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魔王山
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私が魔王領に来てから、もう、1ヶ月以上が経過していた。
あれから、毎日のようにネモの訓練は続いた。
今のところ、私は、ネモに見限られることはなく、なんとか訓練を続けていた。
だが、決して楽な日々ではない。
訓練メニューに私が少しでも慣れると、その度に彼はさらに過酷な内容を追加した。
やっぱり私は恨まれているんだろう、とあらためて思った。
訓練に慣れたことを悟らせないように手を抜けるほど、私は器用ではなかった。
だから、必死に毎日の訓練メニューをこなすしかない。
確かに彼からは、見限りの言葉こそ聞いていなかったが、褒められたことも一度もなかった。
そしてあの男、ルンフェスに絡まれたのは、あの一度きりだけだった。
たまに城内ですれ違うこともあるが、舌打ちをされるだけで、特に直接手を出されてはいない。
「次に同じ目に遭いそうになったら、城内に逃げろ。人目のある場所にいれば、あいつも無茶はやるまい」
ネモからは、そう言われていた。
ルンフェス以外にも、この城や街に住む人々の、私へ向ける目は、あまり好意的とは言えなかった。
青い肌を持つ父が、ここを離れて暮らしていた時そうだったように、この場所で暮らす私も、ここでは浮いた存在だった。
特に街には、私の事情──魔王の血族であるということを知らない人たちも多い。
1人では絶対に街に出ることのないよう、ネモからはきつく釘を刺されている。
1ヶ月以上経った今でも私は、ネモ以外とは殆ど口を利いていなかった。
その日私は、山の麓に1人で立っていた。
魔王山と呼ばれる、山である。
魔王城から見て、私が馬車で下ってきた山とは反対側にある。
歴代の魔王が、己を鍛えるために使った場所だと言われているが、真偽のほどは定かではない。
険しい岩肌の道。危険な獣も生息している。
皮鎧を身に着けた私の腰には、一振りのショートソードがある。
最初にネモに渡された時、振ることさえままならなかった、あの剣である。
今の私は、軽々、とはいかないが、これを片手で振るうことができるほどになっていた。
これを持つようになったのは、まだほんの数日前である。
この剣は、ネモの指示ではなく、私が自主的に持ったものだった。
今日までのネモの訓練は、確かに的確で、私は日に日に自分の成長を実感できていた。
それは、かつてない充実感を、私に与えてくれていた。
だが、ネモが私の成長を褒めてくれたことは一度もない。
成果を報告しても、
「わかった、明日からの訓練メニューを増やしておく」
そんな、淡白な反応が返ってくるだけだった。
恨まれているのだから仕方ない。
そう割り切ろうとして、どうしても割り切れなかった。
だから、数日前の剣の稽古の時、いつも使っている短剣ではなく、以前、まともに振るえなかったショートソードを持っていったのである。
そして、いつもの短剣と変わらぬ動作でそれを振るい、稽古を最後までこなして見せた。
褒めてほしかった。驚いてほしかった。
よくやった、とその一言が欲しかっただけなのだ。
だが、その時の彼は、
「よし、明日からの訓練ではそれを使え」
いつもと変わらぬ口調で、ただそう言っただけだった。
悔しかった。
彼に、どうしても認められたかった。認めさせたかった。
だから私は、たった1人でこの山──魔王山に来たのだ。
この山には、一週間ほど前に、一度、挑んでいた。
その時は、ネモに連れられ、訓練の一環として、ここを登ったのだ。
私は、山の中腹辺りまで登ったところで、音を上げた。
ネモも、始めから頂上まで行く気はなかったようで、あっさり引き返すことを決めた。
「俺自身も、仲間数人を伴って登り切ったことがあるだけで、1人で頂上まで辿り着いたことはない」
彼はそう言った。
この山に来るのは、それ以来である。
昨日、私はネモに向かって、1人で魔王山に挑みたいと願い出た。
ネモは最初は、その提案に中々首を縦に振らなかったが、しつこく食い下がる私に、最終的には折れた。
「無理だと思ったら、すぐ引き返せ。日没までには、必ず麓に戻るようにしろ」
