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第零章  深海巨構  零之怪

第12話 なにごとも、やり過ぎは禁物

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 *12


 一刻いっこくほど過ぎただろうか。
 その間に、鳴り響き続けた雷の音は、ずっと僕の鼓膜に張り付いてリピートしている。

 「ぐががががががががぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 …………。
 そして、臥龍のうるさいイビキも。

 疲れているはずなのに、妙な胸のざわめきで、いっこうに眠れる気配がしない。
 横に、こんなうるさいイビキで寝ているおっさんが居たら、疲れていても眠れないと思うけれども。

 しかし、まあ。よくもこんなに雷の音が激しい中で眠れるものだ。
 本人曰く、どこでも寝れると言ったのは噓では無いらしい。
 他の発言は、噓ばかりだが。

 臥龍の口車に乗せられて、沖縄に来たのはいいが、海ではクルーザーが転覆寸前になり死にかけたし、沖縄の本島から離れた名前も分からない島に漂着して、泥濘ぬかるみの山を登らされて、唯一の食料であるパンまで駄目にされ、今僕は、いったい何をしているのだろう。

 僕は、もしかしたら、このまま東京に帰れないのでは無いのかと言う猜疑心に悩まされていた。
 疑り深い性格なのは、自分でも認めているが──沖縄に来てから奇妙な出来事の連続で、逆に猜疑心を持たない人間の方がおかしいと思う。

 「ぐががががががががぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 …………しかしよく寝ていやがる。
 臥龍が沖縄に行こうなんて言わなければ、こんな目にも合っていなかっただろうに。
 なんだか、無性に腹が立って来た。
 空腹だからかもしれないが、それ以上に──空腹以前に、この男の不用心さと自己中心的な考えに腹を立てている。

 「臥龍のアホ」

 普段の僕なら、心で思っても決して口には出さない言葉だ。
 別に、自分が行儀が良く品行方正と言うわけでは無いが、最低限の人間社会でトラブルを起こさない為のルールである。

 つまり、心の中で相手の悪口を言っても、それを言葉にして相手に伝えてしまえば、たちまちにして、何かしらのトラブルになる。
 相手が寛大だとしても、少しの人間関係の亀裂はやがて、大きなひび割れとなり、後になって自分にふりかかって来るものなのだから。

 だが、寝ている相手には関係無い。
 相手は自分が悪口を言われたことにも気が付かないのだから。
 その出来事を知っているのは、悪口を言った本人だけ。
 つまり僕だ。

 「ぐががががががががぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 良く寝ている。

 「臥龍のバカ。お前は哲学者じゃなくて、エロい劣学者のおっさんだ」

 「哲…………学…………者だ」

 ッ!?
 え?
 反応した……!?

 起きて……いるのだろうか?
 だとしたら、まずいぞ。
 僕の悪口を聞かれて──

 「ぐががががががががぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 寝言……だったのか?
 僕は本当に臥龍が寝ているのか確かめる為に、ほっぺを軽くつねった。
 本当に軽くだ。

 もし、起きていれば軽くつねっただけで反応するだろうし、ただの寝言なら反応はしないだろう。

 結果は──

 「ぐががががががががぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 爆睡していた。
 どうやら、ただの寝言だったみたいだ。
 全く、ひやっとする寝言だ。

 「呑気に寝やがって、何が常に思考を絶やすなだ」

 「常に…………思考を……ぐががががががががぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 また反応した!
 これは──ちょっと面白いな。

 僕は昔、テレビで催眠術を特集していた番組を見たことがある。
 内容はよく思い出せないが、眠っている人の耳もとで囁いているシーンは鮮明におぼえていた。
 単純な人間ほど催眠術にかかりやすいと言う台詞も覚えている。
 そして、催眠術をかけられた人間が何らかの行動なり、言葉を発しているシーンも鮮明におぼえている。

