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第二章
8 嘘つき
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思い出すのは、出会ったばかりのロイである。
――初めて彼に出会った夜、あの人は人間の姿をしていなかった。
魔狼の姿に戻っているところを、まだただの娼夫だった俺が見つけたのだ。
月明かりに照らされて、黒い毛並みが銀に輝く。琥珀色の瞳に、ただ魅せられる。
あの頃のロイもまた、今みたいに俺を警戒していた。俺を敵と判断し、怯えるように睨みつける。
いや……今のロイは警戒だけでなく明らかに嫌悪を示している。
振り出しどころか、マイナスの位置に戻ってしまったようだ。失ったものは取り戻せないから、もう、ロイからの愛を受けることはないのだろう。
だとしても……俺は、もう一度出会えたことが何よりも嬉しい。
もう二度とロイとは会えないと思っていたから。どうしてこの状況になっているのか、ちっとも理解できないが、ロイと出会えた。
ロイの言葉を受けて、名前を呼ばれること……本望だった。
願いはすでに遂げられたのだ。
瞼を閉じて、心にロイを浮かべる。ふとベルマンとの会話を思い出した。
イージェン、それは感情を消す魔法だ。
でもロイは、感情どころか記憶を無くしてしまった。
……ロイとも過去に、『イージェン』の話をしたことがある。まだ愛し合っていた頃のロイは、『イージェンを使いたい』と弱音を吐く俺に言ったのだ。
――『もしも俺がサラへの愛を無くしたとしても、きっとまた、好きになる』
柔らかく微笑んでくれたロイの眼差しの残光が、まだこの胸に生きている。
あの時、もう一度好きになると告げてくれた。
なのに。
「……嘘つき」
思わず笑ってしまう。貴方はすっかり俺を忘れて、いつかのように俺を退けようとするのだ。
でも、いいよ。
忘れてしまってもいい。それでいい。それがいい。
もう瞼を上げる力が残っていない。俺はロイを想ったまま、夢の世界へ落ちていく――……
「ベルマンを誑かすな」
翌朝、昨日と同じく朝食の支度のためロイの部屋へ向かうと、彼は案外早く扉を開き、開口一番にそう言った。
何のことか分からず、体が硬直する。
ロイの視線は背筋が震えるほど冷ややかだった。
「俺の屋敷でベルマンを誘うんじゃない」
「え……」
「昨夜、二人で酒を飲んでいただろう。ベルマンは酒に弱いんだ。彼は自ら酒を呑む男ではない。お前から誘ったんだな」
あのテラスでのひと時を見られていたらしい。
昨夜は俺も酒を飲んでいたから、気配に気付かなかった。まさか見られていたとは。
確かに先に酒を楽しんでいたのは俺だが、加わったのはベルマンの方だ。返す言葉に戸惑うと、その沈黙と動揺を肯定と捉えたらしいロイが、声に怒りを込めた。
「節操がないのは歓楽街だけにしてくれ」
「……っ」
「ここは娼館じゃないんだ」
「そんな、彼とは何も」
「当たり前だろう。まさか関係を持っていたなら笑い話にもならん」
ロイはハッと息を吐き捨てるように嘲笑する。
「確かにお前は美しい容姿ではあるが、そこら中で男を誘う頭なら手の施しようがないな」
笑っているけれど、笑っていない。目の奥は戦慄するほど冷たかった。
規律を重んじる彼は、心の底から俺を嫌悪している。その怒りと侮蔑の圧で、呪いをかけられたように息が苦しくなった。
「男を誘うためにやってきたのか? 使用人が足りていないと彼が言っていたから、お前を許可しているだけだ。すぐにでも代わりの使用人を探してもらう。ここを出ていく準備をしておけ」
「……しかし」
「金か?」
ロイは俺の言葉を遮った。
真っ直ぐに見上げると、ロイも眼光を強めた。
黒い長髪は後ろで括られている。ロイが首を傾げると、束になった髪がゆらりと揺れた。