彼は、そう釘を刺した。
この魔王山の頂上には、辿り着いた者達が、証として名前を刻んだ大岩があるらしいと聞いている。
ネモは、私が頂上に辿り着けるなどと、微塵も考えていないだろう。
私が1人で、頂上の岩に名前を刻んで来れば、彼を驚かせること、彼の鼻を明かすことはできると考えた。
もし、彼がそれを信じなければ、後に頂上まで引っ張って行って、見せつけてやればいい。
麓から山を見上げ、私はそう思った。
私は、岩肌の山道を速足で登っていった。
ここは、山としては、それほど大きいものではなく、標高だけで見れば、一日で頂上まで辿り着けるものだった。
だが、多くの難所が、簡単にそれをさせてくれない。
今も、まだ麓からそう離れていないというのに、早速、霧が濃くなってきていた。
私の手元には、ネモから受け取ったコンパスがある。
頂上に近づくほど激しい霧に覆われている魔王山に挑むには、必須の道具だった。
この山も、魔王領周辺の地形と同じく、殆どが岩肌で、木々が少ない。
それゆえ、空気が薄く、平地よりも遥かに早く体力を奪われるのだ。
前回の中腹辺りまで辿り着いた時は、表面上は、いつもの訓練のように、激しい鍛錬を行っているわけでもないのに、あっという間に息が上がっていたことに驚いた。
なるほど、訓練になるわけだ、と私は思った。
──と、私は足を止めた。
危ない……。
ほっ、と息をつく。
霧で見え辛くなっているが、数メートル先は崖だった。
私は、汗を拭い、道を曲がった。
腕試しと訓練以外で登る理由がない場所なので、道もほとんど整備されておらず、崖も多い。
ネモから受け取った地図を確認する。
これは、彼が、以前に頂上に登った時に作り、ルートを記したものだと聞いていた。
真の強者は、自ら登る道を探り当て、あるいは険しい崖さえも登り、頂上を目指すのだという。
それを聞いていたので、私は、最初、地図の携帯を断った。
だが、彼はそれを許さなかった。
「お前の身は、魔王様よりお預かりしている。勝手に死なれては責任問題になる」
結局、それなのか。
この人には、自身の気持ちよりも、魔王の命令の方が大事なのだろう。
「地図を持っていかないのなら、魔王山に挑むことは許可できない」
そう言われては、断ることはできなかった。
前回、彼もこの地図を見て、ルートを決めていた。
私は、その後ろをついて進んだだけである。
今、1人で進むと、この山の危険さを、改めて認識する。
私が、地図とコンパスなしで、手探りで進もうものなら、道に迷った拍子に、崖から転落していてもおかしくはないと思えた。
なだらかな道の先に現れたのは、殆ど壁のような崖。
地図上のルートでは、ここを登ることになっている
出っ張った石に手を掛けながら、なんとかよじ登り、次の道に出る。
地図通りに進むルートも、決して楽ではない。
登る前は、わざと地図から外れた、険しい道を選んでやろうかとも思っていたのだが、自分には無理だろうということを、思い知る。
地図に沿って進んでも、単身で頂上まで辿り着けば、ネモを驚かすには充分なはずだと、私は思いなおすことにした。
まだ、先は長そうだ。
私は、気を引き締めて進んだ。
「ふう……」
見覚えのある景色が見えた。
前回、ネモと訪れて、引き返した場所だった。
あの時は、ここに着いた時、私はヘトヘトだったはずだ。
少々疲労してはいるが、まだまだ歩けることを確認する。
前とは違う自分を確信して、希望が湧いてきた。
意気揚々と、前に踏み出そうとしたその時、前方から近づいてくる、何かの気配がした。
私は、気配のする方に注意を向け、ショートソードに手を掛けた。
霧のせいで、まだ姿ははっきりと捉えられない。
だが、シルエットから、それが、人ではなく、獣のようだということは、わかった。
ここに来るまでに、青い狼3匹、紫の猪1匹に遭遇し、なんとかやり過ごすことができている。
どれも、私が住んでいた土地では目にしたことがない見た目をしていたが、訓練の成果か、正面から戦っても対処できた。
魔王領周辺に棲む獣は、私の知るそれらと見た目は似ていても、実は遥かに凶暴なのだが、元いた土地では戦いとは無縁だったこの時の私は、それに気づかない。
そして、緊張する私の前に、次に姿を現したのは、熊のような体躯を持った、真っ黒な狼だった。
なんて大きさなの……!?