 そしてそして──臥龍は極めて単純な人間である。
 なので、それを、臥龍で試して少し遊んでみるか。

 僕は臥龍の耳もとでそっと、小さな声で囁いてみた。

 「臥龍は……深い眠りの中で……泣きながら……ママーと……叫び始めた……」

 「ふええーんママーっておい! スネ夫か俺は! …………あれ? 誰も居ないぞ、何だ夢か」

 僕はすぐに臥龍の寝ているベッドの下に隠れたので見つからずにすんだ。
 危なかった。
 と言うか──ここまでの反応を見せるだなんて。
 どうやら、効果は抜群のようだぞ。
 よし、もう少しだけ遊んでみよう。

 僕は必死に笑いをこらえて、臥龍が寝たのを確認し、また耳もとで小さな声で囁いた。

 「臥龍は……深い眠りの中で……眩しい光りに襲われ……視力を失った……」

 「目、目があああっておい! 天空の城で王になれなかった大佐か俺は! …………ん? なんだ、また夢か。今日は変な夢をよく見るな」

 まさか、ここまでの反応を見せるとは僕にも予想外だった。
 そして、ベッドの下に隠れて、必死に笑いをこらえる自分がいた。
 よし、臥龍が寝たのを確認したら、また耳もとで小さく囁いてみよう。
 僕は臥龍が寝ていることを確認しようと、静かにベッドの下から出ようとしたその時──
 床がミシっと音をたてた。
 しまった……!
 古びた床なので十分に用心はしていのだが、まさかこのタイミングで音が出てしまったら臥龍が起きてしまうかもしれない。
 僕はすぐにベッドの下に隠れ──

 「九条君。そんな所で何をしているんだ?」

 まずい!
 臥龍に見つかった。

 「ど、どうも」

 「どうもじゃなくて、ベッドの下で何をしているのかと訊いているんだが」

 「お……大掃除」

 苦し紛れの言い訳にしても酷過ぎる回答だった。
 当然、その言い訳が臥龍に通じるはずも無い。

 「噓をつくな! 君だな? 俺が寝ている時に催眠術のようなことをして遊んでいたのは」

 ビンゴ。
 ご明察。
 まさにその通り、大正解である。
 変なところだけ察しがいい奴だ。

 「馬鹿なことをしていないで、君も早く寝ろ」

 「はいはい、分かりましたよ。三分以内に寝ますよ」

 臥龍は、全く、と付け足して、ベッドの中に戻りまた爆睡した。
 うーむ、寝ろと言われても眠くも無いし、それに汚いベッドで眠りたくも無いし、はっきり言って暇である。
 それに、もうちょっとだけ臥龍で遊びたい気持ちもあるし──まあ、今度は寝ているフリをして、またこっそり耳もとで囁いてみよう。
 仕返しと言うわけでは無いが、黙って自分だけパンを食べていたのだから、僕が少しぐらいふざけてもいいのは当然の権利である。
 僕はまた、臥龍の耳もとで小さく囁いた。

 「臥龍は……深い眠りの中で……自分の肩を掴んで……ちきしょおーと……叫んだ……」

 「ちきしょおおおーっておい! 完全体の人造人間か俺は!」

 「なんちゃって」

 「やかましいわ! 早く寝ろ!」

 臥龍は自分の睡眠を妨害されて、だいぶご機嫌斜めのようだが、またすぐに寝てしまった。
 僕はと言うと、だいぶ気分がいい。
 よくよく考えれば、実に幼稚なのだが──面白いものは面白いのだから仕方が無い。
 止まらないのである。
 なので、僕の催眠術はなおも続く。

