。自分で自分が分からなかった。もしかすると俺は本当に、頭がおかしくなってしまったのだろうか。
 そうした混沌の日々が終わったのは、あの食事の場がきっかけだった。
「――オーラ!」
 彼の叫びは、強固に固められた俺の負の感情の盾を突き破って、心に刺さった。
 食事に潜んだ魔の手から、彼にとっては赤の他人であるはずのオーラを、彼は自分の命も顧みずに救ったのだ。
 彼は……サラは、命懸けで人を救った。
 その瞬間、心を覆っていた恐怖や怒りが粉々に砕け散る感覚に襲われた。
 すると次に俺を襲うのは、サラの命が危険だという恐怖だ。
「医者を呼べっ!」
 どうしてこの呪いと魔物の存在に気付かなかったのか。こんなにあからさまであるのに事前に分からなかったのは、意識が常にサラへ向いていたからだ。
 致死に至る呪いではないと判断できていたが、サラが苦しんでいることとは別だ。手ずから意識を失ったサラを抱き抱えて、すぐにその場を離れる。
 もう、彼に対する恐怖はなかった。あるのは、今までの行いに対する申し訳なさだ。
 無事に回復したサラへ謝罪の言葉を申し上げたが、サラは軽く頷くだけだった。暴言を吐き続けた俺と、世間話すらしてくれた。
 サラには驚かされるばかりだ。サラは、イクセル大魔法使い様の御弟子であり、イージェンやユコーンの存在すら知っていた。
「――君が守れなかったんじゃない。国が守れなかったんだ」
 妻を見殺しにしてしまったと情けなくも懺悔する俺に、サラは滔々と告げた。
 無闇に励ます姿勢ではなく、淡々と事実だけを口にするような……その達観した視線や命を尊ぶ心、豊富な知識が、一体どういった人生を歩んで得たものなのか、気になって仕方ない。
 サラが気になる。ずっと気になる。
 初めからそうだった。
 俺は、この男へ、意識を向け続けている。
「オークランス様はイカれてましたよ」
 サラとの関わり方が分からない。もっと多くを話したいのに、サラを前にすると流暢に話すことができない。
 そうした相談をオーラへすると、彼は今までの俺の態度を残酷な一言で総括した。
「……ああ、俺は最低だった」
「ええ。僕はもう、この人は遂に頭がおかしくなったのかと、ゾッとしてしまって……」
「たびたびオーラが仲裁してくれたな」
「仲裁ではなく、サラ様をオークランス様から離さなければと思っただけです」
 俺がサラへ暴言を放っている最中に、オーラが何度か割って入ってくれたのだ。
 その件に改めて謝罪と感謝を伝えると、オーラは「僕ではなく、サラ様に伝えてくださいね」とにっこりした。
「僕はイカれたあなたを宥めることにとても必死で、サラ様の心を慰めることはできていませんから」
「……」
「そもそも彼は、メルス街に愛された方であり、ロイ・オークランス大元帥閣下に遣わされたお方です。そして、イクセル様の御弟子様だ。僕には恐れ多くて、とても近付ける存在ではないんですよ」
「ああ」
「イクセル様のご寵愛児であるサラ様の機嫌を害する行為が、どれだけ我が国の損失になるか、よく考えて行動してくださいね」
 オーラは「つまり」と、いつものように俺を叱る目をした。
「サラ様のご機嫌をしっかり取るように」
「……お前だって、サラに命を救われたじゃないか」
「はい?」
「サラはお前を庇って怪我していた」
「あなたが呪いに反応しなかったからでしょう!」
「オーラがその辺をちんたらうろついてるからだ!」
「何をっ!」
 いつものように喧嘩をして、最後には「お前に怪我がなくてよかった」「オークランス様も」と労り合い、その場を後にする。
 向かうのはサラの元だ。サラはどこにいるのだろう。サラはいつも、テラスで海を眺めている。波の囁くあの場所に、サラはいるのだろうか。
 夕陽に照らされて海を眺めるサラの姿はまるで絵画のようで、想像だけで見惚れてしまう。
 サラはいつも……俺の心に溶け込む言葉を紡ぐ。
 彼の心は常に真摯だ。サラの言葉を聞いていたくてたまらない。
 サラの人の命を思う言葉を……。
 尊厳を、草木を、海を、心を、国を、想う言葉を聴いていたい。
 それからテラスへ向かい、夕陽を眺めて、サラと話した。穏やかに語るサラの横顔を見ていると、なぜなのか、泣きたいような気持ちになった。
 この時間が永遠続けばいい。
 本気でそう思えた。
 そうしてやがて夜が降り、サラは去っていく。俺は眠る間際までサラのことを考えてしまう。
 俺は……、俺が妻を愛していた過去を知らない。
 しかし事実として、過去の俺は妻を心底愛していたらしい。
 今でも、妻のことを考える。なぜ守れなかったのか……。まるで片思いだ。
 居なくなってしまった人のことを想うこの思いが片思いだとするならば、こうして、サラのことばかり考えてしまうのは一体何だと言うのだろう。
 一体……。
「……これはサラは好きだろうか」
 王都に召喚された日。いつもは部屋から一歩も出ないのに、市場にまで下りてきて、サラが好きな菓子はないかと探してしまうこの気持ちは何だろう。
 この数ヶ月重かった体もすっかり軽く、すると心まで弾んでしまう。サラが好きなものに関しては、まだ把握しきれていない。
 だから様々プレゼントしてみよう。そうして彼が何を好むのか、一つずつ知っていきたい。
 次にテラスで夕陽を二人で眺める時、彼は何を話してくれるだろう。
 考えるだけで笑みが口元に滲む。しかし、考えるたびに、表情を失ってしまう事もある。
 ――『再度イージェンを使うつもりなのか?』
 ――『必要があればな』
 サラは誰かに叶わぬ恋をしているようだった。あれほど精錬された心を保つ落ち着いたサラを、動揺させ蝕むほどの強い片思いだ。
 サラは、イージェンで恋を消し去るつもりなのだろうか……。
 ああ最近は常にこうして、サラのことばかり考えてしまう。市場は活気ある民で溢れかえりこんなにも賑やかであるというのに、俺の心はあの人だけへ飛んでいくのだ。
 まずはこの星の形をしたクッキーを買おう。店主に声をかけようとした。
 その時だった。
「――オークランス閣下」
 ベルマンが背後に現れる。
 俺は振り向きならがも、その一言で察した。
 ……王宮に戻らねばならん、と。
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