それは、ヘルハウンド、別名"地獄の番犬"と呼ばれる、魔王領周辺に生息する特に凶暴な肉食獣だったが、この時の私はそんなことは知らなかった。
ヘルハウンドは、こちらを見つけると足を止めて、じっと睨みつけてきた。
重く感じていたショートソードが、恐ろしく頼りない。
ヘルハウンドが吼えた。
それは狼のものではなく、獅子のような咆哮。
体が震えあがる。
だが、勇気を振り絞って、私は構えた。
睨み合いが続くかと思われたが、次の瞬間、ヘルハウンドが動いた。
来る……!?
巨体とは思えないスピードで跳び上がり、前足の爪を振り下ろしてくる。
それをなんとかかわして、すれ違う。
ヘルハウンドは、すぐに向き直り、第2撃目を加えてきた。
今度は、カウンターを狙う。
私は、振り上げられた前足に、ショートソードの斬撃を合わせにいった。
前足を封じられれば、逃げ切ることもできるという判断だった。
ゴスッ、と鈍い音がして、刃と前足がぶつかる。
衝撃で、手首が壊れてしまうのではないかと思えるほどの重量が、襲い掛かってきた。
固い……!?
爪ではない場所を狙ったはずなのに、皮膚が固く、刃が通らない。
このままでは押しつぶされると判断し、急いで剣を引いて、後方に避ける。
だが、反動で地面に転がってしまう。
なんとか、握った剣は放さない。
が、体勢の崩れたそこに、ヘルハウンドの第3撃目が来た。
まずい!?
必死に、体勢を立て直して後ろに跳ぶ。避けきれない。
ヘルハウンドの鋭い爪が、着ていた皮鎧の胸元に食い込んだ。
「!?」
それは、心臓を抉り取るような一撃だった。
死に物狂いで、顔面に剣の一撃を加えて、わずかに怯んだところで、一気に距離を取った。
肩で息をしながら、胸元を確かめると、皮鎧が腰の辺りまで、完全に裂けていた。
即座に後ろに跳んだおかげか、辛うじて、傷は皮膚までは届いていない。
運が良かった。
第4撃目はすぐには来なかった。相手もこちらを睨んでいる。
今の自分では、とても勝てない。
それは理解できた。
だが、この獣と追いかけっこをして逃げ切れるだろうか?
獣の足は速い。とても、逃げ切れるとは思えなかった。
冷静に、手段を探している自分に少し驚く。
昔の自分なら、何も考えず背を向けて逃げただけだろう。
そして、背中からあの爪を受けて、あっさり死んでしまっていたはずだ。
この時、実戦は殆ど初めてのはずなのに、あの訓練の日々は、私の精神面までも、鍛えてくれていたようだった。
しかし、冷静に判断しても、今のこの状況は絶望的だ。
やはり……なんとか逃げるしかない。
霧に紛れて、相手がこちらを見失ってくれることを祈る。
私に出せた結論は、そんなものでしかなかった。
悠長にはしていられない。
私は、ショートソードとは逆の腰に付けた予備の武器、短剣に手を掛けた。
こんなもので、まともに傷つけられる相手ではない。
それでも、一瞬でも隙を作れれば、それでいい。
私は、ヘルハウンドの眉間に狙いを定めて、短剣を投げつけ、そして、命中を確認せずに、一気に後ろに駆け出した。
相手が少しでも怯んでいる間に、一気に距離を取らなければならない。
とにかく、全力で駆けた。
必死に走りながら、後方を確認すると、ヘルハウンドは、しっかり後を追いかけてきていた。
短剣が当たらなかったのか、あるいは、結局、皮膚で刃が弾かれて、意味をなさなかったのか。
追いつかれれば、今度こそ殺される。
まだ、死にたくはない、と強く思った。
しばらく前まで、いっそ殺してほしいと思っていた自分が嘘のように。
なぜだろうか?