 「臥龍は……深い眠りの中で……急にクソッタレーと……叫んだ……」

 「クソッタレーっておい! 超エリートの戦闘民族か俺は! いい加減さっさと寝ろ!」

 「どうした? 笑えよ臥龍」

 「笑えるか! その前に呼び捨てにするな! 君は本当に悪ふざけが好きなアベレージな学生だな。早くベッドに入って寝ろ!」

 「へっ。汚ねぇベッドだぜ」

 「だったら君は突っ立ったまま寝ろ。いいか? またふざけた事を言ったら部屋から追い出すからな」

 臥龍は相当怒っている。
 しかし、またすぐに寝た。
 そこは素直に凄いと思う。
 ここまで睡眠を妨害されているにも関わらず、すぐさま寝られるなんて、全くもって大した奴である。
 僕も少し悪ふざけが過ぎたと反省──なんて微塵みじんも思ってはいないので、当たり前のように続ける。
 どうせ、臥龍は部屋から追い出すなんて言っても、それはきっと口だけのはず。
 なにより、僕の囁きに対して臥龍の反応を見るのが、気になってしょうがない。

 「臥龍は……深い眠りの中で……全裸のアンドロイドになり……女性に向かって……君の穿いているパンティーとパンティーとパンティーが欲しい……と言った……」

 「君の穿いているパンティーとパンティーとパンティーが欲しい──っておい! 未来から来た殺人ロボットか俺は!」

 「アイル・ビー・パンツ」

 「いい加減にしろ! どんだけ同じネタひっぱり続けるんだ! しかも何で女性に向かってパンティー限定なんだよ。本編は革ジャンを着た男性だったろ。これじゃあ鉄の塊じゃなくて、ただの欲の塊だろうが」

 「地獄で会おうぜ、パンティー」

 「よし分かった。君は部屋の外で寝ろ」

 「ノープロブレム」

 「今言ったな? それじゃあさっさと出て行け! 朝まで顔見せるな!」

 あっ、まずいぞ。
 ついノリで名言を言ってしまったが、結果として臥龍の言葉を肯定する形になってしまった。
 臥龍はベッドから出るやいなや、僕の胸ぐらを掴み、そのまま部屋から追い出された。
 あらがうことも出来ずに追い出された。凄い腕力である。
 僕より二十センチ以上も大きく、毎日体を鍛えているだけのことはある。

 がちゃり。
 ドアの向こう側で音がした。
 鍵っ!?
 あいつ鍵をかけやがった!
 本当に閉め出されるとは思ってもいなかったが。そんなことよりも──まいったな、このまま朝まで部屋の外とは。
 ていうか本当に追い出す奴があるかよ。
 だがそんなことりも、もっとまいったことがある。部屋の外、つまり廊下なのだが……、灯りが無い。

 全く無い。
 真っ暗である。
 やれやれ、少しぐらい灯りを残しておいてくれよ。
 でも僕にはそんな時の奥の手があるのだ。
 携帯電話のライト機能である。

 いやはや、便利な世の中になったものだ。
 携帯電話はライトにもなるし、ゲームだって出来るし、インターネットで様々な情報だって検索出来るし、電話やメールも使おうと思えば使うことも出来る。

 いや、決して電話やメールをする相手がいないと言っている訳では無く、これは携帯電話の進化の話しである。
 ……誰に言い聞かせているのだ僕は。
 ま、まあ。とりあえずライトを付けるのが先決だ。
 「携帯ライト!」
 僕はドラえもんが秘密道具を出す時の口調で言ってみた──もちろん心の中でだが。

 だがまあ、心の中で言った後にふと我に返ってみると、とても虚しくなった。
 声に出して言わずに、心の中だけで言って良かった。
 いや、良く無い。
 だって結局虚しくなってるし。
 うーん……もう忘れよう。


 そんなことよりもライトで照らした廊下はとても薄気味悪く、まさしくホラーゲームを実体験しているような感覚になった。
 ただ暗いと言うだけのことなのに、ここまで人の恐怖心が増すとは──恐るべし暗闇。
 ライトで照らしているとは言え、それは携帯電話のライトだからとても小さい光である。一メートル先を照らすだけで、それ以上は照らせない。だから、一メートル先は真っ暗だ。

