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第二章
12 謝罪
しおりを挟む悪夢すらも降りてこない深い眠りだった。
瞼を開き、数秒間、自分が今、どこで何をしているのか把握できずに天蓋を見上げている。
理解するのには時間を要した。そうだった。俺はロイの館にいて、いや先に召喚命令を出されて……。
焔に喰われた腕は包帯が巻かれている。概要は思い出した。俺は呪いと戦闘したのだ。
とりあえず、医術師の指示を仰がなければ。枕元のテーブルに置かれたベルに触れる。
——だが現れたのは、
「……オークランス元帥閣下」
医者ではなかった。
一回り以上も体の大きなロイに見下ろされると、己が小人になったような錯覚に陥る。
ロイは仁王立ちし、俺を見つめていた。
俺は、直ぐに告げる。
「閣下、ご安心ください。オーラ様は無実です。あれは腕のいい魔術師でないとかけられない呪いです」
「……開口一番がそれか」
ロイを安心させるために報告したのに、彼は眉間に深い皺を刻む。
他にどんな回答を寄越せと言うのか。内心で密かに困惑しつつロイを見上げていると、やがて彼は吐息をちいさく溢し、何事か直ぐそばの椅子に腰掛けた。
「……」
ここに、留まる気?
ロイは眉根を和らげて、それでも尚、無表情の顰めっ面で問いかけてくる。
「怪我はどうだ」
「その確認のために、ベルを鳴らしたのですが」
かなりの間眠っていたらしく、うまく声が出てこない。「医術師の方はどちらに」と言葉もところどころ掠れる。
「後ほどやってくるだろう。痛みはあるのか」
「いえ……腕の良いお医者さんがいるんですね。軍医でしょうか?」
包帯の巻き方が独特だ。戦場特有の簡素なやり方だった。
「そうだ。他に質問があるなら言ってくれ」
「閣下も訊ねたいことがあるから、此処へ来たのでしょう? 俺は特にないので、お先にどうぞ」
沈黙は肯定である。ロイは数秒後、首肯し、
「なぜあれが呪いだと分かった」
と重苦しい声で訊いた。
俺が暫くの間黙り込んだのは、答えに迷ったのではなく、まだ思考が明瞭としていなかったからだ。
ただでさえ寝起きであるのに、医術師を呼んだはずがロイがやってきたのだ。パニックに陥っていないだけまだマシである。
ここ一ヶ月以上ロイの館で暮らしている身であることは思い出していたけれど、この現実の方がよっぽど夢のようだった。夢のように煩雑な情報で、処理するのに時間がかかるし、場合によっては処理しきれずに終わる。
いや、これは現実なのだった。俺が理解しようがしまいが、時間は進む。
「遊郭では様々な呪いや魔法を仕掛けられました。護身に関しては得意なので」
「守れていないじゃないか」
ご尤も。
俺は唇の端を一瞬だけ吊り上げて、直ぐに戻した。
「お二人はご無事なので」
「……仕掛けられたのは、客にか?」
「それだけではありません」
「遊郭は抜けたのだろう」
「とっくの昔に」
あなたによって。
皮肉めいた内心が表情に出ないよう、意識する。俺はおまけに笑みも添えてみた。
「年ですしね」
「……まだ若いように見えるが」
「あなたの二つ上ですよ」
「そうだったのか」
これは、一体何の時間なんだ……。
次々と繰り出される質問へ淡々と答えを流しながらも、ひっそりと動揺している。せめて声が震えないように気をつけた。まだ、頭が働いていないのに、なんでこんな状況に。いや、これが思考回路の廻る日中だとて追いつけない。
ロイと二人きりで会話など。
「なら敬語はやめてくれ」
ロイは変わらない仏頂面で言った。声の調子は低いままで落ち着いている。
冗談なのか本気なのか分からない。しかしロイは昔から身分や階級より年功序列に重きを置くタイプだ。
それが彼ら一族のしきたりなのだろうと、昔の俺は触れずにいた。
ロイは現在二十九歳で、俺は三十一になる。出会った時も結婚した後も、互いに気軽な口調で接していた……。