ネモとの訓練の日々は辛かったはずなのに、それでも、それ以前までの、ただ流されるだけの人生とは明らかに違っていた。
生きている実感を、目標を与えてくれた。
彼──ネモにとっては、ただ魔王の指示だったとしても、その日々は、本当に私の心を満たしてくれていたのである。
だから、まだ死にたくはない。
どうして、止める彼を振り切って、意地を張って、こんなところまで来てしまったのか。
だが今は、後悔している場合ではない。
もう一度、後ろを振り返る。
ヘルハウンドとの距離はさらに縮まっていた。
このままでは、追いつかれる。
なんとか、あの獣の足を止めなければ。
そう思った瞬間──。
景色が傾いた。
視界の悪いここで、後ろを気にして走っていた私は、道を踏み外していた。
しまった……!?
思った時には、もう遅かった。
急斜面に足を取られて、私の体は滑り落ちていく。
踏ん張ろうとしても、落ちていくのを止められない。
掴まる場所もない。
崖のような坂を、私はどこまでも転げ落ちていった。
私は知らなかった。
襲ってきた獣──ヘルハウンドが、この周辺では殆ど絶滅している種だということを。
そして、それが現在、魔王領内で軍用として飼われている獣だということを。
あれから、毎日のようにネモの訓練は続いた。
今のところ、私は、ネモに見限られることはなく、なんとか訓練を続けていた。
だが、決して楽な日々ではない。
訓練メニューに私が少しでも慣れると、その度に彼はさらに過酷な内容を追加した。
やっぱり私は恨まれているんだろう、とあらためて思った。
訓練に慣れたことを悟らせないように手を抜けるほど、私は器用ではなかった。
だから、必死に毎日の訓練メニューをこなすしかない。
確かに彼からは、見限りの言葉こそ聞いていなかったが、褒められたことも一度もなかった。
そしてあの男、ルンフェスに絡まれたのは、あの一度きりだけだった。
たまに城内ですれ違うこともあるが、舌打ちをされるだけで、特に直接手を出されてはいない。
「次に同じ目に遭いそうになったら、城内に逃げろ。人目のある場所にいれば、あいつも無茶はやるまい」
ネモからは、そう言われていた。
ルンフェス以外にも、この城や街に住む人々の、私へ向ける目は、あまり好意的とは言えなかった。
青い肌を持つ父が、ここを離れて暮らしていた時そうだったように、この場所で暮らす私も、ここでは浮いた存在だった。
特に街には、私の事情──魔王の血族であるということを知らない人たちも多い。
1人では絶対に街に出ることのないよう、ネモからはきつく釘を刺されている。
1ヶ月以上経った今でも私は、ネモ以外とは殆ど口を利いていなかった。
その日私は、山の麓に1人で立っていた。
魔王山と呼ばれる、山である。
魔王城から見て、私が馬車で下ってきた山とは反対側にある。
歴代の魔王が、己を鍛えるために使った場所だと言われているが、真偽のほどは定かではない。
険しい岩肌の道。危険な獣も生息している。
皮鎧を身に着けた私の腰には、一振りのショートソードがある。
最初にネモに渡された時、振ることさえままならなかった、あの剣である。
今の私は、軽々、とはいかないが、これを片手で振るうことができるほどになっていた。
これを持つようになったのは、まだほんの数日前である。
この剣は、ネモの指示ではなく、私が自主的に持ったものだった。
今日までのネモの訓練は、確かに的確で、私は日に日に自分の成長を実感できていた。
それは、かつてない充実感を、私に与えてくれていた。
だが、ネモが私の成長を褒めてくれたことは一度もない。
成果を報告しても、
「わかった、明日からの訓練メニューを増やしておく」
そんな、淡白な反応が返ってくるだけだった。
恨まれているのだから仕方ない。
そう割り切ろうとして、どうしても割り切れなかった。
