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第二章
17 あなたがいてくれるなら
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オーラは両手に、より力を込める。下唇を血が滲むほどに噛み締めて、瞳孔の開いた目で俺の腕を凝視している。
大粒の涙を絶え間なくこぼしながら言った。
「連れてってください。僕は、あなたが、」
掠れた声を振り絞り、俺の腕に額を押し付ける。
「あなたがいてくれるなら、それでいいんです」
——『あなたがいてくれるなら』
いつだって耳に蘇るのは、オーラの甘い声だ。
兄様がいてくれるなら僕は平気。兄様がいてくれるなら僕は笑える。兄様がいてくれるから、ここは楽しい——……
メルス遊郭街の娼館へ売られてきたオーラの兄貴分となったのは、俺が十四歳。オーラは十二歳だった。
俺は弟のようにオーラを可愛がった。少ない食事もオーラが嬉しそうに食べてくれるならそれを見ているだけで嬉しかった。辛い仕事も、二人一つの布団で眠れば次の日も頑張れる。
そうして暮らしているうちに、本物の兄弟のように……ただの兄弟ではない。もっと深くて、強固な絆を結んだ。
——『兄様がいてくれるなら、僕は平気』
客に虐められた後だって、オーラを抱きしめてやれば、彼はそう言ってにっこり微笑んだ。
あなたがいてくれるなら……幾度も聞いた言葉だ。二人だけの秘密の誓い。元気をつける時に囁く呪い。
俺とオーラだけで通じる共通言語だった。
「それで、いいんです。どれだけ、その道が恐ろしくても。危険だとしても」
オーラは俺の腕に抱きついたまま、激しく震えている。
ただでさえ状況は悪い。混乱に陥ったオーラは言葉を散り散りに吐き出した。
「リネ兄様がいてくれるなら。生きてくれること、僕は……どこかで、兄様が生きてる。それだけを信じて、ここまでやってきた。本当に兄様が帰ってきてくれて、僕は、嬉しくて嬉しくて」
リネ・オークランスは死んだことになっている。オーラは、俺が本物のリネであり生存していることを知るたった二人のうち一人だ。
あの館へやって来たその日の夜、庭にオーラを見た。
彼は真っ暗な庭の中に佇んでいる。窓から見下ろす俺に気付いたかと思えば、じっとこちらを見上げ、やがてその場を去った。
あれだけで、俺が特殊な事情によりあの館へやってきたことを悟ったのだ。
あれからのオーラは、他人の振りをして接してくれた。
それでも初めに対面した時、ロイの部屋へと入っていくオーラは、扉を閉める間際、耐えきれず微笑みをこぼした。
「本当は全部、明らかにしたかった。兄様こそが、本当の奥様なんだって、言ってやりたくて」
少しイタズラっぽい怪しい笑みを見た時、オーラが何かロイに告げてしまうのではないかと焦燥を抱いた。
だが、オーラは秘密にしてくれている。
オーラは、いつもそうだった。
怒ったり泣いたり不貞腐れても、最後の最後には頷くのだ。
「僕には兄様しかいない」
オーラが真っ直ぐ俺を睨み上げて、叫ぶように囁いた。
「僕は何もできないけど、リネ兄様の盾となり死ぬことくらいできる」
「そんなことない」
俺は即座に否定する。
「俺しかいないだなんて、そんなわけない」
彼は桃色の目を目一杯に大きくして、俺を見つめている。
「お前は愛されてるよ」
瞬きをすれば、大粒の涙がまた溢れた。
「皆に聞いたよ。オーラはロイに必死に献身して世話してくれてると」
オーラは涙を溢しつつも、俺を睨んでいる。
「掃除も洗濯も、誰よりもこなすらしいじゃないか。泣いたことなんてないんだろ? 一人前になったじゃないか」