 光がある分、闇も濃く見える。
 その見えない闇の中に何も無いことは分かっているのだけれど、正直……もの凄く怖いぞこれ!
 うう……。

 僕はホラー映画やホラーゲームの耐性はあるが、それはあくまでも家と言う名の安全地帯に居ると分かっているからであって──この場所は僕にとって知らない土地、知らない屋敷。つまり安全地帯では無い。
 ただ暗いだけなのに、どうしてこうも──
 僕が怯えてる中で、待ち構えていたかのように外で大きな雷の音がした。

 「ひっ……!」

 思わず女の子みたいな高い声でびっくりしてしまった……情けないこと山の如しだ。  
 そして、このタイミングで最悪な状態になった。
 尿意である。

 恐怖心と尿意の関連性については分からないが、とにかくトイレに行きたい。
 しかし困ったことに、僕の真後ろにある部屋は臥龍が鍵をかけて入れないし、灰玄の部屋をノックしてトイレを貸して欲しいと言えば、事足りるのだが、なんだか気恥ずかしいし、とりあえず臥龍の部屋をノックして部屋に入れてもらうしかなさそうだ。

 一回、二回、三回、四回、五回、六回────
 駄目だ。
 完全に爆睡して僕のノックに気が付かないぞ。もうこうなったら恥も外聞もかなぐり捨てて灰玄の部屋のトイレを貸してもらおう。

 一回、二回──

 「どうされました?」

 おお!
 二回で出てくれた。
 いや、ここはノックの回数で喜ぶ前に、トイレを貸してもらわないと。
 僕は灰玄にトイレを貸して欲しいとお願いすると、理由を訊くでも無くすぐに貸してくれた。だが、臥龍に部屋を追い出されてしまった事を言い忘れてしまい、またすぐに部屋の外に出てしまった。

 生理現象はおさまったが、また暗闇の中である。
 もう一度、灰玄の部屋をノックして事情を説明し、部屋に入れてもらうことも考えたが、何だかそれでは臥龍に負けてしまったような気持ちになったので、やめた。

 実にちっぽけな見栄である。
 だが、僕は男だ。
 歳上の女性だからと言って泣きついたりなんて──
 その時、また外で大きな雷の音がした。

 「ひっ……!」

 いや、これは違うのだ。
 ふん。雷め。この僕を驚かそうとして不意打ちとは卑怯な真似を。だが喜ぶがいい雷よ。僕はわざと驚いたフリをしてあげたのだ。
 自分にそう言い聞かせる。

 …………無様だ。
 何が無様かって、臥龍のような言い訳を僕は頭の中で考えてしまったことについてなのだが、認めたく無いので自分の中で忘れることにした。
 だってもの凄く虚しいから。

 …………何だかさっきから虚しくなってばかりだな。

 しかしだ、このまま朝まで外と言う訳にもいかない。
 僕はとりあえず、携帯電話のライトを頼りに臥龍と僕が居た部屋に来るまでに通り過ぎて行った部屋で一夜を明かすことにした──のだが。
 通り過ぎて来た部屋にはどれも鍵がかけられていて開かない。


 数部屋もあるのに全てに鍵がかかっているのだ。
 鍵があいている部屋を探し、ライトで床を照らしながらゆっくりと歩いていると、とうとう一階に降りる階段まで辿りついてしまった。

 まいったな……もしかしたら本当に廊下で一夜を──ん?
 臥龍に部屋を追い出された時から感じていたことだけれど、部屋の外がやけに生臭いと僕は思っていた。そして、その臭いは部屋を探している時からだんだんと強くなっていた。

 つまり、その臭いは一階からただよって来ていたのだ。
 臭いの発信源が分かったのはいいが、最初に僕たちが、この屋敷に入った時にはこんな臭いはしなかった。だが、その理由はすぐに教えてくれた。
 雷が。

 一瞬だが、雷の光に一階の屋敷全体が照らされて、僕は我が眼を疑った。
 そこには無数の、全身が魚のような青く光るうろここけおおわれた、身長が三メートル以上もする二足歩行の牙の生えたかえると魚の中間のような生物が生臭い悪臭をはなちながら立っていた。


