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第二章

14 あの日の後悔

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 ロイはイージェンへの単純な興味で追求した。
「昔ということは、貴方の心には、また恋が戻ってしまったのか?」
 俺は答えずに、微笑むだけして返す。
 ロイは俺の反応に肯定を見出したらしく、更に重ねる。
「再度イージェンを使うつもりなのか?」
「……必要があればな」
「そう……」
 ロイは軽く目を伏せたが、悠然と頷いてみせた。
「俺が口を出すことではないな。大樹の魔法使いなら、きっと何事もなくイージェンを使えるのだろう」
 俺は何も言わずにロイを見つめている。
「まだ謎の多い魔法だから、ユコーンは一滴しか使えないはずだ。二滴でも身体に影響を及ぼす可能性がある」
 ロイは、「俺が大樹の魔法使いに忠告するなど烏滸がましいが」と苦々しく笑みを溢す。
「気をつけて使ってくれ。あなたが消したいのなら俺はそれでいいと思う」
 今の俺にはまだ、すぐに言葉を返すことはできない。
 この恋も愛も、最初から最後までロイだけのものだ。
 それをロイ本人から消しても良いと言われるのは、彼が何も知らなくても……知らないからこそ、切なくて堪らなかった。
 また、胸が切ない痛みで充溢していく。痛みは重みを伴っていた。心が重くなって、俯きたくなるのを耐える。
 だが俺は感情を表情に出さない訓練は幾らでもしてきた。
 重い波から逃れるように軽やかな口調で言う。
「ありがとう」
「まさか、イージェンを使ったものがいるとは……ユコーンの花々を見たことがあるか?」
「ユコーンの花畑は師匠しか在処を知らないんだ」
 ロイは納得したように頷いた。
 俺は何でもないことみたいに、笑いかけてみせる。
「だから、まぁ、俺だって消したんだ。記憶と感情では少し違うけれど……」
 いや、全く違う。
 俺はロイとの記憶を全て憶えている。
 小さく息を吐き、付け足した。
「お互い消してしまったという点に関しては、同罪だな」
「あなたは罪と認めてくれるのか」
 するとロイは抑揚のない声で言った。
 じっと彼を見つめると、やがて、唐突にロイはその件に触れた。
「俺の妻は……、魔山軍大将の妻だから死んだんだ」
 ロイの瞳は夕陽色に染まっている。
 だが今この瞬間、まるで陽が沈んだかのようにみるみると暗く濁っていく。
「俺ではなく、妻が狙われた」
 ロイはたった今し方まで硬く引き締めていた表情を、かすかに歪めた。
「俺は妻を守れなかった。妻が殺された時、俺は、情けなくも敵に囚われて拷問を受けていたんだ」
 こうしてロイが、他人であるはずの俺に語るのは、彼がベルマンを信用しているからだろう。
 ベルマンを信じているからこそ、彼が連れてきた俺に打ち明けられる。人は往々にして、身内ではない他人だからこそ胸の内を明かせることが多い。
 その点、元娼夫は適任だ。俺たちは口が硬い。
「その記憶すら曖昧だ。一ヶ月の眠りから醒めると、もう妻は死んでいた。そのショックで俺は、彼に関する記憶を失ってしまった」
 ロイにとってはどれも伝聞なのだろう。全ての記憶は、聞かされたことのみで形成されている。
 ロイは記憶を無くしてしまったのだ。
 ……俺はロイとの記憶を全て憶えている。
 ロイは知らないのだ。ベルマンもロイも、『奥様』が亡くなったショックで記憶を失くしたと思っている。
 だが実のところ、因果は逆だった。
 ……五年前、ロイが俺に関する記憶を無くしたことで、俺は自らを死んだ者としたのだ。
 あの日、俺は自分の命を狙う者から逃げることに必死だった。命から柄逃げ出したところを師匠が匿ってくれて、難を逃れた。
 そしてロイはその夜、拷問を受けていた。そうしてロイは俺に関する全ての記憶を失った。
 俺に残された選択はただ一つ。ロイが俺を忘れるという事実を受け止めるということ。
 ロイが俺に関してを忘れてから、俺は自らを死んだことにしたのだ。
 ある意味、神が齎した幸運なのだろう。ロイは拷問の記憶すら殆どない。ロイには悲劇の全てを思い出してほしくない。ロイが俺を忘れてしまったのなら、それでいい。俺は俺の存在を消すことなど造作ない。何度だって名前を捨ててきたのだ。名前を捨てるということは、自分を都度殺していくことでもある。
 ロイのためなら死んでしまっても良かった。
 俺が死んでから、五年が経っている。
 ここに来る前、充分に時が過ぎたとは言え、また俺と出逢うことでロイに影響があるのではないかと危惧した。
 俺を思い出すことで、凄惨な記憶が蘇るのではないか、と。いくら師匠が俺の派遣を許可したとはいえ何が起きるか分からない。師匠はロイの記憶が蘇ることは絶対にあり得ないと言っていたが……。
 それでも、何か、起きるのではないかと……。
 俺はその時、どうするべきなのか、真剣に考えた。
 しかしその全ては杞憂で、ロイが思い出す気配は露ほどもない。
 今の俺にできることは、ロイと他人のふりをして話すことだけだった。
 ……本当は、危惧と言って警戒していたけれど、どこかで期待していたのかもしれない。
 ロイが俺を完全に忘れてしまったこの事実に対して、心の全てで安堵することはできないのだ。
 心とはいつだって複雑な……相反する感情も含めた様々で混ぜこぜになり揺らいでいる。言いようのない感情の波で満ち満ちる日もあれば、空っぽになったような感覚に陥り、一人乾いた海の跡に立っている。
 でも、ロイは知らなくていい。
 俺の感情など。
 何も知らないロイは悔いた。
「俺は妻を守れなかった。そして卑怯にも忘れてしまったんだ」
「違う」
 俺は躊躇いなく断言した。
「君は悪くない」
 俺の言葉に、俯きがちだったロイが視線を上げる。
 俺は淡々と言った。
「君が守れなかったんじゃない。国が守れなかったんだ」
 ロイの濁った瞳が揺らいだ。
 あの琥珀色が戻ってくる。
「すべての国民がそうだった。子供から爺さん婆さんまで皆、」
 一瞬だけ言葉を失って、唾を飲み込む。すぐに言った。
「誰もが命の危機に陥っていて、閣下はその地獄から国を救い出そうとしただけ。確かにその御手から溢れた命もある。けれど閣下は確かに手を差し出したんだ」
 感情の起伏をあらわさないよう努めた。
 本当は心の中は荒れ、白波を立てていたけれど。
 強く、事実を告げる。
「ロイ・オークランス将軍は、悪くない」
 言い切ってから、俺は視線を先に外した。唇を引き結び、壁にかかった時計を見上げる。
 黙り込んでいたロイも、俺の目線の先を察した。それでも暫くその場で、まるで呆然とするように座り込んでいたが、
「……医者を呼んでくる」
 席を立って、和らいだ目で見下ろしてきた。
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