その苦しげな顔が少しだけ緩み、それからあっという間に解けた。
「そうだろ?」
オーラは瞬きを何度か繰り返した。
「俺はわかっていた。お前ならロイと城を支え続ける。お前は俺の弟なんだから」
「あ、にさま……」
もう二人とも大人になったと言うのに、俺たちは幼き日のように身を寄せ合っている。
涙ながらに名を呼ぶオーラに、子供の頃の幻影が重なった。娼館の庭の端っこで蹲り、「おかあさんおかあさん」と自分を売った母親を呼ぶオーラ。俺は寄り添い、その顔を覗き込んで沢山慰めた。
今のオーラは、ロイ・オークランス大元帥閣下の前でも、秘密を守り切り毅然とした姿勢でいられる男だ。
こんな風に泣き喚く子ではない。なのにがむしゃらに泣いている。
だから俺も、昔みたいに慰める優しい口調になった。
「オーラは帰るんだ。ロイが嫌いか?」
オーラは下唇を噛み締めた。
俺がロイと結婚した当時、オーラはロイの悪口ばかり言っていた。
兄様がお嫁に行ってしまった。僕らから連れ去った。兄様を隠してしまった。
会うたびに文句を言って、時には拗ねて。そんなオーラが可愛くて仕方なかった。
「嫌いなわけ、ないです」
今のオーラは、深呼吸し、強く言い切る。
「兄様の愛した人です」
「うん」
「でも」
オーラはまた深く息を吸い、息と共に言葉を吐き出した。
「オークランス様のそばにいると、どうしてだろうと、悲しくなる。あの人が憎いんじゃない。あの人は悪くない。でも、なんで、ここに兄様が居ないのかって」
オーラは瞼を強く閉じる。
「兄様とあの人が幸せに暮らしてた日々が、悲しくなるほど恋しくて、たまに、息も出来ないほど苦しくなる」
今にも崩れそうな苦しげな声だった。
だが。
「……それでも」
目を開き、桃色の輝きを見せてくれる。
「オークランス様の城は、暖かい」
涙を止めて、すっかり大人びた目で俺を見上げるのだ。
「みんな、優しくて……家族、みたい」
家族を知らないオーラのその言葉には、甘い響きがあった。
大粒の涙を絶え間なくこぼしながら言った。
「連れてってください。僕は、あなたが、」
掠れた声を振り絞り、俺の腕に額を押し付ける。
「あなたがいてくれるなら、それでいいんです」
——『あなたがいてくれるなら』
いつだって耳に蘇るのは、オーラの甘い声だ。
兄様がいてくれるなら僕は平気。兄様がいてくれるなら僕は笑える。兄様がいてくれるから、ここは楽しい——……
メルス遊郭街の娼館へ売られてきたオーラの兄貴分となったのは、俺が十四歳。オーラは十二歳だった。
俺は弟のようにオーラを可愛がった。少ない食事もオーラが嬉しそうに食べてくれるならそれを見ているだけで嬉しかった。辛い仕事も、二人一つの布団で眠れば次の日も頑張れる。
そうして暮らしているうちに、本物の兄弟のように……ただの兄弟ではない。もっと深くて、強固な絆を結んだ。
——『兄様がいてくれるなら、僕は平気』
客に虐められた後だって、オーラを抱きしめてやれば、彼はそう言ってにっこり微笑んだ。
あなたがいてくれるなら……幾度も聞いた言葉だ。二人だけの秘密の誓い。元気をつける時に囁く呪い。
俺とオーラだけで通じる共通言語だった。
「それで、いいんです。どれだけ、その道が恐ろしくても。危険だとしても」
オーラは俺の腕に抱きついたまま、激しく震えている。
ただでさえ状況は悪い。混乱に陥ったオーラは言葉を散り散りに吐き出した。
「リネ兄様がいてくれるなら。生きてくれること、僕は……どこかで、兄様が生きてる。それだけを信じて、ここまでやってきた。本当に兄様が帰ってきてくれて、僕は、嬉しくて嬉しくて」
リネ・オークランスは死んだことになっている。オーラは、俺が本物のリネであり生存していることを知るたった二人のうち一人だ。