だから、数日前の剣の稽古の時、いつも使っている短剣ではなく、以前、まともに振るえなかったショートソードを持っていったのである。
そして、いつもの短剣と変わらぬ動作でそれを振るい、稽古を最後までこなして見せた。
褒めてほしかった。驚いてほしかった。
よくやった、とその一言が欲しかっただけなのだ。
だが、その時の彼は、
「よし、明日からの訓練ではそれを使え」
いつもと変わらぬ口調で、ただそう言っただけだった。
悔しかった。
彼に、どうしても認められたかった。認めさせたかった。
だから私は、たった1人でこの山──魔王山に来たのだ。
この山には、一週間ほど前に、一度、挑んでいた。
その時は、ネモに連れられ、訓練の一環として、ここを登ったのだ。
私は、山の中腹辺りまで登ったところで、音を上げた。
ネモも、始めから頂上まで行く気はなかったようで、あっさり引き返すことを決めた。
「俺自身も、仲間数人を伴って登り切ったことがあるだけで、1人で頂上まで辿り着いたことはない」
彼はそう言った。
この山に来るのは、それ以来である。
昨日、私はネモに向かって、1人で魔王山に挑みたいと願い出た。
ネモは最初は、その提案に中々首を縦に振らなかったが、しつこく食い下がる私に、最終的には折れた。
「無理だと思ったら、すぐ引き返せ。日没までには、必ず麓に戻るようにしろ」
彼は、そう釘を刺した。
この魔王山の頂上には、辿り着いた者達が、証として名前を刻んだ大岩があるらしいと聞いている。
ネモは、私が頂上に辿り着けるなどと、微塵も考えていないだろう。
私が1人で、頂上の岩に名前を刻んで来れば、彼を驚かせること、彼の鼻を明かすことはできると考えた。
もし、彼がそれを信じなければ、後に頂上まで引っ張って行って、見せつけてやればいい。
麓から山を見上げ、私はそう思った。
私は、岩肌の山道を速足で登っていった。
ここは、山としては、それほど大きいものではなく、標高だけで見れば、一日で頂上まで辿り着けるものだった。
だが、多くの難所が、簡単にそれをさせてくれない。
今も、まだ麓からそう離れていないというのに、早速、霧が濃くなってきていた。
私の手元には、ネモから受け取ったコンパスがある。
頂上に近づくほど激しい霧に覆われている魔王山に挑むには、必須の道具だった。
この山も、魔王領周辺の地形と同じく、殆どが岩肌で、木々が少ない。
それゆえ、空気が薄く、平地よりも遥かに早く体力を奪われるのだ。
前回の中腹辺りまで辿り着いた時は、表面上は、いつもの訓練のように、激しい鍛錬を行っているわけでもないのに、あっという間に息が上がっていたことに驚いた。
なるほど、訓練になるわけだ、と私は思った。
──と、私は足を止めた。
危ない……。
ほっ、と息をつく。
霧で見え辛くなっているが、数メートル先は崖だった。
私は、汗を拭い、道を曲がった。
腕試しと訓練以外で登る理由がない場所なので、道もほとんど整備されておらず、崖も多い。
ネモから受け取った地図を確認する。
これは、彼が、以前に頂上に登った時に作り、ルートを記したものだと聞いていた。
真の強者は、自ら登る道を探り当て、あるいは険しい崖さえも登り、頂上を目指すのだという。
それを聞いていたので、私は、最初、地図の携帯を断った。
だが、彼はそれを許さなかった。
「お前の身は、魔王様よりお預かりしている。勝手に死なれては責任問題になる」
結局、それなのか。
この人には、自身の気持ちよりも、魔王の命令の方が大事なのだろう。
「地図を持っていかないのなら、魔王山に挑むことは許可できない」
そう言われては、断ることはできなかった。
前回、彼もこの地図を見て、ルートを決めていた。
私は、その後ろをついて進んだだけである。
今、1人で進むと、この山の危険さを、改めて認識する。
私が、地図とコンパスなしで、手探りで進もうものなら、道に迷った拍子に、崖から転落していてもおかしくはないと思えた。