暫くの間、黙考したが、だんだん疲れてくる。投げやりな気持ちになって、「では」と単調に答えた。
「遠慮なく」
「サラと言ったな。そう呼んでいいのか」
「どうぞ」
事務的に返しながらも、ロイの様子を慎重に窺っていた。
心なしロイの雰囲気が和らいでいるように見える。
なぜだ。俺が、オーラを守りきったから? 動揺で揺れる頭の中が、疑問符で埋まって雁字搦めになっていく。頭を抱えたいのを死ぬ気で堪えて、涼しい笑顔を浮かべてみせた。
「俺の許可なんか、必要ないだろ」
「そうか。サラとは娼夫としての名か?」
「いや、あの頃は別の名を名乗っていた」
それこそ『リネ』なのだけれど口が裂けても教えられない。
今は魔術師として『エディ』を使い暮らしているが、過去の記憶には様々な名前が横たわっている。
ロイやごく親しいものが呼んでくれた『サラ』。そして娼夫として生きていた『リネ』。それ以前も別の名前を名乗っていて、本名というのはない。
生まれた時に名前など付けられていないからだ。今は魔法で翠色の瞳に変化しているが、本当の瞳は琥珀色なので、子供の頃は『アカ』と呼ばれていた。
「サラ」
かつての名を呼んだロイは、はっきりと言い切った。
「俺はお前の慰みを受けることはない」
「……そうなんだろうな」
俺は軽く首を上下に振る。
分かりきっていたことだ。そもそも俺が嫌われていようとなかろうと、ロイは他人に体を許す者ではない。
そうは言っても。
「前金は貰ってるんだ。魔法使いとして暫く働かせてもらう」
「ああ。それは分かってる」
「あの呪いに関しても調べなければならないから、屋敷の中を彷徨くと思う」
「承知した」
「ありがとう」
「……」
「……」
これは何の時間なのだろう……。
ロイが確認したかったのは俺の怪我についてで、相談しておきたかったのは俺の仕事に関してのはず。
要件は終わったのだから去ればいいのに、なぜかロイは腰を上げようとしない。
おまけに表情もしかめ面のままだ。これでは全く、感情が読み取れない。
なんだ。何なんだ……。額に汗が滲むのが分かる。ロイとの沈黙がこんなに苦痛だなんて、昔の自分は想像もつかなかった。
五年前までのロイは表情豊かで、黙っていても何を考えているのか分かる程だった。今の殺風景な顔は何がどうしてこうなったのか。
いや、違うか。俺以外の前だと常にこんなもので、戦場なんかではそれはそれは恐ろしく美しい般若のような強面で……。
遠い過去に現実逃避してしまうほどには、俺も参っている。
ここはもう年上の役目だ。耐えきれずに、俺の方から「諸々、お気遣いありがとう。話が終わったなら……」と切り出す。
が、被せるようにロイは言った。
「すまなかった」
思わず、俺は目を見開く。
次の言葉が出てこない。
うすく唇を開いて、声もなく啞然とする俺を、ロイは真っ直ぐに見つめる。
琥珀色の瞳の中に、驚いた俺が居た。
ロイは、一度息を吐き、わずかに躊躇いつつも語った。
「何を世迷言をと思われるだろうが、はじめにサラを見た時、俺は、貴方をなぜか恐ろしく感じた」
「……恐ろしく?」
「ああ」
ロイ自身もいまだに理解できないと言ったような、難しい表情をしている。
俺は静かに問うた。
「今はどうなんだ?」
「分からない」
彼は正直に白状した。
続けて、言葉を選びながらも重ねる。
「わからない。これが人間に対する恐れなのか、貴方だけに対する感情なのか分からない。だが、初めてサラを目にした時……いや、顔すら見ていないその姿を眼下にした時から、恐怖に似た何かを感じたんだ。断定できないのは、恐怖そのものではないからで、そして今も、……貴方が奇妙な存在に感じる」
ロイは努めて冷静に語るが、わずかに動揺が混じっているのが分かった。
俺は、ロイが次に口を開くより前に言った。
「なるほどな」
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