あの館へやって来たその日の夜、庭にオーラを見た。
彼は真っ暗な庭の中に佇んでいる。窓から見下ろす俺に気付いたかと思えば、じっとこちらを見上げ、やがてその場を去った。
あれだけで、俺が特殊な事情によりあの館へやってきたことを悟ったのだ。
あれからのオーラは、他人の振りをして接してくれた。
それでも初めに対面した時、ロイの部屋へと入っていくオーラは、扉を閉める間際、耐えきれず微笑みをこぼした。
「本当は全部、明らかにしたかった。兄様こそが、本当の奥様なんだって、言ってやりたくて」
少しイタズラっぽい怪しい笑みを見た時、オーラが何かロイに告げてしまうのではないかと焦燥を抱いた。
だが、オーラは秘密にしてくれている。
オーラは、いつもそうだった。
怒ったり泣いたり不貞腐れても、最後の最後には頷くのだ。
「僕には兄様しかいない」
オーラが真っ直ぐ俺を睨み上げて、叫ぶように囁いた。
「僕は何もできないけど、リネ兄様の盾となり死ぬことくらいできる」
「そんなことない」
俺は即座に否定する。
「俺しかいないだなんて、そんなわけない」
彼は桃色の目を目一杯に大きくして、俺を見つめている。
「お前は愛されてるよ」
瞬きをすれば、大粒の涙がまた溢れた。
「皆に聞いたよ。オーラはロイに必死に献身して世話してくれてると」
オーラは涙を溢しつつも、俺を睨んでいる。
「掃除も洗濯も、誰よりもこなすらしいじゃないか。泣いたことなんてないんだろ? 一人前になったじゃないか」
その苦しげな顔が少しだけ緩み、それからあっという間に解けた。
「そうだろ?」
オーラは瞬きを何度か繰り返した。
「俺はわかっていた。お前ならロイと城を支え続ける。お前は俺の弟なんだから」
「あ、にさま……」
もう二人とも大人になったと言うのに、俺たちは幼き日のように身を寄せ合っている。
涙ながらに名を呼ぶオーラに、子供の頃の幻影が重なった。娼館の庭の端っこで蹲り、「おかあさんおかあさん」と自分を売った母親を呼ぶオーラ。俺は寄り添い、その顔を覗き込んで沢山慰めた。
今のオーラは、ロイ・オークランス大元帥閣下の前でも、秘密を守り切り毅然とした姿勢でいられる男だ。
こんな風に泣き喚く子ではない。なのにがむしゃらに泣いている。
だから俺も、昔みたいに慰める優しい口調になった。
「オーラは帰るんだ。ロイが嫌いか?」
オーラは下唇を噛み締めた。
俺がロイと結婚した当時、オーラはロイの悪口ばかり言っていた。
兄様がお嫁に行ってしまった。僕らから連れ去った。兄様を隠してしまった。
会うたびに文句を言って、時には拗ねて。そんなオーラが可愛くて仕方なかった。
「嫌いなわけ、ないです」
今のオーラは、深呼吸し、強く言い切る。
「兄様の愛した人です」
「うん」
「でも」
オーラはまた深く息を吸い、息と共に言葉を吐き出した。
「オークランス様のそばにいると、どうしてだろうと、悲しくなる。あの人が憎いんじゃない。あの人は悪くない。でも、なんで、ここに兄様が居ないのかって」
オーラは瞼を強く閉じる。
「兄様とあの人が幸せに暮らしてた日々が、悲しくなるほど恋しくて、たまに、息も出来ないほど苦しくなる」
今にも崩れそうな苦しげな声だった。
だが。
「……それでも」
目を開き、桃色の輝きを見せてくれる。
「オークランス様の城は、暖かい」
涙を止めて、すっかり大人びた目で俺を見上げるのだ。
「みんな、優しくて……家族、みたい」
家族を知らないオーラのその言葉には、甘い響きがあった。
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