 頭は魚のように細く、逆に顔の部品は蛙そのもので、鰓呼吸えらこきゅうに使うような穴が首もとにたくさん空いている。体はほぼ蛙なのだが、蛙には絶対に生えない場所にしっぽみたく尾ひれがいくつか生えていた。
 絶対に生えない場所とはつまり背中である。
 
 「■■■■■■」

 「■■■■■■」

 なにやら、会話のようなやり取りをしているようだが、何の言語か分からない。
 その前に──言語以前にその声は声と言っていいものなのか、僕にははなはだ疑問だった。

 喉の奥にコールタールでも詰まらせているような、重たくぶくぶくと響く音と、喋るたびにがらがらにしわがれた野太い声は、きっと僕の分かる言語で話されても聞き取ることが出来ないだろう。
 ていうか……そんなことよりも。

 「なん……だよ。あれ……」

 まるで──そう、まるで。
 あれは僕がテレビで見たことがある、あきらかに合成写真だと分かる怪物によく似ている。
 確か、謎の生物特集の番組だった。番組タイトルまでは覚えていないが、番組内では『怪魚人かいぎょじん』と言われていたっけ。

 あれ?
 なんか僕の知識ってテレビや漫画やゲームで覚えたことばかりだな。
 読書は苦手である……と言うか嫌いだ。

 いやいやそんなことよりも、早くこの屋敷から逃げなくては。
 逃げた所で何が解決するかなんて分からないが、こんな場所に留まっているよりかは、外の方が少しはマシだろう。逃げ足に自信は無いけれど。

 でも何で、あんな怪物が音も無く屋敷に──いや、この嵐だ。音はしていたのかもしれない。それより、いったいぜんたい、あんな怪物がどこから湧いて出て来たんだ?

 頭の中がパニックで思考がまとまらない。だが、ここに居ては危ないと言うことだけは分かる。
 逃げる。
 まとまらない思考の中で、その言葉だけがまとまった。
 
 僕は怪魚人に見つからないように、ゆっくりと灰玄の部屋に向かった。
 臥龍では無く灰玄の部屋に向かったのは、きっと臥龍は爆睡しているだろうから、まずは灰玄に状況を説明しようと思ったからだ。

 くそっ……!
 恐怖で足が震えて上手く歩けないし、心臓は今にも爆発するのではないかと思うぐらいの早さでみゃくをうっている。

 もしかしたら、心臓の鼓動音で怪魚人たちに僕が居ることがバレてしまうのではないかというぐらい。
 これは大袈裟な話しでは無く。自分でも驚くほどに心臓が胸を叩きつける音がしている。

 自然と呼吸も荒くなり、うっすらと視界も白くぼやけてきた。
 くそっ……くそっ……くそっ……くそっ……!
 何で僕がこんな目に合わなくちゃいけないんだよ……!

 悪い事なんて全くしたことが無いのに。
 唯一、本当に心の底から悪い事をしたと自分で思ったのは、小学生の体育の授業中にドッジボールで女子の顔面におもいっきりボールを当ててしまった時だ。あの時は本当に気まずかったし、何度もその女子に謝った思い出がある。

 まあ、故意では無くただの事故なのだが。

 震える足をひきずって、ようやく灰玄の部屋の前までたどり着いた。

 ノックを一回、二回──

 「またトイレですか?」

 おお……!
 またノック二回で出てくれたぞ。
 と言うか、僕ってどんだけトイレが近いと思われているんだろう……。
 それはさておき。

 「いや……。そうでは無くて、大変なものを……見てしまったんです」

 僕は灰玄にさきほど見た、怪物について話した。
 正直、こんな話しをいきなりしても、信じてもらえないと思っていたのだが、灰玄はいぶかしい顔一つ見せずに信じてくれた。

 臥龍と違って話しの分かる学者さんだった。
 多分、僕の真面目な顔を見て信じてくれたのだと思いたい。

 「それじゃあ、早く臥龍先生にも知らせて、この屋敷から出ましょう」

 「いや、臥龍──先生は多分起きないと思いますよ」

 僕の返答に灰玄は不思議そうな表情でこちらを見た。
 説明するのも面倒だが、臥龍は一回眠ると起きないと説明してみた。だが、灰玄はこの現状の中で恐れることなく「今はそんなことを言っている場合ではないです」と言い放った。