「くれてやるよ。金ならやるから、出て行け。それまでは、頼むから節度を弁えてジッとしていてくれ」
「……」
「まさか屋敷にやってきて早々、若い男を誑かすとはな」
「……」
「今日明日で新しい使用人を探す。お前は荷物を纏めておけ」
荷物なんか持っていない。纏まる前に連れて来られたのだ。
容赦ない攻撃的な言葉を浴びて頭がぼうっとする。呼吸が荒れるのを必死に隠す。
思考に靄がかかったみたいに頭が働かない。心をナイフで抉られたようだった。
吐息は流血みたいに、熱かった。
「オークランス様」
そこで、背後から声がした。
先にロイが目を向ける。彼の表情が一変し、「オーラ」と声はつい今し方までの重苦しさが取り払われている。
俺はゆっくりと振り返った。
そこには、オーラがいた。
「それはあまりにも可哀想でしょう」
オーラは、俺に目を向けることなく隣を通過すると、ぴたりとロイに寄り添った。
彼はロイの胸に手を当てた。グッと押し込めるようにして、部屋へと促す。ロイはさすがオーラに弱いらしく、抵抗もなしにされるが儘だ。
オーラは長いまつ毛の煌めく横目だけで振り返り、囁いた。
「彼も仕事でやって来ているのですから」
オーラは俺と目を合わせようとしなかった。
素直に部屋に戻されたロイは「……そうだが」と彼へすっかり侮蔑の色が消えた目を向けた。
オーラはこちらに向き直ると、尚も視線を合わせずに軽く頭を下げた。
「朝食の支度は僕がします。夕食の際にはまた、配膳をお願いいたします」
オーラは冷めた口調で要件だけの短い言葉を寄越す。朝食のカートをロイの部屋へと運ぶ。
「では」
それを最後に、すぐにロイの部屋の扉が閉まった。
……扉を閉めたのは、オーラだ。
彼は一瞬だけこちらに視線を向けた。
その目がかすかに笑っていたのを、俺は見逃していない。
「……はぁ」
一人きりになった廊下で思わず息を漏らす。ため息を吐くなんて情けないが、こればかりは仕方ないだろう。
怪しく笑うオーラの真意にロイは気付いていないのだ。
――初めて彼に出会った夜、あの人は人間の姿をしていなかった。
魔狼の姿に戻っているところを、まだただの娼夫だった俺が見つけたのだ。
月明かりに照らされて、黒い毛並みが銀に輝く。琥珀色の瞳に、ただ魅せられる。
あの頃のロイもまた、今みたいに俺を警戒していた。俺を敵と判断し、怯えるように睨みつける。
いや……今のロイは警戒だけでなく明らかに嫌悪を示している。
振り出しどころか、マイナスの位置に戻ってしまったようだ。失ったものは取り戻せないから、もう、ロイからの愛を受けることはないのだろう。
だとしても……俺は、もう一度出会えたことが何よりも嬉しい。
もう二度とロイとは会えないと思っていたから。どうしてこの状況になっているのか、ちっとも理解できないが、ロイと出会えた。
ロイの言葉を受けて、名前を呼ばれること……本望だった。
願いはすでに遂げられたのだ。
瞼を閉じて、心にロイを浮かべる。ふとベルマンとの会話を思い出した。
イージェン、それは感情を消す魔法だ。
でもロイは、感情どころか記憶を無くしてしまった。
……ロイとも過去に、『イージェン』の話をしたことがある。まだ愛し合っていた頃のロイは、『イージェンを使いたい』と弱音を吐く俺に言ったのだ。
――『もしも俺がサラへの愛を無くしたとしても、きっとまた、好きになる』
柔らかく微笑んでくれたロイの眼差しの残光が、まだこの胸に生きている。
あの時、もう一度好きになると告げてくれた。
なのに。
「……嘘つき」
思わず笑ってしまう。貴方はすっかり俺を忘れて、いつかのように俺を退けようとするのだ。
でも、いいよ。
忘れてしまってもいい。それでいい。それがいい。
もう瞼を上げる力が残っていない。俺はロイを想ったまま、夢の世界へ落ちていく――……
「ベルマンを誑かすな」