なだらかな道の先に現れたのは、殆ど壁のような崖。
地図上のルートでは、ここを登ることになっている
出っ張った石に手を掛けながら、なんとかよじ登り、次の道に出る。
地図通りに進むルートも、決して楽ではない。
登る前は、わざと地図から外れた、険しい道を選んでやろうかとも思っていたのだが、自分には無理だろうということを、思い知る。
地図に沿って進んでも、単身で頂上まで辿り着けば、ネモを驚かすには充分なはずだと、私は思いなおすことにした。
まだ、先は長そうだ。
私は、気を引き締めて進んだ。
「ふう……」
見覚えのある景色が見えた。
前回、ネモと訪れて、引き返した場所だった。
あの時は、ここに着いた時、私はヘトヘトだったはずだ。
少々疲労してはいるが、まだまだ歩けることを確認する。
前とは違う自分を確信して、希望が湧いてきた。
意気揚々と、前に踏み出そうとしたその時、前方から近づいてくる、何かの気配がした。
私は、気配のする方に注意を向け、ショートソードに手を掛けた。
霧のせいで、まだ姿ははっきりと捉えられない。
だが、シルエットから、それが、人ではなく、獣のようだということは、わかった。
ここに来るまでに、青い狼3匹、紫の猪1匹に遭遇し、なんとかやり過ごすことができている。
どれも、私が住んでいた土地では目にしたことがない見た目をしていたが、訓練の成果か、正面から戦っても対処できた。
魔王領周辺に棲む獣は、私の知るそれらと見た目は似ていても、実は遥かに凶暴なのだが、元いた土地では戦いとは無縁だったこの時の私は、それに気づかない。
そして、緊張する私の前に、次に姿を現したのは、熊のような体躯を持った、真っ黒な狼だった。
なんて大きさなの……!?
それは、ヘルハウンド、別名"地獄の番犬"と呼ばれる、魔王領周辺に生息する特に凶暴な肉食獣だったが、この時の私はそんなことは知らなかった。
ヘルハウンドは、こちらを見つけると足を止めて、じっと睨みつけてきた。
重く感じていたショートソードが、恐ろしく頼りない。
ヘルハウンドが吼えた。
それは狼のものではなく、獅子のような咆哮。
体が震えあがる。
だが、勇気を振り絞って、私は構えた。
睨み合いが続くかと思われたが、次の瞬間、ヘルハウンドが動いた。
来る……!?
巨体とは思えないスピードで跳び上がり、前足の爪を振り下ろしてくる。
それをなんとかかわして、すれ違う。
ヘルハウンドは、すぐに向き直り、第2撃目を加えてきた。
今度は、カウンターを狙う。
私は、振り上げられた前足に、ショートソードの斬撃を合わせにいった。
前足を封じられれば、逃げ切ることもできるという判断だった。
ゴスッ、と鈍い音がして、刃と前足がぶつかる。
衝撃で、手首が壊れてしまうのではないかと思えるほどの重量が、襲い掛かってきた。
固い……!?
爪ではない場所を狙ったはずなのに、皮膚が固く、刃が通らない。
このままでは押しつぶされると判断し、急いで剣を引いて、後方に避ける。
だが、反動で地面に転がってしまう。
なんとか、握った剣は放さない。
が、体勢の崩れたそこに、ヘルハウンドの第3撃目が来た。
まずい!?
必死に、体勢を立て直して後ろに跳ぶ。避けきれない。
ヘルハウンドの鋭い爪が、着ていた皮鎧の胸元に食い込んだ。
「!?」
それは、心臓を抉り取るような一撃だった。
死に物狂いで、顔面に剣の一撃を加えて、わずかに怯んだところで、一気に距離を取った。
肩で息をしながら、胸元を確かめると、皮鎧が腰の辺りまで、完全に裂けていた。
即座に後ろに跳んだおかげか、辛うじて、傷は皮膚までは届いていない。
運が良かった。
第4撃目はすぐには来なかった。相手もこちらを睨んでいる。
今の自分では、とても勝てない。
それは理解できた。
だが、この獣と追いかけっこをして逃げ切れるだろうか?