 強くて行動力のある女性だ。
 灰玄の精神力を臥龍にも少し分けてあげて欲しい。
 出来れば僕も少し欲しいぐらいだ。

 僕は灰玄と一緒に臥龍の部屋の前に行き、ノックをしてみた。
 一回、二回、三回、四回、五回、六回──
 駄目だ、やはり爆睡している。出て来る気配が無い。

 すると灰玄が「臥龍先生。お話したいことがあります。ここを開けて下さい」と少し強めに言った。
 いや、ちょっと待ってくれ灰玄。大声では無いが、今そんな声を出して怪魚人に気が付かれでもしたら──

 「いったいどうしました!?」

 おい! そんな大声を出すな!
 ていうか、この野郎──僕がノックした時は出なかったくせしやがって、灰玄がちょっと呼んだらすぐに部屋から飛び出してきやがった。

 「お話はとりあえず部屋の中でしましょう」

 「ええ。分かりました!」

 僕と灰玄が臥龍の部屋に入る。と言うか、僕の部屋でもあるんだけど。
 灰玄は臥龍に、僕が説明した通りに話した。

 そして、あっさりと信じた。
 きっと僕が説明しても、難癖をつけて話しにすらならなかったことだろう。

 だがここで、一番重要なことに気が付く。いったいどうやって、この屋敷から脱出するんだ?
 出口は一階にある。

 だけど、一階は無数の怪魚人に占拠されてしまっている。残る脱出経路は窓ぐらいだが、まさか窓から飛び降りなくてはいけないのだろうか。

 窓は、そこそこ大きいので体格のでかい臥龍でも窓から出られそうだが、ここは屋敷の二階である。外が嵐で土は泥濘ぬかるみになっているとは言え、もし着地に失敗したら骨折する危険性だって十分にある。

 けれど、他に逃げ道があるかと問われれば──無い!
 僕は外の様子を確認する為に窓の外を見てみ──え?

 窓の外を見ると雷の光に照らされて無数の怪魚人が屋敷を取り囲んでいた。
 絶望。そんな言葉が頭の中をよぎり、無意識に僕は床にへたりこんでしまった。
 決して腰を抜かしたわけではない。

 「九条君。いったいどうした?」

 臥龍が床にへたりこんでいる僕を見て言った。僕は声も出ず窓を指差した。そして、臥龍が何も言わずに窓の外を見る。

 「あれは! もしや──俺がこの島にいることを知った島民とうみんたちが、俺にサインをしてもらおうと長蛇の列を作って──」

 「んなわけねーだろ!」

 こんな時によくそんなふざけたことが言えたものである。
 と言うか、僕もよくこんな時に突っ込みを入れられるものである……。

 「まあ、冗談はさておき。どうやって逃げるかを考えないとな」

 冗談を言っているという自覚はあるようだ。

 「でも臥龍さん、屋敷の中にも外にも怪魚人がいるのに、どうやって逃げるんですか?」

 「駄目だ」

 「は?」

 駄目とはどう言う意味だ?
 逃げずに闘うと言う意味だろうか。

 「怪魚人は駄目だ」

 「え?」

 怪魚人は駄目……。
 まさか臥龍は魚が苦手なのか?

