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最終章

51 一点

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 そうだ。
 もう過ぎ去ったと思っていたこの関係だって終わってなかった。
 父は帰ってきてそこにいる。昔みたいに、幸平を扱う。そして幸平には、懐かしくも新しい痛みが体に刻まれている。
 まだ、終わっていなかった。
 ……けれど。
 これを絶望と取るか、延長と取るかは己次第だ。
 ――『勝つのは俺たち』
 まるで本当に、繋がっているみたいだった。陽太の声が頭に響く。もしかしたら、自分は馬鹿みたいなことをしようとしているのかもしれない。
 それでも幸平は確信していた。試合の形勢を変えるなら、今だと。
 あの言葉をくれたのは幼い陽太なのに、声が今の陽太に変わっていく。幸平はその声に押されて、畳を足で蹴った。
 驚いた父のまん丸の目が視界に入った。まさか幸平が動き出すとは思わなかったとでも言うような、見たことのない表情をしている。幸平は歯を食いしばって、父が手にもつ札束を叩き落とした。
 勢いが強すぎたのか、そのうちの大半が窓から落ちていったのが分かった。父が声もなく口を大きく開いた。たった一瞬なのにもう怒りがその顔を支配している。幸平は怯まなかった。男に掴み掛かり、肩を押さえつける。
 初めての抵抗だ。予習もしていない、一発勝負。そのせいであっという間に形勢が逆転した。
 父は腰に力を入れて、幸平を押し倒してくる。暴力に慣れた男は迷いなく幸平の腹に拳を入れた。口を押さえつけられて声も出ない。過去と同じ状況だ。しかし幸平はもう、座り込んだままではいない。
 まだ試合は終わっていない。
 勝つんだ――……
 ――するとドスン、と音がした。
 窓の近くに、白い袋が落ちている。
 幸平は痛みも忘れて、それを凝視した。父もソレに目を向け、眉間に皺を寄せている。
 幸平はその正体を一瞬で理解していた。
 白い袋は、秘密兵器だ。
 そんな……どうしてここに。幻? 父もそれを見たかと思ったけれど、今はもう幸平を憤怒に満ちた形相で睨みつけている。
 サッカーボールを中に入れた給食着袋の秘密兵器は、古びているけれど綺麗だった。あり得ない。十年以上前に作ったのだからもっと廃れているはず。
 幻かも、しれない。
 ……それでもいい。
 ――『まずは一点入れよう』
 腕を伸ばして紐を掴む。陽太は教えてくれた。リードしている方が危ないんだと。
 得点はゼロイチだ。今、幸平は負けている。
 ずっと負け続けていた。もう覚えていないほどの遠い昔に一点決められてしまってから、あまりの恐怖で再生することもできずに、座り込んでいた。
 父は、戦う意思のない自分を嘲笑った。そうして反撃されるなんて思わずに、そこで金を数えていたのだ。
 でも……、今の俺には秘密兵器がある。
 幸平は、ありったけの力を振り絞って秘密兵器を投げつけた。
 それは父の顔に直撃し、男は唾液を撒き散らしながらそのまま横に倒れた。まさかボールが入っていると思わなかったのだろう。驚愕に目を見開いている。
 一点が決まった、そう思えた。でも、まだだ。
 倒れた父に掴みかかり体を押さえ付ける。一点取ったのだ。同点。秘密兵器を振り上げて、男の顔に叩きつける。確実に打撃を受けて、朦朧とした父。だが、一瞬で目玉をぐりんと回し、幸平を睨みつけてくる。
 叩きつけた勢いで、秘密兵器が扉近くまで飛んでしまった。幸平は次に自分の手のひらで男を殴ろうとしたが、咄嗟に腕を掴まれる。
 怒号と共に、また父が幸平を床に叩きつけてくる。恐怖を蹴破るように、幸平は父の腹を蹴り上げた。贅肉でつま先が滑る。父がウッと怯んだ。まだのし掛かってくる体を振り解けない。だが、父の力が弱まっている。
 同点だ。あと一点。
 大丈夫。勝てる。
 あと一点。
 幸平は叫んだ。
「あと一点っ!」
 ——それは突然だった。
 いきなり、幸平を圧する力が消え去ったのだ。
 続いて目の前を白い何かが過ぎる。
 遅れて、「ゴッ」と音が届く。それが声なのか、ただ物が叩きつけられた音なのか、判別できない。
 男は目の前から消えていた。幸平は仰向けになったまま、視線を横へ向けた。
 窓の下で男がうつ伏せに倒れていて、傍にはあの秘密兵器が転がっている。
 続いて『彼』が通過した。
 まだ動きのある父に蹴りを入れ、肩を足で押さえ付ける。完全に動きを封じ込めると、部屋にまた人が入ってきた。
 関……謙人くんだ。彼はうつ伏せの父に体ごとのし掛かった。
 幸平は上半身を起こしながら、ゆっくりと、顔を上げる。
 一番初めにやってきた『彼』と視線が合う。
 そこには――陽太が立っていた。
 陽太、くん……。心の中で呟いた。途端に、身体に与えられた痛みとは別の何かが胸を苦しいほどに締め付けた。
 幸平は荒い息で、陽太を見上げている。陽太もまた、幸平ただ一人を見下ろしていた。
 そして彼がその場に膝をつく。幸平と同じ視線に、陽太がいる。
「陽太くん」
 どうしてなのか、幸平は陽太へ笑いかけていた。
 陽太が答えるように唇を噛み締める。
 幸平は彼を見つめ、泣き笑いみたいな表情で囁いた。
「勝ったね」
「うん」
 陽太もまた、堪えるように微笑んだ。
 とても優しい微笑みを浮かべて、「逆転勝ちだ」と告げてくれる。
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