獣の足は速い。とても、逃げ切れるとは思えなかった。
冷静に、手段を探している自分に少し驚く。
昔の自分なら、何も考えず背を向けて逃げただけだろう。
そして、背中からあの爪を受けて、あっさり死んでしまっていたはずだ。
この時、実戦は殆ど初めてのはずなのに、あの訓練の日々は、私の精神面までも、鍛えてくれていたようだった。
しかし、冷静に判断しても、今のこの状況は絶望的だ。
やはり……なんとか逃げるしかない。
霧に紛れて、相手がこちらを見失ってくれることを祈る。
私に出せた結論は、そんなものでしかなかった。
悠長にはしていられない。
私は、ショートソードとは逆の腰に付けた予備の武器、短剣に手を掛けた。
こんなもので、まともに傷つけられる相手ではない。
それでも、一瞬でも隙を作れれば、それでいい。
私は、ヘルハウンドの眉間に狙いを定めて、短剣を投げつけ、そして、命中を確認せずに、一気に後ろに駆け出した。
相手が少しでも怯んでいる間に、一気に距離を取らなければならない。
とにかく、全力で駆けた。
必死に走りながら、後方を確認すると、ヘルハウンドは、しっかり後を追いかけてきていた。
短剣が当たらなかったのか、あるいは、結局、皮膚で刃が弾かれて、意味をなさなかったのか。
追いつかれれば、今度こそ殺される。
まだ、死にたくはない、と強く思った。
しばらく前まで、いっそ殺してほしいと思っていた自分が嘘のように。
なぜだろうか?
ネモとの訓練の日々は辛かったはずなのに、それでも、それ以前までの、ただ流されるだけの人生とは明らかに違っていた。
生きている実感を、目標を与えてくれた。
彼──ネモにとっては、ただ魔王の指示だったとしても、その日々は、本当に私の心を満たしてくれていたのである。
だから、まだ死にたくはない。
どうして、止める彼を振り切って、意地を張って、こんなところまで来てしまったのか。
だが今は、後悔している場合ではない。
もう一度、後ろを振り返る。
ヘルハウンドとの距離はさらに縮まっていた。
このままでは、追いつかれる。
なんとか、あの獣の足を止めなければ。
そう思った瞬間──。
景色が傾いた。
視界の悪いここで、後ろを気にして走っていた私は、道を踏み外していた。
しまった……!?
思った時には、もう遅かった。
急斜面に足を取られて、私の体は滑り落ちていく。
踏ん張ろうとしても、落ちていくのを止められない。
掴まる場所もない。
崖のような坂を、私はどこまでも転げ落ちていった。
私は知らなかった。
襲ってきた獣──ヘルハウンドが、この周辺では殆ど絶滅している種だということを。
そして、それが現在、魔王領内で軍用として飼われている獣だということを。
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しかし、【焔の魔法剣】に選ばれたのは長男のジルベールではなく、次男のセドリックだった。
ジルベールに授けられた固有魔法は――【速記術】――
明らかに戦闘向きではない固有魔法を与えられたジルベールは、一族の恥さらしとして、家を追放されてしまう。
一日にして富も地位も、そして「大魔導になる」という夢も失ったジルベールは、辿り着いた山小屋で、詠唱魔法が主流となり現在では失われつつあった古代魔法――『魔法陣』の魔導書を見つける。
ジルベールは無為な時間を浪費するのように【速記術】を用いて『魔法陣』の模写に勤しむ毎日を送るが、そんな生活も半年が過ぎた頃、森の中を少女の悲鳴が木霊した。
ジルベールは修道服に身を包んだ少女――レリア・シルメリアを助けるべく上級魔導士と相対するが、攻撃魔法を使えないジルベールは劣勢を強いられ、ついには相手の魔法詠唱が完成してしまう。
男の怒声にも似た詠唱が鳴り響き、全てを諦めたその瞬間、ジルベールの脳裏に浮かんだのは、失意の中、何千回、何万回と模写を繰り返した――『魔法陣』だった。
これは家を追われ絶望のどん底に突き落とされたジルベールが、ハズレ固有魔法と思われた【速記術】を駆使して、仲間と共に世界最速の『魔法陣』使いへと成り上がっていく、そんな物語。
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