 「怪魚人では無く『サハギン』と呼べ」

 「はい?」

 意味が分からなかった。

 「だから怪魚人では無く『サハギン』だ。通称、海の悪魔だ」

 「いや、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ。それに怪魚人の方が格好いいじゃないか」

 「駄目だ。それに何だ怪魚人と言うのは。聞いたことも無いぞ。ここは『サハギン』の方が絶対にいい」

 断固として譲らない構えだ。
 ていうか、逃げることじゃなくて、そんなことを考えていたのかこいつは。

 「はいはい、分かりましたよ。それでその怪魚人から逃げる為に──」

 「『サハギン』だ」

 「怪魚人から逃げる為にいったいどうしたらいいか──」

 「だから『サハギン』だ!」

 お互いムキになっている。
 臥龍もそうだが僕も相当子供だった。

 「だから! 怪魚人の方が格好いい!」

 「いいや! 『サハギン』の方が歴史も古いし、海の悪魔と言われているから格好いい! 怪魚人なんてどうせ怪しい魚人だろ? 悪魔でもなんでもないじゃないか」

 「でもここは日本だぞ! 『サハギン』なんて西洋の悪魔だろ。だったら日本式で怪魚人がいいに決まってる!」

 「駄目だ! 『サハギン』だ!」

 「怪魚人の方がいい!」

 「『サハギン』だ!」

 「怪魚人だ!」

 「『サハギン』の方がいいですよね? 灰玄さん!」

 臥龍が灰玄に同意を求めた。

 「いや、怪魚人の方がいいですよね? 灰玄さん!」

 僕も負けじと灰玄に同意を求めた。
 と言うか僕はいったい何をしているんだ?
 途轍とてつもなく……世界一どうでもいい会話だろこれ!

 「…………」

 灰玄は黙している。
 当たり前だ。
 こんな重要な時に馬鹿丸出しで、全く関係の無い口論をしているのだから──ん?
 灰玄が黙ったまま、すっと臥龍の方に歩み寄って行く。

 「おお! やはり灰玄さんも『サハギン』の方が──」

 臥龍が倒れた。
 受け身も取らずに。
 まるで、いきなり意識を失ったかのように──そのまま床にダイブするみたく──ドミノ倒しの如く真っすぐ綺麗に倒れたのだ。

 え?
 いったい何がおきた?
 僕が驚きの表情を隠し切れず、その場に立ち尽くしていると、灰玄がゆっくり僕の方を向いた。

 「そんなにビックリした顔しなくても平気よ。この学者小僧は気絶しているだけで、“今はまだ死んではいない”んだから──これは【波動思念法はどうしねんほう】の軽い当て身よ。もし【呪詛思念法じゅそしねんほう】を使っていたなら死んでいたけれどね」

 「え? 何を──言ってるんだ? は、ハローなに?」

 「ハローじゃなくて“波動”よ。正確には【精神思念法せいしんしねんほう】だけど──まあ、聞いたことも無い言葉だから聞き間違えてもしょうがないか」

 「え? え? な、何が何で──え?」

 臥龍のことを学者小僧と灰玄は言った。
 小僧……。
 いや、でも、ちょい待て、灰玄の方が臥龍よりも歳下なのは誰が見ても明白だ。いやいや違う。違うぞそんなことじゃない。

 精神や波動──なんとかと灰玄は言ったが……。
 駄目だ、いったい自分が今どんな状況にさらされているのか全然分からないぞ。

 「混迷こんめいしているようだけれど【波動思念】や【呪詛思念】を知ったところで、坊やには無用の長物だから。使おうと思ったところで使えるものでも無いし──あら? この台詞って大分前にも言ったような……まっ、いいか」

 おいおい……ずっと怪しい奴だとは思っていたけれども──キャラ変わり過ぎだろ!
 キャラ崩壊なんてレベルじゃねえぞ……!

 「ちょ、ちょ、ちょっと待った! 何かキャラが──ていうか話しが全く分からない! その前に精神なんとかってなに!?」

 「やれやれ、やかましい坊やね。アンタもしばらく眠ってもらうわよ、学者小僧の助手君」

 灰玄はみを浮かべて言った。
 だがそれは決して優しい笑みではなく──
 冷淡で、心臓を鋭利えいりな刃物で突き刺すような笑みだった。

 「だけど……。始めてアタシが坊やのつらを見た時は──自分の眼を疑ったわよ。まるで生き写しだったから…………。けど、世には似た面の者が数人は──いや。坊やには関係の無い話しか」
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