翌朝、昨日と同じく朝食の支度のためロイの部屋へ向かうと、彼は案外早く扉を開き、開口一番にそう言った。
何のことか分からず、体が硬直する。
ロイの視線は背筋が震えるほど冷ややかだった。
「俺の屋敷でベルマンを誘うんじゃない」
「え……」
「昨夜、二人で酒を飲んでいただろう。ベルマンは酒に弱いんだ。彼は自ら酒を呑む男ではない。お前から誘ったんだな」
あのテラスでのひと時を見られていたらしい。
昨夜は俺も酒を飲んでいたから、気配に気付かなかった。まさか見られていたとは。
確かに先に酒を楽しんでいたのは俺だが、加わったのはベルマンの方だ。返す言葉に戸惑うと、その沈黙と動揺を肯定と捉えたらしいロイが、声に怒りを込めた。
「節操がないのは歓楽街だけにしてくれ」
「……っ」
「ここは娼館じゃないんだ」
「そんな、彼とは何も」
「当たり前だろう。まさか関係を持っていたなら笑い話にもならん」
ロイはハッと息を吐き捨てるように嘲笑する。
「確かにお前は美しい容姿ではあるが、そこら中で男を誘う頭なら手の施しようがないな」
笑っているけれど、笑っていない。目の奥は戦慄するほど冷たかった。
規律を重んじる彼は、心の底から俺を嫌悪している。その怒りと侮蔑の圧で、呪いをかけられたように息が苦しくなった。
「男を誘うためにやってきたのか? 使用人が足りていないと彼が言っていたから、お前を許可しているだけだ。すぐにでも代わりの使用人を探してもらう。ここを出ていく準備をしておけ」
「……しかし」
「金か?」
ロイは俺の言葉を遮った。
真っ直ぐに見上げると、ロイも眼光を強めた。
黒い長髪は後ろで括られている。ロイが首を傾げると、束になった髪がゆらりと揺れた。
「くれてやるよ。金ならやるから、出て行け。それまでは、頼むから節度を弁えてジッとしていてくれ」
「……」
「まさか屋敷にやってきて早々、若い男を誑かすとはな」
「……」
「今日明日で新しい使用人を探す。お前は荷物を纏めておけ」
荷物なんか持っていない。纏まる前に連れて来られたのだ。
容赦ない攻撃的な言葉を浴びて頭がぼうっとする。呼吸が荒れるのを必死に隠す。
思考に靄がかかったみたいに頭が働かない。心をナイフで抉られたようだった。
吐息は流血みたいに、熱かった。
「オークランス様」
そこで、背後から声がした。
先にロイが目を向ける。彼の表情が一変し、「オーラ」と声はつい今し方までの重苦しさが取り払われている。
俺はゆっくりと振り返った。
そこには、オーラがいた。
「それはあまりにも可哀想でしょう」
オーラは、俺に目を向けることなく隣を通過すると、ぴたりとロイに寄り添った。
彼はロイの胸に手を当てた。グッと押し込めるようにして、部屋へと促す。ロイはさすがオーラに弱いらしく、抵抗もなしにされるが儘だ。
オーラは長いまつ毛の煌めく横目だけで振り返り、囁いた。
「彼も仕事でやって来ているのですから」
オーラは俺と目を合わせようとしなかった。
素直に部屋に戻されたロイは「……そうだが」と彼へすっかり侮蔑の色が消えた目を向けた。
オーラはこちらに向き直ると、尚も視線を合わせずに軽く頭を下げた。
「朝食の支度は僕がします。夕食の際にはまた、配膳をお願いいたします」
オーラは冷めた口調で要件だけの短い言葉を寄越す。朝食のカートをロイの部屋へと運ぶ。
「では」
それを最後に、すぐにロイの部屋の扉が閉まった。
……扉を閉めたのは、オーラだ。
彼は一瞬だけこちらに視線を向けた。
その目がかすかに笑っていたのを、俺は見逃していない。
「……はぁ」
一人きりになった廊下で思わず息を漏らす。ため息を吐くなんて情けないが、こればかりは仕方ないだろう。
怪しく笑うオーラの真意にロイは気付いていないのだ。
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